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清亮寺 内田銀蔵博士のことなど [随想]

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ちかこ(近子)おばぁちゃん、子供達にとって祖母、家人にとっての「ママさん」、自分にとっては義母(はは)となる、が平成12年に亡くなり今年早くも13回忌になる。
明るく賑やかなおばぁちゃんであった。孫たちをはじめとして皆んなに好かれた。

おばぁちゃんが、昭和40年に亡くなったおじぃさん(内田善蔵)と一緒に眠っているお墓は北千住の清亮寺にある。清亮寺は内田家一族の菩提寺である。
清亮寺は、日蓮宗。北千住駅から徒歩10分ほど、JR常磐線の高架をくぐったところ(足立区日ノ出町)にある。 江戸時代初期の元和5年(1619) 身延山久遠寺末として、日表上人により創建されたというから、400年近い歴史がある。

このお寺には義母が生前のときから何度か訪問することになった。
このところ体調不芳で暫くお参りが出来なかったが、この3月お彼岸に久しぶりで家人と一緒に清亮寺へお墓参りに出かけた。

以下は、おばぁちゃんが眠るこの清亮寺の四題ばなしである。
古い名刹だけあって、清亮寺には瞠目すべき幾つかのことが あるが、まず一番目、このお寺には、おばぁちゃんの嫁いだ内田家一族から出た高名な内田銀蔵文学博士の墓があることからはじめよう。家人も寺に行った時は墓前で必ず手を合わせる。

自分は見たたことはないのだが、旧日光街道の商店街を、北に歩くと、小さなビルの壁に「内田銀蔵生家跡」と書いた説明板が貼り付けてあるという。この場所こそ、わが国の歴史学とくに経済史の先駆者であった内田銀蔵博士の生家であり、近子おばぁちゃんがお嫁入りした家でもある。

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内田銀蔵は、明治5年(1872) この千住仲町の川魚問屋「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれた。店の後継者となるべきところだったが、幼時からの学問好きが嵩じ、父与兵衛を説得し、東京専門学校を経て東京大学文科大学国史科に進学する。歴史を勉強することになる。
卒業後は、大学院に進学し、とくに経済史を研究して、わが国の経済史学の先駆者となった。弱冠29歳で、東京帝国大学から文学博士の学位を取得して文学博士となる。その時の論文が「我国中古の班田収授及近時まで本邦中所々に存在せし田地定期割替の慣行に就きて」と「徳川時代特に其中世以後に於ける外国金銀の輸入」というのだから何やらすごい。末は博士か大臣かと言われたことで分かるが、当時の博士は偉かったのである。
明治36年(1903) 文部省外国留学生としてヨーロッパに3年半学び、帰国後、広島高等師範学校および京都帝国大学で教鞭をとる。東京帝大の考証史学からの脱皮を志向し、史学理論、歴史哲学に新境地をひらいて、日本近世史学をひとつの分野として確立する。京都帝国大学の「史学科」創設に貢献した。
特に日本経済史を得意分野とし、土地制度や経済発展の推移を世界史的視野をもって説いた。大正7(1918)年米欧に出張し、帰国してまもなく、残念ながらわずか48歳にして亡くなっている。人品は、謹厳、篤実、慎重、端正、修養に努め、しかもその性高潔であったという。富山房の写真が残っているが、いかにもという顔をしている。

2005年9月、千住に住むかつての職場の同僚が「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」という地域の人達の集まりである研究会に参加していて、誘われ、この会主催の「内田銀蔵博士を偲ぶ夕べ」というのに家人と二人で出席したことがある。この会は安藤昌益の「自然真営道」が千住の穀物屋橋本律蔵宅から発見された経緯を調査する会だと聞いた。国学院大学の教授が「内田銀蔵博士の業績と生涯」を講演した。鮒与の一族が特別招待されていて、家人は久しぶりに従姉妹達と会うことになった。その招待の理由は、近所に住む橋本律蔵に内田銀蔵は幼い時薫陶を受けた縁があったというのだ。

先日、たまたま「異端 ・金子光晴エッセイ・コレクション」を読んでいたら「ひげのある人生」と題して詩人の次のような文章に出くわした。
明治という時代は、「ひげさん」のはばをきかした時代だ。(中略)
内田銀蔵氏の「日本近世史」に、「わが日本の国情世態が、百事根本よりその趣きを改め、まことに新社会を現出し、うんぬん」とあるとおりで、百事新しくなったイメージのなかには、ひげもまた、象徴的な一役を買ったものと言えよう。(ちくま文庫)
こういうものを読むと、内田銀蔵博士は自分が考えていた以上に明治、大正時代に広く影響を与えた存在だったのかも知れないと思う。

さて、近子おばぁちゃんは、この川魚(鰻)問屋「鮒与」の長男善蔵のところへ埼玉県榛澤(はんざわ)の武政(たけまさ)家からお嫁に行った。
善蔵おじぃさんは病にたおれ次弟が店を継ぐ。今、店はこの弟の長男内田丈司氏が店主である。家人は善蔵、近子夫婦の長女。二つ上の正明兄さんは銀蔵博士と同じ血を引いたらしく日比谷から東大原子物理学を卒業し東海村の原子力研究所の所研究員となった。二人兄妹である。

昭和39年、自分は静岡に転勤して仕事を始めた時だったが、取引先である浜名湖養魚漁業協同組合や焼津養鰻漁業協同組合などが、結婚したばかりの家人と縁続きの、この鮒与の約束手形を担保として持ち込んできた。手形の振出人名を見た時にはさすがに、びっくり仰天した。当時の焼津、浜松、御前崎などの農家は儲かると言って盛んに農地(田)を養殖池に転換し、焼津に水揚げされる生鯖などを餌に鰻を生産していて、養鰻生産組合は養殖鰻を東京淡水魚組合員である鮒与に大量に出荷していたのである。駆け出しの自分の仕事は、担保係で農地を池に転換するための停止条件付き根抵当権設定や担保手形の管理などを担当していた。まことに縁とは不思議なものぞ、とつくづく思ったものである。

お寺の二番目の話は、寺の山号の文字のことである。有名とは言い難いけれど、知る人ぞ知ると言って良いであろう。
清亮寺本堂は、1619年創建後、200年ほど経ち、天保4年(1833) 再建された総欅造で、江戸期の建築様式を隋所に残す貴重な建造物であるが、薬医門様式の清亮寺山門は昭和6年に再建されたものである。
この山門に懸かる山号「久栄山」の扁額の文字は明治・大正・昭和にわたって活躍したわが国の代表的書家 中村不折による書である。書跡として、登録文化財に指定されているという。
中村 不折 (なかむら ふせつ)は慶応2年(1866年) 生まれ、 明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家で書家でもある。子規と日清戦争に従軍したり、漱石、鴎外らとの交流もあったことで知られる。昭和18年(1943年)67歳で沒。
彼の絵も書も一種独特の雰囲気をもつ。絵は、夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として有名であるが、渡仏して油彩画も学び、水墨俳画なども描き多才だ。
書の方は、新宿中村屋本店のロゴや同社の月餅、宮坂醸造の吟醸酒「真澄」などに残っているが、よく見れば現代にも通用しそうなスマートでユニークな六朝風字体である。


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三つ目は 、こちらは知る人が多い「槍掛けの松」の話である。この清亮寺の門前に、かつて樹齢350年とも言われる、立派な枝振りを誇る大きな松の木があった。寺の門は水戸佐倉道に面していたので、松の大きな枝は、街道に覆いかぶさるほどであったという。この松は、残念ながら昭和20年頃枯死した。平成17年、寺の境内に記念碑が建てられたが、そこには写真とともに「槍掛けの松」の由来も記されている。それによれば大略次の通りである。
水戸街道は、参勤交代の大名が往来する道であり、大名行列で賑わう。
水戸光圀公の大名行列のエピソードであるが、大名行列の鑓持は、当時のしきたりとして、どんな時でも鑓を横に倒すことが出来ないことになっていたらしい。ところが、清亮寺のあるこの地にきて、街道に覆い被さる大きな松の枝があり、鑓を一度は倒さなければ通ることができなかった。鑓持が仕方無く張り出した松の枝を切ろうとすると、松の見事な枝振りを見た水戸光圀公は、「かくも立派な臥龍松を切るのは惜しい。松の枝に、鑓を立てかけて休憩することとしよう、一休みしてから、松の枝の反対側から鑓を取り直せば、鑓を倒したことにはならぬ」と名案を出された。のちの副将軍黄門の粋な計らいに因んで、以後「鑓掛けの松」と呼ばれることになったという。
近くには、これにあやかった千住名物「やりかけ団子」を売る店(かどやなど)があり、いまも客が絶えない。

最後は、これも清亮寺の名を高めた「解剖人の墓」の話である。
日本医学のあけぼのの時代ともいうべき明治三年(1869年)、福井順道、大久保適斉、アメリカ人ヤンハンによって千住の近くにあった小塚原(こづかっぱら)の「刑場」で処刑された罪人11人が、回向院で読経の後清亮寺に運ばれて、「腑分け」解剖された。
この死罪人の霊を弔うための墓が、清亮寺に明治五年(1872)に建立されたのである。墓は死罪人の解剖を行った記念碑であり、かつその解剖された人たちへの供養塚でもある。昭和40年に再建されその本体は昭和57年文化財に指定されている。
1771年(明和8年)杉田玄白、前野良沢らが同じ小塚原刑場で罪人の解剖を見学してからほぼ100年後のことになる。
この時、杉田玄白らは持っていたドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの解剖学書「ターヘル・アナトミア(オランダ語)」が、見学した実際の解剖と比べその正確なことに驚いて、これを苦労して翻訳する。そして1774年「解体新書」として刊行したことはよく知られている。

千住は1594年千住大橋がかけられ、さらに家康によって1603年(慶長8年)江戸幕府が開かれた後急速に発展した。奥州街道、日光街道、水戸街道の始点、要所として物流拠点ともなり人が集まる。人口は約1万人に達したといい、江戸四宿では最大の宿場町になった。江戸四宿とは、言わずとしれた東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿である。

その千住は、元禄2年(1689年)芭蕉が奥の細道の出立地として 詠んだ
行く春や 鳥啼魚の目は泪
でも広く世に知られたが、経済発展に支えられて千住宿は江戸文化のレベルも高く、コメ問屋などの豪商が文人墨客のパトロンにもなったであろうことは容易に想像出来る。鮒与などの旧家もその一人であったかも知れないと思ったりするが、さてどうだろうか。

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コメント 3

林鶯渓

善三さんではなくて善蔵さんですね。
よく勉強なさっていますね。
by 林鶯渓 (2015-06-20 23:08) 

林鶯渓

鮒屋の六代目さん与兵衛さんは前名を銀蔵と言いました。学問をする人でした。長男も銀蔵でした。長男を説得し、店を継がずに学問の道を進ませました。そうでないと息子は自分と同じになってしまいますから。
 
日本で偉大な歴史家の名を二人あげると一人は新井白石、もうひとりは内田銀蔵であります。
by 林鶯渓 (2015-06-21 08:18) 

wakizaka

林様
わが辺境ブログをお読み頂いてありがとうございました。義父善蔵の名前を間違えて恥かしいかぎりです。ご指摘感謝申し上げます。
家人と知り合ったとき、母上つまり善蔵夫人の名を親子(近子ちかこが正しい)と書いて当然ながらひどく叱られました。50年以上を経て、今度は父上とは。おっちょこちょいは、ーなければなおりません。

あたたかいコメントありがとうございました。
by wakizaka (2015-07-31 14:05) 

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