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村上春樹を読む(その11) ・「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」など [本]


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村上春樹の随筆などをランダムに読んでいる。

「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」(1999 平凡社)
陽子夫人の撮影した写真が掲載されたスコットランド、アイルランドのウイスキー紀行文。
ウイスキーは、アイルランドで生まれアイラ島を経てスコットランドに渡ったという。
この紀行文を読む前には、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という表題はアイラ島のシングル・モルト・ウイスキーとアイリッシュウイスキーにしても、言葉で良さを人に伝えるより飲めば分かるということかと思ったが、それにしては言いまわしが少し変である。やはりそう単純でもないようだ。
ウィスキーのもつ味わいを少しでも読者に「共有」して欲しいという願いをこめてこの文章を書いたらしい。つまり、自分の言葉だけで読者がウィスキーを味わえたらどんなにかすばらしいだろうか、という作家としての思いがこもっているのである。むろん言葉だけでウィスキーを味わうことはできない。言葉はウィスキーでなく言葉に過ぎないからだ。それでもなお作家は「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と夢を見続けるのだと次のように書く。作家が伝えたいのは何もウイスキーのうまさだけでは無い。
「でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、ぼくらのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは(少なくとも僕はということだけれども)いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ」
言葉を扱う作家としての希望、姿勢を示した表題なのだ。直球でなくカーブかナックルボールの言いまわしで、人の目を惹くところは相変わらずである。

1999年2月、仕事でスコットランドはインバネスのモルツメーカー・トマーチンデイストラリーを訪ねて見学させて貰った旅を懐かしく思い出した。
ここのウイスキーのブランドは「LANG」だった。lang は辞書によればlanguage の省略形だとある。とすれば村上春樹の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と偶然ながら呼応するような気もする。

少なくとも作家の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という夢想とトマーチンディストラリーが、そこで蒸溜して作ったウイスキーにLANG(language・言葉)とネーミングしたココロには似たものがあるかも知れない。

自分がインバネスに行った1999年は平凡社からこの本が出版された年だが、作家は1997年に「サントリークオータリー」にこの文を書いているので、旅の時期は自分よりかなり前になるようだ

作家は「うまい酒は旅をしない」とも言う。舌では分からないが雰囲気は少し分かる。灘の清酒メーカーの人から清酒は野菜や魚と同じで新鮮が一番と教えられた。地酒が美味しいのはそのせいだという。ウィスキーはどうなのだろう。都会の薄暗いバーで飲むより、荒涼としてうそ寒いインバネスで飲んだ方がうまいと思ったかどうか、今となると思い出せない。
ディストラリーの側を流れていた小川の水は、ピートが混ざっているのか茶色く濁っていたのだけいやに記憶に残っている。


「村上朝日堂 はいほー!」(1989 文化出版社)
「ハイファッション」なる服飾雑誌(眼にしたことはないが)に連載していたエッセイ集。
作家はかなり気楽に自分自身の生い立ち、性格や生活態度、趣味や夫婦仲などを書いている。自分の夫婦仲のことをこだわりなく披瀝するというのは、なかなか出来る事ではない。作家は意外とまじめな性格のよう。村上朝日堂というのは朝日新聞社専売ではなさそうだし、例により「ハイホー!」の説明はなかった(のではないか)と思うが、訳が分からないエッセイの表題ではある。

「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」(1997 朝日新聞社)
サリン事件被害者インタヴューを一年間かけて文章化していた同時期に、週刊朝日に連載していた気楽なコラム。著者は「アンダーグラウンド」(1997 講談社)とのバランスをとっていたという。シリアスなものと気楽なものとの。

「村上ラヂオ」(2001 講談社)
「anan」連載のコラム集。短くて気楽ながら丁寧で好ましいエッセイ集。読者を20歳前後の女性と決めつけず書いているのが良いのか、1話が(文庫本で)1ページ半ほどの短文なのが良いのか、理由は分からないが好感度が高いと思う。
中でも気に入ったひとつ。
「パスタでも茹でてな!」
イタリアの車の運転モラルが低い話。車の窓をあけてドライバーが「シニョーラ、運転なんかしないで、うちでパスタでも茹でてな!と怒鳴る。」という話からパスタの話になり、「国境をまたいで超えただけで、パスタが突然信じられないくらいまずくなる。国境って変なものだ。それでイタリアに戻ってくると、そのたびに「おお、イタリアってパスタがおいしいんだなあ」とあらためてしみじみ実感する。思うんだけど、そういう「あらためてしみじみ」がひとつひとつ、僕らの人生の骨格をかたちづくっていくみたいですね。」としめる。
思うんだけどという転じ方がすこぶる良い。そして後に続く文章がまたすこぶる結構。わがブログ「しみじみ e 生活」のテーマそのものだ。

「村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボガド」(2011 マガジンハウス)
「アボガドはむずかしい」
作家は難しいのは食べどきのことを言っているのだが、自分の経験では、アボガドの難しさは傷んでいるのに外からは分からないことだ。これで何度泣かされたことか。
食べどきなら、キウイの方がよほど難しい。かつて「採り時を教へぬキウイの硬さかな」という駄句を作ったことがある。
紹介されている村上夫妻のたのしむタマネギときゅうりとアボガドのサラダ、ショウガドレッシングが美味しいとの由。一度試してみたい気がした。

「村上ラヂオ3 サラダ好きのライオン」(2012 マガジンハウス)
「ブルテリアしか見たことがない」
ブルテリアは犬の種類。これしか飼ったことのない人に犬は分からない。一度しか結婚していない人に女を分かったと言えない。
各文最後の「今週の村上」がくだらないけれど面白い。特にダジャレ。フリーダイアルと不倫ダイアル、洗剤意識と潜在意識、何回止まっても一時停止など。わが記憶力が急低下しているのに、覚えているのがいくつかある。ダジャレや言葉遊びの好きな人は好きである。回文だが、「またたび浴びたたま」という著書がある。

「またたび浴びたタマ」(2000 文藝春秋)
うーむ。自分も「伊丹の酒今朝飲みたい」など言葉遊びは好きだが、一冊の本にするほどのことかなとも思う。回文に怪文が添えられているが、読んでいて「定型」は物語を作りやすいのではないかとふと感じた。5・7・5調が俳句、短歌を、韻が詩を、折句が追悼句を、作りやすいように回文は怪文を生みやすい。

「意味がなければスイングはない」(2005 文藝春秋)
かねて作家が音楽(ジャズやクラシック)についてじっくり書いて見たいとして実現したエッセイ。
相変わらず上手いアイキャッチの表題について作者は「あとがき」でデュークエリントンの名曲「スウイングがなければ意味はない」のもじりと明かしている。名言はそのままひっくり返しても意味がある場合があるものだと知る。
本文では、「シューベルトピアノソナタ17番ニ長調D850 ソフトな混沌の今日性」、「ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト」
の二章だけが少し理解できたような気がするが、あとのジャズやロックの話は殆どが理解の外にあった。


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