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高橋順子 [詩歌]

詩人高橋順子と作家車谷長吉はともに40歳を過ぎてから結婚した。
結婚するときに詩人は、しみじみした生活をおくりたいのだと言ったという。
このしみじみした生活が私の言っているものとおなじかどうか知らない。
きっと似て非なるものだろう。
独身が長いと、面倒な二人の生活などいまさらというひとが多いのではないかと思うのに、
しみじみした生活をしたいと言って新生活を始めた二人は珍しい。
詩人と作家は結婚してきっとしみじみした生活をおくれたのだろう。
彼女のエッセイなどを読むとふたりで両吟歌仙などを巻いて楽しんでいたりしている。
関心があって高橋順子著「連句のたのしみ」を読んでみたが面白い本である。
だんなの作家は結婚後に芥川賞だか直木賞だったかを受賞した。
また、神経症を病んで詩人の篤い看病などを得ている。
いずれもきっと二人でしみじみした良い生活をおくっていると推察する情報である。
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五,七調のリズム [詩歌]

 我々は、俳句や短歌,連句に代表される五,七調が大好きだ。唱歌や演歌の歌詞、街にあふれる標語など、五,七のリズムは日本人の体の中に埋め込められている。大げさに言えば、血となり、肉となっているとも言えるだろう。
 その理由はなぜか。よく分らぬ。古い俚謡や和歌より前の祝詞にまで遡るのだろうか?お経やその声明にも関係があるのだろうか?
 何かで読んだような気がするが、日本が輸入した中国文化のうち詩経などの漢詩、とりわけ七言律詩(絶句),五言律詩(絶句)が大きな影響を与えたという。確かに漢詩が日本の詩歌に及ぼした影響は計り知れないが、漢詩には四言、六言詩もある。直接的な影響、あるいはそれだけの理由ではないだろう。
 要因は多分複合的なものに違いない。

 これも良く言われることだが、日本人は多くの人種のミトコンドリアを持っている。それだけ多くの民族の血が流れているとも言えるだろう。それなのにみんなが皆、五、七調が好きだというのは、いったい何故なのだろう。

 外国人には、詩歌などでこのようなとくべつに好きなリズムや音韻のようなものがあるのだろうか。音楽には民族の好きなリズムというものがあるようだが。
文化というものは不思議なものであるとしみじみ思う。
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漢詩のはてな [詩歌]


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 高校時代の国語の時間は現代文のほかに、たしか選択科目として古文、漢文があってこのうち漢文とが一番人気がなかったように覚えている。

 漢文はおくり、返り点などどういうものかなど、教えてもらったのだろうが、さっぱり分からかった。旧仮名遣いに訳し、更に現代文に訳す。それにエネルギーをとられ漢詩などその良さを味合う余裕など無い。さすれば、学期末試験のために現代語訳の虎の巻が生徒間で往き来していたのも自然の成り行き。

 今考えるとあの授業時間はなんと勿体ない時間だったことか。江戸時代までは言うに及ばず、西洋文化がどっと入ってきた明治以降も漢文は日本人の基本的な素養の一つであり続け来たのに、戦後の漢文教育はなんたるていたらく、貧しさだったことか。一斑をもって全豹を推測する怖れ無きにしも非ずで、自分だけの経験でものを言ってどうかと思うが、他も程度の差はあれど似たようなものだったのではないか。

 漢文は古来和文に大きな影響を与えて来た。国文、現代文の理解に漢文の理解は不可欠なのである。
そう考えると、わが漢文力の貧困が大人になってからの国語の文章力の弱さの大きな要因のひとつになっているのではと疑う。

 それでも、漢詩などには惹かれるものがある。中国の詩人も日本の詩人もその詩ごころに変わりは無い。だから漢詩も日本の詩歌に大きな影響を及ぼし続けた。したがって、当然のように皆漢詩を勉強し自らも作ったのである。
 考えてみれば、中国に限らず外国の詩も同じことだが、外来の詩を和訳して科の国の人と詩ごころを共有できることはなんと不思議なものであろう。

 李甫、陶淵明を引き合いに出すまでもなく漢詩の素晴らしさには驚くばかりだ。
 晩唐期の詩人杜牧(803-853)の漢詩七言絶句もそのひとつ。例えば「江南春 」。ー水村山郭酒旗風ーがなんとも好きだ。
  千里鶯啼緑映紅   水村山郭酒旗風   南朝四百八十寺   多少楼台煙雨中

【和訳 】千里鶯啼いて緑紅に映ず
    水村山郭酒旗の風
    南朝四百八十寺
    多少の楼台煙雨の中

【現代語訳】そこらじゅうで鶯が啼き木々の緑が花の紅色と映しあっている。
       水際の村でも山沿いの村でも酒屋ののぼりがたなびいている。

 このたなびく旗はどんなものなのだろうか。氷水の旗ならイメージできるのだが。
 詩は和歌でも近代詩でもそうだが音声が重要である。漢詩はすぐ和訳して日本語で発声する。日本には「詩吟」まである。井伏鱒二のように「ハナニアラシノタトエモアルゾ」といった変わった名訳もある。声を出して読むと何やら楽しい。

 ふと、漢詩は韻が重要と習ったが、はて漢詩は中国語ではどう読むのだろうと思った。
 そう考えると高校時代の漢文の授業でのわけ分からずの理由の一つが、そこにあったのではという気がして来た。中国語とセットで教えるべきだったのではないか。

 「江南春」を踏まえた服部嵐雪の句に「鯊(はぜ)釣るや水村山郭酒旗の風」がある。
 むかし、仕事で蘇州に行ったことがある。江南にのんびりした釣りは合うが、ハゼは似合わないような気もする。名物の上海ガニのほうが「付く」ような気がしないでもない。酒旗もあることだし。

 少し脱線したが、ことほどさように、かの国と日本は一衣帯水と言われ、永く深い文化交流の歴史を経て、言語は似て非であっても詩心は和訳によって、確実に伝わることは疑いない。しかし、音声が同時に理解出来たら、シャンソン、ジャズを聴くように詩心をより深く理解して共有出来るのではないだろうか。

 それとも、詩ではないが、インドの言葉を漢訳したというお経のように、我が国に伝わり坊さんが唱えても一般の人にはさっぱりわけが分からなくなってしまったようになるのだろうか。

 わが漢文、「漢詩のはてな」を解明するのは、高卒以来の長い不勉強もさることながら、自らの能力をはるかに超えており、果てしなく先も見えない。



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恋の句ー芭蕉と蕪村(1/2) [詩歌]

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芭蕉と蕪村は、ずいぶん古くから比較されその違いが論じられてきた。専門家はもちろんだが、二人の違いについては、自分のような俳句の素人にとってもたいへん興味があるテーマである。
芭蕉が陰、漂泊詩人であれば、蕪村は陽、炉辺の詩人とか、芭蕉の句を墨絵、日本画にたとえれば蕪村のそれは明るい西洋画だとかである。
二人はたしかに対照的なところがあって、どちらの句が好きかというのもよく話題になる。
蕪村(1716-1786年)は、芭蕉(1644-1694年)の50年ほど後の俳人であり、同時代に生きた人ではないが俳聖を深く敬慕した。正岡子規が、写実を強調する目的で蕪村は芭蕉に比肩するとまで、ことさらに称賛したことから、近代になって俳聖と並ぶほどの江戸俳句の代表者となった。子規は芭蕉は十に三が、蕪村は十に七が佳句とまで言った。自説のためには何でも言う。発句から俳句を独立させる目的で「連俳は文学に非ず」と言ったのと同根だ。言い過ぎである。当の蕪村本人は、苦笑しているのかもしれない。

このところたまたまだが、青空文庫で「芭蕉雑記」( 芥川龍之介)と「郷愁の詩人ー蕪村 」(萩原朔太郎)を読んだ。小説家と詩人であり俳人でもなく俳句評論家でもないせいか、門外漢にもたいへん分かりやすくて面白い。
萩原朔太郎が、蕪村にはリズムが乏しいが、芭蕉の句は音楽的とも言えるリズムがあると指摘しているが、本当にそうだと感心した。蕪村は画家だから「視覚の人」だ。絵画的な俳句が彼の特徴であり、誰にも分かるシンプルな句が多い。かたや芭蕉は、「耳の人」でもあったのであろう。
朔太郎は、詩のリズムを重んじるも、どちらかといえば芭蕉より蕪村びいきである。「蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生々しており、光が強烈であることである。そしてこの点が、彼の句を枯淡な墨絵から遠くし、色彩の明るく印象的な西洋画に近くしている」
蕪村の絵画的な浪漫、高い叙情性を評価しキーワードは「郷愁」だという。

芭蕉と蕪村の比較論は、既に言い尽くされ今更素人の出る幕など無い。上記の二著を読んで二人の女性観に興味が湧いたが、これとて多くの人に論じられてきたに違いない。

しかし、二人の恋の句を改めて並べてみるとなかなかに味があって面白い。

芭蕉は、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」の寿貞尼の話や「寒けれど二人寝る夜の頼もしき」の杜国など美少年好みだったことなどが伝わっているが、恋の句が得意だったということは、かねて何かで読んだことがある。芭蕉は、自分でも人に負けぬと言って自信があったようである。
「芭蕉雑記」で芥川龍之介は次のようにいう。芭蕉は「殊に恋愛を歌ったものを見れば、其角さへ木強漢に見えぬことはない。況や後代の才人などは空也の痩せか、乾鮭か、或は腎気を失った若隠居かと疑はれる位である」
蕉門のトップクラス其角も木強漢(ぼっきょうかん 武骨な男)にされてしまった。手ばなしの称賛である。

俳諧連句には周知のように「月の座」、「花の座」のほかに「恋の座」がある。ここでは必ず恋の句を詠まねばならない。
恋の呼び出し、恋の句、恋離れの句は歌仙の中ほどにあって花や月の句とともに歌仙のステージを盛り上げる重要な役割を果たしている。
恋の座で詠む恋とは、性愛だけでなく女性にかかわる全てが対象のようであり、恋の歌もちろんすべてが囑目ではないけれども、作者の恋愛観は自ずと滲み出るだろうと思えば面白い。芭蕉の恋の句で有名なのは、次の付句だ。

さまざまに品かはりたる恋をして   凡兆
浮世の果は皆小町なり       芭蕉

色々な恋と言うが、結局は小野小町の、「花の色は うつりにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに 」さ、恋も無常よ、といったところか。

ほかにも佳什が多い。
狩衣を砧の主にうちくれて 路通
わが稚名を君はおぼゆや 芭蕉

宮に召されしうき名はづかし 曽良
手まくらに細きかひなをさし入れて 芭蕉

足駄はかせぬ雨のあけぼの 越人
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

上置きの干菜きざむもうはの空 野ば
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉

殿守がねぶたがりつる朝ぼらけ   千里 
兀げたる眉を隠すきぬぎぬ    芭蕉

やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭
よつ折の蒲団に君が丸くねて    芭蕉

遊女四五人田舎わたらひ      曽良
落書に恋しき君が名もありて     芭蕉

ふすま掴んで洗ふ油手       嵐蘭
掛け乞に恋のこヽろを持せぱや    芭蕉

芥川龍之介は芭蕉の恋の句について「是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拝者の芭蕉とは聊か異つた芭蕉である。たとへば「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川の浮世絵に髣髴たる女や若衆の美しさにも鋭い感受性を震はせてゐた、多情なる元禄びとの作品である」という。

つまり、言葉は適切をかくかもしれないが、芭蕉が生きた時代の恋を「あからさま」に、「おおらか」に詠っているのである。詫び、さび、軽み、不易流行など難しいことばかりをいっているのにと思わざるを得ない。
芭蕉は「事は卑俗に及ぶともなつかしく言ひとるべし」と言っている。恋は卑俗のうちか。
恋の句ー芭蕉と蕪村(2/2 終わり)に続く

恋の句ー芭蕉と蕪村(2/2終り) [詩歌]


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一方の蕪村の恋の句をみよう。
萩原朔太郎の「郷愁の詩人ー蕪村」を引用すれば、
「さらにまた次の如き恋愛句において、こうした蕪村の青春的センチメントが、一層はっきりと特異に感じられるのである。

春雨や同車の君がさざめ言
白梅や誰が昔より垣の外

昔、恋多き少年の日に、白梅の咲く垣根の外で、誰れかが自分を待っているような感じがした。そして今でもなお、その同じ垣根の外で、昔ながらに自分を待っている恋人があり、誰れかがいるような気がするという意味である。

妹が垣根三味線草の花咲ぬ

万葉集の恋歌にあるような、可憐で素朴な俳句である。ここで「妹」という古語を使ったのは、それが現在の恋人でなく、過去の幼な友達であったところの、追懐を心象しているためであろう。

恋さまざま願の糸も白きより
二人してむすべば濁る清水かな 

芭蕉の「あからさまな」恋の句と違って、極めて叙情性が高い句ばかりと言えないか。ぺんぺん草も三味線草といえば、あやかな恋の花になるというもの。


朔太郎は続ける。
「蕪村の性愛生活については、一も史に伝ったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人」の郷愁から妹が垣根三味線草の花咲きぬ の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入りの少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英の咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。」
ここにある「春風馬堤曲」は、有名な「やぶ入や浪花を出て長柄川」「春風や堤長うして家遠し」で始まる長詩である。十数首の俳句と数聯の漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されている。散文らしきものも入っている。こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである。江戸時代に、こうも変わった新形式の詩を試みた人がいたとは。精神の自由に驚愕せざるを得ない。

春風馬堤曲
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し
堤ヨリ下テ摘芳草 荊与棘塞路 荊棘何妬情 裂裙且傷股
渓流石点々 蹈石撮香芹 多謝水上石 教儂不沾裙
一軒の茶見世の柳老にけり
茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且つ儂が春衣を美ム
店中有二客 能解江南語 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
古駅三両家猫児妻を呼び妻来らず
呼雛籬外鶏 籬外草満地 雛飛欲越籬 籬高堕三四
春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
たんぽぽ花咲り三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年この道よりす
憐みとる蒲公茎短して乳を浥せり
昔々しきりに思ふ慈母の恩 慈母の懐袍別に春あり春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋畔財主の家 春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し弟に負て身三春 本を忘れ末を取る接木の梅
故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくだれり
矯首はじめて見る故国の家 黄昏戸に倚る白髪の人 弟を抱き我を待つ 春又春 君見ずや故人太祇が句   藪入の寝るやひとりの親の側

たしかに優れた郷愁の詩である。朔太郎によれば、これも恋の歌というのだろう。


蕪村はほかにも新体詩を作っているが、まごうごとなく、こちらはまさに恋の歌そのものである。

君あしたに去りぬ
ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる。
君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。
岡の辺なんぞかく悲しき。

こうしてみると、蕪村の有名なほかの句も何やら恋の句に見えてきはしないか。

遅き日ののつもりて遠き昔かな
春雨や小磯の小貝ぬるるほど
行く春や逡巡として遅桜
歩行歩行もの思ふ春の行衛かな
菜の花や月は東に日は西に
春風や堤長うして家遠し
行く春やおもたき琵琶の抱ごころ

芭蕉にとって恋の歌は、俳諧のなかでさして重要なものでなかったのではないか。芭蕉が求めたのは別のものだった。
たとえば、有名な「象潟や雨に西施がねぶの花」という句がある。西施は中国の美人であるが、恋を歌ったものではないことは明らかだ。


しかし、一方の蕪村にとっては郷愁に包まれた特異な恋情といえ、 恋は彼の句全体の中において叙情性を高める意味で、重要な位置を占めていたように思う。「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」という名句がある。恋の歌ではないけれども、恋の気配がある。
自分の好きな句の一つ「遅き日のつもりて遠き昔かな」ですら、恋の一字もないが郷愁を纏った昔の恋が、背後に隠れているように思えるのだ。
有名な「菜の花や月は東に日は西に 」さえ、夕方の空を見ている二人がこちらに背をむけて、立っている姿がありはしないか。「行く春やおもたき琵琶の抱ごころ」も琵琶を弾くのは男かと思っていたが、そうではないような気もしてくる。
自分は、俳句は芭蕉、絵は蕪村と思っているが、こうしてみると蕪村の句もなかなかのもの、叙情的、絵画的とかで片付けられぬ文学性の高いものと思わざるを得ない。

だが、俳句はやはり芭蕉だと思う。不勉強で上手く言えないが芭蕉には文学、文芸ー芸術を超えた何か「哲学のようなもの」の域にまで入っているような句があって、それが自分を惹きつけてやまない。それは明らかに恋の句ではない。
そういう句は沢山あるが一句あげれば、たとえば「みそか(三十日)月なし千とせ(千歳)の杉を抱くあらし」などである。
生や死ー存在の不可思議まで感じないか。たった17文字の短詩でこれまで人に考えさせるとは、芭蕉は凄い詩人である。

しかし、二人の俳句の違いについては、単に蕪村の句がシンプルで芭蕉の句が分かりにくいからだ、という気がしないでもない。
蕪村の場合、多くの句に郷愁を帯びた恋が感じられるが、芭蕉には恋はさほど重要ではなかったのではないか、というのは素人の考え過ぎかもしれない。
もともと俳句は、短詩であるがゆえに読む人によっていかようにも読み取れる、という特質がある。それだけのことかもしれない。またそれだけで良いに違いない。



さて、短歌の場合は、万葉の時代の相聞歌に見るように恋の歌は一つの主題、主流だが、俳句の方は必ずしもそれほどでもない。
芭蕉、蕪村以降も多くの恋の句が詠まれ続けられている。近代では、なかでも愛妻を詠んだものは、妻籠俳句などと悪口も聴こえるが、佳句も多い。
恋の句だけを追って見るのも面白いかも知れない。芭蕉と蕪村の恋の句のように何か、考えさせられることや発見があるような気がする。

折句 言葉遊び [詩歌]


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折句というのは、
辞書を引くと、「短歌、俳句、川柳など各句の初めに、物や地名などを一字ずつ置いて詠んだもの。
短歌の例では、「かきつばた」の文字を入れた
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
(伊勢物語)の類」とある。

川柳では、蛙飛ぶ池はふかみの折句なり (柳多留・六)
三めぐりの雨はゆたかの折句なり (柳多留・五)
が古川柳にあり、それぞれ芭蕉の「古池や…」と其角の「夕立や田をみめぐりの神ならば」のことを、ふかみ=深み、ゆたか=豊か、が読みこまれているのだという。

ならば、俳句はというとこれがあまり無いのか、不勉強で知らない。
自分は平成16年、かつての職場の同期生、平井隆君が亡くなった時に名前を折り込んだ追悼句を詠んだ。
一人だけ蘭の花好き今もなお
柊や乱調の歌いま流れ
彼は有能なビジネスマンであったが、若い時から短歌をたしなむ歌人でもあった。
また平成 17 年、稲葉精次さんが亡くなった時も
急ぎ足七竈散る馬車通り
と詠んだ。静岡と東京で、2度同じ机を並べた2年先輩で、沢山のことを教えて貰った。先輩の住所は横浜の馬車道というところだった。
平成18年6月、同じく一緒に入社した大塚操君の訃音に接した時も折り句を作った。
おおあめにつののめつむれかたつむり(大雨に角の目瞑れ蝸牛)
ゴルフをやった時に楽しかったな、またやろうと言ったニコニコ顏の彼の大きな目を思い出し、堪らなかった。

折句というのは、制限付きなのになぜか作り易いというものだと、その時実感したのを憶えている。
不思議なもので自由に作れと言われるとかえって困るが、この音、この字から何か詠めと言われた方が言葉が出てくる。

考えてみれば、俳句、短歌の型式「5.7.5 」や「7.7」は形式上の制限である。「短詩型」と呼ばれる所以である。俳句で「季語」を読み込めというのは、ある種の制限であろう。むろん無季(連句では「雑」ぞう)もあるが。
極めつけは俳諧、連句の式目である。発句、脇、第三から挙句に至るまでの間、月の座、花の座、恋句など式目・約束という制限ばかりの中で複数の連衆(はいかいし)が、交代で詠んで歌仙を巻く。

漢詩などの五言、七言律詩、韻を踏むなども同じようなものであろう。具体的には頭韻・脚韻を踏むこと、音節の数に規則を持たせること、文字数をそろえることなどがその制限である。
制限の無いのが自由俳句、自由詩であるが、自由なるがゆえの難しさもあることは容易に推察出来る。
俳句や短歌の大衆性と、「定型」は、作り易さの面でおおいに関係があると、大衆の一人として思う。連句のごとき約束事が過剰なのも困るが。

これは拡大し過ぎた考えかもしれないが、絵なども、「四角い平面」を制限と見て見られぬことはない。
音楽のことは分からないが、人に伝わるための何か約束事に似たものが、あるかもしれない。

しかし折句は、ある一つの文章や詩の中に、別の意味を持つ言葉を織り込むというあくまで「言葉遊び」の一種である。
自分が作った追悼句のように、句頭を利用したものがほとんどであるが、例外もある。
例えばいろは歌は、7文字ごとに区切って各節の末尾をつなぐと、「とかなくてしす」(咎無くて死す)となり、無実を訴える文になるとされているそうだ。
罪を起こすことなく一生を終えたい、という意味だとする別の説もあるという。

句頭と句の末尾両方折り込んだものまである。これなどよく知られているものだが、折句の傑作?であろうと思う。

 「徒然草」の作者、吉田兼好とその友人で歌人の頓阿との間で取り交わされた贈答歌に、沓冠(くつかぶり)の歌があるそうだ。「沓」と「冠」つまり句頭5文字、句の末尾5文字の順で読み解くと暗号文が現れる、という凝りようは尋常ではない。

 兼好: 夜も涼し 寝覚めの仮庵 (かりほ)手枕(たまくら)も 真袖(まそで)も 秋に 隔(へだて)てなき風
    ( 解釈 ー涼しい秋の夜に家で目が覚めると手枕した袖に風が見境も無く吹きつけてくる。)
 隠れた文「よねたまへ、ぜにもほし(米給へ、銭も欲し)」

 頓阿:  夜も憂し 妬(ねた)く我が背子 (せこ)果ては来ず なほざりにだに 暫し訪ひませ
    ( 解釈 ー秋の夜長が憂うつだ。妬けることにとうとうあなたは来なかった。なおざりにでも、短い時間でもいいから、 来てほしい。)
隠れた文「よねはなし、ぜにすこし(米は無し、銭少し)」

現代詩では谷川俊太郎の恋文「あいしてます」が有名である。
 あくびがでるわ
  いやけがさすわ
  しにたいくらい
  てんでたいくつ
  まぬけなあなた
  すべってころべ

漢詩では蔵頭詩(真意を蔵した、つまり隠した詩の意味)と呼ばれ、英語では折句のことを「アクロスティック」acrosticというからには洋の東西を問わず、言葉遊びはあるのだろう。

それにしても折句や回文(上から読んでもしたから読んでも同じ文)、駄洒落、など日本人はことば遊びが好きな民族だとしみじみ思う。まぁ、自分もその一人であるが。












連句の鑑賞 [詩歌]

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連句といっても、あまり一般的ではないので、興味のない人が多いのではないかと思う。自分もそうだった。
ひょんなことから10年ほど前教えて貰い、何冊かの入門書を読んだらこれがなかなか奥が深い。

連句は発句から始まり挙句に至る迄、長句(5、7、5)と短句(7、7)を交互にくりかえしてゆく文芸形式である。
複数の参加者(連衆れんじゅ)が入れ替わり詠む。座の文芸と呼ばれる。
連歌、俳諧は長い歴史を持つが、近世になって発句から独立した俳句が隆盛したことに比べ現代ではとても盛んとは言えない。
しかし、江戸時代に芭蕉、蕪村や一茶が、各地の愛好家を訪ねて歌仙を巻く旅の俳諧師であったことに見られるように、かつては一般庶民にも絶大な人気があった。
明治時代にも夏目漱石や寺田虎彦などが愉しみ 、現代でも大岡信や丸谷才一などが歌仙を巻く。ネットでは電脳連句のサイトもあるから、細い流れながらその愛好者は絶えることがない。
どこがそんなに面白いのか。いろいろ理由があるけれど、「連句への招待 」(乾裕幸 白石悌三 有斐閣新書)
では、次のように書いてあり納得感がある。
「一つの前句に対していくつかの推論が可能であり、それぞれの推論にいくつかの判断、いくつもの句作りが可能である。そうして生まれるうる付句のそれぞれに、またいくつかの推論が可能となれば、可能性は無限大に広がる。
その中から一つの道筋を選びとっていく行為は、きわめてスリルに満ちている。
しかも、台本のないアドリブ劇と同じで、衆目の中で臨機応変に演じなければならない」

つまり、作る者にとっては、人の作った前句に何を連想して句を付けるか。自分の句に相手がどんな句を付けてくるか。その千変万化が何とも言えないのだ。だから、一人で詠む独吟歌仙はつまらなくて、複数の参加者(連衆)による両吟、三吟、四吟などが面白いという。

岡潔(1901-1978年)は、「多変数解析関数論を研究するには、まず松尾芭蕉の俳諧を全部調べなければダメだ」といって、1、2年、徹底的に研究するのです。その後、多変数解析関数論の研究に取り掛かり、二十年かけて(数学における世界の)三大難問をすべて独力で解いてしまった。(「日本人の矜恃 」九人との対話 藤原正彦 新潮文庫)
自分には、多変数解析関数論も数学の世界三大難問もわからないが、数学者を捉えたのはこの無限性の千変万化であろうことは容易に推測出来る。
連句の面白さのわけのもう一つに、連句は、半歌仙では18句、歌仙では36句、百韻では100句、各句が文字通り連なっているが、どの一句を取り出しても独立しており、それに付けられた二句まで取り出して読んでも、句として独立しているということにあるのではないかと思う。しかも、全体としてひとつの詩篇となっているところが凄い。世界にも類例の無い短詩型であろう。

ところで、作句でなく出来上がった連句の鑑賞の方はどうか。作った時の高揚は必ずしも読む方にそのまま伝わるとは限らない。むしろ独りよがりというか、参加者のみがわかりあっているだけで他者には何の感興も湧かないという、感じもある。とくにその時代背景、詠み手や参加者だけに分かる個人的な事情などが詠み込まれると、後から読む者にとっては、とてもついていけないところもある。
詠み手は、全身全霊、文字通り全人格を賭けて一句を付けるから、読む方もそれなりのレベルが要求されるということもあるだろう。
芭蕉は、歌仙は巻いている時がすべてで終われば反故だと言いながら、出来たあとも入念に推敲して仕上げ、後世に多くの名作を残している。
俳諧、連句は立派な文学作品であるのに、連俳は文学に非ずとした子規は、発句を俳句として独立させたいばかりに誤っただけのことだ。このことは、もはや通説になっている。
ただ残念なことに上記の事情もあって、我々一般人にはその良さが理解しにくいのである。

例えば、「猿蓑」(元禄4年、1691年刊行)にある四季発句(夏)で見てみよう。
「猿蓑」は七部集の第五。「俳諧の古今集」ともいわれ、蕉風の円熟期を代表する選集。書名は芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 」による。

発句 市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門門の声 芭蕉
第三 二番草取りも果たさず穂に出でて 去来

「発句」の市中(まちなか)は、市街地のこと。町には様々な生活の臭いが入り混じる。その町に夏の月が出ている。普通発句は招かれた客が挨拶風に読むが、これは少し違うようだ。
二句目の短句を「脇」という。発句に添って穏やかにつける。
市街地の町屋で通りに面して入り口のあるあたりを門(かど)という。暑くて風通しの悪い家の中に居たたまれず、皆表に出て月を仰いでいる。
3句目は「第三」という。発句、脇から場も転じていよいよ連句開始となる重要な句だ。
稲の生育が良く、普通3回から5回行う田の草取りだが暑さ故に、二番草も取り終えないうちに出穂した。今年は豊作であろう。
解説を読めばそうか、そうかと分かるがちんぷんかんぷんなことも多い。

この巻は36句からなる歌仙である。その一部分、挙句に至る終盤6句を解説に頼りながら読んでみる。

いのち嬉しき選集の沙汰 去来
さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆
浮世の果ては皆小町なり 芭蕉
なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ 去来
お留守となれば広き板敷き 凡兆
手のひらに虱這わする花のかげ 芭蕉
(挙句)霞動かぬ昼の眠たさ 去来

「いのち嬉しき」は、西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」を踏まえている。選集の沙汰は、勅撰集入選の知らせのこと。
次の句は「恋の座」。歌集の恋の部には「忍ぶる恋」、「逢わぬ恋」、「隔つる恋」、「待つ恋」など種々あるという。様々な恋をしたのは色好みの宮廷歌人在原の業平。
どんな恋をしても所詮、最後は皆小町さ、と芭蕉は冷めて付けた。「小町なり」とは、謡曲の小町物に描かれた老衰のさま。
「粥すする人」は小町を俤(おもかげ)にした零落の乞食。
「涙ぐむ人」は、留守番の淋しい奉公人との見たて。板敷きは台所のこと。
挙句の前句「手のひらに」は、芭蕉が付けた花の定座。留守番人ののんびりとくつろぐさま。花見の留守番人。花見時期に目立つ虱を「花見虱」というとか。俗にくだけた「匂いの花」だという。この辺は解説が要る。
挙句は、前句の人を「太平の逸民」と見たてその無聊感を詠んで巻き収めている。
かくのごとく古歌、故事を踏まえ、その時代の慣習、風俗も詠み込まれるのでそれを知らないと、前句の何に付けているのやらさっぱり分からない。付き過ぎを嫌い俤、匂ひなどそこはかとなく付けるのを良しとするので、余計厄介であるがそれを楽しむのだから仕方がない。句の中に人を、場所、風景を読んだり、見たてたりするところが難しいが、またそこにえも云われぬ面白味も潜んでいるのだ。

最近、「一茶の連句」( 高橋順子 岩波書店)を読んだ。芭蕉の俳諧、連句の解説書は多いが、一茶の連句の解説書は珍しい。
自分は詩人高橋順子氏のファンである。図書館に著書を見つけると手が出る。
「一茶の連句」を読んで見て、この人の憎いばかりの深い読みと底知れぬ博識にあらためて驚愕、一層ファンになってしまった。

例えば、一茶の20年にわたる庇護者パトロンだった札差夏目成美との両吟歌仙、「蛙なくの巻」、文化元年1803年春、一茶40歳、成美53歳の時の作品で鑑賞しよう。少し長い引用になるが、その発句から第三までの彼女の解説ぶりはこうだ。

発句 蛙なくそば迄あさる雀かな 成美
蛙は春の季語。成美も相手が一茶なので一茶好みの題材をだしている。温厚で思いやりのあった人のようだ。雀が夢中で餌をついばんでいる。蛙が鳴いているのも耳に入らない。
こういうのは「鳥獣戯画」にあったかな、などと悪戯っぽいめで見ている作者。
春めくものに門で薪(き)をわる 一茶
木々は芽吹き、霞がたなびいて、生き物が営みに精をだす、穏やかないい日和である。そいうものが一茶にとって「春めくもの」だ。門の中で薪を割る人を添えて、それも春の情景とした。一茶の句に「春めくや京も雀の鳴く辺り」という句がある。雀の鳴き声に春を感じる一茶である。蛙の鳴き声にも春を思っただろう。
第三 旅人の小雨にかすむ顔見へて 成美
庭で薪を割っていると、小雨の中を旅人がやって来た。成美宅にはよく俳諧師が逗留したので、遠方から訪れた誰かれの顔を思い出しているような句である。もっともお大尽の主人は薪を割ったりしないだろうが。雑の句。(引用者注。「雑(ぞう)の句」とは季語の入っていない句のことをいう。連句では、花(春)、月(秋)の座を含めて季節を詠むところがほぼ決められているが、それ以外、恋の座など、は雑の句を詠む。)

以下挙句に至るまで、短い解説が続くが、いかにもコメント自体が詩になっていると言って良い。それでも褒め過ぎにならないと思う。
一気に一茶の連句、「正月の巻」、「枯葎の巻」、「蛙なくの巻」、「蠅打ての巻」、「夕暮れやの巻」、「せい出しての巻」を苦もなく読み切って愉しんだ。

連句は、前の前の句(打越という)に付くのは禁忌である。「観音開き」と言うそうだ。後戻りを一番嫌い、ひたすら前へ前へ進むのを良しとするからだ。ときに穏やかな、ときにダイナミックな前向きな詩の展開を解説無しで、愉しむことが出来たらどんなに良いかと思う。しかし、詩人高橋順子のように詩心と博識を備えなければならない。これは、その人の全教養が鍛えられている必要があるとなれば、そう容易なことではなさそうである。








 

「かにかくに…」の歌三首 [詩歌]

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うつつなく遊べば夜と昼となく 祇園一力春の雨降る (吉井勇) 

何の本だか忘れたがこの歌を読んで、むかし大阪で勤めていた働きざかりのころ、機会があって、日本一と言われる京都祇園の老舗茶屋「一力亭」に行ったことを思い出した。
このお茶屋さんは、一見(いちげん)さんではなかなか入れないことで有名である。歌舞伎などによって、大石内蔵助が、この茶屋で遊んだことでも知られる。
仕事の関係で京都のさるお方に連れて行ってもらったのだが、まさに一生に一度のお茶屋さん遊びを垣間見ることになった。とはいえ仕事だから、楽しむ余裕などなく、むろん吉井勇の歌の「うつつなく遊べば」というような雰囲気などとは、ほど遠い。
今思い出すのは、襖の縁、柱、梁の黒い漆の線、ベンガラ色の壁の色、うす暗いなかに浮かび上がる、舞妓の妖しいとしか言いようの無い美しさくらいか。
一力は東山区にある京都最大の花街、祇園甲部にある。
京都には五花街(祇園甲部、祇園東、 先 斗 町 、宮川町、 上 七 軒 )がある。
それぞれの芸妓、舞妓が日頃の踊りなどの研鑽の成果を発表するのが、京の春の恒例となっている。一力にはこの踊りを鑑賞した夜に、連れて行って貰ったように憶えている。
この春季の舞の披露は、披露という名の一種の舞踏公演であり、祇園甲部の場合、舞台はその歌舞練場で行われる。公演は五花街の順に、都をどり、祇園をどり、鴨川をどり、京おどり、北野をどりという。
中でも祇園甲部の「都をどり」が、やはり代表格、文字通り京の「春のおどり」であろう。
この踊りは4月1日から、一ヶ月も続くのだが華麗そのもの、日舞の好きな人にはたまらないだろうが、何せ無粋の代表であるどぶねずみサラリーマンには勿体無い時間。上演前、祇園甲部歌舞練場の2階でお茶席が設けられ、お茶が振るまわれる。点茶をする芸妓は京風の島田髷を地毛で結い、衿を裏返す黒紋付の正装姿で登場するというが、その面差しも、お茶の味も覚えていない。猫に小判、豚に真珠とはこのこと。

吉井 勇(よしい いさむ)は、1886年(明治19年)生まれ。大正・昭和期の歌人、脚本家である。爵位が伯爵なのは、祖父が薩摩出身の幕末の志士で明治政府の役人だったから。
歌風は耽美頽唐とされる。「頽唐・たいとう」は頽廃と同じ意味であり、健全な思想は衰え、不健全な思想の傾向に進んで行く様子をいうと、辞書にある。
だから「遊蕩文学」と悪口をいう人さえいる。

毎年、秋(11月8日歌碑建立日)に、上記の祇園甲部の芸舞妓が祇園白川畔のある吉井勇の歌碑に白菊を献花して歌人を偲ぶ「かにかくに祭」が行われている。歌人が、当時いかに祇園で豪勢に遊び、芸舞妓たちからいかに慕われたかが推察できるというものである。しかし、延々と今に続いているというのは、金の力は既に消えたであろうから、やはり歌の力か。
この祭りの冠名となったのが、吉井勇の次の歌である。

かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる

「かにかくに」は、辞書を引くと「とやかくと。あれこれと。」とある。
あれこれは分かるが念のために「とやかく」を同じ辞書で確認すると、「とやかくや」の「転」で、「批判めいたことをいろいろ言いたてるさま」とある。「なんのかの」、「あれやこれや」。「兎や角」と書くことも、とある。
この歌の場合、「とやかくと…でなく、あれこれと…祇園は恋し」と解釈すれば良いのであろうか。

戦乱、災害があってもそんなことは何処吹く風、芸者、踊子、落語家、幇間らを侍らし、大尽遊びのはてに夢うつつ、枕の下をながれる水の音に憂世を浮いた浮いたで過ごすものがいたのだ 。
しかも絶えることなくこれが長い時代続いたのだから、考えてみれば京都というのは、文化、経済(財力)とも異次元の世界である。内蔵助の祇園一力、「なによくよくよ川端柳、水のながれを見て暮らす」と謡ったという高杉晋作の「井筒屋」、モルガンお雪の「加藤楼」などあまたの料亭と名妓、そして彼女らによる春の「都をどり」などは異次元の世界の象徴なのだろう。

吉井勇が祇園で遊んだ時期は、1915年(大正4年)、歌集「祇園歌集」(装幀は竹久夢ニ)が新潮社より刊行された頃であろうか。前年1914年が第一次世界大戦、翌大正5年が対華21カ条要求という時代である。
吉井勇は、戦後に耽美主義、陰翳礼讃の谷崎潤一郎、あの「老いらくの恋」の歌人川田順、広辞苑編者でエスペランティストの新村出らと親しく交わったことが、歌風の変化に影響したと言われる。1948年(昭和23年)歌会始選者となる。日本芸術院会員。1960年(昭和35年)歿。76歳。

「かにかくに…」という歌い出しの歌であれば、関東生まれ育ちの自分にとっては、むしろ石川啄木の次の歌の方が、京の祇園の吉井勇のこの歌より先に頭に浮かぶ。

かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川

石川 啄木( たくぼく)は、1886年(明治19年)盛岡市生まれ。本名は一(はじめ)。 1912年(明治45年)肺結核で歿。享年26。「 一握の砂」 、「悲しき玩具」が代表的な歌集。

奇しくも吉井勇と同年の1886年の生まれである。76歳まで生き「長生きも芸のうち」と言ったという吉井勇 、26歳で病と貧困のうちに夭折した啄木。京都祇園は恋しと歌った勇 、東北岩手、渋民村は恋しと詠んだ啄木は全くの好対照、両極端であると言っても良い。

石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし

とも歌った啄木の郷愁は、前掲の歌でかにかくに渋民村は恋しいとも言い、屈折している。望郷とは、人によりそういうものであろう。

さて、「かにかくに」は、「とやかくと、あれこれと」と辞書にあることは上記の通りだが、用例として「…人は言ふとも 織り継がむ(万葉集・1298)」と載っていたのでその歌を調べて見た。

かにかくに人は言ふとも織り継がむ 我が機物の白麻衣 

かにかくに ひとはいふとも おりつがむ わがはたものの しろあさごろも
万葉集・1298 柿本人麻呂歌集。
題詞(寄衣)。原文は 「干各 人雖云 織次 我廿物 白麻衣」
歌の意は、あれこれと人が言うとしても、織り続けよう。私の機に織っている、この白い麻の衣を。

にわか勉強ながら、万葉集は、内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三つに分類されるが、表現様式からは、次の四つに分けられるそうだ。
①寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
②正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
③詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
④譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いを物に託して表現
従ってこの歌は、「相聞歌」で恋の思いを衣に喩えた「比喩歌」ということになろう。どだい比喩には直喩、隠喩、諷喩などがあるからわかりにくいが。

だから本当の、隠された歌意は、「人はとやかく批判めいたことを言っても、機を織り続けましょう、つまり、恋を続けましょう」ということになる。

万葉集・1300も同じく譬喩歌(ひゆか) であるが、(柿本人麻呂歌集)こちらの方がもっと分かりやすい比喩だ。

をちこちの 礒の中なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも 
(をちこちのいそのなかなるしらたまを ひとにしらえずみむよしもがも)
[題詞](寄玉)
原文 は、「遠近  礒中在  白玉  人不知  見依鴨」
歌の意味は、あちこちの海辺の石の中にひそむあの白玉を 、人に知られず見ることができないだろうか

ここで「白玉」は、真珠か、(身分の高い)美しい女。「をちこちの磯」は、「白玉」を厳しく護っている人々の喩え。両親も入っているか。とすれば本当の歌意は自ずと見えてくる仕掛だ。
     
「かにかくに」自体は、わかったようでわかりにくいことばである。何かいろいろ意味しているようで漠としているから、歌の歌い出しに都合がよいのだろうか。読み手が勝手に想像を膨らましてくれる。
吉井勇、石川啄木、万葉集1298、この三つの歌にとどまらず、自分の知らない「かにかくに…」で始まる名歌が他にもあるかもしれない。

それでは俳句ではどうかと考えてみると、不学にして思いつかない。何か理由があるのだろうか。だが、ひとつだけ見つけた。

かにかくにまづ箸にせよ菊膾 角川 照子  

「春樹帰る」の前書きがある。
菊膾は菊の花びらを茹でて三杯酢などで和えたもの。甘く歯ざわりも良い。歳時記で季はもちろん秋。
「かにかくに」は「何はともあれ」という雰囲気か。息子よ、帰ればあれこれとしたいこともあろうが、まず菊膾を作っておいたからそれを食べてからにおし、私もしてあげたいこともあるのよ。といった母親の気持ちが切ない。  

  作者角川照子(かどかわ・てるこ)が、角川書店創業者の故角川源義(かどかわ・げんよし)氏の妻で、長男が「角川春樹事務所」特別顧問の春樹(はるき)氏。  俳人で「河」主宰。作家で歌人の辺見じゅんさんは長女、角川ホールディングス社長兼CEOの歴彦氏は二男と知ると、一層味合い深い佳句である。
作者は、2004年平成16年亡くなった。75歳であった。


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後期高齢十五首 [詩歌]

古希を迎えた時、七福神にかけて思いのたけを七句の戯れ句に込めた。
       
        古希なれば鏡のうぬは布袋腹
        古希なれど足るを知らない福・禄・寿
        古希なりて我が夢のゆめ寿老人(じゅろうじん)
        古希迎え弁財天とサファイア婚
        古希ならば無理してつくれ恵比須顔
        古希老に小槌貸してや大黒天
        今ぞ古希毘沙門天のご加護あれ
        
あと半年足らずで後期高齢者になる。
今度は戯れ歌にした。狂歌である。最初、すべての七七の前七(第四句)に後期高齢と入れたが、連作「後期高齢」と題すれば不要だろうと気がつき省略した。一首につき七文字がほかに使える。十五首で百五文字の得。が、後期高齢を入れたほうが味の出るものもありそう。
ん?この部分は、短歌の異称「腰折れ」の由来となった部分だったのではなかったか。腰は第三句のことで、第四句とうまくつながらい歌が腰折れ。

連作 戯れ歌 後期高齢

滑稽を腰折れうたに詠み込みて明晰頭脳ボケのはじまる
真実を吐けばすべてが狂歌(うた)になる白髪頭の蜀山人か
二年後に喜寿祝わんと願いけり幾つになっても極楽とんぼ

鰻食ふ茂吉あやかり喰べているスーパー目玉さんま蒲焼
歩くより車が楽と言い訳し逆走怖いが免許更新
たびぐつと暖パンはきて渋谷まで破廉恥爺に怖いもの無し

光陰は新幹線と思いしが乗ることは無いリニアのごとし
妻や子に悪態をつくかたわらで憎まれ爺は猫に優しき
ヴァーチャルに遊ぶ老人のアイパッド白煙のぼる玉手箱かな

億劫と鬱は紙のうらおもて思い知らさる老懶(ろうらん)の春
億劫はそも人の世の常なれど無洗入浴老痩躯かな
バロックの通奏低音聴いてゐてイヤホンはずし 難聴を知る

朝ドラの祖母を演じる女優こそわが青春のアイドル愛(かな)し
愛しあい罵りあいて偕老の洞穴入りて半世紀過ぐ
めでたくも金婚式と重なりぬ蒲柳の夫婦(めおと)感謝あるのみ

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狂歌(きょうか)は、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成する諧謔形式の短歌、つまり、和歌に対して,狂体の和歌,すなわち純正でない和歌という。ひなぶり (夷曲,夷振) ,えびす歌,狂言歌,ざれごと歌,たはれ歌,ざれ歌,俳諧歌,興歌,へなぶり,など異名がたくさんある。
江戸時代の中、後期、特に天明(1780年代)の頃 隆盛を見た。
寛政の改革(1787ー1793)を皮肉った
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
黒船来航(1853)の幕府対応を揶揄した
泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず
などは誰もが知っている。
古くは万葉集」の戯笑(咲)歌,「古今集」の誹諧歌,軍記物語中の落首なども狂歌だという。
狂歌師としては、狂歌三大家と言われる唐衣橘洲(からころも きっしゅう) 、蜀山人(太田南畝) 朱楽菅江(あけらかんこう)が著名。 ほかに宿屋飯盛 (やどやめしもり)、 蔦唐丸( つたのからまる)、酒上不埒(さかのうえのふらち) 筆の綾丸 (ふでのあやまる=喜多川歌麿)、多田人成(ただのひとなり)土師掻安(はじのかきやす)など。
川柳が現代に生き残っているのとは対照的に、いま狂歌をあまり作る人がいないのはどうしてか。

さて、こうしてみるとわが後期高齢の狂歌は、社会風刺になっていないのでただの老人の嘆息、つぶやきに堕してすこぶる迫力に欠ける。

しかも全体のトーンは、独り善がりの自虐、自嘲。先の古希の句も自嘲句なら、今回も自嘲歌。可愛げがない。
なお、余計ながら第六首の「暖パン」は知る人ぞ知るが、「たびぐつ」の方は説明が要る。職人さんが履く靴(足袋靴)であるが、老人には実に履き心地が良い。優れものであり一度履いたら手離せ、いや足離せない。

肝心の後期高齢者医療制度については、嫌われるその名称のことでなくほんとうのことを、当事者としてじっくり考えてみる必要があると自覚はあるが、何やら億劫だ。またの機会にしよう。

以下蛇足。60代はヤング-オールド、70代はミドル-オールド、80代はオールド-オールド、それ以上はオールド-パァという区分が確か阿川弘之の随筆にあったが、前期を65歳からとし後期を75歳からとするこの制度はこの5年きざみに実際的な意味があるように思う。
75歳から後期、実は終末期、とするこの区分は、90以上はパァとする区分より厳しいが、行政としての都合でやむを得まい。
阿川弘之氏は1920年生まれだから今年95歳。長寿医療制度の恩恵にあずかって、ご健勝のことと思う。

平成二十八年 丙申歳旦三つ物 [詩歌]


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連句は長句(5・7・5)短句(7・7)を交互に前の句に付けて繰り返し詠む。
歌仙、半歌仙は36、18句、ときに百韻などとてつもなく長いものまである。独吟もあるが両吟、三吟それ以上の複数者が集まり紡ぐようにつないで遊ぶのが楽しいとされる。ときに酒など嗜みつつ。いわゆる座の文芸のひとつである。
室町時代の連歌をみなもととする俳諧とは基本的にはこの遊びである。
第一句を発句、次が脇、三句目を第三といい、最後が挙げ句である。発句が独立して俳句になったことは周知のとおり。表、裏、折立、折端の句や花の座、月の座の位置など厄介なルール(式目)があるが、人はときにそれにこだわらず愉しむという。
明治時代例えば漱石、寅彦などもおおいに楽しんだ。大岡 信、丸谷才一、岡野弘之らの歌仙集も何冊かある。ネットを利用したりして、現代にも少なからず愛好者がいるようだが、もとより江戸時代の隆盛から見れば淋しい。子規が俳句復興を急ぐあまりに、連俳は文学に非ずと評価したことも、衰微の一因といわれるが、今では子規の誤まりとする説が一般的になっている。

ところで昔の人は正月(歳旦)や何かしらめでたい時(吉事、慶事)などに、連句の冒頭部分の発句、脇、第三の3句までのものをつくるならわしがあると知った。「三つ物」と称する。独吟の変形。真似て何度かつくってみた。

最初に作ったのは、2005年の正月。写真を入れてパワーポイントも作って遊んだ。家人の五十肩の平癒を寿ぐ。この年に次男が奥穂高神社で結婚式を挙げた。

平成十七年乙酉歳旦三つ物
発句 五十肩消えて弾き初めヴァイオリン
脇 いよよ華やぐ老いの春なり
第三 挙式せん山笑う頃穂高にて

年賀状に添えたら、連句を教えてくれた職場の先輩からメールが来た。返歌だとして次の「松の内三つ物」が書いてあったのが懐かしい思い出になっている。

三つ物の何やら嬉し年賀状
心新たに立ちし元朝
還暦を過ぎて始めしことありて

また、初孫誕生で2013年に。73歳の爺は吉左右に舞い上がった。博多の「祝いめでた」は、鯨とりのはやし歌という説があると聞いたことがある。脇の句は、その歌い出しをそのまま頂戴して。
孫誕生三つ物

発句 初孫やさても見事な初緑
脇 祝いめでたの若松様よ
第三 背美鯨大網かはし潮吹きて


さて、昨年、2015年の暮れも久し振りで三つ物をつくった。
平成二十八年 の丙申歳旦三つ物

金婚や持ち重りする薔薇の花
冷房きかせ聴くクインテット
水彩画かくもながきに愉しみて

昨年なんと金婚式だった。最近読んだ丸谷才一の小説の題名「持ち重りする薔薇の花」をそのままパクって発句にした。もじりどころではない。
が、できた句は金婚は迎えて嬉しく、めでたいと感謝する一方、加齢とともに重くなってくるだろうという感慨が、自分にはぴったりである。

そこで「脇」は、クーラーをきつくして五重奏(クインテット)を聴く、とした。前句の「持ち重りする薔薇」は四重奏団(カルテット)の話だが、金婚なのでクインテットにした。
薔薇は夏の季語なので脇も夏の句。冷房をクーラーと読んで貰えれば、「か行」のならぶ句になった。

第三は前の句から大きく転換しなければならず、かつ発句(前々句)と関連することはタブー。連句はひたすら前へ進み後戻りはしないのである。
出来ればめでたいことを詠いたい。クーラーから水、水彩画と付けた。水彩をはじめて十一年、まだ飽きず懲りずに下手をやっているコトを詠んだ。第三は季語が入らない雑(ぞう)の句で良いとされる。

このように説明を要し、説明を受けてもたぶん読む方は、腑に落ちないだろうと思う。まして説明がなければ、ちんぷんかんぷん。下手な証左でもある。
読み手がその時思ったことを、前の句に勝手に付けて詠う。つけることができる句は、幾つかの制約ありといえども無限に近いから、連句は基本的に曖昧な側面を持つ。
個々の句は極めて個人的なものだから読者には分かりにくいが、それにしても今回のはひどい。
つくづく連句はすぐれて個人的な感慨を詠い、人にも分かって貰うという普遍性も持たねばならぬ厄介な遊びであるという気がする。
関係のありそうななさそうな句を連ね、全体として一つの詩となるような、ならないようなあいまいなところが何とも言えずよろしい。曖昧短詩、曖昧文芸の良さであろうか。

さて、今年の年賀状に薔薇の花の水彩画にこれを添えてだした。上記の理由から無茶というもの。独りよがりもここに極わまれりである。

平成二十九年 丁酉歳旦三つ物 [詩歌]


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むかしといっても、江戸時代であろうか、連句が盛んだった頃、正月や慶事があった時に第三までの三句を三つ物といって詠んだと知った。そこで自分も我流で2005年頃から作って愉しんでいる。
今年も歳旦三つ物をつくった。俳句、連句、短歌にしろ定型詩というのは、つくりやすいという側面があるが出来たからといって、良いものになるという保証はない。自分の場合大抵は良くない。加えて歌仙の独吟は文字どおりの独りよがり。以下のごとく解説をつけても余人には理解しがたいだろう。

平成二十九年 丁酉歳旦三つ物
発句 沼袋井草繁や鷺ノ宮
脇 まなうらに見るしらさぎの舞
第三 今朝のジムヨガ瞑想で始まりて

東京は中野の白鷺なる地名のここに、同じく都下の東大和市芋窪なる地から引越してきて早くも36年余の月日が流れた。
白鷺と芋窪では地名の雅さにおいて落差がある。芋窪という地名は自分が新興住宅地の分譲地を購入した時にはすでに上北台という地名に変わっていたが、聞くところでは由緒ある地名なのに変えたという。地価を上げようとする魂胆が透けて見える。
白鷺もその類いであろうと調べたら、鷺宮という地名があって人口が膨らみ、鷺宮から分離したとき、当時すでにあった白鷺八幡神社の別当寺南蔵院の山号が白鷺山だったことから、白鷺という地名にしたらしい。
まぁ許せる範囲か。自由が丘、ひばりが丘などよりましというもの。統合、合併などでつけられる新地名が生まれる一方、由緒ある地名が消滅するのはいただけない。西東京市が出来て田無や保谷が消えた如くに。

参考記事 「白鷺35年」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23

西武新宿線沼袋駅と上下井草駅の間に鷺ノ宮駅がある。わが最寄り駅になるが、中央線だと阿佐ケ谷駅になる。周囲の地名から容易に想像できるように、ここがかつて低湿地だったことを示す。近くを妙正寺池を水源とする妙正寺川が流れ、やがて神田川になる。

上記のブログで白鷺なる地に住んで長いが、白鷺を見たことはないという意味だけの駄句を詠んだ。
眼裏(まなうら)に白鷺を見て暮らしをり

今年の歳旦三つものは、これを発句の初案にしたが、脇以下のあとが続かず低湿地だから藺草も繁っていたであろうと、駅名を並べ雰囲気だけを詠んで発句とした。

発句 沼袋井草繁や鷺ノ宮
「藺草刈る」が夏の季語という。別案「沼袋藺草刈り干す鷺ノ宮」もお宮の座敷用の畳藺草をイメージできて捨て難かったが、シンプルに「繁や」とした。

脇 まなうらに見るしらさぎの舞
初案の駄句(五・七・五)を短句(七・七)になおしたが、鷺ノ宮と白鷺がつき過ぎ。同字を避けてしらさぎを平仮名にしても修正ができぬ。他に代案が浮かばず、不満ながらやむなく採用。

第三 朝のジムヨガ瞑想に始まりて
10年近く通った鷺宮フィットネスクラブが老朽化を理由に閉鎖してしまい、隣の下井草駅前のジムに移って7ヶ月になる。
週2ないし3回行くジムでは、スローヨガ45-60分のプログラムに参加するのがメイン。あとはたまに筋トレ、プール。
第三は大きく転換するのが理想(特に発句と重なるのは禁忌…後戻りしてしまう)ながら、これでは白鷺の地からいくらも出ていない。
最近すっかり出不精になり、引き籠もっている我が身を歌っているようだ。

ところで、昨年も「二十八年丙申歳旦三つ物」をつくった。

発句 金婚や持ち重りする薔薇の花
脇 冷房きかせ聴くクインティット
第三 水彩画かくも長きに愉しみて

「持ち重りする薔薇の花」は丸谷才一の小説の題名から。我ら「金婚」によく付くのではとそのまま拝借した。小説のテーマは四重奏団(カルテット)のメンバーの確執、葛藤を描いたもの。当方は金婚なので五重奏(クインティット)にしたところがミソ(冷房をクーラーと読み、か行の句でもあると自画自賛)。
これも解説をつけても他人には理解困難だが、(心臓で)年賀状に添えた。お稽古中の静物画、薔薇の花の水彩画をつけて。

参考記事「二十八年歳旦三つ物」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-01-10

さて、今年の年賀状に三つ物を添えるとしたら、絵は何が良いか考えた。そうだ、あれだと思い出したのが、J・オーデュボンの白鷺の水彩画。模写のお稽古にもなる。
オーデュボンはたくさんの鷺類を描いている。
中でも有名なのが、「Great Egret 大白鷺」(1821 Watercolor,graphite,ink ,and chalk on paper)で、これを添えたいものだ。この辺は良し悪しは別として、連句的発想である。

オーデュボンの「大白鷺」の原画は紙に水彩、グラファイト、インク、チョークとされるが、ある雑誌の記事では水彩、石墨、グワッシュ、パステル、白色顔料、黒インク、黒チョーク、紙とある(芸術新潮 2013年6月号) 。いずれにしろ驚異のマルチな画材を駆使した絵だ。オーデュボンの代表作の一つ。

ジョン・ジェームズ・オーデュボン( John James Audubon, 1785- 1851 66歳没)は米国の画家・鳥類研究家。北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描い
た博物画集の傑作「アメリカの鳥類」(Birds of America, 1838年)によって知られる。

参考記事「オーデュボンの水彩画」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-06-01

当方の模写は、水彩と鉛筆、ボールペン(白)。細い白い羽は烏口でマスキングし、白のぼかしにパンパステルを使ったりしたが、およそ二百年前のオーデュボンの足もとにも及ばぬ出来になった。紙はウオーターフォード(F4)。

何はともあれこの歳になると、今年も昨年に続き、下手な絵と歳旦三つ物ができて年賀状が出せたことは、誠に幸いであるとしみじみ思う。

受け取ったひとが「ん?」という顔をしているだろうことはまちがいないが。


一年ニ句選 [詩歌]


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俳句は身のまわりにたくさんあったのに、なぜか自分で作ろうなどと思ったことがなかった。例えば自分が働いていた会社では入社した頃、毎月発行する貯蓄債券の商品の広告に俳句を使っていた。
まあ何とも古いセンスときめつけ老人にしか受けないだろうなと思っていたが、俳句は人気があるとみえて花を広告のテーマにするようになってやめるまで、随分長く続いたようだ。

わがサラリーマン生活が不本意にも突然終わる時がきて、あわただしい生活が終わろうとしていたときに、なぜかふっと頭に浮かんだのが俳句だった。俳句はため息文学とも言うとか、その通りふうっと息を吐いたときに生まれた。
残っている記録では平成14年(2002)の歳末の二句がはじめての俳句である。
いわば処女句である。

蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日
すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る

最初の句は、蠟梅と大晦日とが冬の季重なり、しかも多弁は造語。蠟梅は普通香りを愛でるが、五弁の梅と違い花弁の多いのが良いねと話しているというだけのもの。
二句目は、すさまじい(秋の季語)は、冷じいで、「荒ぶる」が語源という。季語としては「秋冷がつのる」という意とか。
すさまじいとしか言いようのない今年も過ぎて行くんだなあ、という感慨にふけりながら風呂に入る、と詠むときに使っても季語になるのやら心もとない。
なお、風呂は季語ではないとかで、困惑するばかり。「年も過ぎ行き」で年の暮れになるのだろうか。
いずれにしても、はじめての句は今思うとなやましいことでいっぱいだが、こういった悩みは、いつまでも消えないものである。
それにしても自分にとって平成14年(2002)は、年頭1月から年末まで確かに凄まじいとしか言いようのない年であったことを、この句を読むと思い出す。
しかし、そんな年の暮れに俳句を詠むことが出来たのは、何より幸せだったと思わねばならぬ。

あれから15年も経ち、これまで多くの自己流の駄句を作ったが、これを俳句と言って良いものかといつも考える。いずれにしてもいくら作っても良い句は出来ない。もっとも、自己流だからどんな句が良句なのかも分からないのだが。
いつも「冷や汗駄句駄句」とつぶやきながら作っているのである。

一年ニ句を選んで見た。たくさん作った年と少ない年がある。二句という数に意味は無い。一句を選びきれなかったのも実力がない証拠か。
こうして時系列で並べてみても、年を経たからといって出来は良くなっていないのは明らかだ。が、俳句というものは作者にとって日記の代わりにはなることだけは確認出来た。
何やら最近勢いが弱くなって来たのは気になる。句数も減って来ている。

2002 (平成14) 蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日
すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る
2003 (平成15) 意馬心猿鬱金桜に風と消え  
故宮にて翡翠白菜息を呑み
2004 (平成16) 御徒町女義太夫夏袴
被爆せしおうな傘寿や半夏生
2005 (平成17) 嘉魚棲みて明神池の佳き日哉   
飯桐の実のおびただし過ぎし日よ
2006 (平成18) セーターをせめて二枚に老痩躯
田の中の耳塚暮れて秋深し
2007 (平成19) 寒酒や父の形見の河豚徳利
栃わかば明日は晴れよ破れ傘
2008 (平成20) やまももや遅疑逡巡もせず熟れて  
春潮やさかしまマンション船溜まり
2009 (平成21) 採り時を教へぬキウイの硬さかな   
冬ざるるアイスプラント塩きらら
2010 (平成22) ふゆばらや麻酔科女医の声やさし
口縄に似た瓜まっつぐぶらさがり
2011 (平成23) リフォームや壁に仔猫の出入り口 
引越しの猫に木天蓼(またたび)キャリ-籠
2012 (平成24) 水彩を学び八年破蓮(やれはちす) 
武蔵野の武蔵野うどん武蔵振り
2013 (平成25) 初孫は男の子なり若緑       
春さむき春のあかつき有明山
2014 (平成26) ゆくりなく翡翠にあう花見かな
寒明けや気くばりボスのお別れ会 
2015 (平成27) 右手(めて)上げてピンクの信号毛布猫
自画像の髪眉白く冬帽子
2016 (平成28) 眼裏(まなうら)に白鷺を見てくらしをり
隈府から東都に飛びし蜜柑穂木

やまどりの長き尾一閃いま雲に [詩歌]

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この一月、畏友を一人失った。友というより会社の一年上の優秀な先輩で、自分がどうしても追いつけなかった方である。まさしく自分とは「月と何か」くらいの差があり、同僚、部下(会社の先輩さえも!)に慕われ、誰もが一目置いた存在だった。
新入社員の頃からの家族ぐるみで世話になって以来のお付き合いなので、奥様にお悔やみの手紙を出したら、これ以上ないと思われる見事な返礼状を頂いた。このご夫婦にはとうていかなわんとまた思い知らされた。
昨年の賀状に夫婦で喜寿を迎えると添え書きがあって、その前の年にはまた会いたいものですねと、書いて頂いたことを思い出したが、そうしなかったことを悔やんでいる。
彼は役員で退任したとき、自分が設立の企画に携わって新発足した信託銀行の社長に就任された。周囲が期待したとおりの実績をあげたが、それは彼の人生のほんの一部に過ぎなかっただろう。しかし我ら二人が意図しなかったことといえ、この関わりは自分には何か因縁めいたものを感じたものである。

追悼の折句を作った。

やまどりの長き尾一閃いま雲に

自分の句は柿本人麻呂の有名なやまどりの歌を踏まえている、などというほど立派なものではないが、誰でもこの歌を想起するだろう。

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む

この歌は拾遺集に収められたものだが、離れて暮らすという山鳥のつがいが啼いて呼び合うという習性をふまえて作られた歌である、ということはよく知られている。

絵は水彩(F4Waterford)で描いた山鳥。このあと空にもう一羽を付け加えたが、こちらの方が良いのは想像の余地があるからか。




山峡(やまかい) [詩歌]

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栃木県那須烏山市の横枕(よこまくら)はわが亡母の生地、わが疎開地、3歳から高校まで育った故郷でもある。
今や市になっているが、当時は那須郡境村(後に烏山町)横枕であった。疎開先となったくらいだから、東京までは当時一日がかりだった。僻地といっても良い。昔から山の中の代名詞として「大木須・小木須・横枕(おおぎす・こぎす・よこまくら)」といわれてきた。なかでもわが横枕は茨城県境に近い八溝山系にあり山の中の集落である。

いまグーグルマップで検索すると、東京の我が家から東北本線(新幹線利用)宇都宮で烏山線に乗り換え終点烏山駅まで2時間39分。そこからはバスで30分くらいだろうから、今でもおよそ3時間余かかるのである。東京から新大阪までの新幹線の時間がちょうど2時間半だ。車だと東北道利用で2時間48分とある。

小中高と一緒に通った幼馴染の友人がいる。彼は、香港・イタリア、アメリカなど駐在を含めアパレル商社で長年活躍した。リタイヤしたあと山の中で暮らしたいと、故郷那須烏山市に戻って17年になる。
この友人が親切で、幹事を引き受けることが多いこともあって、自分は小中高のクラス会があると出かけていき、宇都宮から先は全面的に彼の世話になる。

その彼から昨年11月「山峡(やまかい)」と題した一冊の歌集が送られてきた。友人は奥様ともどもテニス好きで、シニアで何度も地区優勝し韓国大会あたりまで出かける。またリタイア後、車によるアメリカ横断旅行を5回もした行動派のつわものだが、歌は詠まない。
歌集は友人の生家の向かいに住む方が自費出版したものという。たぶん君も懐かしく読むのではないかと思って、と親切にも送ってくれたのである。
中学生か高校生だったか定かでないが、山峡(やまかい)という言葉を知ってわが横枕にぴったりの言葉だと思ったことを、直ぐに思い出した。
歌人は山峡の農家を継いで稲作、肥育牛など農業を営む八十路の老爺である。五十四歳から短歌誌に参加して歌を読み始めたという。
自分はもとより短歌を勉強したこともないので、本当の良さは理解出来ないと思うが、良い歌(佳什)が数多く収録された素晴らしい歌集である。
友人が自分を思い出してくれたとおり、懐かしくわが幼少時代の田舎の生活を思い出した歌が沢山ある。


この歌集には歌人の喜寿の時に詠まれた歌もあって、それに刺激された訳ではないが、昨年平成29年6月、古里の近く馬頭町の温泉「東家」で開催された境中学クラス会、喜寿の会に出席した時のことを詠んだ腰折れ一首を作った。

喜寿の会六十年の再会に面差し残る人一人いて

馬頭町は小川町と合併して那珂川町となった。財政が裕福で那須烏山市とは隣接するも、一緒にならなかったと友人が教えてくれた。この辺り出身の高校の時の友達がたくさんいた。
前記の通り短歌も習ったことはない。時折りいたずらで作るが、いつも狂歌のようになる。また説明調になる。我ながら歌になっていないし、詩情もない。三十一文字だけというしろものである。よって自嘲的に腰折れと呼ぶ。
「山峡」の歌人の歌は言うに及ばず、新聞記事で歌会始の歌などをみると、すらすらと歌うように流れ、中身はまさに詩になっている。こうでなければと分かっているが、自分がやるとなかなかうまくいかない。
このうたも「面影残る人数多(あまた)いて」(事実に近い)とした方が良いのか、「面差し残る人一人いて」(ドラマチックだ)とした方が良いのか迷った。果ては会津八一にならって、すべてひらがなにした方が感じが出はしないか、と疑がったりする。

きじゅのかいろくじゅうねんのさいかいに おもざしのこるひとひとりいて

リタイヤしてからでも「山峡(やまかい)」の歌人のようにちゃんと勉強すれば良かったと(遅きに失しているが)反省することしきりである。


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喜寿の歌五首 [詩歌]

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2015年、後期高齢者になったとき、狂歌に限りなく近い「戯れ歌 後期高齢15首」を詠んだ。
その中の三首目に
二年後に喜寿祝わんと願いけり幾つになっても極楽とんぼ
というのがある。

そして昨年の夏、「極楽とんぼ」はめでたくも喜寿を迎えた。
体調も良くないこともあるせいか、気持ちのノリが悪いというか、今回はなかなか戯れ句、戯れ歌でもつくろうという気になれない。はなはだ冴えない。
この歳2017年は、身内のほか学生時代世話になった方や会社の先輩などの急逝・訃報に接したことも多分に影響している。
しかし、単に老齢化による感受性の鈍麻と語彙の忘却が進行して歌など浮かぶどころではなくなりつつあるだけのことのようだ。
人に読んで貰えるようなしろものではないが、生活の備忘録として喜寿の歌5首。

喜寿の会 六十年の再会に 面影浮かぶ人 一人いて
九十歳 何がめでたい 喜寿なれど 喜こばずや 蒲柳の我は
「TENQOO・(天空)」に 祝いし喜寿の 目の下の 「東京ビル」に 新人がいた
いまどきは「ハルサイ」を聴く中二病 綾香聴く喜寿 我は何病
喜寿の年 9年ぶりの 内視鏡 画面の大腸 朱き雉の目

一首目 2017年6月、那須烏山市那珂川町の馬頭温泉郷 「東家」で故郷境中学の同窓会に出席した。
二首目 佐藤女史の「90歳で何が目出度い」という気持ちも分からぬわけではないが、当方は身体が丈夫な方ではないので喜寿でも素直に嬉しい。
三首目 7月東京駅の高層ビルにあるレストランに子供達、孫、姉が集まって喜寿を祝ってくれたとき、東京駅全体と周辺が真下に見えた。郵便局の近くに自分が社会人1年生としてスタートした職場のあったビルが眼に飛び込んで来た。一瞬にして当時のことを想起した。
四首目 この歌のことは、既にブログに書いたので省略。
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2018-01-08
五首目 11月区民検診で便潜血が陽性と出た。大腸の内視鏡検査は、前回は2008年だから9年ぶり。済生会中央病院で3つのポリープを取ってもらい組織検査もして貰った。
医者が問題ないとの検査結果を説明してくれた時のモニター画面。そこに現れた我が大腸の写真は、赤くて雉の目のように見えた。喜寿の目。オキーフの描く花にも似ていた。

喜寿の感慨を詠んだものではないが、他にこの年に作った歌五首。上記喜寿の歌に劣らず 、出来が悪くてわれながら情け無い。

二つ上 病みし兄の 乾く喉 姪の飲ませし 水に微笑む(1月蘇我にて)
一つ上 頭上がらぬ 先輩の 訃報に悲し 「WAKITYAN!」の声(1月柳井さん逝く)
籾蒔いて水やるだけの三ヶ月 ワインバケツに稲の花咲く(5月バケツ稲づくり挑戦)
アイフォーン 冥土のみやげと買い替えて ユーチューブにて裏技磨く(5月鷺宮ドコモ)
教え子の 兄の手紙を 読む前に 母なる人の 訃報とぞ知る(6月長男敏博君が喪主)


冒頭に記したように、後期高齢者になったときは、狂歌に限りなく近い「戯れ歌 後期高齢15首」を詠んだ。喜寿の歌と比べて見たくて再掲。

滑稽を腰折れうたに詠み込みて明晰頭脳ボケのはじまる
真実を吐けばすべてが狂歌(うた)になる白髪頭の蜀山人か
二年後に喜寿祝わんと願いけり幾つになっても極楽とんぼ
鰻食ふ茂吉あやかり喰べているスーパー目玉さんま蒲焼
歩くより車が楽と言い訳し逆走怖いが免許更新
たびぐつと暖パンはきて渋谷まで破廉恥爺に怖いもの無し
光陰は新幹線と思いしが乗ることは無いリニアのごとし
妻や子に悪態をつくかたわらで憎まれ爺は猫に優しき
ヴァーチャルに遊ぶ老人のアイパッド白煙のぼる玉手箱かな
億劫と鬱は紙のうらおもて思い知らさる老懶(ろうらん)の春
億劫はそも人の世の常なれど無洗入浴老痩躯かな
バロックの通奏低音聴いてゐてイヤホンはずし 難聴を知る
朝ドラの祖母を演じる女優こそわが青春のアイドル愛(かな)し
愛しあい罵りあいて偕老の洞穴入りて半世紀過ぐ
めでたくも金婚式と重なりぬ蒲柳の夫婦(めおと)感謝あるのみ

ついでに古希を迎えた時、七福神にかけて思いのたけを七句の戯れ句に込めたのを再掲。
       
        古希なれば鏡のうぬは布袋腹
        古希なれど足るを知らない福・禄・寿
        古希なりて我が夢のゆめ寿老人(じゅろうじん)
        古希迎え弁財天とサファイア婚
        古希ならば無理してつくれ恵比須顔
        古希老に小槌貸してや大黒天
        今ぞ古希毘沙門天のご加護あれ

後期高齢15首
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2015-02-21

歳をとるにつれ歌や俳句は上手くなるのではないかと思っていたのは、幻想(でなければ錯覚)に過ぎなかったとしみじみと思う。

絵は本文とまったく関係ない。「Vサイン」Watercolor (Arches 28.5×38.0cm)

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高浜虚子の句 [詩歌]

高浜虚子は1874年生まれ、1959年85歳で没した。
正岡子規に兄事、後に俳誌ホトトギスを主宰する。一族は星野立子、稲畑汀子など俳人が多い。
生涯に20万句を超える俳句を詠んだとされるが、現在活字として確認出来る句数は約2万2千句という。
虚子の作品は2009年12月31日に著作権が消滅し、2010年1月1日からパブリックドメイン(公有)に入っているから青空文庫で読むことが出来る。
500句、550句 600句などの虚子句集を青空文庫で読んでみた。

花鳥諷詠と客観写生を主唱した虚子の代表句は、例えばウキペディアでは次の通りである。

遠山に日の当たりたる枯野かな
春風や闘志抱きて丘に立つ
去年今年貫く棒の如きもの
波音の由井ガ濱より初電車
吾も亦紅なりとひそやかに
子規逝くや 十七日の 月明に
流れ行く大根の葉の早さかな

たしかにほぼ花鳥諷詠であり、花鳥は季語と同義語だがいずれの句にもそれが読み込まれている。また全てが客観と言えないような気もするが、写生句である。
季語がない、観念の句はもはや俳句ではないとして、伝統的な17音に徹した虚子の短詩芸術における本当の狙いは、奈辺にあったのか素人には分かるよしもない。
しかし結果から見るとこの二つは、俳句の大衆化に大きく寄与した。俳誌、俳句結社というビジネスモデルにおいて子規から受け継いだ写生、しかも誰が見ても同じの「客観写生」と誰が読んでも同じような感覚を呼び起こす「花鳥(季語)」を句に必ず読み込むべしとしたことは、俳句を詠む素人、趣味人の区別なく大きな支えになったことは疑う余地が無い。
大衆化に貢献した「新聞俳壇」も同じことだろう。
「ホトトギス」の長命、虚子一族の俳句ファミリーツリーの大きさはそれを如実に示す。虚子の客観写生と花鳥諷詠は営業戦略と揶揄する人すらいるくらいである。

ところで虚子の句をあらためて見ると、たしかに季語のない句は極端に少ない。無理やり入れている感じがするほどだ。
一方で客観写生の方は、主観写生もかなりあるように見える。もとより写生に客観と主観に明確な線が引ける訳もないのだが。
花鳥とは自然であり、自然には人間も含まれるとする虚子の俳句は、季語と人の心の動きをぶつけているだけのものが多いように思う。その意味で月並みに限りなく近い句が多いようにも思えるのだが、中にはどこか人の心に残るものもある。
これだけ多く詠めばどんな人にも感慨を引き起こすものが、必ず一つや二つあるだろうと言ったら虚子ファンに叱られるか。句は分かりやすいが、どうももうひとつ親しみが持てないのはどうしてか分からない。どこか俳句界の成功者というイメージが邪魔をするのか。かといって碧梧桐や放哉、山頭火は親しめるというわけではないのだが。

今回自分が拾い出した句は以下のとおりである。

鎌倉を 驚かしたる 余寒あり
代表句にも挙げられる。鎌倉中の人がびっくりしたのであれば「客観」写生か。
蓑虫の 父よと鳴きて 母もなし
枕草子の「ちちよ、ちちよとはかなげに鳴く」を踏まえているのだろう。
白牡丹といふといへども紅ほのか
確かによく見れば花芯の周りはほんのり赤い。とすれば客観写生句。
もとよりも恋は曲ものの懸想文
これは数少ない季語がない句。連句で言えば雑(ぞう)の句。もとよりも、のもが曲者、もとよりは、では月並み。
初空や大悪人虚子の頭上に
44歳の時のもの。大を入れて破調。字余りが効果的。さすが悪人。
一切の行蔵寒にある思ひ
昔この句に強く惹かれたことがあってよく覚えている。行蔵は出処進退のこと。
虚子の漢語好きは特別でなく、この時代の知識人は皆漢語、漢詩好き。俳句に漢語を使いたい気持ちはよく分かるが、読む方は辛いものがある。特に知らぬ漢語が入っているとしらける。
青空文庫は辞書が付いているので便利だ。
春雪の繽紛として舞ふを見よ
春眠や靉靆として白きもの
繽紛、靉靆など今使う人は無かろう。
福引に一国を引当てんかな
なんとなくおかしい。
敵といふもの今は無し秋の月
71歳、太平洋戦争終了の時の句。
出御今紀元二千六百年天高し
昭和15年の式典に出席したようだ。虚子の大戦への対処は、鴎外のそれに似て面従腹背と言えば一番近いが、酷だろうか。面従は、腹背であっても結果的には、服従だから。

この年は自分の生誕の年。翌年太平洋戦争勃発。

新俳句に走った俳人は早世する者が多かったが、伝統俳句に徹した虚子は長生きして膨大な沢山の句を詠んで昭和59年まで生きた。まるで花鳥諷詠と客観写生に守られたように。そして今なお俳句界の巨星として輝いている。



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