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ブログ開設08.7.19 [随想]

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人もすなるブログなるものをわれもしてみんとてすなる。
こころに浮かぶよしなしごとをつれづれなるままに書いてみようと思う。さて、どんな文章になるやら。

しみじみとした生活をおくれれば良いと思うが、なかなかそうもいかない。そうもいかないだけに憧れる。
しかもはや、たっぷりと時間が残されている年齢ではない。

しみじみとは eとは しみじみとした生活とは [随想]


わがあこがれの「しみじみe生活」とはなんだろうか。

しみじみを広辞林でひいてみると、「深く心にしみて」とある。和英では、keenly。どうもこれはぴたりとこない。
結局のところ今は良くわからない。もっともわかっていたらブログの表題・テーマとして適さないかもしれないが。
「生活」とある以上、一瞬しみじみするということではないのだろう。持続することがポイントか。
eが真中にあるが、さしたる意(e)味はない。eは良いの代わりに使っている。ブログだからeといった程度。つまりは「ひぐらし硯にむかひて」を「ひぐらしPCにむかいて」としゃれた程度である。
さて、これから「しみじみe生活」を考えてみたい。なにせ憧れなのだから。

無常 [随想]

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夕焼け雲を染めて沈む夕日を見て、暁の空に昇る朝日をみてしみじみする。
夜中に起きて妻子の寝顔をみてしみじみ・・・などなど、生活のなかでしみじみするシーンがたくさんある。
いずれも得難いだけにありがたいことである。これらの一瞬一瞬のつみかさねがしみじみしたe生活をつくるのだろう。

だれかが、時間の三重性ということを言っていた。過去は静かに佇んで変わることがない。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のごとく迅く過ぎて行く。しかもそのいまは変わりつつ過ぎるのである。
世にいう無常である。しみじみにはこの無常のニュアンスがつきまとう。

しかしわがあこがれのしみじみ生活は無常感そのものでもない。むしろ明るさが欲しいしみじみである。
そう、ろうそくのほのおの明るさ。
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働くということ [随想]

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「働く」とは、「はた」が楽になることと教えてもらったことがある。

なるほどサラリーマンとしてしか働いたことがないが、
ひとつのしごとを二人でやるとき、一人が余計働くと他の一人はその分だけ楽になることで実感した。
しかし、はたが楽になるというのはそういう意味ではないだろう。
自分は拘束されるが、他の人のため社会のために役立つということを言っているのだ。
人は社会的な動物で一人では生きられない。みんなが働くことで「もって」(維持されて)いるのだ。
拘束されて自分の時間が失われると考えると辛いが、はたが楽になっていると考えると自分も楽になる。
そのうちに働くこと自体が辛くなくなる。それがオトナというものだろう。
あくせく働くほうが、少なくなった残りの自分の時間が充実するという側面もある。
しみじみ度も深まるというものだ。それを知るのがオトナというものだろう。

働かなくなってから働くことの意味を言ってみても後の祭りというか、
詮無いことだが、働かないフリーターの多いことを見るとつい言いたくなった。

それにしても近年の労働条件の酷さは、いったい何だろう。もともと労働契約は、「附従契約」であり
雇う方が圧倒的に優位なので雇われる方がある程度保護されないと一方的にひどい契約に
なる。それを避けようとしてきた長い歴史がある。いまのは歴史に逆行している。

働けてしかも妥当な報酬が受けられ、世の中のためになるというのが上等な社会というものである。
タグ:フリーター
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ボリショイサーカス [随想]

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古稀のお祝いにサーカスに連れて行って貰った。千駄ヶ谷の東京体育館である。
 むかし、いちど見たような気がするがほとんど忘れている。

 目玉はライオンやトラの曲芸である。やはり怖い。とくに猛獣の檻が簡易な組み立て式であるところが怖い。
 また、従順なライオンやトラがときおり見せる野生の表情も怖い。何かの拍子に野生に目覚めはしないかと。
 空中ぶらんこや綱渡りも楽しんだが、猫の曲芸は珍しく我が家の猫とくらべたりして笑った。

 ボリショイサーカスは国立というからには、団員は国家公務員なのだろうか。それとも契約社員か。
 顧客サービスをしようという意欲は感じられるが、さすが、ロシアだけあってやはりもうひとつという感じがした。
 猛獣がいないとき、休憩のときにカメラOKとかこどもへのサービスがあってもよい。記念写真、プログラムも高価過ぎるような気がする。

 サーカスにつきlもののペーソス・哀愁をもとめるのは、もはや無いものねだりだろうか。現代のサーカスはしみじみとしたところはない。それでいいのだろう。




タグ:サーカス
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これからの、いまの、これまでのしみじみ [随想]

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過去は「しみじみ」によく合う。過去のことを思いだしてしみじみするということは多い。とくに年寄りは過去が長いからなおさらだ。だが、あのときは、しみじみした気持ちになったなぁ、と思いだすかというとそれは少ない。何かを思い出して、いましみじみすると言った方があたっているかも知れない。

 未来のことを思ってしみじみするというのはあまりない。しみじみとするようなことは未来にはないというより、先のことでは、そういう思いができないというのがほんとのところか。

 いま、おきていることでしみじみとするのが一番だが、なかなかそれがない。しみじみとする状況ではない。まずは、今年の暑さ、しょっちゅう起きる体調の異変。加齢に伴うものが多いのだが。
 毎日聞かされるひどい内外のニュース。なかでもあきれるばかりの高齢者の蒸発、行方不明。腹の立つ年金問題。国民生活無視の政治のドタバタ。頻発する人災や異常な自然災害。

  しかし、考えてみれば、こんなことはいつでも起きていること。中身は少しは違うが、相変わらずだともいえる。
 こういう状況に振り回されていたら、いつになってもしみじみなどしておられぬ。
 ということは、気持ちの持ちよう、考え方次第ということか。
 大病もせず、戦争もなく毎日平凡な幸せの中で生かしてもらっている。これでしみじみできなければ、いつそれをするというのか。

 我が家の猫は、写真のとおり暑さにばてて、熱中症寸前であるけれど、そのとおり実践しているように見える。これに学ばねばなるまいとしみじみ思う。
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わびさび [随想]

 「わびさび」とは立派なものと比べ劣るもののことをいう。金閣より銀閣、豪壮な庭園より枯れ山水の庭、牡丹より野の花、酒より茶(?)。
 華美でないものに価値を見出す日本人独特の美意識とされ、茶道、能、俳句などでは重要な概念である。
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 わびとさびは、ふつう併せて使われることが多い。しかし、この二つは同じものではない。
 もともと仏教用語で、幽玄、侘び、寂びは、三つがセット、幽玄は生まれたばかりのもの、則ち新生であり、詫びは時間の経過を表すものでであり、寂びは、終わりを表すものと何かで読んだ記憶がある。つまりすべてのものは移り変わるという「無常」である。
 これが語源とすれば、詫び、寂びの意味が良く分かるような気がする。また、それが、茶道や能、俳句などの文化に影響を与えたということも納得できる。

 わびさびの感覚は日本の四季の変化と関係があるのではないかという人もいる。春、夏、秋、冬は張り詰めた申請の美しさが時間とともにさびれ、やがて枯れていく。侘び寂びは秋から冬のイメージと重なる。
 地球上には、四季のある地域が無いわけではない。だからそのことが日本人に特有のわびさび感覚を作ったのだとも言いきれまい。

 わびさびはしみじみと近い様な気がする。しかし同じものではない。わびさびに生活のにおいはあまりない。しみじみはいろいろな人間がそれぞれ生活しているなかで、心にわく深い感慨のようなもの。

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70歳はまだ青春 [随想]

 70歳になってさまざまなことを思う。

 亡父の従兄で元久留米医大名誉教授脇坂順一先生が、山と渓谷社から「70歳はまだ青春」という本を出されたのは、今から20年以上前のこと、先生は当時75,6歳くらいだったと思う。彼は48歳頃から本格的に山登りをはじめられて3、000メートル級の世界の山を百以上登攀された。なかでもマッターフォルンが好きで10回以上登頂したという。九州では、有名な「医人岳人」で、スーパーおじいさんとも言われていた。その後先生は80歳過ぎまで山登りを続けられ「70歳はまだ青春」をみずから実証された。
 当時、九州福岡で働いていた自分とくらべ凄いひともいるものだと驚いたものである。たまたま当時自分は48歳くらいだった。
 自分が今70歳になって、このことを想い出す。自分の場合は青春にしては、随分あちこち傷んでいるなと。青春は、気持ちの持ちようで年齢と関係ないとはいうが、人の個体差の大きさをあらためて実感する。

 深沢七郎「楢山節考」では、おばぁさんが口減らしのため山に登るのが70歳である。おりんばぁさんの山へ行く日には運よく雪が降ったという。運よくというところがすごい。
 人生50年の時代は70歳といえば、りっぱな年寄りそのものであった。今や、普通の人にとっては、「70歳は青春」とまでいかないにしても、まだまだ元気という人は多い。時代というものの不思議を思わざるをえない。

 今年は、ジョン レノン生誕70年だそうである。つまり、ジョンレノンが生きておれば今70歳ということだ。彼は自分と同じ1940年生まれ、1980年ニューヨークで凶弾に斃れたのが40歳のとき、それから30年が経った。 彼の成し遂げた偉業、亡き後の30年間の世の動きを思うとなにやら複雑な感慨がある。

 年をとってからの心の持ちよう、時代の流れ、個人の生き方、いろいろなことを考え、しみじみと70歳を噛みしめているところである。
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仙人としみじみ生活 [随想]

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 仙人は山の人、俗人は谷の人と誰かが書いていた。昔仙人は、谷の村に住むのが嫌になり山に登ったのだろうか。それとも昔、神は山や森に住んでいたというから、神になろうと山に登ったのだろうか。

 それでは、われらが官房長官はどちらなの?とふざけたい訳ではない。

 仙人の生活はしみじみ生活に憧れる者としては、当然気になる存在なのである。

 仙人は中国の道教において、主に高い山の上や仙島、天上など仙郷にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指すという。何もしないことがベストという「道(タオ)」を中心におく中国の老荘思想である。

 仙人はしみじみ生活と近いような気もするが、全然違うような気もする。仙人の生活というものが分からないから比べることも出来ぬ。
 この仙人たちは、霞を食って生きていたというが、仙人たらんと修業に励むにしてもどう生計をたてて、どういう日常生活をおくっていたのだろうか。
 古くは、飛鳥時代、仙人に近そうな修験者役小角。呪術も会得していたというがもはや伝説の世界にいて漠としてその生活ぶりなど知りようもない。
 仙人とは異なるが、雲水と呼ばれた出家僧。例えば、空になる心を求めたという西行法師(1118~1190)。 この人などは例外的に裕福な身分でもあったというが、一般的に雲水は、お布施だけで修業生活ができたのだろうか。
 世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされり
と詠んだ良寛(1758~1831)。なにやら仙人に近いように思えるが、どういう生活をしていたのだろうか。
しみじみ生活をしていたのかも知れない。少し、勉強をしてみる必要がありそうだ。

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釣り 海の記憶 [随想]

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小さい頃から釣りが好きだった。

あとでしまったと思ったが、最初の任地静岡では釣りの機会がなかった。昭和46年静岡から新潟へ転勤になったときに、初めて職場の先輩に海釣りに連れて行って貰い、ご多分にもれずビギナーズラックで黒鯛(ちぬ)を釣り、海釣りにはまった。
餌は岩いそめ。場所は日和山海岸。当時後に忌まわしい拉致事件があの近辺で起きていたことを後に知った。知らぬが仏とはこのことだ。
新潟では、ほかに松波町海岸に住んでいたのであいなめきすを投げ釣りで、早出川のはやなど渓流竿でそれぞれ愉しんだ。

東京にもどり、九十九里のいしもち、猿島のつりなどに休日にでかけたがほとんど釣れなかった。東京では釣りはだめとはなからあきらめた。

大分に転勤したのは昭和57年。行くと、社宅の近くの大分港でイワシが釣れると聞いてすぐに釣り行った。突堤に釣り人が並ぶがいわしが群れをなして港に入ってくると外の竿からウエイブのように、港の内の釣り竿がしなって上がる。そのときは、まさに誰もの竿が入れ食い状態になる。大きなイワシがいっぱい釣れて興奮した。イワシは外海から 港の中へ回遊してくるのだ。
 大分では2年間の勤務だった。仕事もしたが合間に釣りを存分に楽しんだ。

 大分港のさびき釣りの小鯵、大分では、ぜんごと呼んだ。餌団子の中に針をしのばせるボラの爆弾釣り。腹は黒いが刺身は絶品であった。投げ釣りである。
 鶴崎突堤の、佐伯の小鯛、米水津のメバルべら、かさご、キュウセン、大分川のサヨリしらはやどんこ、別府湾の赤いか。どこの海だったか忘れたが紋鯛というさかなを釣ったことがある。問題を釣ったとはしゃいだ。
大分のホーバークラフト港では、真冬にこはだ。ここでは、四季釣りが出来るようだ。
 あろうことか、そこでは同僚に教えてもらって投網まで経験した。肩にかけ広げながら投げる。

 このなかで、特に印象に残っているのは、佐伯湾の真珠養殖いかだの近くで釣った手のひら大の小鯛。短い竿、餌はしゃこの子、おもりはパチンコ玉に似た鉛の玉。それを小舟から海に落としてあたりを待つ。ツンツンと来た時に竿を天を突くように上にあげてあわせる。

 その後また、東京にもどり、釣りのチャンスは失せた。仕事も忙しくなって釣りどころでは無くなった。
 平成元年今度は福岡に転勤になる。釣りの好きな同僚がいて、取引先に釣りの好きなSさんがおられ、類は類を呼び釣りキチの仲間が出来た。
 平戸のいさきは、真冬に群れをなして海の底にに集まるという、いさきはいっさきともいい、春の魚だ。話を聞いても信じられなかったが、本当だった。福岡から車で夜平戸につく。そこから船でその漁場まで1時間ぐらいか。文字通り入れ食い。朝に帰り、その日は皆で刺身とスープをいやというほど堪能した。
 福岡では鐘崎などでも釣りにでかけ、かさごやたべられない派手な色の庄屋の後家さんという魚まで釣ったりした。
 きすとともに蒲鉾にする外道魚のえそなども良く釣れた。

 Sさんとは、その後壱岐の島までクロダイを釣りにでかけたことがある。Sさんは大物を釣ったたが、こちらは坊主。石鯛の子の三番叟、など小物と外道魚しか釣れない。実力の差だ。

 さて、このときだったか、別の時だったかいまはっきり覚えていないのだが、釣り船のふなべりが低いので寄りかかって海面をみていたときにイワシと思われる稚魚の群れをみた。
 青い海の大きなうずのなかに無数の銀白色の小魚がおおきな渦を巻いて海面に浮んで来た。海の青と光輝く白い魚が、わっと渦を巻いて盛り上がる様は、この世のものと思えぬ美しさであった。
 この一瞬の海の小魚の渦の美しさは20年たった今でも脳裏にやきついている。海の神秘というが、この記憶はきっといつまでも忘れないだろう。
 船は岸から相当距離が離れていたように覚えている。普通稚魚は岸の近くに群れるものだというのに思いがけないものを深い海に見た。
 海に潜る人は。この何倍もの神秘をみるのだろうが、ちいさな船の上からのこの光景はまた格別のような気がする。海は凄い。

 その後、仕事はますます多忙となり釣りどころではなくなった。しかし、例外的に一度だけチャンスが来た。平成9年、大阪勤務のとき、淡路島の沖で黒めばるを、いかなご、きびなご生き餌で釣ろうというものである。船でゆっくり走りながら釣る。大漁であった。クロメバルは高級魚である。スープの味は申し分なかった。

 以来釣りをやめて10年以上になる。釣りの好きなのは太古の狩猟本能がのこっているのだという説があるが、あんなに釣りをしたかったのは一体なぜだろう。多くの殺生をしたものだ。
 太公望の釣りは、なにやらしみじみとした風情もあるが、顧みるに情けないことに我が釣りはそれどころではなかったように思う。一匹釣れるまでの心はあたかも夜叉か阿修羅のようになる、坊主で帰るみじめさはしみじみなんてものではなかった。釣りというのはおそらく人にもよるが釣行の4割はぼうず。海釣りは川よりまだ少しましだろう。
 釣りをやめて良かった。体力も気力もないから、もう釣りはしないことにしているので道具の一切を処分することにしているが、あの海の記憶、渦のなかの小魚の群れの光彩陸璃を時折り思い出すのだ。

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日出の城下かれいと荒城の月など [随想]

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日出町は、国東半島にある空港から別府温泉との間にある小さな町である。
大分市のベッドタウン。大分方面をみると高崎山が南に見え、空港方面をみると国東半島の影が長く伸びみえる。山側は、緑滴るなだらかな山腹で昭和5年開業という古い扇山ゴルフ場がある。別府湾を望む丘にある気候の良いところである。

 大分県はキリシタン大名大友宗麟の滅亡後、小藩分立であり、日出町も江戸時代、日出藩は小藩であった。豊臣秀吉の妻ねねのおいにあたる木下延俊の居城「暘谷城(ようこくじょう)」址がある。滅亡した豊臣家のなかでは全国的には珍しい秀吉ゆかりの城である。
その暘谷城三の丸跡に建てられた的山荘(てきざんそう)の敷地面積は4000坪と広い。 庭園や別府湾から高崎山を望む絶景を見るだけでも訪ねる値打ちがある。

 的山荘は、有名な「城下鰈(しろしたかれい」」を出す老舗料亭(1964開業)であるが、もとは大分県山香町にあった馬上金山を所有していた成清博愛氏の豪壮な別荘(1915取得)。ちなみに的山は山をあてる、つまり金山を発見したという意味。成清氏は酒造家でもあり、「的山」という銘柄もある。
双葉山がこの金山の金鉱石搬出船で働き足腰を鍛えたのだ、という話を聞いたことがあるが、本当かどうか知らない。
2007年成清氏の逝去もあり料亭はやめ、城下鰈料理もなくなったが、惜しむ声も強く近年再開されたとか、再開するとか。
肝心の城下鰈は、何度か仕事の接待で注文したことがある。手のひら大ものが最もおいしいとされ、唐揚げも良いが、刺身が一番という。旬は5,6月。城下の海には湧水があって、その砂地で育つので美味しいのだというが、これも真偽のほどは知らない。とにかく嵐で水揚げが無い時は料理が出ないというのは本当のようだった。

 仕事では取引先の会長さんが、かつて重光葵外務大臣秘書をつとめ戦艦ミズーリ号での降伏文書調印(ポツダム宣言)に大臣とともに出席されたという方で、日出町の名士だった。会長さんの謦咳に接して多くのことを教えられ、すっかり公私ともにお世話になったこともあって日出町は、想い出が沢山ある。

 ところで、知る人は少ないが作曲家滝廉太郎は父親がこの日出町出身である。
名曲「荒城の月」は、彼が竹田に住んだこともあり、曲想は同じ大分の豊後竹田にある「岡城」で得たといわれているが、一説ではこの「暘谷城」だという人もある。もちろん城址が曲の風情とあうことが、最大の理由だが日出が彼の父祖の地であることのほか、荒城の月が作曲された時に同時に作曲された「豊太閤」が、秀吉を讃えた歌であるとことを指摘する人もいる。
 実際に岡城も何度か訪ねたが、平氏滅亡のきっかけとなった豪傑緒方三郎の築城で、義経を匿おうとしたという言い伝えがあり、その後島津の猛攻をしのぎ秀吉を感服させたという難攻不落の山城である岡城の方が、歴史を聞いたりすると荒城の月の雰囲気にふさわしいという感じがした。太陽の光、寄せる波音をふくめて「暘谷城」は、明るすぎるのだ。
 大分にいたときは、愚息が小学生で滝廉太郎コンクールというピアノの発表会があり、たまたま西日本新聞記事のスナップ写真に本人が写っていた。
支社の方に話したら、そのときに撮ったものと同じような写真をくださり、ご縁ができた。
数年後また九州福岡に転勤になったときに、亡父のいとこで久留米医大名誉教授順一先生聞き書きを担当したのが西日本新聞の記者だったので、この話をしたりして、すっかり親しくなった。これも何かの縁であろう。

 大分のこととなると話が尽きない。日出のことだけを書いても、つい懐かしく思い出すことが次々とわいてきて、別にらちもないウンチクを書きたいわけではないのだが、かくも長文になる。
しかも個人的な話しばかりで読む方は退屈であるとわかっているのに。そろそろこのへんでやめないと。



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あたりまえは強い [随想]

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 かつてロータリークラブに入れてもらったことがある。大分で昭和57年から2年間、福岡で平成元年から1年間、大阪では平成7年から2年間の3 度である。
 もうずっと昔のことになるが通算すれば5年間だから貴重な経験だったといえよう。いずれも転勤先で前任者の後を引き継ぎ後任にバトンタッチしてきた。つまり入会は転任地で早く地域の人と親しくなれるようにという会社の知恵である。
 確かに地元の著名人や会社のトップの会員が多く仕事では何かと便利ではあった。
 クラブは職業奉仕(会員の職業倫理を高めること)と、そこから広がる社会奉仕と国際親善を目的とするものだからややその精神からするとそぐわないが、支店といえども職場が現にあるので地域の人にとってもなにがしかのメリットがあるとみえて、長い間続いて来ていた。いま、どうなっているかは知らない。たぶん続いていると思う。
 ロータリークラブ(Rotary Club)は、国際的な社会奉仕連合団体「国際ロータリー」のメンバーズクラブである。最初のクラブが例会場所を輪番(ローテーション)で提供しあったことから「ロータリー」の名がついた。シンボルエンブレムといっている車輪のマークはこれに由来する。  しかし、いまや例会はおそらくほとんどがホテルなどで開催されている。
 メンバーはクラブにおいて1業種1人が原則であったが、現在その縛りは緩められているようだ。同じようなものにライオンズクラブというのもあるが、全く知らないのでどう違うのかもわからない。
 実際に入会してみると例会出席が厳格であることに驚く。例会はランチをたべながら1時間ほどだが毎週である。仕事で忙しい人が多く皆苦労する。出席出来なかったときは所属外のクラブに行かねば基準の出席率を確保出来ない。しかしこれがゆるゆるだとかえって結束を弱めるのかもしれぬ。
 入会したときなど自己紹介を兼ね卓話と称するテーブルスピーチをさせられたりするが、例会では人の卓話を聴いているだけのことが多い。異業種の、それも中小企業主などの話に時折り面白いものがある。知らないことを聞くこともしばしばで、仕事上の客との四方山話に使わせてもらったりした。
 ロータリークラブは1905年シカゴで発足し、200以上の国と地域に33000近くのクラブを擁し、会員数は120万人以上とされる。
 日本では1920年、当時三井銀行の重役であった米山梅吉(この人は信託銀行の創始者でもあったという)が東京都に日本初のロータリークラブを作り世界で855番目のクラブとして認証されたのが嚆矢で、現在クラブ数2,302、会員数88,270人(2011年6月末)という。
 基本的には個人の資格で会員となり、会費もポケットマネー。だが法人が経費で落とすというのもあろう。
 いまになると、このシステムは、組織論的にはどういうことになるのか知る由も無いが、それなりに良く出来ていると思う。そうでなければ宗教や政治的な裏付けもなく多くの国で受け入れられ長期にわたって持続しない。 長い間、広い地域において続いている理由が何なのか興味深い。

会員の行動基準として「四つのテスト」The Four-Way Test"がある。
言行はこれにてらしてから "Of the things we think, say or do"
真実かどうか "Is it the TRUTH ?"
みんなに公平か "Is it FAIR to all concerned ?"
好意と友情を深めるか "Will it build GOODWILL and BETTER FRIENDSHIPS ?"
みんなのためになるかどうか "Will it be BENEFICIAL to all concerned ?"

 これがいわば組織のバックボーンであろう。一言で言えば善意そのもの。性善説だ。世のため、人のため活動する。とくに弱者に優しい。
考えてみるとこの基準はみな当たり前なことである。しかしながら、当たり前が一番強いのかもしれないとも思う。当たり前が通りにくい昨今、貴重な行動基準かもしれぬ。
 もうひとつ、これもアメリカ的だが「官」の影が薄く民間人主導ということがあるような気がする。雰囲気が何とも明るいのだ。
 よくテレビや新聞紙上などで見る大会社の社長や大学教授、学者などがみなタスキをかけ、会の歌を歌い、和気あいあいとして午餐のテーブルにつきニコニコ顔していたことを思い出す。失礼ながらまるで子供のようだなと思った。
 今はやりのソーシャルネットワークなどと似ているところもあるが、行動基準を持っているだけに紐帯はこちらの方がよほど強かろう。しかも一途に世のため、人のため活動しているのだからよほど強力な気もする。尤も今のソーシャルネットワークと比較しても詮無いことであまり意味も無いようだが。
 あるときチャリティー家族会が開催され、家人と参加した私が籖で沖縄旅行を当てて、それを楽しんだことがある。そんなことがあったりしたからか、ロータリークラブには総じて悪い印象はないけれども、人はなぜこういうものを求めるのか分からないものが残ることも否めない。多くの人が求めるものは上掲の「当たり前」だろう。その当たり前のものをロータリーでは、真実、公平、好意と友情、みんなへのべネフィット( 利益、恩恵、慈善)という。 それらの言葉の持つ本当の意味、中味が何かそれを知りたいものだとあらためてしみじみ思う。

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頼まれ仲人・月下氷人 [随想]

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むかし、50歳前後だから、働き盛りの頃であるがいわゆる頼まれ仲人なるものをやらされたことがある。もうそのころには本当の意味の結婚の仲立ち役、つまり男女が知り合うきっかけをつくり、縁談から結婚式、披露宴まで両家の間をとりもってまとめる役、昔の格言にもなっている「仲人は親も同然」という本物は珍しくなっており、職場の上司などに形式的に依頼するのがほとんどであった。それである。職場にもよるのだろうが、60歳前後になると頼みにくくなるのかほとんどこのお役目は無くなる。3、4年の間になんと5組みもこなした。
適齢期の部下を多く持った同僚などはもっと多かったと聞くから必ずしも多いほうとも言えぬ。
「頼まれ」といっても、ことがことだからいい加減にやるわけにはいかない。当事者、親、親戚にとっては一生の大事である。形だけとは言え、婚約・結納・結婚式(結婚披露宴)などの重要イベントでは家人と共に臨席することと、それなりの挨拶と泰然とした態度、立ち居振る舞い(少し言い過ぎか)が求められる。
たいていは中間管理職で仕事が忙しい年代であるが、一応の伝統的なしきたり、やってはいけないことなど相応の常識は最低限求められる。気疲れも多い。まず何より大変な家人の説得からして大変なさわぎである。こればかりは一人では出来ないからである。
頼まれ仲人の主な仕事は結納(婚約)と結婚式の立会い、媒酌人としての披露宴の挨拶などなので難しいことはない。慣れてしまえば、厄介なのは披露宴での仲人挨拶くらいなものである。これにしてもメモが見られればどうということも無い。自分は、これだけは格好をつけてメモなしでやった。若い時なので新郎新婦の生い立ちなどを記憶することも出来たが、形式的な挨拶、祝辞に加え、一言くらい気の利いたことを言って「さすが」と思わせようとしたりすると、前々から考えねばならないので大変である。まぁ、たいていはありきたりのスピーチで終わる。

仲人を立てる結婚式は、恋愛結婚が主流となるにつれて見合い結婚が激減したことから、1990年代後半を境に激減し、首都圏では1%(100組に一組!)だけとなり、最も多い九州地方でも10.8%に過ぎなくなった(ゼクシィ調査 2004年9月13日発表)そうだから、いまやこの頼まれ仲人すら殆ど無くなっているのだろう。さすれば、あれは貴重な経験だったことのなる。

それにしても、婚姻に仲人などはいてもいなくてもどうでも良いけれども、世の人と人の繋がりが薄れていくこと、また別次元だが結婚しない若者の増加、結果としての少子化、労働人口減と高齢者人口増のシェーレ現象などはこれからどうなっていくのか。何をもたらすのか。特に若い世代の人々のためを思えば心底から憂慮、心配せざるを得ない。

さて自分自身の結婚のことを言えば、1960年半ばであったがやはり仲人さんを頼んだ。職場の上司でなく、学生の時に家庭教師をした子の親御さんにお願いした。ご夫妻は 代々木でサロン ド シャポウ学院という制帽学校を経営されており、ご主人は院長先生で多忙を極めておられた。
世話になったのに更に世話をかけるという、常識から外れたことをしたわけだが、何も仰らず引き受けて下さった。いま思えば汗顔の至りとしか言いようがない。以来46年が過ぎ、米寿になろうという奥様だけになってしまったが、御夫妻への感謝を忘れたことはなく自分がリタイヤしてからもご機嫌伺いに行く。そのとき教えた小学3年生がこのほど定年を迎えた。我が仲人様ご家族とのご縁は深く、お付き合いも驚くべき長さになる。

ところで、仲人は良く知られているように「月下氷人」という。何故そう呼ばれるのかと中国の故事、由来を聞いてもあまりストンと胸に落ちない。慶事なのに言葉が「月下」の方はともかく、「氷人」では、冷たい印象となるのは拭えず、前々から気に入らなかった。もう少し良いものがありそうなものだ。

自分が仲人を頼まれた夫婦からの今年の年賀状には、お子様が社会人となり、夫婦二人の時間が多くなりましたなどと奥様の添え書きがあったりして、今さらながら過ぎていった長い時間に思いを馳せて、しみじみと感慨ひとしおである。

父の遺訓 [随想]

 
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正確には、遺訓つまり、「故人の教え」というのには当たらないだろう。
父が自分に教えるために遺そうと話した言葉ではないからである。昔、父が言った言葉を幾つか、いま自分が思い出しているだけのことだ。それも時々思い出してはあれこれ考えるのだから、父の言葉がその通りだったかどうかもあてにならぬ。あれからかなり長い時を経ているので自分の後脚色が加わっているかもしれない。
父と一緒に暮していたのは、高校までだから若いときというよりまだ大人になる前に聞いた言葉だろう。父は手紙を書くのが好きだったから、学生時代にも聞いたかも知れない。

 まず、「正しい信念を持て」。これも「強い」信念だったかも知れない。自分が小さくて信念などという言葉の表面的な意味もわからない頃から聞かされた。とにかく信念という言葉が好きだったように思う。どんな信念を持てというのかなどと聞き返すほど、ものごとが分かっていなかった頃のことだ。

 次に、これと関連していたかどうか知らないが、「環境に支配されるな」、がある。
ひとは、おかれる状況、環境がその意志に反してしばしば変わるのが常である。そして、ものを考え判断する時に、その状況にどうしても捉われて左右されがちだ。しかし、それは状況がそうさせることが多いことを、ゆめゆめ忘れてはならぬ、と解釈していた、あるいはいまそう理解しているというのが正しいかもしれない。環境によって、ぐらぐら己の考えを変えるな、信念が無いとそうなるのだ、ということだろう。
俺は戦争で妻の実家で世話になっとるが、そうだからといって自分の考えは変えることはないぞと強がっていたのかもしれない。

 もうひとつ。「恥ずべきことを恥じず、恥ずべきでないことを恥じるような人間になるな」。これは、言い方が分かりにくいが、言っていることは易しいというか難しいことではない。
確かに、時折、本来は恥ずかしいことを平気で何も考えずに言ったりやってしまって、後からよく考えればあれは良くないことだったな恥ずかしくなることがある。無知だったり、相手の気持を十分慮らなかったり、不注意だったりすることが原因である。
 一方で、冷静になって客観的に考えれば恥ずべきでも無いことを、その時の雰囲気に飲まれて恥じ入ることがないでも無い。とくに理性を失い感情的になっているときだ。
いずれにしても恥ずべきことが何で、恥ずべきでないことが何か、しっかり分かっていることが必要である。
恥ずべきことと、そうでないことは普遍的なものもあろうが、人の性格、考え方によって違うものもあるだろう。
もっとも、その前に恥じるという意識、観念があることが前提だが。世に無恥という言葉がある。いわゆる恥知らず、恥を恥と思わない、破廉恥ということである。厚顔無恥ともいう。父の回りくどい言い方は、単純に恥知らずな人間になってはいけないと言っているのではなく、何が人間として恥ずかしいことかそうでないことか、しっかり考えろということであればそれなりに含蓄のある言葉である。

 他にも何かあったかもしれないが、思い出せないからあったにしてもたいしたことではない。そう、最後にもうひとつ。「ファイティングスピリットを持て」、とよく言っていた。およそ本人のイメージからすれば、ふさわしいとはとても言えないのだが。あれは、何に向かっての「闘争心」だったのだろう。
自分としては、たしかにこれは生きていく時に、或いは気が落ち込んだ時に自らを鼓舞するため、つぶやくのには良いなと思っている。父の本音はきっと別のところにあったのであろうが。もしかして明治35年生まれの父は、単に英語のファイティングスピリットという語感が好きだっただけかも、と言うのは可哀そうか。内なる秘めた何かがあったと思いたい。

 父が1981年、79歳で歿してはや31年になる。自分が41歳のときだ。既に就職して結婚し子供が大きくなってお り、相応の年齢になっていたが、えーっ、そんな歳?、何もしてあげることが出来なかった、という思いは誰でもそうなのかも知れぬが、ショックが強烈だったその時のことを今でも鮮明に想い起こすことが出来る。

 父は、三年前に101歳で逝った母とともに城ケ島に唯一ある寺、常光寺に眠っている。その寺の子として生まれたが僧になるのが嫌でその地を飛びだしたとよく聞かされた。
 そう言った後て、必ず坊主と医者と弁護士は嫌いだと言った。祖父も眼科医だったのにだが。嫌いな理由は人が困っていることに付け込んで金を獲る商売だからと冗談を言った。それなりのユーモアもあったのだ。

 自分も徐々にその年に近づきつつある。そのせいか昔の父の言葉などを思い出すのだろう。誰にということでなく自分のため、ぼけないうちに記録しておくことは意味があることかもしれぬ。

 詮無きことながら、我が子供達は恐らく自分の言葉など何も記憶に残らないだろう、という確信に近いものがある。昔の方が言葉に重みがあったのではないかという気もする。時代ということか。インターネットやメール携帯電話で飛び交う言葉がいちいち心に刻まれにくいのではないかという感じだ。
 
 とまれ、人は誰の言葉であれ気になった言葉を常に反芻しながらものごとを考えていることが多い。しばしば元の言葉の真の意味から、全く別のものに離れていくことが多いのだが。


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老いらくの恋 [随想]

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 適齢期というものがある。辞書では「それをするのにふさわしい年頃」とある。
 かつてよく言われたのは結婚適齢期(英語ではmarriageable age)だったが、今は余り使われていないようだ。
 人間も自然の一部である以上、子孫を残さねばならないから生理的なというか自然科学的に旬というのはあるが、婚姻は制度でもあるからして社会的側面も強い。男性も女性も社会の変化、時代の流れの中で「ふさわしい年頃」もばらけてしまったのであろう。
 結婚適齢期は女性にとっては妊娠、出産適齢期であり、男性にとっては、肉体的なピーク時あるいは経済的な自立、家族扶養可能となる時期か。ちなみに、自分は25歳、相手は20歳であった。適齢だったかどうか全く定かではない。適齢期というのは観念的なもので平均的な概念、個別具体的なものとは相容れないことが分かる。

 一方で恋の適齢期というのは聞いたことがない。初恋ですら幼稚園や小学生からという。ファーストラブがあるならセカンドラブもあり、越前守の母堂の教えではないが灰になるまでというからにはファイナルラブ(晩年の恋)もありそう。老いらくの恋という言葉もある。恋と年齢は無関係、まして「ふさわしい年頃」などというのは無いのだ。

 働き盛りのころつまり自分が若かりし頃、結婚適齢期にならって死亡適齢期というのがあるという小話、冗句を何かで読み唖然とした覚えがある。面白がってあちこちで使わせてもらった。とくにバーやクラブでうけたような気がするが、なにせ若かったから馬鹿げた顔をして話していたに違いないと思うと愧じ入る。
 小話というのはこうである。

 男女とも平均的に閉経期がほぼ50歳、子供の養育期間15年として65歳が死亡適齢期だという。男にも閉経があるという。この話を「平家物語」というのだというのがオチである。養育期間が過ぎれば本当の老後、余生だ。
 この年齢を6年も過ぎてしまった今では、あまり良い小話とも冗談ではないと思うのは身勝手というものか。国連の世界保健機関 (WHO) の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としているから、高齢者とは死亡適齢期を過ぎた者ということになる。高齢者のうち、70歳までをヤングオールド、75歳までをミドルオールド、80歳までがオールドオールドという。それ以上はオールドパーという冗談もあるが悪いジョークだ。品も無い。

 ところでその時、つまりこの小話を知った時も、この小話は神様、造物主 はなぜ人間に老後を与えられたかという問いに関連したものだろうと思った。子孫を残す使命を果してしまった人間をなぜ神は暫くとはいえ、生かすことにしたのか。人により長短の差はあるが、その間に何を為せば神の御心に沿うのかという深遠な問いである。平家物語は意味深長な小話なのである。
 深遠な問いのその答えはなかなか難しい。世の為、他人の為、利他に生きよということか、遊びをせんとて生まれてきたのだから趣味や道楽、恋(!)など、おおいに余生を楽しめということか。

 この議論は難しそうなので、傍らに置いておき、ここでは老いらくの恋についてである。老いらくの恋とは、あたりまえながら、年老いてからの恋愛をいう。そんな英語があるのかどうか知らないないが、シルバーラブのことである。
 老いらくの「らく」は「楽」ではない。単に「老い」という意味とか。古語「おゆらく」の音変化したものであって「楽」という意味は本来ないそうだ。 しかし何となく受ける印象は楽しそうではある。残念ながら未経験なので想像の域をで出ないが、切なく苦しいのは老いらくの恋でも青春期の恋でも同じだろうに。

 老いらくの恋というのは、 昭和23年(1948)、68歳の歌人川田順が弟子(俊子39歳)と恋愛、家出し、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから生まれた言葉だとものの本にある。
 昨年11月頃、瀬戸内寂聴「奇縁まんだら~司馬遼太郎」(日経新聞社)を読んでいたらこのことが書かれていた。
 「川田順の不倫の恋は司馬さんが取材して『老いらくの恋』と表題をつけたと聞いた」とあった。司馬遼太郎の新聞記者時代というところが、わけもなく面白い。ついでながら寂聴さんの「交友録」はとびきり痛快である。
 歌人はこの時、平家物語でいう死亡適齢期を過ぎているが、相手は30代と若い。相手も65歳以上なのが本当の老いらくの恋だろうとも思うが、そう厳密なものでもないのだろう。

 歌人は住友総本社常務理事退任後、歌壇で活躍した。弟子の俊子は元京都大学教授中川某の妻で3女の母。二人は失踪し大騒ぎとなる。歌人は当時皇太子殿下(現、天皇)御作歌指導掛をし、三大紙の歌壇選者だったというから、騒ぎもさもありなん、ということだったろう。
この老いらくの恋は、二人のいくつかの歌を見ればおおよそが分かる。

 樫の実のひとり者にて終らむと思へるときに君現はれぬ(順)

  若き日の恋は、はにかみて
  おもて赤らめ、壮子時の
  四十歳の恋は、世の中に
  かれこれ心配れども、
  墓場に近き老いらくの
  恋は、怖るる何ものもなし。 (「恋の重荷」序)

 はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく  俊子

げに詩人は常若と
  思ひあがりて、老が身に
  恋の重荷をになひしが、
  群肝疲れ、うつそみの       うつそみ=空蝉(うつせみ)
  力も尽きて、崩折れて、
  あはれ墓場へよろよろと。 (「恋の重荷」)

 さて、歌人の事件が起きたのは自分が8歳の時、今を去ること63年前である。死亡適齢期はおろか、古希をも過ぎた我が身が、疎開先で腹を空していた小学生だった頃の話だと思うと妙な気分になる。

 二人は事件の翌年、昭和24年に結婚し、川田順は昭和41年に84歳で死去。俊子は今から6年ほど前の平成18年2月死去、享年96歳。二人は一緒になってからどう暮らしたのだろうか。そして川田夫人は一人になってからの長い時間をどう過ごしたのだろうか。

 老いらくの恋とは一体何か。恋は思案の外というのは年齢と無関係に相違ないだろうが、何やら高齢者の恋は特別奥深いものがありそう。といってもそれは男と女ではかなり違うような気がする。何がどう違うのかは無論わからぬ。 自分が考えることは、どうしても男の方から見た一方的なものになるのだろう。女性から見たらどうなのかは推測すら出来そうにない。
 老人の恋のエネルギーの有無、強弱にも個体差が大きいだろうことは、病んであちこち痛いとばかり言っている半病人たる今の我が老痩躯に照らしてみて、容易に想像できる。加齢に伴いこの個体差はますます大きくなる。誰もがめでたく老いらくの恋をするわけでは無いことは言うまでもないことだ。

 良寛(70歳)と貞心尼(30歳)の恋、芭蕉、谷崎潤一郎のそれなど文学で読む老いらくの恋に真実味はあるのだろうかと関心があるが、あまりそれに絞って読んだこともないので偉そうなことは何も言えない。

 今興味を持って思い起こすのは、やや突飛だが、あの辛辣な舌鋒と独特な文体が癖になって愛読した編集者で随筆家山本夏彦の晩年の恋である。
 誰も知らなかったという密やかな恋だったと、ご子息の著書にあったのを随分前に読んだ。
 氏は平成14年(2002年)87歳で亡くなる。没後に、相手に出した手紙が見つかり、周囲はそれを知ったという。 その手紙の最後のサインが「奈の字より」とあった。それを読んで、どういうわけか言葉に表せない強烈な印象を受けた。 奈の字よりーとは!。あの毒舌家が。

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姓名にまつわる話 [随想]

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ひとの姓と名に纏わる話は何故か面白い。その理由は、たぶん名は体を表すからと言った単純なことでなく、人の姓は代々親から受け継ぎ、名は親などにつけてもらってはじめて「個・アイディンティ」が形成される。姓名は人の本質に関わるからのような気がする。このことは、後でいつかゆっくり考えてみようと思う。
ひとの姓と名にまつわる話を、まず一人称の「名乗る」ということから始めることにしたい。

現代では普通自分が名乗るときには、所属(帰属する組織などの)や肩書きの印刷された名刺を使う。講演や演説での自己紹介は、只今ご紹介に預かったXXの◯◯です。というのが一般的である。また選挙の候補者などは、鶯嬢が名前を連呼するだけでおよそ味気ない。

昔はどうだったか。普段の生活では今と大差無かったに違いないだろうが、戦場などでは、遠からんものは音にも聞け、われこそはーと大音声で名乗りをあげたという。スピーカーなど不粋なものを使わず、なんとも言えぬ雰囲気があったと想像される。
そういった雰囲気が、今でも残っていると思われる相撲の呼び出しや勝ち名乗り(一人称ではないが)なども、何ともスローで優雅だ。

大河内傳次郎演ずる丹下左膳のセリフは「姓は丹下名は左膳ーセイハタンゲ ナハシャゼン」。ご紹介に預かりましたなどとはおよそ違って味がある。
これは、林不亡原作 の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」1935年(昭和10年)山中貞雄監督の時代劇映画のセリフである。この名乗りも映画ファンに受け、有名になったという。

ご存じ、歌舞伎の「白波五人男」は、河竹黙阿弥の作で5人の大泥棒が主人公。1862年(文久3年)に初めて市村座で上演された。正確には「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうし はなの にしきえ)。その名場面のひとつである「稲瀬川勢揃いの場」が有名である。ここで盗賊「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」通称「白浪五人男」(白浪とは盗賊の異名である)が勢ぞろいし、傘をさしてかっこよく決める場面で、それぞれが自分の素性を名乗る。この名乗りは「渡り台詞 」というとか。
問われて名乗るもおこがましいが <日本駄エ門>
さてその次は江ノ島の <弁天小僧菊之助>
続いて次に控えしは 〈 忠信利平>
亦その次に連なるは <赤星十三郎>
さてどん尻に控えしは <南郷力丸>
有名な弁天小僧菊之助の「知らざあ言って聞かせやしょう」も同じ青砥稿花紅彩画(白浪五人男)の別の場である「浜松屋店先の場」でのセリフである。盗っ人連中にしてはなんとも悠長かつ優雅な名乗りである。

キリがないのでもう一つだけ名乗り例を。
香具師寅さんの挨拶。お控えなさっての流れであろうが、誰にも好かれるこちらの方は、同じくどこかのんびりしている。
「 わたくし 生まれも育ちも 葛飾柴又でござんす 。帝釈天で産湯を使い 姓は車 名は寅次郎 。人呼んでフーテンの寅と発します 。とかく西へ行きましても 東へ行きましても 土地土地のおあにいさん おあねえさんには ご厄介かけがちなる若造です 。
以後見苦しき面体お見知り置かれまして きょうこう万端引き立って よろしく お頼もうします。」

ところで、名乗る時はやはり名前が短かい方が好都合だ。長いのは厄介である。
世界で一番長い名は、英国エリザベス女王 であると、井上ひさしの随筆で読んだことがある。
ElizabethⅡ,by the Glacé of God,of the United kingdom of Great Britain and Northern
Ireland and Her Other Realms and Territories Queen ,Head of the Commonwealth,
Defender of the Faith
確かにこれではマイネームイズと切り出して何秒かかろう。フルネームで声をかけるのも難儀というもの。
日本では長い姓は武者小路、長宗我部などせいぜい4文字くらいか。名前は、吉左衛門など4文字くらいしか 知らない。合わせて8文字くらいか。いや十文字、千文字 という姓があると言うのは下手なシャレ。

本題から離れるが、実在しない長い名前なら落語に広く知られた寿限無がある。
「寿限無(じゅげむ)寿限無(じゅげむ)、五劫(ごこう)のすりきれ、海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ)、雲来末(うんらいまつ)、風来末(ふうらいまつ)、食(く)う寝(ね)るところに住(す)むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命(ちょうきゅうめい)の長助(ちょうすけ)」

「 寿限無」の意味は、むろん生まれた子供の命名の話だからめでたいものを並べ立てたものだ。寿限無を繰り返すところ、リズム感、最後のちょうすけ、と切るところなど吹き出さない方がおかしい。
その目出度い中身は案外知らないひとが多い。まぁ、笑えば良いのだから中身など何でも良いのだが。長くなったついでながら。
「寿限無」は、寿命限り無し。いつまでも死ぬことがないということ。
「五劫の摺り切れ」一劫は、たとえはいろいろあるが、その一つは、天人が三千年に一度下界に下って岩を衣で撫でる。こうしてその岩を衣で撫でつくして摺り切ってしまうまでを一劫という。従って五劫は億万年という数えきれない年をいう。
「海砂利水魚」というのは、海の砂利と水中の魚。何百年たっても取り尽くせないほどたくさんあるという意味。
「水行末雲来末風来末」は、水の行く末、雲の行く末、風の行く末。いずれも果てしがないほど行く先が広い象。
「喰う寝る所に住む所」とは衣食住のいずれか一つが欠けても生きていけないが全て確保されている。
「やぶらこうじ、ぶらこうじ」藪柑子の木は強い木で、春には若葉を生じ、夏には花を開き、秋には実を結び、冬には赤き色を添えて霜雪をしのぐというめでたい木。
「パイポのシューリンガン、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナー」昔、もろこし(中国)にパイポという国があり、シューリンガンという王とグーリンダイという后がいた。その二人の娘の名がポンポコピーとポンポコナーで、二人そろって長生きしたという。
「長久命」長久と長命を合わせて長久命。
「長助」長く助けるという意味。

これと反対に実在する短かい姓名は我が国ではニ字 だろう。林さんちの実君など。音(おん)ではどうか知らない。禹(う)さん、李(り)さんという名字があるからその家に一音の名の人がいれば、それが最も短いことになろうが一音の名前は思いつかない。
周知のように天皇家は姓にあたるものがないので、天皇、皇(太)后、皇太子(妃)、(内)親王とも名前だけであるが、不勉強ながら推察するに、名が一文字、まして一音というのは過去にも無かっただろうと思う。
一方、昔苗字帯刀を許されなかった庶民も、当然名前だけであったが一字、一音があったかどうか知らない。な(奈、菜)さんなどありそうな気がするが。
私は「な」と言います。と簡単な代わり聴き取りにくそうだ。

むろんここで珍名探しをするつもりは全くないので、今回はこの辺でやめることにする。
それにしても名乗るというのは、一人称であり、自己主張、自己表現の第一歩であるが、その名乗り方は、当然時代によって大きく変わるものだと考えさせられる。

四股名 [随想]

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明日から大相撲大阪場所が始まる。東日本大震災から丁度一年が経った日となるが、被災地のファンが少しでも楽しめたら嬉しい。

中学生の頃、身体はひよわで小さかったが人とすもうをとるのは嫌いではなかった。こちらが小兵でも、大きい相手は結構腰が高いので勝機がない訳でもない。
そのせいか今でも相撲を見るのは、サッカーなどを見るよりもより好きだ。昔、仕事の接待で九州(福岡)場所を見たことがあるが、ほとんどテレビである。相撲を見るようになってからずいぶん長い年月がたっている。
舞の海など小さい力士も魅力的であるが、ファンまでにはならなかった。相撲力士は、やはり強くて大きい方が良い。舞の海は引退後の解説者としては横綱級と認めるのだが。

特に贔屓の力士がいるわけではない。取手市に住む友人が牛久出身である稀勢の里の後援会に入り、時折バスで国技館に応援に行く。そういう話を聞くとやはり稀勢の里の活躍が気になるものである。
転勤で 大分や福岡に住んでいたことがあるので、そういったなにがしかの縁ある地の出身力士もやはり気になる。呼出しは必ず臼杵市など市、町レベルなので懐かしくなって無意識に応援していたりする。相撲とはそういうものなのだろう。
立ち会いの間や、勝負の力士の動き、表情などを楽しんでいる。贔屓の力士がいればきっともっと楽しめるのだろうと思う。

最近の相撲界もいろいろ苦労が多いようだが、なんとか健全でいて永らく愉しみを提供し続けて欲しいと念じているのは自分だけではないだろう。
人は誤解しているが、相撲はスポーツではない。言い過ぎであればスポーツだけではないと言い換えても良い。スポーツは稽古場までだ。本場所は神事とまでは言わないけれども芸事に近い。だから芸名、四股名があるのだ。

四股名(しこな)とは、国技である相撲における力士の呼び名でかつ芸名であると思う。辞書には、四股名はもともとは醜名と書いたとある。この場合の「醜」とは「みにくい」という意味ではなく、「逞しい」という意味だそうである。ならば「醜女」が逞しい女か否かは知らぬ。いつからか四股と相まって「四股名」と書かれるようになった。しこ名と書かれることも多いという。
四股名は舞の海のように雅なのもの、あるいは最近でいえば臥牙丸のような珍妙なものを含めて雑多である。芸名だから過去も現在も将来もきっとそうだろうと容易に想像できる。
外国人力士が増えていることもあり、近年首をかしげたくなるものも無いではない。
 星安出寿 保世  ほしあんです ほせ 、 星誕期 偉真智  ほしたんご いまち 。二人とも平成の力士だ。
かつてジェシー とカタカナの四股名の力士が実際にいたように思う。後に高見山関と改名した。今さすがにカタカナや英数字は無い。協会で使える文字を制限しているのだろうか。
大露羅 満 おうろらみつる 、阿夢露 光大 あむうるみつひろ 。後者の出身はアムール川流域か。イタリア人なら 阿漏れ澪もありかと嫌味のひとつも言いたくなる。
トンガ 出身だから 南ノ島 とか、黒海 、把瑠都なども安直過ぎるのではないか。

力士は場所数が増え、稽古と巡業に明け暮れるので体力的にも精神的にも過酷なせいか選手生命は短い。それだけ力士の数が多くなる。人に知られるほどのいわゆる関取になれるのはほんの一部であろう。
数が多いから四股名も多い道理である。過去を含め良い、四股名もあるが変なのもたくさんある。
さすがにテレビ放送実況中継をするようになってからは、おかしな発音の四股名は消えた。
珍名四股名は取り上げたらキリがないけれど、毎日猫に遊んでもらっている猫好きとしては猫のついた昔の四股名が面白い。
動物を冠した四股名には、おっとせい まであり、蛸 、蟻 、象 、馬 などがあるとか。なぜか牛はないようだ。牛相撲と関係があるのか。
猫で有名なのは、江戸時代の猫又 虎右衛門(ねこまた とらえもん、伊勢ノ海部屋) 。部屋伝統の出世名だそうな。ほかに
 黒猫 白吉  くろねこ しろきち 明治 三段目
 三毛猫 泣太郎  みけねこ なきたろう  明治 序ノ口
 玉猫 三毛蔵  たまねこ みけぞう     大正 序二段
 山猫 三毛蔵  やまねこ みけぞう   明治 幕下
 三毛猫 三吉  みけねこ さんきち     明治 序二段
 小猫 三毛蔵  こねこ みけぞう     大正 序二段
 招猫 米吉  まねきねこ よねきち 明治 序二段
そういえば四股名とは別だが、決まり手に 猫騙しというのがあって、舞の海が使ったことがあったような気がする。あれは四十八手に入っているのだろうか。立会いでふわりと飛び上がり相手力士の目から消えるという高度な芸だ。

ついでながら 珍名四股名はいくらでもあるが、次のようなものは、強くないからあえて強がってつけるような気がする。
 突撃 進  とつげき すすむ 大正 幕下
 貫  透  つらぬき とおる 大正 十両
  
次のは文字どうり言葉遊びだ。余裕たっぷりだが、これもあまり強くないように思う。
 九 九之助  いちじく きゅうのすけ 明治 小結
 い 助次郎  かながしら すけじろう 明治か
 京   昇         かなどめ のぼる 大正 序二段
 子 音二郎  えとがしら おとじろう 明治 三段目

四股名をつけるときの親方や本人の気持は、普通の人が産まれた子供に命名する時の親たちの気持ちととあまり差がないのではないか。健康で強くなって欲しい、出世して欲しいという夢と希望を託し、文字は優雅で音は綺麗で呼びやすく出身地も分かればなお良い。静岡で生まれた静子さんなどのように。
普通の人は改名しないかぎり一生命名された名前と付き合うが、力士は引退すると新しい親方名を襲名したり、四股名をそのまま使う人もいる。もと魁皇など元がついて呼ばれる。もちろん本名に戻る人も多いだろう。

人の本名は自ら選ぶことができない。しかし力士でなくとも人は名前を変えることはできる。ペンネーム、WEB名、歌手、俳号、俳優名など理由や動機はまちまちだが、その命名もまたそれぞれ興味深い。

戒名 [随想]


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名前にまつわる話の三つ目は戒名であるが、話が「コレデオシマイ」というわけではない。

辞書を引いてみると、もともと戒名とは僧侶が受戒するときに受ける法名のこととある。仏門に入った証(あかし)、また戒律を守るしるしとして、新たに身につける真の名前という意味でこの法名を諱(いみな)といい「法諱」(ほうい)ともいったとある。 諡(おくりな)は、生前の徳行によって死後に贈る称号のことである。
日本では時代が下ると、僧侶が俗人の葬式において死者に授戒し、戒名として諱(いみな)、つまり「忌み名」を与える儀礼が行われるようになる。
このため、諱(いみな)は諡(おくりな)と混同されて現在ではしばしばほとんど同義に使われているとのこと。
周知のように現代でも、 死後に浄土で仏と成る浄土思想にもとづき、故人に戒名(鬼号、追号)を授ける風習続いており、死後に葬式のときにお寺の僧侶に戒名をつけて貰うことはごく一般的に行われている。

浄土真宗では、戒名とはいわず「法名」、日蓮宗系(日蓮正宗を除く)では、「法号」がそれぞれ正式な名称というし、禅宗では戒名がないとか聞くなど同じ仏教でもまちまちである。戒名については自分の理解も、もうひとつというところがあって少しく心もとない。

さて、現代の戒名は評判がすこぶる悪い。遺言に戒名無用とを書く人もいるくらいである。
その理由は戒名料の根拠、基準がなくいわば闇の中で、つけてもらった時いったいいくら包めば良いのか相場もなく曖昧模糊、不透明であるとか、お志次第と言われたりするとか沢山あるが、つきるところそれが高価だということにあるようだ。数万円から最高位の院殿号になると数百万ともいわれる。しかも信士、信女 ー居士、 大姉ー院号 ー院殿号などクラスがあることも、死んでまで格差があって金次第かという反発を招いてもいる。

そこで不透明感を払拭するためか、最近はネットで戒名をつけてもらう方法もあるようだが、手軽になるにしても、リーゾナブルな値段になるのかなど詳しいことは知らない。

皮肉に聞こえてもやむを得ないし、独断偏見でもあることは承知だが、考えてみるに戒名は亡くなった人の伝記の側面がある。戒名料は伝記の原稿料だから高いのだ。

横道にそれるが、「伝記稿料」で好きな連句の付句を想い出した。芭蕉の頃の俳諧連句は難しく読んでもわからないのが多いが、現代の連句は素人でも十分愉しめる。残念ながら出版されている歌仙集は少なく図書館にも丸谷才一 、大岡信らが巻いた歌仙の本、「とくとく歌仙」、「すばる歌仙」、「浅酌歌仙」など数冊しか無い。付句の解説がついているのでそれを楽しむ。正確ではないかも知れぬが、好きで覚えているのがある。次の付け句だ。

モンローの伝記稿料5万円 丸谷才一
どさりと落ちる軒の大雪 大岡信

どさりとモンローが良く合う。傑作だと思う。

閑話休題、僧侶は短時間に故人の人となりと生きざまを聞きとり戒名をつける。一般的に長い(字数が多い)ほうが格が上とされていて、現在の基本形は「院号」・「道号」・「位号」で成り立つので実際の「戒名」は二文字もあれば立派に成立する。
 たとえば、「○○院妙徳靜和大姉」という戒名は、○○院が「院号」、妙徳が「道号」、靜和が「戒名」、大姉が「位号」となるという。
 要するに、決まり文句のほかの少ない文字でその人の一生を、つまり伝記を書きあげる。
 この少ない文字は、本来は故人が生前、お寺のために一生懸命に尽くしてくれたことへの寺側の感謝の意を表わすために使う。例えば寺の修理をしてくれた、寄進をしてくれたなど、いろいろな功績があった人に何かをしてあげたいが、お金というわけにいかぬ。そこで、名前に感謝の意を示す言葉を追加し、あの世に見送るのだ。
それが建前であるが、実際にはその人の生い立ち、生業、宗教心 人柄などから適切な漢字を選択し当て嵌めてつけるのが多いようだ。むろん生きていた時の本名、つまり俗名から字を取るのもある。
この辺りのことは、親しい方を見送ることになった誰でもが経験し始めて知ることが多い。

そんな目で著名人の戒名をいくつか見てみよう。
漫画家の手塚治虫 は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。文豪夏目漱石 は文献院古道漱石居士。なぜ漫画家が大居士で文豪は居士なのか。「虫」、「漱石」ともペンネームから。
江戸幕府300年の祖、徳川家康 の戒名は二つあって安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士と東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士。ふたつながら「誉」が使用されている。徳川幕府が浄土宗を支援した。院殿号がついていることで、その支援が並でないとわかる。「権現」は神号であるが、問題ないのであろうか。本地垂迹説もあり余計な心配か。
御巣鷹山日航機事故で早逝した坂本九 は天真院九心玄聲居士。「九」と「声」が戒名に入っている。今でもファンの多い、急性白血病で若くして亡くなった夏目雅子は芳蓮院妙優日雅大姉。「優」は女優の優か。昭和の歌姫、美空ひばりは茲唱院美空日和清大姉。「唱」と「美空」は分かるが、「和」は和也君じゃないだろう。それぞれの文字にそのひとの自分史、伝記を彷彿とさせるものが散りばめられているような気がする。

しかし戒名が全てそうではなく例外もあるのも確かである。物知り文士幸田露伴の戒名は 露伴 。位号もなく短いが、一文字幾らという戒名料は低廉だったのだろうか。
「パリ燃ゆ」の大佛次郎 は大佛次郎居士だそうで本名と同じとは、我が「伝記説」とちがうが、本人の遺言なのかあるいは別の事情があったのか知りたくなる。
また、「あと三千回の晩餐」、「人間臨終図鑑」「コレデオシマイ」などで有名な作家の山田風太郎 は風々院風々風々居士 と生前から 勝手に自分で称していたらしい。当然これはお寺からの正式?な戒名ではないが。

自分が知らない自分の名前、それが戒名である。あたりまえだが戒名は一人称になりえない、勿論名乗ることもないし、位牌に記されるだけで名刺に印刷することもないという、よく考えてみればおかしな名前である。
本人のために命名されるのではなく、畢竟遺された者のためのものであろうが、かと言って遺された者が決して使うこともない不思議な名前である。


タカラジェンヌの芸名 [随想]

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映画俳優、歌舞伎役者、歌手、テレビタレント、落語漫才(お笑い芸人)などの芸名は、いわくがあったりなかったりそれぞれに面白い。本名を名乗るのもあるが少数である。面白いと感じるのは、それぞれ芸には自信があるにしても多くの人に知って貰いたいと願って名付けているからだろう。
ここでは、一例としてタカラジェンヌに登場して貰う。

宝塚歌劇団(英称:Takarazuka Revue)の歌劇公演は、大阪勤務の頃住んでいた兵庫県芦屋市からさほど遠くない宝塚市にある宝塚劇場で一度だけ鑑賞したことがある。あでやかな別世界だという印象を強く受けたが、ヅカファンまでにはならなかった。
未婚の女性だけで構成されているこの歌劇団は、阪急電鉄の創始者小林一三が1914年電車乗客の増加のため創設したことで有名である。
さ来年2014年度が100周年となる。菫の咲く頃ーの歌とともに、創始者小林一三の遺訓「清く正しく美しく 」でもよく知られている。観客動員数は多い時で100万人以上といわれるが、近年は不況も影響しているのか80万人ほどとか。
阪急電鉄株式会社が仕事で関係があり、劇団の話を聞いたことがある。劇団は会社の直轄組織となっており、同社の社内組織では「創遊事業本部歌劇事業部」が事業運営を行っているので劇団員、つまりタカラジェンヌも同社の社員扱いとなっているとか。
現在歌劇団の理事長は小林公一氏(創始者小林一三の曾孫、阪急阪神ホールディングス取締役)。

良い席のチケットは熱狂的なファンが多く、なかなか取れないと聞いたので知人にお願いして購入したことを憶えている。一階のまずまずの席のだったが、舞台に近い席はファンの会で確保されてしまう人気ぶりという。
家人は、大阪への新幹線でたまたま一人のタカラジェンヌと隣り合わせになり話をしたことがあるとかで、 彼女の話をしきりにしたがそのとき彼女が出演したかどうかは記憶に無い。なにしろ月、花、雪、宙(そら)組、専科とありスターの数はどの位か正確には知らないが、一組80人程とすれば専科は14名なので総勢350人前後のスター数ということになる。
彼女たちはもちろん皆芸名をもつ。原則本名を名乗ることは許されない。また、過去にタカラジェンヌが名乗った芸名と同じものはつけることができない。
創立当初、劇団員の芸名は百人一首にちなんだ名がつけられていたが、ほとんど使い切ってしまったため百人一首にとらわれず、現在では劇団員が自分で自由につけている。
ただし、当然ネガティブ意味を暗示させる名前・漢字は使用できない。夢を売る劇団のタカラジェンヌの芸名とあらばこれも当たり前であろう。
まずは現在の各組の主演コンビで芸名を見てみよう。
花組(1921 年発足 Flower troupe)
蘭寿とむ らんじゅとむ(男役)蘭乃はな らんのはな(娘役)
月組 (1921 Moon troupe)
霧矢大夢 きりやひろむ(男役) 蒼乃夕妃 あおのゆき(娘役)
雪組 (1924 Snow troupe)
音月 桂おとづきけい (男役)舞羽美海 まいはねみみ(娘役)
星組 (1933 Star troupe)
柚希礼音 ゆずきれおん (男役)夢咲ねね ゆめさきねね(娘役)
宙組 (1998 Cosmos troupe)
大空祐飛 おおぞらゆうひ(男役)野々すみ花 ののすみか(娘役)
ほかに現在活躍中のタカラジェンヌを何人かあげると、
高翔 みず希 たかしょう みずき 、悠真 倫 ゆうま りん 、壮 一帆 そう かずほ 、愛音 羽麗 あいね はれい 、蓮 つかさ れん つかさ 、海乃 美月 うみの みつき 、ひめ乃 礼絵 ひめの れえ 、蒼瀬 侑季 あおせ ゆうき 、朝霧 真 あさぎり まこと 、佳城 葵 かしろ あおい 、姫咲 美礼 ひめさき みれい 。

ひらがなと漢字のみだが、現実にはまず無いであろうあでやかな姓と名である。字のみならず読み名の音も耳にさわやか、綺麗なのが特徴だ。命名にはすぐれて国語の作文能力が必要だろう。
我々でも知っている春日野八千代、越路吹雪、八千草薫、有馬稲子、月丘夢路、寿美花代、黒木瞳、松あきら、鳳蘭、水の江瀧子、安奈淳、天海祐希、太地真央、那智わたる、上月晃などはトップスターを引退して女優になって活躍した人が多い。それだけにあでやかさにもう一つ何かが加わり重みがでている。このうちいまでも劇団理事として専科に籍をおく春日野八千代だけは転進せずこの道一筋である。
それにしても現役もOGも皆華麗なとしか言いようのない芸名である。

こうしてみていると、どうも近年のあでやかな女の子の名前は宝塚に源流がありそうな気がしてくる。
ここで何でもありの芸名の話から、いきなり現実的な話になるが人の命名の根拠法規は戸籍法である。
 戸籍法 第4章 第2節「出生」 第49条
  出生の届出は、14日以内(国外で出生があつたときは、3箇月以内)にこれをしなければならない。
2 届書には、次の事項を記載しなければならない。
  1.子の男女の別及び嫡出子又は嫡出でない子の別
  2.出生の年月日時分及び場所
  3.父母の氏名及び本籍、父又は母が外国人であるときは、その氏名及び国籍
  4.その他法務省令で定める事項
 同第50条
  子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
 戸籍法施行規則 第3章 届出第60条 常用平易な文字の範囲
  戸籍法第50条第2項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
  1. 昭和56年内閣告示第1号常用漢字表に掲げる漢字(1945字)
  2. 別表第2に掲げる人名用漢字(285字)
  3. 片仮名又は仮名(変体仮名を除く。)

きまりはこれだけだから英数字、ローマ字、アスタリスクなどの記号は使えないが、「虫」でも「モンロー」でもつけることは可能である。また、長い名前もつけると不便だから現実には無いが理屈上は許される。しかも名前は法律的に文字だけが重要で音は問わないから、勝手に読み名をつけることができる。女の子はタカラジェンヌばりの命名となる原因である。尤もごく普通にある姓ではいくらあでやかな名をつけても、タカラジェンヌと同じようになる心配は無いが。
2011年生まれの子供の名前表記では女の子は「陽菜」ちゃんと「結愛」ちゃんがトップという。男の子は「大翔」くんと「蓮」くん。今年の名前の読み方では
男の子は「ハルト」くんが3年連続トップ!女の子は「ユイ」ちゃんが3年ぶりトップ
という新聞ニュースがあった。

美しくあれ、健康であれ、そして明るい希望に向かい、力強くはばたいてほしい、人との結びつきを大切にし、愛情に満ち溢れた子に育ってほしい」との親の願いは
いつの時代も変わりがない。
タカラジェンヌばりの近年の読ませ方は少々凝りすぎの感があるが、これも時代の流行のようなもので実際に害を及ぼすものでない限り、とやかく言う程のこともない。まして大震災のあと愛、結、希などの文字が多用されるのは自然なことであろう。

人気者にあやかるとか時流、時勢にのって命名するのいつの時代でもあった。
戦争にちなむ命名、皇紀2600年、大東亜共栄圏、八紘一宇などから命名したことを思えば平和そのものである。
また奇を衒った名前や長じて子供が困るような名前をつけて、改名騒ぎになる例もなかった訳でもないのでまだまだ可愛いほうであろう。


俳号と俳名(その1) [随想]

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俳号(はいごう)あるいは俳名(はいめい)とは、俳諧あるいは俳句を作る際に用いる雅号のことである。この雅号(がごう)とは、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のことである。

例えば、「漱石」は夏目漱石 の雅号である。本名は夏目金之助。俳号はよく知られるように愚陀仏。尤も「漱石」は俳号でもあり筆名でもある。
「鴎外」は森鴎外 の雅号である。本名は森 林太郎。「大観」は近代日本画壇の巨匠、横山大観の雅号。本名横山秀麿(よこやまひでまろ)。
「白石」は江戸時代の学者新井白石 の雅号であり、本名は新井勘解由君美。「松陰」も吉田松陰 の雅号、本名吉田寅次郎矩方。「海舟」は勝海舟 の雅号、本名は勝安房守義邦 、 勝安芳。幕末維新に活(暗?)躍した。
政治家も雅号を持つ。「南洲」は西郷隆盛 、「甲東」は大久保利通 、「松菊」は木戸孝允 、「東行」は高杉晋作 、「世外」は井上馨 、「木堂」は犬養毅 、「咢堂」は尾崎行雄の雅号である。それぞれの由来は、あるだろうが不勉強にして知らない。大勲位は雅号ではなかろうから、引退した人を含めて近年の政治家に雅号をもって呼ばれる人がいるのかどうか、これも知らない。

正岡 子規(まさおか しき)の本名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。のぼさんである。
雅号が「子規」。子規とは、ホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたことはよく知られている。「子規」は俳号でもある。また別号として、獺祭書屋主人、竹の里人、香雲、地風升、越智処之助(おち ところのすけ)なども用いたという。
子規の随筆「筆まかせ」の「雅号」の中で自分が54種類の号を用いていると書いているのには驚き呆れる。一体何のためにどう使い分けたのだろうか。そんなに沢山の自分の名前を覚えていられるものだろうか、と余計な心配もしたくなる。
加えて多くのペンネームが用いられている。有名な「野球」(のぼーる)もそのひとつである。
これもよく知られているが、別号のうち「獺祭書屋主人」の「獺」(だつ)とは川獺(かわうそ)のことである。かつて中国において、川獺は捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、それは人が祭祀を行い、天に供物を捧げるさまのようであると信じられていたという。それを詩歌改革をめざして書物を開く自らに重ねて雅号としたのである。

現在では、俳人の雅号を「俳号」という。
「俳名」という場合は歌舞伎役者が持つ「異名」を指すことが多い。江戸時代、歌舞伎役者には素養として俳諧をはじめとする風流の道をたしなむ者が多く、もともとはそのための号として俳号が生れたという。この文化的流行が歌舞伎役者に一般化するにつれて俳名に変化し、それが役者の愛称として、舞台に声を掛ける際などにも使われるようになったといわれる。
この俳名が現代の俳優名に発展したとのことであるが、俳諧やその発句たる「俳句」が歌舞伎、演劇のちに映画などの「俳優」と密接な関係があるのは何やら面白い。共通する「俳」という字は辞書を引くとなるほど「俳優」、「俳句」の二つの意味がある。
江戸時代も後期に入ると役者は、屋号、芸名のほかに、俳句を作る作らないに関わりなく必ず俳名を持つようになり、さらにはその俳名が独立してひとつの名跡となることもあった。
やや横道に逸れるが、名跡(みょうせき)とは、家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。または家名のことである。
名跡の襲名は歌舞伎や落語等の寄席演芸、家元制度を採る茶道、華道、舞踊など各種の芸能、芸道に多く見られる、日本独特の制度・慣習の一種である。
歌舞伎、能楽、狂言、人形浄瑠璃、邦楽、日本舞踊など日本の芸能のいずれの分野にも名跡襲名が存在し、このシステムがその文化継承にも寄与しているという側面もあると思われる。
歌舞伎の場合では、尾上菊五郎系統の梅幸、松緑、中村歌右衛門系統の芝翫、梅玉、片岡仁左衛門系統の我童、我当、芦燕などが「俳名由来」の名跡である。二代目市川猿之助が名乗った初代猿翁、八代目松本幸四郎が名乗った初代白鸚などはそれまで彼らが使っていた俳名を隠居名として名跡にしたものという。
現在では俳名由来の名跡を継いだ役者にもそれとは別に俳名がある。例えば七代目尾上梅幸の俳号は「扇舎」であったという。
ところで、現代の名優9代目松本幸四郎 (市川染五郎)は俳句を実際にものす。芝居に生きる様を詠んだものに佳句が多い。俳名 は錦升。江戸時代から脈々と続いてきた役者の俳句の遺伝子が佳什を詠ませるのだろうか。そうとすると江戸時代の文化というのは奥深く侮り難いものがある。

相撲の年寄株なども同じようなものだろう。年寄名跡(としよりみょうせき)とは、日本相撲協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名称であり、俗に年寄株、親方株とも呼ばれる。年寄名跡は、日本相撲協会の役員になったり、相撲部屋を作り弟子を養成するために必要な資格である。一代年寄を除く年寄名跡の定数は105家である。
春日野かすがの、時津風ときつかぜ、尾車おぐるま、九重ここのえ、武蔵川むさしがわ、宮城野みやぎの、錣山しころやま、花籠はなかご、伊勢ノ海いせのうみ、二所ノ関にしょのせき、立浪たつなみ、放駒はなれごま、間垣まがき、不知火しらぬい、荒磯あらいそ、二子山ふたごやま、友綱ともづな等々優雅な名前ばかりである。名跡はそのまま我々が力士の紹介で聞く部屋名であるが、前々から何と雅なネーミングだと感心していた。おそらく古歌やその歌枕などから命名しているのであろう。 タカラジェンヌも顔負け。
相撲茶屋、巡業問題などのほかこの親方株が相撲改革の目玉というのだから、中身を知らないが何やら厄介なシステムなのだろうと思料する。
なお、一代年寄というのがあるが、現役時代の功績が著しかった横綱が引退した際、日本相撲協会の理事会がその横綱一代に限って認める特別な年寄名跡で、名称には大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花など引退時の四股名がそのまま用いられる。

雅号の話から相撲部屋の名前にまで飛んでしまい長くなったのでこれは前篇として後篇の俳号の方に移ろう。











俳号と俳名(その2) [随想]

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俳号の話しとあれば、やはり俳聖芭蕉から始めなければなるまい。
松尾芭蕉の若い時の俳号は「宗坊」、のちに母方の桃地姓から「桃青」、深川に遁世して「芭蕉」(はせを)と号したことは有名である。芭蕉は弱い風にも破れるので「風羅坊」とも名乗った。弟子が深川の庵にバショウを植えたからという単純なことで無く、芭蕉は謡曲「芭蕉」に出てくる無常なる女の妖怪だということを承知でつけたとする説は面白い。(嵐山光三郎 「悪党芭蕉」 新潮文庫)
あまたの俳人の号はそれぞれのいわれや訳ありなのだろう。
蕉門十哲というのは、必ずしも定まっている訳ではないが、俳号を十哲にみれば、以下のとおりである。江戸時代の俳号の一例として挙げてみる。
宝井其角(たからい きかく)、服部嵐雪(はっとり らんせつ)、森川許六(もりかわ きょりく)、向井去来(むかい きょらい)、各務支考(かがみ しこう)、内藤丈草(ないとう じょうそう)、杉山杉風(すぎやま さんぷう)、立花北枝(たちばな ほくし)、志太野坡(しだ やば)、越智越人(おち えつじん)
十哲は杉風・北枝・野坡・越人の代わりに以下の4人を加える説などもある。
河合曾良(かわい そら)、広瀬惟然(ひろせ いねん)、服部土芳(はっとり とほう)、天野桃隣(あまの とうりん)。
彼らはそれぞれ藩士や医師、商人などでむろん本名を持つが、歌仙を巻く時、発句集を編む時などこれら俳号を名乗ったのである。

現代では俳号を持たないで本名で通す俳人もいるが、多くは句会で披講されるときに、選に入って自身の句が読み上げられると俳号を名乗るのである。

東京柳句会というのがある。プロの俳人でなく皆本業を持ちながら俳句大好き人間が集まり、句会を開き40年も続いているという。この人たちの俳号もそれぞれ訳ありだろうが由来を知らなくとも眺めているだけで面白い。むろん句も個性的で良句も多いが。
宗匠の入船亭扇橋の俳号は「光石」 落語家。永 六輔 が「六丁目」作家,放送タレント、大西信行は「獏十」 劇作家,演出家,脚本家である。小沢昭一は「変哲」俳優、桂 米朝は「八十八」落語家。加藤 武は「阿吽」 俳優、柳家小三治が「土茶」 落語家、矢野誠一 は「徳三郎」 作家,評論家。
アマチュアでも俳号を持つともなればむろん本格的である。俳優名、落語家名、ペンネーム、あるいは本名を頭に浮かべ、俳号を見て句を鑑賞するとにやりと微苦笑も生じるというものだ。
例えば「すみれなど咲かせやがって市役所め」変哲など。

我らの詩人高橋順子(ファンなのである)の俳号は泣魚。親友と連句で遊ぶ時の俳号と言うが、夫である車谷長吉氏と両吟歌仙を巻いて遊ぶ時にも使うのだろう。しみじみ生活であろう。羨ましい。
「芭蕉 の句、行く春や鳥啼き魚の目は泪からですか、とよく聞かれるが泣き虫だから、付けたまでのことである。魚も好きだし」とおっしゃる(「うたはめぐる」文藝春秋)。
「 春の風邪声を飾りてゐるやうな」
ついでながら 、泣魚さんが夫婦句会「駄木句会」を催すという、つれあいの車谷 長吉(くるまたに ちょうきつ)は作家で俳人。本名、車谷嘉彦(くるまたに よしひこ)。筆名の「長吉」は唐代の詩人李賀にちなむ。 
   「殉情の男ぬかづく春の土」  

次のこちらはプロの俳人の俳号。アトランダム。添えた句は代表句というより自分が好きな句。
「森澄雄 」 本名森澄夫。雄と夫の差はどいう感性の差か。妻蘢俳句は嫌いという人もいるが、嫌うのは変。孫俳句とは違う。
「 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」
「藤田湘子 」 本名藤田良久。
「天山の夕空も見ず鷹老いぬ」
「飯田 蛇笏」(いいだ だこつ ) 本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。4男「龍太」も俳人。笏は束帯着用のときに右手に持つ板。もとは備忘メモ用紙を貼るためのもの。蛇のメモ板とは。
「 をりとりてはらりとおもきすすきかな」
「中村 草田男」(なかむら くさたお) 本名・中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。自分を本名の「清い」の反対の男だと自嘲、卑下し付けた俳号と何かで読んだ気がする。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」
「松根 東洋城」(まつね とうようじょう)、本名は豊次郎で俳号はこれをもじった。
   嶋じまや湾の奥まで春の海  
「高浜 虚子」(たかはま きょし)、本名の高濱 清(たかはま きよし)からの俳号。
「初空や 大悪人虚子の 頭上に」
「河東碧梧桐」(かわひがし へきごとう)も本名秉五郎(へいごろう)から音韻連想つまり洒落。
「赤い椿白い椿と落ちにけり」

「鷹羽 狩行」(たかは しゅぎょう)、本名・高橋行雄。
「スケートの濡れ刃携へ人妻よ」
「坪内 稔典」(つぼうち としのり)、俳号では、「ねんてん」。本名をおんよみで別の字を当てるのは案外多い。
「 三月の甘納豆のうふふふふ」

俳人ではないが文人俳句作者の「芥川龍之介」(あくたがわ りゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。河童ではない。
「 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」
劇作家「久保田 万太郎」(くぼた まんたろう)の俳号は暮雨、傘雨。筆名は千野菊次郎。 
「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」
女流俳人では、「杉田久女」(すぎた ひさじょ)本名は杉田久(すぎた ひさ)。
「谺して山ほととぎすほしいまゝ」が特に名高い。
橋本 多佳子(はしもと たかこ)本名、多満(たま)。旧姓、山谷。
「乳母車夏の怒濤によこむきに」は好きな句だ。
「中村汀女」(なかむらていじょ)本名破魔子(はまこ)。台所俳句と言われたが、意に介さず。
「外(と)にも出よ触るるばかりに春の月」
「星野立子」(ほしのたつこ)高浜虚子の次女。
「ままごとの飯もおさいも土筆かな」
「三橋鷹女」(みつはしたかじょ)本名たか子。
「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」
この多佳子、汀女、立子、鷹女は4Tと称されたことで知られる。

さて、著名人の雅号、俳号などの面白い話から次元の低い自分の話に落ちるが、
自分もときどき「俳句もどき」「川柳もどき」を作って一人で遊ぶ。習ったこともないのでまともなものとはおよそ言えないが、その時は「杜 詩郎(と しろう)」というWeb名を使っている。俳号はもともとは句会で抜かれた時の名乗り名だそうだが、句会というものやったことがないので必要性も無いから実感にも乏しい。
全て一人遊び用でたわいの無い俳号も「もどき」である。このWeb名は、10年以上も前にHPを作った時まだ現役だったので本名を出すのを憚り、本名をもじってつけたもの。自分が好きな李甫の「杜」と「詩」の字がたまたま気に入っただけのことである。一人だけの本を作るバーチャル出版社名も「杜白書房(としろしょぼう)」。「李甫」という言葉はあるが「杜白」という言葉は無い。それが気に入っている。
俳号を作るときは何か自分が別人になるような気がするものだ。
この感覚は、雅号や俳号をつける動機のうち重要のものだという気がする。
自分の場合は、たぶん実は何も変わるわけではないのだが。誰にも変身願望があるのだろうか。本名以外にWeb名やハンドルネームを名乗るのはこの変身の気分を味合うことだが、その効用は奈辺にあるか知らぬ。ただ、変わったような気がするだけで何も変わらないような気もする。

雅号を持つほどの人はまた違うのかもしれないが。



新幹線の恋の物語 [随想]

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日本の鉄道は、明治5年(1872年)10月に新橋 - 横浜駅間で正式開業、当時の評判は大きかったという。これから始まる鉄道新時代への期待がそうさせたに違いない。
世界初の商用鉄道は、1825年 イギリスのストックトン・ダーリントン間を結ぶ鉄道だから日本は半世紀近く遅れた。1827年のアメリカ、1832年頃のフランス、1835年のドイツの鉄道開業に比べてもやはり相当遅れたスタートであったと言わざるを得ない。

しかも我が国の鉄道は草創期に主としてコスト面から狭軌道を採用したため、欧米の鉄道のような高速運転にはほど遠いものであった。最高速度は1910年代から1950年代までの長きにわたって時速100キロ以下であったという。

日本の高速鉄道新幹線の登場は1964年(昭和39年)である。周知のように10月1日、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業した。
開業当初の営業最高速度は時速200キロ(東京 - 新大阪間「ひかり」4時間、「こだま」5時間)。路盤の安定を待って翌年に210キロ運転(同「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間)を開始した。
10月1日の東京発の一番列車は定員987名のところ乗客は730名程であり、満席ではなかったという。最近のスカイツリーのような前評判とはおよそ違ったのである。人はこの時これから始まる変革を予測出来なかったに相違ない。

当初から新幹線が順調でなかったのは、自分の経験からもよく知っている。
1963年(昭和38年)に学校を卒業、その4月に就職した。最初の1年間は研修を兼ね本社勤務だが、新人同期生20余人はほとんど地方に出される。東京に戻るのは10年くらい後だ。聞いてくれる訳ではないが、一応赴任の希望地を出すことは出来る。札幌、福岡、静岡が人気だ。中でも東京から近い静岡は高競争率。訳ありで、駄目もとだったが、静岡を望み、その通りになった。運が強い。
昭和39年転勤したばかりの静岡市では、独身寮が無くわびしい下宿ぐらし。就職したばかりで金は無い。会うこととももままならぬ。彼女は東京の北千住である。芳紀まさに20歳。東京では石原裕次郎・牧村旬子の銀座の恋の物語(昭和36年)がしきりに街に流れていた。
♫ 東京で一つ 銀座で一つ
    若い二人が 始めて逢った
    真実(ほんと)の恋の 物語
在来線でたまに静岡に来てくれて会ったり、自分が東京へ出て行き会ったりしたが、静岡もこうなると結構遠い。しかも汽車に乗っている時間は長いが、会っている時間は極端に少ない。一計を案じて走り始めたばかりの新幹線こだまに乗り、中間の小田原駅で会うことにした。これなら多少会う時間が長く確保できる。 だから、二人にとっては新幹線こだま様々である。
しかし、新生高速鉄道はしょっちゅう故障で停まった。パンタグラフの不具合が多かったように記憶している。とは言え高速の恩恵で会う時間が長くなったのだから、我々にとっては新幹線の誕生ほどあり難いことはない。たいてい最終電車になったが、たまに二人で東京に帰る土曜日などは、停車もすこぶる結構である。
当時新幹線はまだまだ駄目だという声が多かったが、我々は一度も悪口を言ったことがない。小田原城趾でデートをし、一気呵成に1965年9月、目出度く明治記念館にてつつましく華燭の典を挙げた。以来、今年9月で47年になる。遥か遠い昔の物語である。

さて、その後の新幹線が我が国の経済社会に及ぼした影響の大きさについては、誰でもが認めるところだろう。東京 - 大阪間は、1958年(昭和33年)から在来線の特急で日帰り可能になっていたものの滞在時間がわずか2時間余りしか取れなかった。しかし新幹線の開通で日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、あらゆる面で著しい変化をもたらしたのである。
東海道新幹線においては当初の12両編成が、1970年(昭和45年)の大阪万博の開幕を機に16両編成まで拡大され、ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起し高速大量輸送機関としての確固たる地位を確立した。

さらにひかりは西へ、そして北へ、長野、北陸へ九州へと新幹線網が拡大した。スピードはもちろんのこと、何と言っても事故の少ないことが世界に誇りうる技術力である。なかでも地震をいち早く感知して止まる安全技術は称賛に値する。

紅顔の新人も1995年(平成7年)、サラリーマン 33 年生となり大阪勤務。東京に妻子を残しての単身赴任だ。原則毎週2回火曜日と金曜日に東京で定例の会議がある。火曜日は必要な場合を除き特例で欠席を認めてもらえたが、金曜日の方は外せない。飛行機はほとんど使わないので、いきおい新幹線のやっかいになる。「木帰日来」である。週一回としても2年間だから100回以上乗車したことになる。乗っていた時間と走った距離はいかほどか。気が遠くなる延べ時間、距離になるだろう。
この時もまた新幹線様々である。

この勤務中、JR西日本と仕事でお付き合いがあり1996年だったと思うが、300系に試乗させて貰った経験がある。車内放送がいま300キロを超えましたと言うのをぼんやり記憶している。今考えるとJR東日本とJR西日本のスピード競争の一環だったのであろう。

1996年JR東海300X系が出した、時速443キロが非浮上式鉄道の国内最高記録で、世界第三位である。( 一位はフランスTGVの高速試験車V150編成が記録した574.8キロ。ちなみに走行試験も含めた鉄道における最高速度の世界一は、日本の浮上式鉄道MLX01が山梨リニア実験線で記録した時速581キロとのこと。)
JR東海の時速443キロは今でも破られていない記録であるが、先日2012年3月16 日300系がついに引退したことが報じられた。技術の進歩は凄まじいものがあると、最近のN700系などのロングノーズの車輌の写真を見るたびに思う。

世界の高速鉄道では、フランスのTGV・LGV大西洋線が1989年 開業。営業速度は時速300キロという。仕事でフランスに行った時、これに乗ったことがあるが、そんなに速い感じがしなかった。
また2004年 に 韓国で開業した韓国高速鉄道 (KTX) も300キロ。これは観光で妻子ともども釜山からソウルまで乗ったが、同じく時速300キロという感じはしなかった。やはり新幹線身びいきからくる感覚か。

日本の新幹線の営業速度は今でも270キロである。443キロからみれば余裕である。JR東海は2011年後半にも東海道新幹線の一部区間で、営業時の最高速度を270キロから330キロに引き上げることを検討しているというが、なに急ぐこともない。
恋をしていた時、あんなにもっと速くと願ったくせに加齢の成せるわざか、今では一方で何をそんなに急ぐのか、もうこの辺でいいのではないかとも思う。人間勝手なものである。この年になるとリニアの実現化はそう望まぬ。急ぐ人は航空機にすれば良い。

新幹線も間もなく開業半世紀になろうとしているから、多くの人が新幹線のいろいろな思い出を持っていると推察する。自分のささやかな恋の経験など比較にならない、ドラマチックな新幹線にまつわる恋物語を持っている人もきっといるに違いない。新幹線は、社会経済変革に寄与しただけでなく、運んだ何億という乗客の一人一人に人生の思い出を与えてくれて、それを豊かにもしてくれたと思う。恋はたぶんそのひとつに過ぎぬ。















流政之の世界 たまちゃん、雲の砦、コイコリン [随想]


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毎週一回金曜日に通っているAカルチャー教室は、住友三角ビルの4階にある。
このビルは1974年(昭和49年)3月建てられ、新宿西口新都心の高層ビルの中でも草分的存在である。日本の高層ビルでは初めて200m(210.3m)の高さを越えたビルとして建築業界では良く知られている。
ビルが竣工したとき、片隅に"Samurai Artist"の異名を持ち世界的に活躍する彫刻家、作庭家である流 政之氏(ながれ まさゆき、1923生まれ)の「たまちゃん」という黒い石の彫刻が一緒に披露されたことはあまり知られていないが、今でも人気があることは、時折り立ち止まって見ている人がにこにこ顔をしていることで分かる。
台座に次の文章が刻まれている。

  ひとにいのちあれば ねこにもいのちあり
  江戸の里をひらきし太田道灌
  この地の北でいくさに敗れ
  あわやいのちを失わん時
  一匹のねこあらわれにげ道をあんない
  いのちをとりとめ江戸を開いた
  なれどこのかくれた江戸の恩猫も
  ねこなるゆえに名ものこらぬはふびん
  江戸のいゝたま玉ちゃんと名づけ
  のちのちまでの江戸のまもりとす
             つくりびと  流 政之
ねこの生まれ 文明狂年

太田道灌を助けた猫とあるが、流氏一流のジョークか。「ひとにいのちあれば ねこにもいのちあり」というのが何とも言えずよろしい。
たまたまそばに都庁があるが、この猫は道灌ゆかりでしかも江戸のまもりとあればそこにあった方が似つかわしい。都庁にも巨大な赤い動くオブジェやイサムノグチの彫刻などが幾つもあるけれども、太田道灌の像も江戸にゆかりの像もない。全て調べたわけではないので、あるいは何処かにあるのかも知れないが。

昔有楽町の都庁にあった鷹狩り姿の太田道灌像は、今は東京国際フォーラムの中にある。

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この像は、開都500年を記念して造られたもので朝倉文夫作(昭和31年10月)。旧東京都庁第一庁舎前にあったが、都庁が平成3年に新宿新都心へ移転したとき何故か一緒に移らず、跡地に平成9年に建てられた東京国際フォーラムの中に移設されたのである。江戸城の近くに居たいとゴネた訳ではないだろうが。 大田道灌は1457年に江戸城を築城した江戸の開祖・父とも言える人物。その後、徳川家康が江戸(東京)に幕府を開いたのはおよそ150年後の1603年である。 

三角ビルには、この他彫刻、オブジェは6、7個はある。忘れるところだったが、たまちゃんのそばに同じ流政之の「恋弁天」という彫刻も建っている。こちらの由来は、同じく台座につぎのように刻されている。

恋はみづもの 水あれば
心は狂い 花が咲く
その昔よりこの地は
沼や池水ゆたかなる里
水をもとめてひと あつまり
さかえしという
いらい弁天をおき 水をまつる
ゆえに 新宿の弁天たちは
恋には 水をささぬとの 伝え
つくりびと 流 政之
うまれどし 一九七五年
 その後、いつの頃からか当地を訪れる人々の間で恋弁天に祈ると恋が叶うと囁かれはじめたとして、平成8年5月縁結び神様として知られる出雲大社より縁結びの霊験を授かるべく修祓式が執り行われた。新宿住友ビルもなかなか味なことをしたものである。
 恋弁天の像は雨ざらしのたまちゃんと違って煉瓦の天蓋の中にあるが、像はまことにユニークで艶かしい。何やら良縁と幸福の御利益がありそうな雰囲気がある。

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流 政之氏は長崎県生まれ、海軍飛行予備学生の零戦搭乗者で終戦を迎え、彫刻は独学と言う。
1975年には、ニューヨーク世界貿易センター(WTC)のシンボルとして広場に約250トンの巨大彫刻「雲の砦」をつくり国際的評価を得たことで知られる。
この「雲の砦」は黒い御影石の三角錐がふたつひねられて連結されており、その両端が少し浮き上がっている。折れたプロペラにも見えるが、流は「浮上三角形」と呼んだという。
私はこれは彼のカモフラージュでは、なかったのではないかと疑っている。エノラゲイに到底飛行高度において届かなかった零戦の墜落機のプロペラか、はたまた殲滅されたアメリカ原住民インディアンの雲と消えた砦かだったのではと妄想が沸いて出てくる。建築家の脳裡にそれらがよぎらなかったと誰が断言出来よう。してみれば4半世紀にも亘り広場でニューヨークっ子に親しまれ愛されたのは何だったのだろうか。当時は世界最大の石による現代彫刻と呼ばれた。20のパーツに分かれる黒御影石が、緻密な構造計算によって連結されていたという。
2001年9月11日、ペンタゴンなどと同時に、雲の間から現れた数機の旅客機がWTCに突っ込む。広場にあった「雲の砦」までが忌まわしいテロに巻き込まれたのは、何を意味するのか、何とも皮肉としか言いようがなく傷ましい。

この作品は、このテロでも破壊されずに残ったが、人命救助のためその後取り壊された。「雲の砦」を二分の一に縮小したその名も「雲の砦Jr.」が北海道立近代美術館にあるという。

流氏は、放浪の作家とも言われ、香川県や北海道など全国各地にそこの風景に溶け込んだ作品を沢山作っている。
流氏の作品はどれも形からしてユーモラスで、それぞれにユニークな名前が付けられ、あたかも人と同様に人格が備わっているような親しみを感じさせるのが特徴である。
例えば「波しぐれ三度笠」、1989年 鳥取県赤碕町菊港。(「ながれもん三度笠」1993年 モービル石油本社(ヴァージニア州)というのもあるとか。)
大手町に勤めていた頃によく見た丸の内仲通り東京海上パブリックアート「波神楽」(1974年)など。
石の素材感も残しつつも鋭利な直線が魅力的だが、一方丸み持った輝く面もあり、つい手を出して撫でたくなる誘惑に捉われるような作品も多い。東京三菱UFJ銀行「さわり大黒」(1973年)など。

古いのでは、猫好きにはたまらぬ愛らしさの銀座4丁目のコイコリン。恋の招き猫、縁結びスポットとして有名。1963年(昭和38年)、株式会社三愛が三愛ドリームセンターの建設時に銀座の名所になるように設置して多くの人に親しまれている。
コイコリンという名称は何なのか知らない。銀座だから恋のコイだろうか。
当時巷には裕次郎の銀座の恋の物語、フランク永井有楽町で逢いましょうが流れていたけれど直接関係あるまい。
コリンは動植物の組織、例えば脳などにある塩基性の物質で脂肪代謝の調節などに作用するものというが彫刻家は知っていたと思えない。単純に造語であろう。
それにしても、コイコリンとは、わけが分からないところがうまいネーミングである。
猫は番いでそれぞれ「コイコリン ごろべえ」(オス)、「コイコリン のんき」(メス)という名前が付いている。ごろべえ、のんきの名も由来を詮索するのは野暮というもの。男性は「のんき」を女性は「ごろべえ」を撫でると願いが叶うとか。いや逆だったか。撫でたい人はちゃんと調べてからいった方が良い。

流政之氏は1923年2月生まれというから今年89歳になる。そのバイタリティは、なまなかなものではない。いったいそれがどこから生ずるものかを、知りたいものだ。



lOVE [随想]

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毎週金曜日通っている新宿新都心の一角にある住友三角ビルの4階からは、新宿ヒルトンホテル側に新宿アイランドタワー(Shinjuku i-Land Tower 、44階・189m)が見える。絵を描いていて疲れてぼんやり外を眺めると、自然に目に入ってくる景色だ。
このビルは、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)が施行した市街地再開発事業により平成7年、に完成した高層ビルである。住友三角などは新都心草創期で昭和49年前後だが、新都庁ビル(1990年12月)とともにバブル期、あるいはそれ以降のビルのひとつである。

新宿副都心はモード学園ビルなど高層ビルが立ち続け今なお進化(?)している。

この新宿アイランドタワーを中心に、職住一体型のコンドミニアムや店舗などが複合した区域を形成しており、全体では「新宿アイランド(Shinjuku i-Land)」と呼ばれる。新宿アイランドは、オフィス、店舗をはじめ、住居、専門学校、広場などの都市機能をあわせ持った、「人にやさしいニューインテリジェント都市」を標榜して東京・西新宿の超高層ビル街の一角にある。
敷地内には、「人間の愛と未来」をテーマに、前庭・周囲の庭に人工池を含め数々のパブリックアートが配置されて空間と響き合い、強烈な個性を主張している。

このパブリックアート中で、最もポピュラーで人気があるのがロバート・インディアナ作の「LOVE」のオブジェであろう。ビジネス街でもあるので朝夕ラッシュ時の通勤客も多いが、ヒルトンやセンチュリーハイヤットなどホテルもある界隈なので観光客がしきりに記念写真を撮ったりしている。
若いカップルが目立つのは、Vの文字とEの文字の間を、体が触れないように通過できたら恋が実るとか、相手のことをひたすらに思いながらその間をくぐり抜けると必ず結ばれ、また2人で手をつないでくぐれば、結婚できると言われていて「恋のスポット」として人気抜群なのである。
またオブジェの前で、「理想の結婚」や「天国に一番近い男」、「ナオミ」、「電車男」など数多くのテレビドラマのロケが行われたことも人気の背景になっていると聞くが、そのドラマはひとつもを見たことがないので偉そうなことは言えない。

作者のロバートインディアナ(Robert Indiana, 1928年生まれ )はポップアートの作家のひとりであり彫刻作品などで名高い。アメリカ合衆国の現代美術家・舞台美術家・コスチュームデザイナーである。
彼の作品でもっとも知られたものが、「EAT」「HUG」そして「LOVE」など人間の生の基本的な行為の単語をもちいたものである。
特に「LOVE」の文字を使った作品は絵画や版画、彫刻などの形で、様々な色の組み合わせを使って繰り返し制作され、世界各地の街角にパブリックアートとして設置されている。新宿アイランドにあるのはそのひとつである。
正方形の中に四つの文字が納められ「O」の字が右へ傾いている。このデザインは絵画や版画、彫刻と様々に活用されているがすべて同じ比率・同じ字体のデザインになっているという。

新宿にあるLOVEのオブジェはほぼニューヨークのあるものと同じである。
スペイン語・ヘブライ語などに訳された「LOVE」の彫刻も制作しているというから、グローバルに親しまれている芸術作品と言えよう。

なお、ポップアート (Pop art ポップ・アート)とは、現代美術の芸術運動のひとつで、大量生産・大量消費社会をテーマとして表現する。雑誌や広告、漫画、報道写真などを素材として扱う。1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響の下に誕生したが、1960年代にアメリカ合衆国でロイ・リキテンスタイン(1923-1997)とアンディ・ウォーホル(1928-1987)などのスター作家が現れ全盛期を迎え世界的に影響を与えた。

現代美術というと何か難しい感じがし、2006年某東京都知事が現代美術を「無そのもの」「笑止千万」と発言して仏紙がポピュリスト、国家主義者と批判して話題になったことがあるのを思い起こしてしまう。尤もフランス人は2004年彼がフランス語を「国語として失格」と言ったことの方にカチンときた感じがあるが。何かと物議を醸し出す某知事ではある。

なんと 現代美術の巨匠ロイ・リキテンスタインのオブジェが、この新宿アイランドのパブリックアートのひとつとして存在することを最近知って吃驚した。長くなるので別の機会に書いてみようと思っている。

リキテンスタイン [随想]


愛車ファンカーゴで新宿へ買い物に行くときは、たいてい中杉通りから南阿佐ヶ谷に出て青梅街道を走る。中野坂上を過ぎ新宿エリアに入るとすぐに右折する。地下駐車場のある京王百貨店までおよそ3、40分ほど。
10年以上も走っているがいつ頃からか新宿に行く時は右側に、帰りは左側に異様な物が道路際に立っているのが気になって仕方がなかった。なんだろう変なものだな、と思いながら人に尋ねることもなく長い時間が過ぎて行った。

これがかの現代アートの巨匠「ロイ・リキテンスタイン」の作品であるオブジェと知ったのはつい最近のことである。
 新宿アイランドタワー付近の地域にある10個の大型パブリックアートは、このビルを中核として周辺一帯を「新宿アイランド」として再開発した住宅・都市再整備公団が設置したものであるという。
このパブリックアートのなかでは、ロバート・インディアナの赤いオブジ「LOVE」が一番ポピュラーで有名であるが、少し離れた青梅街道側にリキテンスタインの彫刻・オブジェがある。

ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein 1923年10月- 1997年9月)はアンディ・ウォーホルらとともにポップ・アートの代表的なアメリカ合衆国の画家である。
新聞連載の通俗な漫画のコマを、印刷インクのドットまで含めてキャンバスに拡大して描いた作品を多く描き残したことで有名だ。漫画の持つ単純だが強烈な線、単純化された色彩などの表現力を油彩で表現している。

わが国では東京都現代美術館の「ヘア・リボンの少女」購入問題 で一躍脚光を浴びたことで知っている人も多いだろう。
東京都現代美術館は1995年3月開館した。開館前、収蔵品としてロイ・リキテンスタインの代表的作品である油彩画「ヘア・リボンの少女」を618万ドル、約6億円で購入する。このことに対し「漫画みたい」という声が新聞で報道されて、「漫画のような絵を税金で買うとはどういうことか、6億円も出して!」と自治体による現代美術作品の購入を巡って同作品が世間の話題になった。これが「ヘア・リボンの少女」購入問題である。
この問題は、肝心の美術的な価値や芸術の専門的論議を差し置いて発言する先生方の現代美術に対する的外れな批判が云々されたり、自治体の美術館が美術市場の相場より高い値段で作品を買ってしまったかも知れぬ購入経緯の不透明さなども指摘された。

しかし、この問題自体に興味があるわけではない。現代美術とは、ポップアートとは何かという方に関心がある。ポップアートとは現代美術の芸術運動のひとつで、大量生産・大量消費社会をテーマとして表現するもの。雑誌や広告、漫画、報道写真などを素材として扱うものと美術の本にあるが、これがなかなか厄介である。

ポップアートの代表的画家であるリキテンスタインは1965年にコミック漫画の登場人物の絵を巨大なキャンバスに油絵で描いた。
その秘密はドットにあるという。当時の典型的なアメリカン・ビューティの少女の生き生きした肌つやをだすために、漫画の絵はドットつきで印刷されたが、リキテンシュタインはそのドットを忠実に油絵で再現したのである。油絵のつや感がある丸いドットを規則正しく描くことによって、子供にもわかる漫画を「絵画芸術」に仕立て上げたといえよう。
リキテンスタインの「ヘアリボンの少女」(1965 年)を東京現代美術館が大金を出して買ったのは、およそ30年後の1995年のことになる。

リキテンシュタインは何故漫画に惹かれたのか、リキテンスタインは、「漫画の記号性」を題材にしたという。漫画の記号性とは何か良く分からないが、このことについて彼は次のように語る。
「それは何かの絵のように見えるのでなく、物そのもののように見えるのです」 ( Roy Lichtenstein,Janis Hendrickson, 1995, Benedikt Taschen)。
リキテンスタインが漫画の記号性をとり出し強調することに成功したのは、漫画の印刷に使われるドット(網点)をそっくりに画面に描き込んだことによるとされる。彼の漫画絵画は、ドットの描写によって、印刷された紙面をそのまま拡大したような無機的で機械的な「物そのもののように見える」記号の側面を強調することに成功したとされる。

彼の漫画絵画を一目見たウォーホルは、自分はなぜこの「記号性」が思いつけなかったのだろうと嘆いたというから時代の背景も影響しているのだろうか。すぐに、ロイがこんなに上手に漫画をやっているのだから、自分はきれいさっぱり漫画をやめて、自分が一番乗りになれる他の方向 に進もうと決めたという。他の方向とは結果的に「量と反復」になったとされる。これで彼もまた漫画を題材として使おうとしていたことが分かるというものだ。
記号性を強調するリキテンスタインの漫画絵画は、このように同時代のウォーホルをはじめとする他の現代美術作家の主題の選び方と制作の方法に大きな転機を与えることにもなった。



リキテンスタインと並びポップアートの旗手とされるアンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月 - 1987年2月)はリキテンスタインより5歳年下であるけれど、いわば同世代のアメリカの画家・版画家・芸術家である。
彼の作品は、上記のとおり「量と反復」がテーマとされるが、缶詰ラベルや日常生活で使う道具、著名人のリキテンスタイン肖像写真をもとに作成され、代表作は「マリリンモンロー」などである。「毛沢東」などとともに誰でも一度は見たことがあり、ああ、あれかというくらい知られている。リキテンスタインの記号性と同様「量と反復」についても、自分には良く理解出来るとは残念ながら言い難い。

素人には、彼等のテーマの難解さより他人の漫画や写真から作り出す芸術の模倣性の方が気になる。著作権は?パロディとの違いは?といった低レベルな話である。
現代美術を語る資格は無いのであろう。かといって某都知事のようにそれが「無そのもの」、「笑止千万」とも思えないのだが。

これは前にも引用したことであるが、司馬遼太郎は「水彩画や地誌画は英国美術の伝統でもあるが、ぎらつかないもの静かさが、英国人の好みにあうのにちがいない。主題や手法は古いが、それだからこそ安定していて、部屋にいる気分まで落ちつく。それらまでふくめて、英国のくらしの"趣味のよさ"といえそうである。」と街道をゆく愛蘭土紀行で言っている。その水彩画を八年近く稽古をしているやつがれにとっては、現代美術はとても手に負える代物ではなさそうである。もっともっと勉強する必要がある。

閑話休題、リキテンスタインはかくの如く絵画も難解だが、新宿アイランドに立つ彫刻・オブジェもそれ以上に難しい。異様なかたちとしか形容しようが無い。
公共施設にあるにしては「芸術性」が高過ぎるようにも思うが、不思議なことに誰も異を唱える者はなく長い間に自然に受け容れられている。自分がそうであったようにである。
多くの野外オブジェというものは大抵そんなものなのであろうか。











サンケイビルの赤いオブジェ [随想]

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東京に限らず全国至るところにパブリックアート、モニュメントはある。抽象的な芸術品、その地になにがしか縁のある具体的な彫刻、像などさまざまである。野外芸術を楽しむもの、何らかの顕彰、祈願、慰霊、鎮魂、オマージュ等を目的とするものなどモニュメントを造る動機もまた種々、さまざまだ。最近漫画の主人公などが町おこしの目的で立てられるの似たようなものだろう。歴史的には宗教や権力者によって、あるいは逆に市民運動の募金で出来たものなど多彩でもある。
人の行動範囲には限りがあるから、それらに接する数にもむろん限りがあるが、人はみなそれぞれに自分と親しいあるいは懐かしいかかわりを持っているパブリックアート、オブジェがモニュメントがある。

かつて通勤した大手町の職場近くのサンケイビル前の広場にある赤いオブジェは、自分にとって思い入れの強いものである。
1971年(昭和46年)、静岡に続く2度目の転勤先新潟から東京に戻り1996年(平成6年)、有楽町の新ビルに移転するまでの 25年間、このサンケイビルと日経ビルの間にある7階建てのビルがわが職場であった。そばに経団連、新大手町ビルなどがあり、前は逓信博物館であった。
もっとも、この間大分(2年間)、福岡(1年間)に転勤していた3年間を除くと正確には22年間になるが、それにしても長い時間だ。
2001年(平成11年)、移転した有楽町の新ビルで退職を迎え、その後茅場町の第二の職場を辞めたあと2003年(平成15年)、奇しくもまた同じ大手町の旧ビルがサラリーマン最後の職場になり、週に2回ほど通うようになった。
お隣の古いサンケイビルは装いも新たに建て替えられており、その名も「メトロスクエア」と呼ばれ、屋外のイベントスペース、飲食物販ゾーン、ホール貸し会議室を併設した都市型コミュニティスペースを提供する施設となっていた。広場の一角にこの赤いモニュメントがつくられていたのである。

高田馬場から東西線大手町駅で下車、このオブジェの前を歩いてビルの室に行く。
この2年間は長かった己のサラリーマン生活を振り返る時間ともなった。その思いと赤いモニュメントは重なっている。

モニュメントはアレクサンダー・リーバーマン(ロシアーアメリカ1912-1999)の
「イリアッド・ジャパン」1987年作 と台座に記されている。
台座の説明では、イリアッドとはトロイ戦争をうたった古代ギリシャの叙事詩(ホメロス作といわれる)という。造形が標題とどういう関連になるのかは、読んでもわが貧弱な頭では理解することが出来ない。
赤は作者の故郷ロシアを象徴するという人もいるが、どんなものか。

「イリアッド・ジャパン」は、以前から美ヶ原高原美術館で野外展示されている。総重量36tにも及ぶ鋼鉄の巨大彫刻である。直径2mを超す円筒とそれを切断した28個のパーツが縦横斜めに組み合わされて独特の雰囲気を醸しだしている。その大きさと赤色はたくさんある野外展示の彫刻のなかでも、ひときわ目立ち同美術館の目玉のひとつ。
昔この美術館を家族と訪れているので、その時に見ているはずだが残念ながら記憶に殘っていなかった。
サンケイビルのそれは高さ14mで美ケ原のは、5階だてビルの高さというのだから、同じものでなくそれを模して作られた別のものであろう。

さて、パブリックアートで気になることが二つある。
ひとつは、レベルの低い話になるけれど、公共性が高いこの種のモニュメントは巨額な設置と維持の費用がかかると思うが、その資金は誰が負担するのかということ。
サンケイビルのメトロスクウェアの例でいえば、営利を目的とする民間企業が事業主体である。余計な心配と言われそうだが全体の中での経済的計算はどう成り立つのだろうかと気になる。

規模の大きいビルの建設などでは、敷地内に一般に公開されたオープンスペースを作ることで容積率の割り増しや高さ制限の緩和が受けられるという公開空地(こうかいくうち)という制度があるそうだ。
公開空地(こうかいくうち)とは、オープンスペースの一種であり、建築基準法の総合設計制度で、開発プロジェクトの対象敷地に設けられた空地のうち、一般に開放され自由に通行または利用できる区域をいうとのこと。パブリックアートなどはここに設置されることが多い。

1970年以降、新宿副都心の都市開発にともない、超高層ビルが建設計画がなされ、高層ピルなどの高容積建築物の入ロ周辺は、出勤時に生じるピーク通行量人口の過密を処理するにたる緩衝空間としてのオ一プンスベースが必要であることから、ビルの足もとに行政指導による公開空地が生みだされ、空間としての憩いを演出していった。かの都市整備再生機構の「新宿アイランド」はこれであろうと思う。

前述したが、1996年(平成6年)に勤め先が有楽町のビルを建て替えたとき、古いビルが歴史的建造物であった。コスト高にはなるがその一部壁面などを保全してその代わりに割増容積率を得たことを思い出した。あれも似たようなものであったろう。

されば、サンケイビルもこの公開空地のマジック?適用によって資金の一部を捻出したと容易に推察できる。容積率移転というのもあるらしい。

もうひとつ気になることがある。時節柄地震対策である。モニュメントなどもみんなに親しまれて、手に触れることが出来るほど近くで見ることができることが理想だが、巨大なものである。不測の事態にどう備えるのか。自治体の管理から外れたりしてしないかと気になる。パブリックアートでなくとも全ての建物も同じ危険性を持つのだ、と言われればそれまでではあるが。

パブリックアートというのは考えて見れば不思議な存在である。なぜ作られるかと言えば見る人が楽しめるようにということであろう。美術館に行かなければ見られない芸術品、というより大きすぎて美術館には収蔵出来ないものが多いのも頷けるというものだ。しかし、楽しむといっても、見る者がその選定に関与することはない。美術館なら見たいものを選んで見ることができるが、こちらは一方的に日常生活の中で与えられるだけである。
設置されるのは公共施設が多いから否応なしに接することになる。うん、なんだあれは?と気になることはある。しかし見たくなければ、見なければ良い。実際興味がなければ見ない。見ないものはその人にとって無いと同じだ。人は関心があるものだけ見ているとはよく言ったものである。

我が経験によれば、無知、不勉強を棚にあげて何だと言われそうだが、たいてい誰の作品かその芸術的価値も知らぬものが多いような気がする。人に聞いたりして初めてそれを知ったりする。
それでいてパブリックアートが、あそこにあるなと何時の間にか受け容れてしまっていたりもする。変なものだなとしみじみと思う。

うまいものにはわけがある [随想]

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大阪に赴任したとき、関西の美味しいものはと聞くと、沼島(ぬしま)のはも、長岡京のたけのこ、琵琶湖の焼きもろこ、丹波のいのしし、間人(たいざ)のかに、大阪泉南の水ナスと教えてくれた人がいた。
また、琵琶湖の源五郎鮒のなれ鮨、鴫なべ、兵庫の魚棚の穴子、京都のすっぽん鍋などを推すひともいた。 別の人はてっちり、くじら鍋が一番という。美味しいものは無限にあるが、こればかりは好き好きであり、推すものが人によって違うのはあたり前である。
料理が美味しいわけは沢山ある。また美味しく食べる条件もたくさんある。健康で空腹感があること、食材が新鮮であること、料理が上手なことなどはむろん欠かせないが、食べる雰囲気や食べるものに楽しい情報が付いていることも大切である。人が美味しいと言ったとか、稀少なものであるとかが舌に微妙な影響を与える。
関西の美味しいものというのは、なるほどその通りだったような気がするが、なにせ昔のことでどんな美味しさだったか残念ながら、味の記憶も茫漠としたものになっている。
沼島のはもは、鋭い歯が光り、内臓の刺身が七色に輝いていたこと、長岡京の筍ステーキの分厚さ、焼きもろこの焦げ目、猪の肉の朱色、松葉蟹のみそのにぶい色と鮮やかな赤い殻、水ナスの薄い青紫など視覚的な記憶の方が、味覚の記憶より強く残っているのは何故なのだろうか。
つらつら思うに、誰もが美味しいというものには必ず「美味しいわけ」がある筈だ。それが分かればいつも美味しいものにありつけることになる。
上記の美味しいのは湖や土中の微生物、深海に生息するプランクトンなどを体内に取り入れたものばかりである。人間もそこに含まれている何かミネラルなどを必要とするから美味しいと感じ 、それを欲するように身体が出来ているのだろうか。
関連して思い出すのはブルゴーニュでテイスティングの真似事をさせて貰った時に、現地の人から聞いたワインの葡萄の木の話である。ぶどうの木は長い時間をかけて地の底の石灰岩か何かの層に辿り着き、その養分を吸い上げ葡萄の実に送る。それが美味いワインの出来る理由だと聞いた。シャブリなどの芳醇で独特なカルシウムを思わせる風味を味合うと納得感がある。だから長い根を持った古木の葡萄からしか、良いワインは出来ないという。しかも地層は複雑だからワインは地域、村(ヴィラージュ)、畑(クリュ)毎に味が異なるのだという。

さて、河豚に代表されるが、美味しいものは残念ながら欠点は値段の高いことである。大阪のみなさんが教えてくれたものは、皆高価である。とくに、あまり知らないが、料亭などで名のある処、いくつか聞いて耳に残っているのでは蟹の和久伝、鮒寿司の想古亭、筍の錦水亭、鼈の大市など、で食べようとすれば財布が悲鳴をあげる。このうち食べたい時に買って、旬であればだが、気軽に食べられるのは、まあ水ナスくらいだろう。

リーゾナブルな値段、つまり料理に場所代、雰囲気代など必要以上のコストがかからないものと同義だが、安くて美味しいものがあれば何より素晴らしいことである。
関西では、まずきつねうどん、お好み焼き、なかでも十三のネギ焼き、たこやき、鶴橋の焼肉、平野の押し寿司などたくさんある。繰り返して食べてもいつも美味しいというのが何よりである。安いというのが味のスパイスになっているのは貧乏性でもある。

大阪や京都にかぎらず、世に料理の達人というのがいる。経験と工夫、探究心などに驚かされるが、何よりその感性は天与のものであろう。味覚のみならず、色彩感覚にも優れ、とくに食材の付け合わせにおいてその感性はいかんなく発揮され食べる人を驚かす。
高価で新鮮かつ良い食材を使えば、素人でもそれなりの美味しい料理は出来る。しかし、ありふれた食材で美味い料理を作る時に、鉄人達はその力を発揮するのだ。
いつも思うのだが、彼らの技術と感性を科学的に解析しマニュアル化したレシピが出来れば、家庭料理は一段とレベルが向上するだろう。

料理が美味いのにはかくの如くそれぞれわけがある。美味いわけは、勿論これだけではない。他にもたくさんあってきりがないほどだが、思いつくままいくつかあげてみたい。

まず料理で大事なのは、周知のようにだしである。昆布、かつお、あご、いりこなどプロも伝統的家庭料理も、これが秘伝になったりするくらいだ。それに劣らずに重要なのはスパイス。唐辛子、にんにく、胡椒、丁字、香草など古から工夫されうまい料理にふんだんに使われてきた。料理の過程で使う多様な調味料、食べる時に使う調味料もたくさんあってこれがうまい料理の理由であることも多い。

スペインのイベリコ豚ハムのように風土と人の努力の積み重ねが美味しい食材を作る。作物は肥料や農家のたゆまぬ努力による土作りが一番と良く言われる。土が美味しい野菜、果物を育てることは間違いない。

食材でいえば、流通、保管過程での品質管理の進歩がうまい料理に役立っていることは明白である。近年の冷凍技術、輸送技術は革新的であり、日進月歩である。一般人の我々でも秋刀魚の刺し身や活きた烏賊を堪能出来るようになった例を見れば良く分かるというものである。

食材の品種改良は、地味な時間のかかる仕事であるが多くの人のたゆまぬ努力によって続けられている。とくに毎日食べる主食の米、小麦などは、果物や野菜などの華やかさはないにしても着実に進んでいる。米のコシヒカリ、小麦でいえばスターキングなどを挙げるまでもなかろう。

美味いものに発酵技術の進歩は見落とせない。先人の知恵は納豆、漬物、寿司、酒、味醂、酢、味噌、醤油など上手いものを作りだした。すべて微生物を活用した発酵食品であるが、バイオ技術と相まってまだまだ開発、進化するだろう。

料理を引き立てる酒も忘れるわけにはいかないだろう。料理とワインの相性を持ち出すまでもない。

家人は美味しい料理は熱いこと、ぬるいのは絶対ダメという。器を含めてであると。確かに単純なことながら熱いものは熱く、冷たいものは冷たく食べるのが一番であろう。

ところで、子供の頃に食べたものが一番美味しいと感じるとはよく聞く話だ。結局のところおふくろの味であり、家庭の妻の味が一番ということにもなる。きっとそうであろうが、これまであげた美味いもののわけとはどういう関係になるのであろうか。また、歳をとると飛び上がるほど美味しいものなど、そんなに欲しいこともなくなり、鰯の干物やお新香など質素ながら淡白なものを好むようになるのは、そもどういうことなのか。味覚というものまだまだ分からないことも沢山ある。

科学の進歩は、美味しいものからその旨味み成分を抽出し、さらにその合成が可能になっているものもある。また、人が美味しいと感じた時に脳のなかでどんなことが起きているかも究明されるだろう。これらはいずれ、「美味いもののわけ」をもっと明らかにするに違いない。
それにしても美味いものとは実に複雑、奥深いものであるとしみじみ思うとともに、個体維持のためにある人間の食欲の不可思議さを思う。




清亮寺 内田銀蔵博士のことなど [随想]

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ちかこ(近子)おばぁちゃん、子供達にとって祖母、家人にとっての「ママさん」、自分にとっては義母(はは)となる、が平成12年に亡くなり今年早くも13回忌になる。
明るく賑やかなおばぁちゃんであった。孫たちをはじめとして皆んなに好かれた。

おばぁちゃんが、昭和40年に亡くなったおじぃさん(内田善蔵)と一緒に眠っているお墓は北千住の清亮寺にある。清亮寺は内田家一族の菩提寺である。
清亮寺は、日蓮宗。北千住駅から徒歩10分ほど、JR常磐線の高架をくぐったところ(足立区日ノ出町)にある。 江戸時代初期の元和5年(1619) 身延山久遠寺末として、日表上人により創建されたというから、400年近い歴史がある。

このお寺には義母が生前のときから何度か訪問することになった。
このところ体調不芳で暫くお参りが出来なかったが、この3月お彼岸に久しぶりで家人と一緒に清亮寺へお墓参りに出かけた。

以下は、おばぁちゃんが眠るこの清亮寺の四題ばなしである。
古い名刹だけあって、清亮寺には瞠目すべき幾つかのことが あるが、まず一番目、このお寺には、おばぁちゃんの嫁いだ内田家一族から出た高名な内田銀蔵文学博士の墓があることからはじめよう。家人も寺に行った時は墓前で必ず手を合わせる。

自分は見たたことはないのだが、旧日光街道の商店街を、北に歩くと、小さなビルの壁に「内田銀蔵生家跡」と書いた説明板が貼り付けてあるという。この場所こそ、わが国の歴史学とくに経済史の先駆者であった内田銀蔵博士の生家であり、近子おばぁちゃんがお嫁入りした家でもある。

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内田銀蔵は、明治5年(1872) この千住仲町の川魚問屋「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれた。店の後継者となるべきところだったが、幼時からの学問好きが嵩じ、父与兵衛を説得し、東京専門学校を経て東京大学文科大学国史科に進学する。歴史を勉強することになる。
卒業後は、大学院に進学し、とくに経済史を研究して、わが国の経済史学の先駆者となった。弱冠29歳で、東京帝国大学から文学博士の学位を取得して文学博士となる。その時の論文が「我国中古の班田収授及近時まで本邦中所々に存在せし田地定期割替の慣行に就きて」と「徳川時代特に其中世以後に於ける外国金銀の輸入」というのだから何やらすごい。末は博士か大臣かと言われたことで分かるが、当時の博士は偉かったのである。
明治36年(1903) 文部省外国留学生としてヨーロッパに3年半学び、帰国後、広島高等師範学校および京都帝国大学で教鞭をとる。東京帝大の考証史学からの脱皮を志向し、史学理論、歴史哲学に新境地をひらいて、日本近世史学をひとつの分野として確立する。京都帝国大学の「史学科」創設に貢献した。
特に日本経済史を得意分野とし、土地制度や経済発展の推移を世界史的視野をもって説いた。大正7(1918)年米欧に出張し、帰国してまもなく、残念ながらわずか48歳にして亡くなっている。人品は、謹厳、篤実、慎重、端正、修養に努め、しかもその性高潔であったという。富山房の写真が残っているが、いかにもという顔をしている。

2005年9月、千住に住むかつての職場の同僚が「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」という地域の人達の集まりである研究会に参加していて、誘われ、この会主催の「内田銀蔵博士を偲ぶ夕べ」というのに家人と二人で出席したことがある。この会は安藤昌益の「自然真営道」が千住の穀物屋橋本律蔵宅から発見された経緯を調査する会だと聞いた。国学院大学の教授が「内田銀蔵博士の業績と生涯」を講演した。鮒与の一族が特別招待されていて、家人は久しぶりに従姉妹達と会うことになった。その招待の理由は、近所に住む橋本律蔵に内田銀蔵は幼い時薫陶を受けた縁があったというのだ。

先日、たまたま「異端 ・金子光晴エッセイ・コレクション」を読んでいたら「ひげのある人生」と題して詩人の次のような文章に出くわした。
明治という時代は、「ひげさん」のはばをきかした時代だ。(中略)
内田銀蔵氏の「日本近世史」に、「わが日本の国情世態が、百事根本よりその趣きを改め、まことに新社会を現出し、うんぬん」とあるとおりで、百事新しくなったイメージのなかには、ひげもまた、象徴的な一役を買ったものと言えよう。(ちくま文庫)
こういうものを読むと、内田銀蔵博士は自分が考えていた以上に明治、大正時代に広く影響を与えた存在だったのかも知れないと思う。

さて、近子おばぁちゃんは、この川魚(鰻)問屋「鮒与」の長男善蔵のところへ埼玉県榛澤(はんざわ)の武政(たけまさ)家からお嫁に行った。
善蔵おじぃさんは病にたおれ次弟が店を継ぐ。今、店はこの弟の長男内田丈司氏が店主である。家人は善蔵、近子夫婦の長女。二つ上の正明兄さんは銀蔵博士と同じ血を引いたらしく日比谷から東大原子物理学を卒業し東海村の原子力研究所の所研究員となった。二人兄妹である。

昭和39年、自分は静岡に転勤して仕事を始めた時だったが、取引先である浜名湖養魚漁業協同組合や焼津養鰻漁業協同組合などが、結婚したばかりの家人と縁続きの、この鮒与の約束手形を担保として持ち込んできた。手形の振出人名を見た時にはさすがに、びっくり仰天した。当時の焼津、浜松、御前崎などの農家は儲かると言って盛んに農地(田)を養殖池に転換し、焼津に水揚げされる生鯖などを餌に鰻を生産していて、養鰻生産組合は養殖鰻を東京淡水魚組合員である鮒与に大量に出荷していたのである。駆け出しの自分の仕事は、担保係で農地を池に転換するための停止条件付き根抵当権設定や担保手形の管理などを担当していた。まことに縁とは不思議なものぞ、とつくづく思ったものである。

お寺の二番目の話は、寺の山号の文字のことである。有名とは言い難いけれど、知る人ぞ知ると言って良いであろう。
清亮寺本堂は、1619年創建後、200年ほど経ち、天保4年(1833) 再建された総欅造で、江戸期の建築様式を隋所に残す貴重な建造物であるが、薬医門様式の清亮寺山門は昭和6年に再建されたものである。
この山門に懸かる山号「久栄山」の扁額の文字は明治・大正・昭和にわたって活躍したわが国の代表的書家 中村不折による書である。書跡として、登録文化財に指定されているという。
中村 不折 (なかむら ふせつ)は慶応2年(1866年) 生まれ、 明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家で書家でもある。子規と日清戦争に従軍したり、漱石、鴎外らとの交流もあったことで知られる。昭和18年(1943年)67歳で沒。
彼の絵も書も一種独特の雰囲気をもつ。絵は、夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として有名であるが、渡仏して油彩画も学び、水墨俳画なども描き多才だ。
書の方は、新宿中村屋本店のロゴや同社の月餅、宮坂醸造の吟醸酒「真澄」などに残っているが、よく見れば現代にも通用しそうなスマートでユニークな六朝風字体である。


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三つ目は 、こちらは知る人が多い「槍掛けの松」の話である。この清亮寺の門前に、かつて樹齢350年とも言われる、立派な枝振りを誇る大きな松の木があった。寺の門は水戸佐倉道に面していたので、松の大きな枝は、街道に覆いかぶさるほどであったという。この松は、残念ながら昭和20年頃枯死した。平成17年、寺の境内に記念碑が建てられたが、そこには写真とともに「槍掛けの松」の由来も記されている。それによれば大略次の通りである。
水戸街道は、参勤交代の大名が往来する道であり、大名行列で賑わう。
水戸光圀公の大名行列のエピソードであるが、大名行列の鑓持は、当時のしきたりとして、どんな時でも鑓を横に倒すことが出来ないことになっていたらしい。ところが、清亮寺のあるこの地にきて、街道に覆い被さる大きな松の枝があり、鑓を一度は倒さなければ通ることができなかった。鑓持が仕方無く張り出した松の枝を切ろうとすると、松の見事な枝振りを見た水戸光圀公は、「かくも立派な臥龍松を切るのは惜しい。松の枝に、鑓を立てかけて休憩することとしよう、一休みしてから、松の枝の反対側から鑓を取り直せば、鑓を倒したことにはならぬ」と名案を出された。のちの副将軍黄門の粋な計らいに因んで、以後「鑓掛けの松」と呼ばれることになったという。
近くには、これにあやかった千住名物「やりかけ団子」を売る店(かどやなど)があり、いまも客が絶えない。

最後は、これも清亮寺の名を高めた「解剖人の墓」の話である。
日本医学のあけぼのの時代ともいうべき明治三年(1869年)、福井順道、大久保適斉、アメリカ人ヤンハンによって千住の近くにあった小塚原(こづかっぱら)の「刑場」で処刑された罪人11人が、回向院で読経の後清亮寺に運ばれて、「腑分け」解剖された。
この死罪人の霊を弔うための墓が、清亮寺に明治五年(1872)に建立されたのである。墓は死罪人の解剖を行った記念碑であり、かつその解剖された人たちへの供養塚でもある。昭和40年に再建されその本体は昭和57年文化財に指定されている。
1771年(明和8年)杉田玄白、前野良沢らが同じ小塚原刑場で罪人の解剖を見学してからほぼ100年後のことになる。
この時、杉田玄白らは持っていたドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの解剖学書「ターヘル・アナトミア(オランダ語)」が、見学した実際の解剖と比べその正確なことに驚いて、これを苦労して翻訳する。そして1774年「解体新書」として刊行したことはよく知られている。

千住は1594年千住大橋がかけられ、さらに家康によって1603年(慶長8年)江戸幕府が開かれた後急速に発展した。奥州街道、日光街道、水戸街道の始点、要所として物流拠点ともなり人が集まる。人口は約1万人に達したといい、江戸四宿では最大の宿場町になった。江戸四宿とは、言わずとしれた東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿である。

その千住は、元禄2年(1689年)芭蕉が奥の細道の出立地として 詠んだ
行く春や 鳥啼魚の目は泪
でも広く世に知られたが、経済発展に支えられて千住宿は江戸文化のレベルも高く、コメ問屋などの豪商が文人墨客のパトロンにもなったであろうことは容易に想像出来る。鮒与などの旧家もその一人であったかも知れないと思ったりするが、さてどうだろうか。

蕪村老は天才大雅を追い越したか(1) [随想]

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図書館で「齢八十いまなお勉強 」近藤啓太郎 安岡章太郎 (光文社)を借りて、寝ころびながら読んでいたら、池大雅と蕪村の絵の話が出てきた。

対談者はともに1920年生まれ、今年八十二歳。あわせて百六十四歳。老いを嘆きつつも二快(怪)老の痛快な「高齢談義」である。
あまねく知られているように、戦後、1953年から1955年頃にかけて文壇に登場した新人小説家を、山本健吉が命名した 「第三の新人」である。阿川弘之、吉行淳之介遠藤周作らとともにその代表的作家。

千葉県の鴨川くらしの近藤啓太郎 (慶応卒1953年「陰気な愉しみ」で芥川賞 )を安岡章太郎(東京美術学校日本画科卒1956年「海人舟」で芥川賞、美術史家)が訪ねて実現した対談。そのなかの日本画の話である。

近藤 安岡は、以前から蕪村の絵が好きだったよな。

安岡 うん。それで、そこ(東京江戸博物館 「蕪村展」)にね、蕪村の、李白が酔 っ払ってね、弟子に支 えられてよろよろ歩いている絵がいっぱいあった。
そしたら、池大雅の絵もならべられていて、二人ともたくさん、李白の絵を描いているんだ。(中略)

近藤 俺は蕪村もいいけど、やっぱり大雅の方が上だと思う。

安岡 もちろん、蕪村と大雅じゃね、蕪村は大雅の足元にも及ばない。
だけど、蕪村って不思議な人だな、じりじり、じりじりね、寄ってくんだよ。

近藤 ああ、そういうとこがあるな。ただ、俺なんか比較しちゃうのは「十便十宜図」ね。(中略)大雅のほうがいいだろ、あれは。

安岡 もう絶対、問題にならない。・・・・(蕪村は)顔が描けないんだよ、顔が全然。 とくに人物画はかなわなかったんだ。かないっこないなあとおもっていたら、だんだん迫っていってね。最後の頃のものは、僕の見た感じでは。大雅が負けてるっていう感じだった。
でね、僕には、だんだん、だんだん、蕪村が大雅に追いついていくプロセスが、その李白の絵で(註 上記の「蕪村展」で)見せられてね、非常に面白かったんだ。
(引用者お断り 中略と書いたほかも、途中一部略している。)

蕪村は、周知のように俳句と絵画と天が二物を与えた稀有の文人である。
関係ない話しながら、蕪村の師の早野巴人・夜半亭(一世)が、母の生地で我が疎開先でもある下野国 那須烏山(現在の那須烏山市)の人だと知って、へえと驚いたのはリタイアして間もない自己流俳句を始めた10年ほど前の頃だった。疎開先には高校卒業までいたので、まさにわが胡園、しかも青春の地、思い入れが強い。
蕪村の句、絵は前から好きであり、かねて興味があったので二人の話しを、フォローして見たくなった。長くなるので、3部作とした。

まずは池 大雅から。
池 大雅(いけの たいが)は 享保8年(1723年)、蕪村生誕の7年 後、京都で生まれた。教科書にも出てくるほど、有名な江戸時代中期の文人画家、書家。
本来の苗字は池野(いけの)だが、当時はハイカラだったのであろう中国風に池と名乗ったという。雅号は、大雅堂(たいがどう)ほか数多く持つ。妻の玉蘭(ぎょくらん)も画家として知られる。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
大雅は、幼い頃より漢文・書道に優れた才能を発揮し、7歳の時、宇治黄檗山万福寺で書いた書が神童として賞賛されたという。15歳で扇面の絵を書き、16歳で篆刻の技を磨くなど書も才能を伸ばす環境を与えられ、経済的にも姻戚関係においても、漂泊者でもあった俳人蕪村と異なった定住の人生を歩んでいた。
書と絵にその才能を存分に発揮し、その当時最高水準の文化人だった。
絵画においては、俳人としても活躍していた与謝蕪村を上回る評価を得ていた、と見られている。 安永5年(1776年)53歳で歿。

与謝 蕪村(よさ ぶそん)は享保元年(1716年) 大阪生まれ。江戸時代中期の俳人、画家。芭蕉、一茶とともに江戸俳人の三傑とも言われる。
本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
句の特徴は、「浪漫的」、「絵画的」といわれる。俳聖の翁亡き後、俳句を刷新し、江戸俳句中興の祖とも。俳諧、画業両道に秀で、さらにこれは特記すべきことだと思うが、「和詩」ともいわれる「春風馬堤曲」があるなど多才な人物。

ちなみに「春風馬堤曲」は、「やぶ入や浪花を出て長柄川 ・春風や堤長うして家遠し」と始まり、「君不見(みずや)古人太祇(たいぎ)が句 ・藪入の寢(ぬ)るやひとりの親の側(そば)」と終わる。俳句、漢詩、散文ないまぜの、独吟歌仙に似て非なる、独特の形式の短詩で、蕪村の郷愁を謳い上げた名作といわれている。
自分も好きな詩である。

蕪村は、天明3年(1784年)68歳で歿。大雅より7歳上だったから、彼の死後8年生きて15年長命だったことになる。
蕪村に影響された俳人は多いが、特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られており、著書「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)がある。
このなかで、蕪村生存中は俳名が画名を圧したにちがいないが、死後はずっと逆だったとして再評価すべしと持論を展開した。
子規は俳句を強調するあまり「連俳は文学に非ず」と言って、よく知りもしない(?)くせに連句を排斥した。同じように、蕪村を評価するあまり過度とも見えるほど芭蕉を否定したりするような、一種独特な癖(へき)があるので要注意だが、蕪村への傾倒ぶりは本物のように思う。

子規に 蕪村忌に呉春が画きし蕪かな という句がある。

蕪村を蕪(かぶら)にしたところが滑稽味か、自分にはあまり良い句とも思えないのだが。呉春(松村月渓まつむらげっけい1752年-1811年)に蕪村座図がある。それを見て詠んだ句であろう。

以下(2)へ続く。


蕪村老は天才大雅を追い越したか(2) [随想]

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前回の(1)冒頭の近藤啓太郎、安岡章太郎の対談で取り上げられた「十便十宜図」とは、ノーベル賞作家川端康成が家を買うのをあきらめ、これを蒐集したことで世に知られた小さな画帖(縦横約18cm)のことである。
現在は、川端康成記念館蔵になる国宝で、正式名は「十便十宜帖(紙本 淡彩 2帖)」である。残念ながら、 自分は実物を見る機会はなかった。

この絵は、 別荘伊園の自然のすばらしさをうたう中国の文人、劇作家李漁(李笠翁)の「伊園十便十二宜詩」(七言絶句)をもとにして、池大雅が「十便」を、蕪村が「十宜」を絵にしたもの。いわば二人の共同制作、競作。1771年、それぞれ大雅48歳、蕪村55歳のときの作品である。

余談になるが、蕪村には他に円山応挙(1733-1795)との共作「蟹蛙図」があるそうだ。蕪村が三匹の蛙を、応挙が蟹を一匹描いている。俳諧師だから、連句と似た共同制作が好きだったのだろうか。俳諧も複数の連衆(れんじゅ 俳諧師)が、順番に長句、短句を詠み短詩を編む。いわゆる歌仙を巻く。独特の共同制作、座の文芸であるが、このうち二人で詠むのを両吟歌仙という。両吟歌仙も「十便十宜帖」も「蟹蛙図」も、二人によるコラボレーション芸術である。

一方で蕪村は、俳句(発句)、自画讃の俳画、和詩「春風馬堤曲」の試みなど「一人遊び」も好きで、それに沈潜するようなところもある。誠に面白いユニークな文人といえよう。 しかもそれぞれ傑作を残しており、多くの人が関心を持ち、その作品を好きだという人が多いのも頷ける。

さて、李漁の漢詩は、草庵をむすんで閑居したところ、訪ねてきた客から、閑静であろうが不便なことが多いであろう、と言われて、山荘での隠遁生活の「便と宜」とをそれぞれ十の詩をつくって答えたというもの。

「十便」とは、草庵の十の便利すなわち
耕便 (こうべん) なんの 、居ながらにして耕せて便
汲便 (きゅうべん) 滝水もあって、水に不自由しない
浣濯便 (かんたくべん) その水清く、何でも洗える
潅園便 (かんえんべん) 菜園に 水もやれる
釣便 (ちょうべん) 釣りさえも楽しめる
吟便 (ぎんべん) 詩想にふけることも、吟ずることも
課農便 (かのうべん) 晴耕雨読さ
樵便 (しょうべん) 木の枝 は薪になるし
防夜便 (ぼうやべん) 治安よく枕を高くして眠れる
眺便 (ちょうべん) 看山の楽しみもある

右側の説明は我が駄、拙訳。あたらずとも遠からずだと良いのだが、自信は無い。
池大雅は、十便図において、自然と共に生きる人間の豊かさを、魅力的に描きこんでいる。
特にこの中では、「釣便(ちょうべん)」の絵が名高い。客が釣れるのを待っているが、釣っている主人は 釣り糸が絡まっているのも気にしていない風情。
また、眺便図は、この種の絵としては人物が大きく描かれているのが、珍しくもあり印象的だ。たしかに、10枚の絵全体の雰囲気がゆったりしてのどかな感じが、見る人を惹きつけずにおかない。

「十宜」とは、草庵における隠遁生活の十の「宜しい」こと、すなわち
宜春(ぎしゅん)
宜夏(ぎか)
宜秋(ぎしゅう)
宜冬(ぎとう)
宜暁(ぎぎょう)
宜晩(ぎばん)
宜晴(ぎせい)
宜風(ぎふう)
宜陰(ぎいん)
宜雨(ぎう)
これは下手な解説など無用であろう。

与謝蕪村は、十宜図において自然が四季や時間、天候によって移り変わるさまを、独特の線のみならず、点描を多く使って描いている。自分には、自然描写が美しく、まさに10枚すべて「絵」になっており、しかも俳人としての蕪村の好みが随所で存分に発揮されて、大雅の十便図の絵に勝るとも劣らないように見える。
このうち宜夏、宜暁、宜晩には人物も描かれているが、あとは風景画が多く点景としての家が描かれているものも少ない。大雅の十便図とかなり雰囲気も異なる。

十便十宜図は、大雅vs蕪村といった「競作」として見るのではなく、むしろ2帖の絵が共鳴して醸し出す全体の雰囲気を味わい愉しむべきであろう。それが二人の狙ったコラボレーション効果であるに違いない。
その意味では、二人の異なった画風をどちらが上手いか、追いつき追い越したかなど詮索するのはナンセンスに思える。

さて、漢詩「伊園十便十二宜詩」の作家である李 漁(り ぎょ、1610年〜1680年)は、如皋市(じょこう市・江蘇省)出身の明朝後期から清朝初期の劇作家、小説家、出版者である。
性愛小説を得意としたらしいから、どうかなと思わないでもないが、なんと「中国のシェイクスピア」とも言われるとか。
わが国では、好色一代男、日本永代蔵などで知られた小説家で俳人の井原西鶴(1642年-1693年)に影響を与えたとされる。
李漁は大雅、蕪村の生きた時代の100年以上前の人である。
李漁に限らず、老荘の時代から中国における隠遁生活への憧れが、極めて強いことは良く指摘されるところだが、日本においても中国文化の移入とともに伝播、伝来した。この江戸時代の「十便十宜図」も、それをよく示しているひとつであろう。

以下(3終)へ続く。

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