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村上春樹を読む(その4)・「 世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」など [本]


「世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」(1985 新潮社)は、作家が36歳のときの作品で代表作のひとつである。谷崎潤一郎賞受賞を受賞している。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の章は、暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。
「世界の終り」の章は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街(「世界の終り」)に入ることとなった「僕」が、「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語である。
当初は関係ないように思える二つの物語が、「一角獣の頭骨」という共通のキーワードで繋がる。
村上春樹お馴染みの二つの物語が並行して進み、先で出合うという形式の長編小説だが、かなり難解という印象は免れない。二つの話の時間軸も一方に流れるわけでもなく、時に戻る感じもあったりして戸惑う。
現実と異界、表層と無意識の二つの世界がどう繋がるのか、或いは結びつかないのか、読者にはストーリーの構造が必ずしも明確に示されるわけではないから、物語の筋を追いつつ考えねばならないことがあるようで落ち着かない。
難解という印象はそのあたりからくるのか。ただし、それこそが、読者に考えさせる作家の意図するところでもあろう。ゆっくり何度か読み返すことが必要な小説なのかもしれない。
村上春樹自身は自作の中では重要な位置にあると言う。確かにこの世とあちらの世界との往き来は彼のメインテーマのひとつであることは疑いないようだが、それを読者としてきちんと理解は出来ていない確信があって情けない。

例によってこの小説にも音楽はたくさん登場するが、代表は何と言っても最終章に出てくるプロテストソングシンガー、ボブ・デュランの「激しい雨が降る」であろう。1941年生まれのボブ・デュランのこの曲は1963年リリースだから、小説に書かれたときは既にそれから20年以上が経過していた。2016年、75歳でノーベル文学賞を受賞した歌手22歳のときの曲。邦題「今日も冷たい雨が」。叫ぶようなリフレインが人の胸を打つ。

  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, and it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

そして最終章の文章は次の通りである。
「誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降り続けるのだ(中略)私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。ボブ・ディランは「激しい雨」を唄いつづけていた。」

小説での雨は人間の終わり「死」を表徴している。ボブ・デュランの雨は世界の終わりを歌っているとも見える。村上春樹らしい洒落た歌の引用である。


「国境の南 太陽の西」 (1992 講談社)
失われた初恋を取り戻そうとして主人公が煩悶するリアリスティックな恋愛小説というふれこみ?だが、残念ながら自分には典型的な不倫小説としか読めなかった。たぶんまっとうな読み手ではないのだろう。

アフターダーク(2004 講談社)
「海辺のカフカ」のあとに書かれた小説。「悪」が一つのテーマというが、これが悪と明確には示されていないように思う。その後もこのテーマは追求されていくので、その初期的な位置にあるとする人もいるようだ。
題名が示すように、日が暮れてから夜が明けるまでの二人の姉妹(姉のエリ妹のマリ)の行動、一晩の出来事を交互に語っている。これも複線物語。
語り手が私たちという一人称複数なのが珍しい。だが、私のほかは誰なのか分からぬ。なぜ単数ではないのか。
この小説が一人の少女の成長の物語ということは感じられるが、全体に「海辺のカフカ」より分かりにくい感じがする。少年の成長譚が多い印象の村上春樹にしては、少女というのは珍しいし、当然ながら、自分の経験を踏まえていないからか。などと言うのは想像力の豊かな巨匠に失礼というものだろうが。

東京奇譚集 (講談社 2005)
アフターダークの翌年に出されたもの。短編集は読んでそのとき面白くても、余程のことでない限り直ぐ忘れるのが難点。ハワイのカウアィ島ハナレイ湾(ベイ)で高校生の息子を(鮫に襲われて)無くした母親の話「ハナレイベイ」が印象に残っている。関係ないが、昔行ったオアフ島ハナウマ湾(ベイ)の景色を思い出しながら読み終えた。
作家は、偶然や共振現象など非日常的な奇妙な話に強い興味があり、それらは長編小説でも良く登場して雰囲気を盛り上げるとともに読者を煙にまく。しかし、独立した話にすると何やら不自然になるのは仕方がないのか、「品川猿」が好例。奇譚の難しいところ。

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雑文集 (2011 新潮社)
雑文とは、作家による自作、翻訳書の解説や、インタヴュー 、交遊録、エルサレム賞受賞挨拶「壁と卵」だったりだが、随筆、エッセイ風のものもあり、作家の周辺、考えを垣間見ることが少し出来る。村上春樹はこの種のものは少ない作家の一人であろう。
友人安西水丸、和田誠のカバー装画が楽しい。
掲載文の中では、「音楽について」に興味があったが、素養ゼロの自分には残念ながら難しかった。ただ「ノルウェイの森」についてビートルズの曲がノルウェイの「森」か「内装材、家具」かの議論に関して釈明?しているのが、印象に残った。第三の説があるという紹介も面白い。

少ないコラムの中では「温かみを醸し出す小説を」(2005 読売朝刊)が記憶に残った。
村上春樹の小説を読むときに心にとどめておくことにしよう。作家は次の通りに書いている。
生きていくにはきつい日々に、どこまでが人間でどこまでが動物か、どこまでが自分の温かみでどこまでが他の誰かの温かみか、どこまでが自分の夢でどこからがほかの誰かの夢か、境目が失われてしまうような小説を書きたい。これだけが良き小説の基準だ。

インタヴューでは、オープン・エンドが多い理由を問われて「明白な結末が必要ないと思うからであり、日常生活の局面でも(明白な結末は)そうはないのでは、と答えている。
そう言われれば何やら納得感がある。

ほかに「世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」について「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」では書きながら使っている脳の部分が違っている感覚だったとか、二つの物語がどこで繋がるか決めずに書き進めたとか、いくつか興味のあることが披瀝されていて面白い。

さて、作家はインタヴューで読んでほしい自分の長編小説として「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「うずまき鳥クロニクル」をあげている。大きな転換点となった長大な小説と言っているので、次は「うずまき鳥クロニクル」も読んでみよう。かつて、一度読んだような気もするのだが、全く思い出せない。

村上春樹を読む(その3) 「 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 」など [本]


「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013文藝春秋)。
この長い題の小説は、先にブログで書いた「1Q84」BOOK3が発表された(2010年)3年後に刊行された長編である。
最近作「騎士団長殺し」は、4年後(2017)に発表されたという位置関係になる。「色彩を~」は376ページという長さだから、どちらかと言えば二つの長編のあいだに書かれた中編小説か。
内容も多崎つくるという名の一人の中年男が、仲の良かった高校の5人組(主人公の他は、赤松、青海、白根、黒埜と4人とも苗字に色が付いている)から追放された、自分の真実を求めて遠く(フィンランドまでも)巡礼の旅をするという単純なストーリーである。

英訳版は「Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage」である。
先に書いたが、自分は「色彩を持たない」という語に惹かれた。手遊びで透明水彩画のお稽古を続けているせいでもある。もっとも水彩画はWatercolor であるが。
小説家は小憎い表現で人の気をひくのが上手い。「透明なー」ではありふれているし、透明水彩画の用語でもある「trancelucent 半透明」「tranceparent(分かりきった)透明水彩」でもない。
しかし読んで見るとなんということも無い。自分を見失った少年という意味も読者に暗に知らしめているのだろうが、苗字に色が付いて無いというだけのこと。作家の諧謔というか言葉遊びに付き合わされたていである。
登場する二人の脇役も灰田、緑川と色付きでしかもそれぞれに個性的 で面白いキャラクターである。
旅をして自分を探せと勧めるつくるの恋人、木元紗羅にはなぜか色がついていないが、その理由は知らない。
ちなみに中国語訳の題名は「没有色彩的多崎作和他的巡礼之年」。色彩がメイヨー。

先に村上春樹の小説には音楽がたっぷり盛り込まれていると書いたが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、ハンガリー出身のフランツ・リストのピアノ独奏曲集である「巡礼の年」がそれ。
ロシアのピアニスト、ラザール・ベルマンの演奏が有名という。主人公田崎つくるの4人の友達のうちの一人シロ(白根 柚木)が弾くピアノ曲の「ル・マル・デュ・ペイ」はこの「巡礼の年」の一節である。ル・マル・デュ・ペイとはフランス語でホームシックという意味の言葉だそうだが、ノスタルジアとも訳すように昔のことが懐かしいとか、過去にこだわるとかいう意味もあるよう。青年の自分探しという物語の基調と共振して、物語全編に流れている。
先にこのブログで書いた新田次郎 ・藤原正彦著の「孤愁 サウダーデ」のサウダーデ(ポルトガル語)は「愛するものの不在により引き起こされる胸の疼くような思いや懐かしさ」のことというが、「ル・マル・デュ・ペイ」も同類の感情であろう。

ラザール・ベルマンの「巡礼の年」もアマゾンミュージックでダウンロードして聴いた。
作者はこの音楽から小説を構想したのだろうか、それとも小説が出来てからふさわしい音楽を探すのだろうか。多分前者であろうという気がするが、そう思わせるだけで小説は成功したと言えるのだろう。しかし、音曲を知って小説を読むのと、自分のように後から聴くものでは、小説の味わいがかなり異なるだろうという気はする。

さて、作家を理解するためには、やはり初期の作品に触れる必要があるだろうと思ってデビュー三部作といわれる作品から読むことにした。

「風の歌を聴け」( 1979 講談社)
デヴュー作 (作家30歳 )のこの小説は、なかなか手強いというのが読後感。同じ遊びでも、全く何の足しにもならない遊び、読んだ後に何も残らないような、無益な遊びに終始している不思議な小説だ。評価、賛否が分かれたのは自然であろう。丸谷才一が評価したと何かで読んだ覚えがあるが、分かるような気がする。
「1973年のピンボール」(1980 講談社)
「僕の目に前にいるピンボールマシンはもはやただの機械ではない。それは人間のように話すこともでき、しかも僕の心に向かって訴えかけてくれる恋人でもある。」といった文章が続く。文体も取り上げられた題材も、日本文学ではこれまでにないユニークなものと評価する人もいる。

「羊をめぐる冒険 」(1982講談社)
村上春樹の小説は、この「羊をめぐる冒険」を境にして大きく転換したとされる。
この小説は、幽霊となった友人の行方を追う冒険物語であるとともに、羊に隠された不思議な秘密を解き明かそうとする推理小説でもある。羊男が面妖(緬羊)でユニーク。

村上春樹の小説はこのデビュー三部作もそうだが、鼠、羊男、牛河など登場人物が映画俳優のように何度も登場するのが一つの特徴だ。
ハルキストにはこれもたまらぬ魅力になっているのだろうか。
手塚治虫の漫画に何度も登場するキャラクター、ひげおやじ、ランプ、お茶の水博士などをつい思い出してしまった。村上春樹は小説で、手塚治虫は漫画で、同じ俳優が別の物語で別の人物を演じるという映画の手法をそれぞれ試みたのであろうか。

ダンス・ダンス・ダンス(1988講談社)
羊をめぐる冒険の続編。6年後に刊行された。全体的には「1Q84」に似ている。パラノイア、幻想小説、擬似世界、あっちの世界が描かれ、霊媒的な能力を持った美少女(ユキは「1Q84」のふかえりと重なる)などが登場する。例によって数多の音楽が出てくるが、村上春樹には珍しく絵・ピカソ の「オランダ風の花瓶と髭をはやした三人の騎士 」が登場する。
しかし、こんな絵は実際にないものだという。ありもしない絵をなぜ持ち出したのか、作家の遊びか。

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続いて読んだのは短編集。
中国行きのスロウ・ボート」( 1986 中央公論社)
村上の初期の短編小説七篇を収めている。スロウボートは貨物船のこと。
表題になっている「中国行きのスロウ・ボート」は、日本人が中国人から負わされている重荷のようなものを描いた作品だ。一人の日本人が、これまでの半生で三人の中国人と
会ったと語り始めるのだが、作者の父が中国で暮らしたというから、そのことが下敷きになっていることは明らかというのが一般的な見方のようである。
「貧乏な叔母さん」、「カンガルー通信」などそれぞれなにを言わんとしているのかはっきりは書いていないが、読者に考えさせるような書き方である。
「午後の最後の芝生」は、自分が求めているのはきちんと芝生を刈ることだけという男の話。各編が何かの暗喩のようなものになっているのが特徴か。
文学的素養のないもにはもう少しはっきり言ってくれという感じがないわけでもない。
「午後の最後の芝生」にブラームスのインテルメッツォ(間奏曲)が出てきたのでアマゾンでダウンロードして聴いたが、音楽の素養がないせいで良さが分からなかった。ブラームスはバイオリンソナタくらいがせいぜいのところのようだと知る。

「女のいない男たち」(文藝春秋 2014 短編集)
女のいない男の話ばかりの6篇が収められている。女のいないというのは、離婚されたり、死別したりして相手を失った男のことでペットロスならぬ女性ロスに陥った男の話である。
「 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 」とほぼ同時期に書かれた最新の短編集。
「色彩を~」もあえて言えば女のいない中年男の話とも言えなくも無い。村上春樹の小説に登場する男は比較的ちゃんとした男が多いが何故か女に去られるケースが多いのは不思議だが、そこから新しい女性を求めて遍歴する。なにを言おうとしているのか明らかにされない。しばしば次の女性とどうなったのかわからずに物語が終わったりする。

短編を読むと作家がどんなことに関心があるのか、少し分かるような気がするが、随筆などを書いてくれるともっと良いのだが、などとつい思ってしまう。安直と言われそうだが。
村上春樹は前書きや後書き自作解題なども嫌いと見える。

村上春樹の文章は読みやすい方であろう。読みやすいと言って話が分かりやすいというわけではない。むしろ説明が少なく結末がない話もあるなど、読者に何を言おうとするのか分からず難解とも言える。
加えて何気ない描写の中に多くの比喩が散りばめられる。しかし、この中には独特のものがあって面白い。
またそれらがアフォリズム(警句、箴言、金言)のていをなしているものがあって、ストーリーから外れるのだが、人を驚かすような、なかなかのものが時にある。読者にとっては、これも楽しみのひとつであろう。


村上春樹を読む(その2)・ 「1Q84」など(下) [本]

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「1Q84」に戻る。
「1Q84」のどこが意外に面白かったかだが、もとより「村上春樹は総合遊戯施設である」というのは通説のよう。例えば、「村上春樹の1Q84を読み解く」(村上春樹研究会 2009 データハウス)では、ずばりそう言っている。
「1Q84」のストーリーは好き合った少年と少女が幼くして別れ、成年になってお互いを探し再会するというものだが、作者のエンターテイメント性が存分に発揮され、 読者サービスは旺盛である。さながら恋愛小説、推理小説、ハードボイルド、アクションドラマ、ポルノ、幻想小説、怪奇小説、ホラー小説、メルヘン小説などの集合体のようだ。
もちろん、音楽(ジャズ、ロック、クラシック)、車、ファッション、映画、ワインなど日常の人の楽しみについて蘊蓄を傾け、教養、宗教、哲学などまでたっぷりと教えてくれて楽しめるだけでなくオウム、サリン事件、連合赤軍事件らしき深刻な社会現象などまで読者に提供し考えさせることまでしている。
だが、批評家はこの本のテーマは「世界を変える」人たちの思考と行動の物語であるという。どのような世界に変えるかと言えば、「クローズド」な世界から「オープン」な世界へ。クローズドシステムとは、その中に入ると個人が失われるシステムのことだという。
このあたりになると、クローズドな世界、オープンな世界とは具体的にどんなものか、読者には具体的には示されない。読み手がそれぞれ考えるということだろう。

この小説は構成もかなり凝っている。二人の主人公青豆と天吾が交互に登場して物語が進展して、かなり先でこれが繋がる。読者は二つの別の話がいつ一緒になるか先を想像しつつ楽しむ趣向だ。ブック3ではもう一人牛河が加わるのも、何やら意味ありげである。

2005年の「海辺のカフカ」(2005 新潮文庫 )は、「1Q84」の5年前、作家56歳の時の長編小説で、テーマ(母子相姦、父親殺し、姉犯し、近親相姦など)こそ違うが、構成、手法は酷似している。この小説は「1Q84」の後に読んだのだが「1Q84」に全体的によく似ている。
構成やストーリー展開が独特であり、深刻になりがちなテーマを普通のそれとは異なったイメージにカモフラージュしている感じだ。
「1Q84」がこの世1984年とあの世1Q84年の間の往き来であり、猫の町、二つの月が異界の象徴であるが、「海辺のカフカ」では少年が異界(死の淵から)入り口の石を経てこの世に生還する。基本的な設定もかなり似ている。

天吾の代作した小説「空気さなぎ」が、愛し合う二人を再会させるという手の込んだストーリーを楽しむだけでなく、作者はブック1(4~6月)、2(7~9月)で完結したかに見せかけ、10先(10~12月)もあるよと、それとなく予告し、1年後間を置いてブック3(10~12月)を発表したのだ。
1年間読者に次の展開を考え、想像する時間を持たせ楽しませることまでしている。ハルキストへのサービスだろうが、その後に三冊を一気に通読してしまうことになる読者にはこの楽しみを享受することはできない。
それにしても、1~3月はどうなっているのか自分には謎だが。

また、この小説はプロット(プロットはストーリーの要約、出来事の原因と結果を抜き出したもの)を事前に作らず、筆の赴くまま行き当たりバッタリで小説を書いているのではないか、とさえ思わせるような展開ぶりである。
構成の複雑さから見ても、全くのプロットなしということはありえないだろうが、文体と軽やかな語り口がそう思わせるのだろうか。
自分は、内田康雄の推理小説を思い出した。この作者は、プロットなしでその場で思いつくまま書くのだと公言している。作者も読者も思わぬ展開を楽しむ。

ところで、村上春樹の小説は、彼がジャズバーを経営していたことがあったというだけに音楽が随所に登場することで知られる。音楽はさりげない日常の中の点描であったり、物語の重要な展開に関わったり、ときに小説のテーマそのものに関わったりさえする。
「1Q84」で言えば、 チェコの作曲家ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」である。ヤナーチェクが1926年、63歳(老いらくの恋!)のときに恋人に触発されて作曲したという管弦楽のための小品という。自分のように音楽に疎いものにとっても、クラシックの中ではマイナーな方ではないかと思う。
管楽器の大掛かりなユニゾン(音)が特徴で、冒頭は威勢のよいファンファーレに始まり、金管楽器の叫ぶような音と、ティンパニのおののくような響きがこたえあう。
ヒロイン青豆 がタクシーのカーステレオで聴き、恋人探しのきっかけになった曲であり、かたや天吾が高校時代管弦楽のクラブで臨時にティンパニーを叩く曲という小粋な設定。

自分もさっそくアマゾンミュージックでダウンロードした。聴いてみると、なるほどスポーツジムのインストラクターである青豆にふさわしい曲であり、ストーリー全体にマッチするような気もする。
自分も通っているフィットネスクラブでストレッチなどをしながら、アイポッドで時折聴いたりする。
村上春樹の読者はこの類いの楽しみも、たっぷりと味合うのだろうと確認したかたちだが、あまり音楽を知らぬ者には新しく名曲を知ることになって有難いことではある。

自分が年寄りのせいであろうが、「1Q84」では、天吾が千葉県の千倉の病院に入院している父親を2年ぶりに訪ねて見舞うシーンが印象に残っている。「ノルウェイの森」でも、主人公ワタナベがガールフレンドの小林 緑の晩年の父親を見舞って面倒を看るシーンがある。この二つを比べると、「1Q84」の方がかなりリアルな感じがする。
例えば、父親は自分の死を覚悟して終活しているのだが、死後遺された者の事務負担軽減の為に戸籍まで移しているという。つい二つの長編が書かれた20年余のインターバル、過ぎた時間を意識してしまった。小説の中では二つとも重要なシーンの一つでもあるといえ、小説家の書きたかったことはこんな些末なことではないのは承知しているが。

さて「1Q84」は「クローズド」な世界から「オープン」な世界へと変える人々の思考と行動の物語という小説のテーマだというが、なかなか解りにくい。その理由の一つは、イメージするそれぞれの世界が人によって異なることにあるような気がする。例えば、極端な喩えで誤解されそうだが、あえて言うと北朝鮮をクローズドな世界と見る人もいるが、彼の国と国交のある160カ国以上の国の人から見ればオープンな世界と言えなくもない。ちなみに彼の国と国交のない国は日本、米国をはじめ30ケ国あまりしかない。
彼の国はクローズドだが、対極にある国々でも「人として損なわれることはない」とも言い切れまい。
東にも正義があり,西にもまた正義があるようなものである。確たるクローズ、オープンな世界というのもないような気もする。
そこにいると「人として損なわれてしまう世界」がクローズドな世界だ、と抽象的、観念的にならざるを得ない。
そんな難しさはあるが、「1Q84」が小説としては面白いことに変わりはない。二つの世界を具体的に示すのは小説家の仕事ではないし、エンターテイメントを愉しむ、それで良いのだろう。


村上春樹を読む(その1)・「1Q84」など(上) [本]

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この頃、がらにもなく村上春樹の著書を読んでいる。
図書館では読みたい本だけ探していると、どうしても偏るせいで借りたい本が少なくなる。興味が薄くても読めば何かしら面白い発見もあるわよ、という家人の言に従って見た。
偏見だと非難されそうだが、一般的に言えば、村上春樹の小説は若い人向けであって、高齢の老人はあまり読まないのではないかという気がする。
しかし、年齢を問わずハルキストと称する人もいるくらいで、誰もが認めるように熱烈なファンが多い。海外向けにも数多く翻訳され、毎年のようにノーベル文学賞候補と騒がれるのは周知のとおりである。
村上春樹は1949年生まれだから、68歳。少年の成長譚、自分探し、ビール、タバコ、ジャズ、セックスなどのイメージが強い作家も今や前期高齢者に仲間入りしている。

村上春樹著「1Q84」は、たまたま「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013文藝春秋)を図書館で手にして読んで見ようかと借りた時、側にBOOK1があったので一緒に借りて読んだ。
思い出したが、「ノルウェイーの森」(1987 講談社)を、通勤電車の中で読もうと文庫本を(上)だけ買った。が、読んだ覚えがなく、あるいは読んで忘れたのか、本棚に置いたままだった。
そのころ、さかんに読んだ安部公房の方が印象が強い。なぜかしら自分の中では村上春樹は奇天烈なことばかり書く安倍公房と一緒にくくられているが、実際には若い頃も読んでいなかったのである。
もちろん、村上春樹は早くから人気があったのだが、皆がなぜこうも読むのか、よく理解出来なかったのは、実のところほとんど読んでいないからであろう。

今回ついでに図書館でこの「ノルウェイーの森」(「下」)も借りて来て通読した。累計発行部数1000万部を超えた超ベストセラーだという。
老人には、似て非である堀辰雄「風立ちぬ」を思い出させたが、文章には村上春樹特有の色つやのようなものがあるような気がした。さらにアマゾンのビデオ(映画)もアイパッドで見たが、ヒロインでもない(つまり脇役の)小林 緑が印象に残ったほか、とりたてて良いなとも思わなかった。こちらが枯れてしまったのだろう。
標題の「ノルウェイの森」は、広く知られているようにビートルズのヒット曲からだが、ノルウェイのウッドは、森でなくノルウェイの木材であって部屋の内装とか家具とかの誤訳だという説もあるとか。
She showed me her room
Isn't it good, Norwegian wood
個人的には歌詞などから、森は少し無理があり、内装材説だが、森でも、内装材でもそれなりの雰囲気があって面白いのは、小説でも同じであるのが何やら可笑しい。

村上春樹は、最近も近著「騎士団長殺し」がベストセラーになったりして、話題になっているので、(ふだんあまり小説を読まないのだが)「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に手が伸びたというところか。勿論、「透明な…」でなく、「色彩を持たない…」という独特の言い回しに惹かれたこともある。

この「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の方は、あとで機会があれば読後感を、ということにして、今回は「1Q84」の方について書こうと思う。
上記の通りあまり熱心な読者、(勿論ハルキストにあらず)ではないので人に役立つ感想はとても無理というもの、いきおい自分のための備忘的なものになる。
なぜ、先に読んだ「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」でなく「1Q84」か、というと読む前に想定した以上に、総じてこの本は「面白かった」からである。

「1Q84」は、Book1,2 が2009年、Book3が翌年2010年に刊行された長編小説で3冊ともミリオンセラーになった。それぞれ、554p 、501p、602p の大部だが放り出さずに読了したのは面白かった証左であろう。

題名は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説「1984年」(Nineteen Eighty-Four 1949刊行)にちなむという。「1984年」は、トマス・モア「ユートピア」などのいわゆるディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く作品である。全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。
「1984年」という年号は、この本が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラム説などがある。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。
なお、アナグラム(anagram)とは、言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びのことである 。「回文」などと同じ言葉遊びだが、「いろは歌」のほうがこれに近いか。

ところで話が少し逸れるが、前述の村上春樹近著「騎士団長殺し」(2017.2 英訳「Killing Commendatore」)は、全2巻からなり第1部「顕れるイデア編」(512p)と第2部「遷ろうメタファー編」(544p)に分かれている。初版部数は2巻合わせて130万部。2010年の「1Q84」Book 3 から7年ぶりの長編作品になる。
これを読んで、書評らしきものを書けばタイムリーだから読む人が少しはいるだろうが、7、8年も前の「1Q84」ではもう興味は薄れていて(ふと六昌十菊という言葉を思い出した)読後感想文など読んでみようという人は、もはやいないような気がする。

「騎士団長殺し」をダメモトで図書館に4月23日、インターネット予約 してみた。
順番は5月23日現在、上744、下 820 とある。仮に杉並区の図書館に1冊しかないとして、予約取置き期間、貸出期間含めて一人2週間かかると仮定すれば、借りて読めるのは24、5年かかる。仮に5冊あるとしても5、6年かかる計算になり、老い先短い高齢者には間に合わない。「1Q84」など(下)に続く

蜜柑の接ぎ木 [自然]


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はじめての接ぎ木は二年前の春(27年4月)だった。一年目は、かぼすの台木に接ぎ木した柑橘類14本全部枯死して完敗したが、昨春二回目は28年4月20日に接ぎ木したところ、ついに二年目にしてやはり14本の穂木のうち1本から芽が出た(芽デール28.6.11)。そのことを興奮してこのブログに書いた。

2年目、芽デール!
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-06-13

その後他のもう一本の穂木から芽が出たが、夏を過ぎて秋頃までに残念ながら二本とも芽が枯れてしまった。
やはり我が素人技術では無理と思い知らされた。接ぎ木の初歩的な技術を教えてくれて、穂木を熊本から二年連続で送ってくれたM君にこれ以上迷惑はかけられない。
まして彼のところは28年4月の地震の激甚な被災を受け、かつての日常を取り戻すのに何かと落ち着かない状況下にある。

29年3月5日、メールで今年(三回目)はやめると申し出る。

事実上の敗北宣言をして1ヶ月あまり、29年4月17日、昨年発芽して枯れた穂木から新芽が出ているのを発見した。4月23日には蕾らしきものもついているのに気づく。5月3日にはそれが三つあり少し膨らんでいるのを確認した。

一昨、昨年と2回14、5本も接ぎ、殆ど失敗したと思ったが、昨年は芽が出て喜んだのもつかの間 、その芽は枯れたのに今年になって新しい芽が出たのはどういうことなのか。
それに何と花蕾までついていたのだ。
しかもこの穂木は地震のさなかに空輸されたものだ。復活、復興のシンボルのようなものではないか。これが感激せずにおられようか。

思わず昨年作った駄句に七七を付け足して腰折れを。花はまだ先である、無茶苦茶だ。
隈府より東都に飛びし蜜柑穂木 地震(なゐ)の翌年 芽吹き花咲く

接ぎ木も挿し木も自然の力を利用した伝統技術だろうが、不思議なものだ。成長した個体の一部だから移植されても、元の木の花芽をつける能力を持ちそのまま発揮する。実生なら花が咲くまで数年かかるのだが、一気に時間を速めるバイオテクノロジーである。

はじめての接ぎ木を体験して、結果がどうなっているかを見るのは楽しいものである。カボスの木に接いだデコポン、レモン、甘夏などがたわわに実るのをずっと夢見ていた二年間だった。農園で園芸を趣味に楽しんでいるM君の気持ちが、ほんの少しだが、分かったような気がする。

M君に報告したら、メールに添付した画像から推定すると、花が咲き実がなる可能性があると喜んでくれて、「①三つの花のうち一つは授粉用にして実が二つなったら一つを摘果し一つを残すか、②人工受粉もせずそのまま三つを大きくし後で二つを摘果する二方法がある」と教えてくれた。
三つとも大きくして食べるものとばかり思っていたのでびっくりした。あなたは欲張りだと家人から笑われる
人工授粉は難しそうなので後者②の方法を選択することにする。周りのかぼすの花が同時に咲いていれば、三つとも実がなる可能性はあるとM君のご託宣。幸いかぼすは、今年も今沢山の白い蕾をつけている。
取らぬみかんの皮算用である。

花芽が出た穂木が何か記録しておかなかったのが残念だが、それが分かるかも知れないという楽しみもある。
M君は、画像の花芽から推定して晩柑種だろうという。

ネットで晩柑種を調べると、文旦(ブンタン)の突然変異種に河内晩柑というのがある。
「大正時代に熊本県河内町で発見された柑橘で、ブンタン系の自然雑種。地域によって「美生柑(みしょうかん)」や「宇和ゴールド」、「ジューシーフルーツ」などと呼ばれることもある。果汁が豊富で果肉がやわらかく、さっぱりとした甘味がある。その外観から「和製グレープフルーツ」ともいわれるが、グレープフルーツのような苦みや酸味はない。サイズは250~450g程度で3月下旬~6月頃に出回る。」とあり何やら美味しそう。

このあと実がなり大きくなることを願うが、この二年の経験からみても、自然は何が起きるかわからない。まだまだ、接ぎ木の楽しみと心配の泣き笑いが続きそうである。


新田次郎・藤原正彦著「孤愁 サウダーデ」 を読む [本]


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「孤愁 サウダーデ」(文藝春秋 2010)は 新田次郎 (1912-1980 67歳没)の死去により未完となった小説を、30年後に息子の藤原正彦(1943~ お茶の水女子大名誉教授 数学者)が書き継いで完成させた。
ほかにも小説の合作というのがあるものやら、不学にして知らない。かりにあったにしても、親子というのは珍しいのではないか。
森鴎外と於菟、露伴と文(あや)など親が小説家で子が随筆家というのは多いが、親子とも小説家というのはいられるのだろうか。
親子作家といえばアレクサンドル・デュマなどがすぐに頭に浮かぶ。「モンテクリスト伯」のペール(大デュマ)と「椿姫」を書いたフィス(小デュマ)であるが、小デュマは脚本家だったという。
親子で画家、音楽家であったりするのは、環境やDNAを考えれば自然であってそう珍しくはないけれど、コラボしたとか共同で作品をものしたというのは、あまりないとみえて聞いたことがない。

藤原親子の例は珍しかったし、引き継いだ子が作家でなく数学者だったから、自分は知らなかったが、刊行されたときは話題になったようだ。
正彦の母、つまり新田次郎の妻藤原てい(1918ー2016 98歳没)には、(自分は読んでいないが)「流れる星は生きている 」の著書がある。
新田次郎は気象庁の気象学者だったが、妻の小説が売れるのを見たことが小説を書く動機の一つだったらしいから、まあ変わった家族ではある。

藤原正彦は「国家の品格」、「管見妄語」など随筆家としても知られる。「管見妄語」は週刊新潮連載のコラムを単行本化したもので何冊か読んだことがある。自分は、たしか近刊の「出来すぎた話」を読んで知り、この本(「孤愁」)を読む気になった。

さて、その「孤愁」は、ポルトガルの軍人、外交官で文筆家だったヴェンセスラオ・デ・モラエス(1854-1829 75歳沒)の評伝である。
モラエスは、明治後期に来日し神戸でポルトガル領事をつとめた。、日本の自然、文化、女性を愛し、その日記や日本を題材にした著作で、日本の素晴しさ、日本人の美徳を世界に知らしめた。
リタイア後、神戸から徳島に移住し、亡くなった日本人妻の墓守のように暮らしその地で没した。
文学者でもありあまり知られていないが、「もう一人の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」といわれている。
題名の「孤愁 サウダーデ」とは、「愛するものの不在により引き起こされる胸の疼くような思いや懐かしさ」のことという。
ポルトガル人が特に強く持つ心情とされるが、ロシア人など他の民族も持ついわば万国共通の一般的なヒトの感情であろう。似たものにはメランコリー 、無常感 、憂愁 、悲愁 、哀愁 、憂鬱 などがあるが、郷愁とともに語られるところが特徴的と言えるか。

「孤愁」は、文藝春秋の単行本では、630ページ。422ページまでが新田次郎の書いた部分だから、藤原正彦は後半三分の一を書いたことになる。

読む前から当然文体の違いからくる不自然はないか、書こうとしたことが変わってしまってはいないかなど気になったが、小説技法など知らぬ自分にはあれこれ言う資格はない。
長い時間をかけて父と同じ取材をして資料を集めて書いた、と言うだけに読んでいてそれなりに面白い。
藤原執筆部分は、今の日本人が忘れている日本の良さ、日本人の美徳に触れた箇所が随所に出てくる。「国家の品格」の著者である、藤原の個性が色濃くなっているのは何やら微笑ましい。

父新田次郎が心筋梗塞で倒れたとき、藤原正彦は36歳の数学者で、新婚ホヤホヤだった。父の無念を思い、引き継いで書くと宣言したものの直ぐには書けなかったという。その後30年間、資料を集め続け、ようやく、新田次郎がこの「孤愁」を書き始めた年と同じ67歳で、物語の続きを書き始めることができたと述懐している。
とくに後半は主人公の晩年を書くことになるので、36歳では難しかったろう。若者が「死にゆく者の孤独」を描くだけでも、それなりに想像力が求められる。まして67歳の父が何を書こうとしたか、テーマに迫りながら文体も近いものにするのは至難だったに違いない。

あとがきで藤原は次のように書いている。
「確かに難しい仕事だった。当初の父の書いたであろうようにというのは早々に諦めざるを得なかった。どうしても別個の人格が出てきてしまうのである。父が全力で書き、そのバトンを受けた私が全力で書く、という作品となった。

さらに藤原は「父の無念をやっと晴らした 」という想い、「父の珠玉の作品を凡庸な筆で汚したかもしれない」という危惧を持ちつつも、「一つだけ確かなことは、父との約束を三十二年間かけて果たした安堵感である。」とあとがきを結んでいる。

家族から離れ異郷に単身骨を埋めた主人公の「孤愁」と藤原一家の家族の結びつきの強さが、読み終えて対照的につよく心に残った。
この読後感は、藤原の父への強い思慕、母ていの三人の子を引き連れての引き揚げ潭、「管見妄語」に記された正彦家の家庭の話などに影響された自分だけのもので、きっと正しい読み方、良い読み手ではないような気がする。

なお、自分は新田次郎の小説を読んでいない。似たタイプの吉村昭、城山三郎などは何冊か読んでいるのだが。作品一覧をみてもあまり読みたい本がなさそうだ。「孤高の人(1969)」、「剣岳 ;点の記(1977)」といったところか。


千駄ヶ谷で富士登山 [風流]

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家人が渋谷区千駄ヶ谷の八幡神社に富士塚があると新聞記事で見つけて、一度登ってみたいと言うのでついて行った。桜はまだ蕾小さく春とはいえ、晴天なのに少し寒い弥生某日である。
八幡神社は千駄ヶ谷一帯の総鎮守で「鳩森八幡神社」(はとのもりはちまんじんじゃ)とも呼ばれる。860年(貞観2年)、遣唐使慈覚大師(円仁)によるというから、 かなり古い社である。

阿佐ヶ谷駅から総武線(各駅停車)に乗り15分ほどの千駄ヶ谷駅下車、鳩森神社は約600メートル歩いて8分ほど。富士山まで家から40~50分ほどしかかからない。山は6メートル。あっという間の富士登山である。

江戸時代中期に富士信仰が盛んになると江戸を中心に多くの富士講が生まれ、「江戸八百八町講中八万人」といわれたという。
江戸中期から後期にかけての人口は50~100万と推計する人もいるが、八万人とは大げさといえ、かなりの愛好者がいたことは確かのようだ。
そのため講に集まる人によって富士塚も多数つくられ、現在東京都内には約50か所もあるとは知らなかった。
富士山の世界遺産登録は、風景美だけでなく日本人の富士信仰など文化的な価値が認められたからであることは周知の通りだが、講や富士塚などはその具体的な例のひとつであろう。

江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」と呼ばれた。また、各地に点在する富士塚は庶民から「お富士さん」などと呼ばれ親しまれていたという。
当時の場所に現存する富士塚としては、千駄ヶ谷富士が都内最古のもので、東京都の有形民俗文化財にも指定されている。
江戸八富士にはほかに品川富士(品川神社境内)、茅原浅間神社境内の江古田富士などがあるとか。
最も高いものでも15メートル(品川富士塚)というからまさにミニュチュア富士。

実際に登ってみると、富士山から運んできたという熔岩が積み上げられ、日本庭園の築山の趣き、6メートルだとさほど高いという感じではない。
浅間大社もある。浅間大社に祀られているのは、木花咲邪姫(コノハナサクヤヒメ)という、美しい女神。
江戸時代の人も、今でいうヴァーチャル リアリティの世界で富士登山の疑似体験を楽しんだのだろうが、講にも参加出来ず富士山に登れなかった庶民が少し可哀想な気がしないでもない。

ところで、自分は社会人になり最初の転勤が静岡市だった。近くに富士を見ながら、4年ほど暮らしたが一度も富士登山をしなかった。なぜか是非登りたいとも思わなかったような気がする。新潟市で暮らした3年間に、佐渡へ行かなかったのも同じことだが、余り感心した性格ではない。

さて、千駄ヶ谷富士登山が終わったあと、お昼でも食べようとと探したが、神社周辺ではまだ11時前で開店しているレストランなどがない。
東京体育館近くまでもどり、モーニングカフェとやらでアスリートらしき人達と一緒にフレンチトーストを食べて帰った。
家を9時ごろ出て、なんと12時前には帰宅した。スピード富士登山、しみじみしている間などはなかった。家人はすぐにヘヤーカットに行ってくると出かけた。


やまどりの長き尾一閃いま雲に [詩歌]

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この一月、畏友を一人失った。友というより会社の一年上の優秀な先輩で、自分がどうしても追いつけなかった方である。まさしく自分とは「月と何か」くらいの差があり、同僚、部下(会社の先輩さえも!)に慕われ、誰もが一目置いた存在だった。
新入社員の頃からの家族ぐるみで世話になって以来のお付き合いなので、奥様にお悔やみの手紙を出したら、これ以上ないと思われる見事な返礼状を頂いた。このご夫婦にはとうていかなわんとまた思い知らされた。
昨年の賀状に夫婦で喜寿を迎えると添え書きがあって、その前の年にはまた会いたいものですねと、書いて頂いたことを思い出したが、そうしなかったことを悔やんでいる。
彼は役員で退任したとき、自分が設立の企画に携わって新発足した信託銀行社長に就任された。周囲が期待したとおりの実績をあげたが、それは彼の人生のほんの一部に過ぎなかっただろう。しかし我ら二人が意図しなかったことといえ、この関わりは自分には何か因縁めいたものを感じたものである。

追悼の折句を作った。

やまどりの長き尾一閃いま雲に

自分の句は柿本人麻呂の有名なやまどりの歌を踏まえている、などというほど立派なものではないが、誰でもこの歌を想起するだろう。

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む

この歌は拾遺集に収められたものだが、離れて暮らすという山鳥のつがいが啼いて呼び合うという習性をふまえて作られた歌である、ということはよく知られている。

絵は水彩(F4Waterford)で描いた山鳥。このあと空にもう一羽を付け加えたが、こちらの方が良いのは想像の余地があるからか。




一年ニ句選 [詩歌]


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俳句は身のまわりにたくさんあったのに、なぜか自分で作ろうなどと思ったことがなかった。例えば自分が働いていた会社では入社した頃、毎月発行する貯蓄債券の商品の広告に俳句を使っていた。
まあ何とも古いセンスときめつけ老人にしか受けないだろうなと思っていたが、俳句は人気があるとみえて花を広告のテーマにするようになってやめるまで、随分長く続いたようだ。

わがサラリーマン生活が不本意にも突然終わる時がきて、あわただしい生活が終わろうとしていたときに、なぜかふっと頭に浮かんだのが俳句だった。俳句はため息文学とも言うとか、その通りふうっと息を吐いたときに生まれた。
残っている記録では平成14年(2002)の歳末の二句がはじめての俳句である。
いわば処女句である。

蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日
すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る

最初の句は、蠟梅と大晦日とが冬の季重なり、しかも多弁は造語。蠟梅は普通香りを愛でるが、五弁の梅と違い花弁の多いのが良いねと話しているというだけのもの。
二句目は、すさまじい(秋の季語)は、冷じいで、「荒ぶる」が語源という。季語としては「秋冷がつのる」という意とか。
すさまじいとしか言いようのない今年も過ぎて行くんだなあ、という感慨にふけりながら風呂に入る、と詠むときに使っても季語になるのやら心もとない。
なお、風呂は季語ではないとかで、困惑するばかり。「年も過ぎ行き」で年の暮れになるのだろうか。
いずれにしても、はじめての句は今思うとなやましいことでいっぱいだが、こういった悩みは、いつまでも消えないものである。
それにしても自分にとって平成14年(2002)は、年頭1月から年末まで確かに凄まじいとしか言いようのない年であったことを、この句を読むと思い出す。
しかし、そんな年の暮れに俳句を詠むことが出来たのは、何より幸せだったと思わねばならぬ。

あれから15年も経ち、これまで多くの自己流の駄句を作ったが、これを俳句と言って良いものかといつも考える。いずれにしてもいくら作っても良い句は出来ない。もっとも、自己流だからどんな句が良句なのかも分からないのだが。
いつも「冷や汗駄句駄句」とつぶやきながら作っているのである。

一年ニ句を選んで見た。たくさん作った年と少ない年がある。二句という数に意味は無い。一句を選びきれなかったのも実力がない証拠か。
こうして時系列で並べてみても、年を経たからといって出来は良くなっていないのは明らかだ。が、俳句というものは作者にとって日記の代わりにはなることだけは確認出来た。
何やら最近勢いが弱くなって来たのは気になる。句数も減って来ている。

2002 (平成14) 蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日
すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る
2003 (平成15) 意馬心猿鬱金桜に風と消え  
故宮にて翡翠白菜息を呑み
2004 (平成16) 御徒町女義太夫夏袴
被爆せしおうな傘寿や半夏生
2005 (平成17) 嘉魚棲みて明神池の佳き日哉   
飯桐の実のおびただし過ぎし日よ
2006 (平成18) セーターをせめて二枚に老痩躯
田の中の耳塚暮れて秋深し
2007 (平成19) 寒酒や父の形見の河豚徳利
栃わかば明日は晴れよ破れ傘
2008 (平成20) やまももや遅疑逡巡もせず熟れて  
春潮やさかしまマンション船溜まり
2009 (平成21) 採り時を教へぬキウイの硬さかな   
冬ざるるアイスプラント塩きらら
2010 (平成22) ふゆばらや麻酔科女医の声やさし
口縄に似た瓜まっつぐぶらさがり
2011 (平成23) リフォームや壁に仔猫の出入り口 
引越しの猫に木天蓼(またたび)キャリ-籠
2012 (平成24) 水彩を学び八年破蓮(やれはちす) 
武蔵野の武蔵野うどん武蔵振り
2013 (平成25) 初孫は男の子なり若緑       
春さむき春のあかつき有明山
2014 (平成26) ゆくりなく翡翠にあう花見かな
寒明けや気くばりボスのお別れ会 
2015 (平成27) 右手(めて)上げてピンクの信号毛布
自画像の髪眉白く冬帽子
2016 (平成28) 眼裏(まなうら)に白鷺を見てくらしをり
隈府から東都に飛びし蜜柑穂木

気配りボスの偲ぶ会    [随想]


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世の中には凡夫の自分などには、到底及びもつかぬ傑出した人、器の大きな人がいるものである。
例えば自分が組織に属してサラリーマンとして仕えた上司、直接の部下だったことはないので正確に言えば上司の上司だった方はまさしくそんな人である。

残念ながら平成25年(2013)暮れに亡くなられ、翌年明けに偲ぶ会が開かれた。もうあれから三年になる。

自分が謦咳に接したのは氏が組織のトップとして在任した平成3年(1991)から平成12年(2000)の間10年弱になる。  
近くで見たその言動は、若い人を育てることを第一に考えていたように思う。
大物は清濁併せてというが、濁は決して飲まず、片や清酒を愛した。勲章などを毛嫌いし、権力を持ちながら分け隔てせず人と接しておられた。  
宴会では、客人をよそに仲居さんと何やら熱心に議論したりしていた。愛犬のために膳の残り肉を紙に包んでポケットに入れて、見つかると照れ笑いをされながら言い訳をした。  気くばりのひとという揶揄めいたあだ名は、接する人のことを真に思う立ち居振る舞いから付いたもので、本人は意にも介していなかったのではと思う。 死すれば人は急に大人物になったりするが、この人は生前からまさしくそうであった。  
お別れ会の前夜、東京に降った雪がたいしたことがなく、朝晴れたのは、帝国ホテルに集まる大勢の老人への天上からの気くばりに違いない。
氏は昭和2年(1927)大阪生まれ。86歳没。

  寒明けや気くばりボスのお別れ会    杜 詩郎

大江戸線 ゆめもぐら [随想]

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西武新宿線の鷺ノ宮駅から中井で乗り換えて新宿へ行くのに利用している都営大江戸線は、昭和47年から建設が検討され、20年かかって平成3年度に開通したという。
東京の地下鉄の中では比較的新しい方だが、すでに4半世紀近くが経っていることになる。
この地下鉄の始発駅は都庁前、終点光が丘駅、6の字型の珍しい「環状」線である。  
何といっても、特徴は大深度地下鉄であること。六本木駅は東京の地下鉄駅で最も深い42.3m、わが西武線乗換駅の「中井」が第6位で35.5mある。トップテンにあと3駅(新宿、東中野、中野坂上駅)もランクインしている。
 エスカレーターは、途中踊り場がある2段がほとんどでしかも長い。「下り」がないところも多く、膝の悪いひと、老人泣かせである。
 車体のラインカラーは「マゼンタ」。紫を帯びた紅色でおしゃれだ。
 路線名の由来は東京の古称である江戸の雅名「大江戸」からだが、路線名称選好委員会で公募した時、多かった候補の「東京環状線」・愛称「ゆめもぐら(!)」に某都知事が難色を示したという。理由は、土竜が畑を荒らす小害獣だからではなく、「環状線」の方だったらしい。ん?、感情問題か。
 結局、2位の「大江戸線」に決定した。このあたりの経緯を今知っている人は、いまや少ない。
 毎週、都庁前駅で聞くBGMは、小鳥の声。いつまでたっても耳に馴染まない。蓼科や栂池で聞いた美しい声を、思い出すよすがになるだけの効果はあるが。

いくつかの駄句。
新宿の地下鉄駅の百千鳥

老鶯や地下鉄駅の谷渡り

おぼろ夜や地下に消えたるゆめもぐら
(もぐらは季語ではない。「土竜追い、土竜打ち」は新年とか)

ゆりかもめ東京ベイに舞い翔びて (ゆりかもめ 都鳥のこと 冬)

平成二十九年 丁酉歳旦三つ物 [詩歌]


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むかしといっても、江戸時代であろうか、連句が盛んだった頃、正月や慶事があった時に第三までの三句を三つ物といって詠んだと知った。そこで自分も我流で2005年頃から作って愉しんでいる。
今年も歳旦三つ物をつくった。俳句、連句、短歌にしろ定型詩というのは、つくりやすいという側面があるが出来たからといって、良いものになるという保証はない。自分の場合大抵は良くない。加えて歌仙の独吟は文字どおりの独りよがり。以下のごとく解説をつけても余人には理解しがたいだろう。

平成二十九年 丁酉歳旦三つ物
発句 沼袋井草繁や鷺ノ宮
脇 まなうらに見るしらさぎの舞
第三 今朝のジムヨガ瞑想で始まりて

東京は中野の白鷺なる地名のここに、同じく都下の東大和市芋窪なる地から引越してきて早くも36年余の月日が流れた。
白鷺と芋窪では地名の雅さにおいて落差がある。芋窪という地名は自分が新興住宅地の分譲地を購入した時にはすでに上北台という地名に変わっていたが、聞くところでは由緒ある地名なのに変えたという。地価を上げようとする魂胆が透けて見える。
白鷺もその類いであろうと調べたら、鷺宮という地名があって人口が膨らみ、鷺宮から分離したとき、当時すでにあった白鷺八幡神社の別当寺南蔵院の山号が白鷺山だったことから、白鷺という地名にしたらしい。
まぁ許せる範囲か。自由が丘、ひばりが丘などよりましというもの。統合、合併などでつけられる新地名が生まれる一方、由緒ある地名が消滅するのはいただけない。西東京市が出来て田無や保谷が消えた如くに。

参考記事 「白鷺35年」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23

西武新宿線沼袋駅と上下井草駅の間に鷺ノ宮駅がある。わが最寄り駅になるが、中央線だと阿佐ケ谷駅になる。周囲の地名から容易に想像できるように、ここがかつて低湿地だったことを示す。近くを妙正寺池を水源とする妙正寺川が流れ、やがて神田川になる。

上記のブログで白鷺なる地に住んで長いが、白鷺を見たことはないという意味だけの駄句を詠んだ。
眼裏(まなうら)に白鷺を見て暮らしをり

今年の歳旦三つものは、これを発句の初案にしたが、脇以下のあとが続かず低湿地だから藺草も繁っていたであろうと、駅名を並べ雰囲気だけを詠んで発句とした。

発句 沼袋井草繁や鷺ノ宮
「藺草刈る」が夏の季語という。別案「沼袋藺草刈り干す鷺ノ宮」もお宮の座敷用の畳藺草をイメージできて捨て難かったが、シンプルに「繁や」とした。

脇 まなうらに見るしらさぎの舞
初案の駄句(五・七・五)を短句(七・七)になおしたが、鷺ノ宮と白鷺がつき過ぎ。同字を避けてしらさぎを平仮名にしても修正ができぬ。他に代案が浮かばず、不満ながらやむなく採用。

第三 朝のジムヨガ瞑想に始まりて
10年近く通った鷺宮フィットネスクラブが老朽化を理由に閉鎖してしまい、隣の下井草駅前のジムに移って7ヶ月になる。
週2ないし3回行くジムでは、スローヨガ45-60分のプログラムに参加するのがメイン。あとはたまに筋トレ、プール。
第三は大きく転換するのが理想(特に発句と重なるのは禁忌…後戻りしてしまう)ながら、これでは白鷺の地からいくらも出ていない。
最近すっかり出不精になり、引き籠もっている我が身を歌っているようだ。

ところで、昨年も「二十八年丙申歳旦三つ物」をつくった。

発句 金婚や持ち重りする薔薇の花
脇 冷房きかせ聴くクインティット
第三 水彩画かくも長きに愉しみて

「持ち重りする薔薇の花」は丸谷才一の小説の題名から。我ら「金婚」によく付くのではとそのまま拝借した。小説のテーマは四重奏団(カルテット)のメンバーの確執、葛藤を描いたもの。当方は金婚なので五重奏(クインティット)にしたところがミソ(冷房をクーラーと読み、か行の句でもあると自画自賛)。
これも解説をつけても他人には理解困難だが、(心臓で)年賀状に添えた。お稽古中の静物画、薔薇の花の水彩画をつけて。

参考記事「二十八年歳旦三つ物」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-01-10

さて、今年の年賀状に三つ物を添えるとしたら、絵は何が良いか考えた。そうだ、あれだと思い出したのが、J・オーデュボンの白鷺の水彩画。模写のお稽古にもなる。
オーデュボンはたくさんの鷺類を描いている。
中でも有名なのが、「Great Egret 大白鷺」(1821 Watercolor,graphite,ink ,and chalk on paper)で、これを添えたいものだ。この辺は良し悪しは別として、連句的発想である。

オーデュボンの「大白鷺」の原画は紙に水彩、グラファイト、インク、チョークとされるが、ある雑誌の記事では水彩、石墨、グワッシュ、パステル、白色顔料、黒インク、黒チョーク、紙とある(芸術新潮 2013年6月号) 。いずれにしろ驚異のマルチな画材を駆使した絵だ。オーデュボンの代表作の一つ。

ジョン・ジェームズ・オーデュボン( John James Audubon, 1785- 1851 66歳没)は米国の画家・鳥類研究家。北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描い
た博物画集の傑作「アメリカの鳥類」(Birds of America, 1838年)によって知られる。

参考記事「オーデュボンの水彩画」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-06-01

当方の模写は、水彩と鉛筆、ボールペン(白)。細い白い羽は烏口でマスキングし、白のぼかしにパンパステルを使ったりしたが、およそ二百年前のオーデュボンの足もとにも及ばぬ出来になった。紙はウオーターフォード(F4)。

何はともあれこの歳になると、今年も昨年に続き、下手な絵と歳旦三つ物ができて年賀状が出せたことは、誠に幸いであるとしみじみ思う。

受け取ったひとが「ん?」という顔をしているだろうことはまちがいないが。


リ・ポーの不透明水彩画 [絵]

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今年のわが水彩のおけいこ史に残るヒットは、不透明水彩(Gouache )の1日講座に参加したことである。いろいろ考えさせられることがたくさんあった。透明水彩(Watercolor)の理解にも大いに役立ったように思う。

その時、ネット画集でガッシュ作家にはどんな人がいるのだろうと探したらヴェトナムのリ・ポーが出てきた。知る人ぞ知るのであろうが、不学の自分ははじめて知った。
ガッシュを使う画家は多い。とくに油彩画家はパステルと同じく素描の画材として使うようだ。しかし本制作にこれを使う画家は、(日本に中西利雄などがいるが)リ・ポーの他にあまり知らない。

リ・ポー(Le Pho )は1907年生まれ(2001年に94歳で没した)ヴェトナムの画家である。
生年の1907年は明治40年、日本水彩画の先駆者浅井忠が51歳で没した年である。1904年に開戦した日露戦争が2年前に終結している。
マンダリン二世の家に生まれたというから、中国系なのであろう。
18歳でハノイのエコール・デ・ボザールで5年間学び、その後2年間パリのエコール・デ・ボザールで学んだという。
フランスのヴェトナム侵略は1847年にはじまり、植民地としては1887年から第二次世界大戦終戦まで仏領印度支那連邦として続いたからフランス文化の影響は大きい。

リ・ポーは自らの教育を修了した後ベトナムに戻り、エコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts)で4年間教えた。その後、1937年に国際博覧会の代表としてパリ​​に戻る。ま彼はまた、この展覧会の審査員の一員として勤務したという。
彼は30代と40代の間、ヨーロッパとアジアで幅広く旅する。この時彼は、水彩を細長いブラシでシルク(絹)に描いている。
彼の絵の主題は鳥、竹、蓮の花などの静物画、家族の肖像画、ヴェトナムの風景画などであり、これらは伝統的にアジアのもの(Asian)だった。
彼の作品はピエール・ボナール(Pierre Bonnard 1867年 - 1947年 80歳 歿))とオディロン・ルドン(Odilon Redon1840年-1917年 76歳没)の影響を強く受けているとされる。
ルドンは水彩画の巨匠ギュスターブ・モロー(1826-98)の影響を受けているが、リ・ポーがそのルドンから影響を受けたというのは大変興味がある。また、ボナールはジャポニズムや墨絵など中国絵画などの影響を受けたとされるから、その観点でリ・ポーを見ると面白い。

ルナール博物誌の挿絵 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-03-12
オディロン・ルドンの水彩画 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-09-26
オディロン・ルドンの水彩画その2 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-10-09

しかし、リ・ポーは繰り返してベトナムの女性を描いているが、ほとんどの場合、シュルレアリスムの影響を想起させる細長い図形として描かれ独自の画風を持っている。
リ・ポーの絵は、アマチュアの目で見ると大きく二つに分かれる。ひとつは「茶を注ぐレディ」に代表される黒っぽい色調が多い人物画(シュールだ)と鮮やかな明るい花を主体にした絵である。
前者は線が目立ち、後者はそれが少なくて色彩が豊か。こちらは花だけのものもあるが人物がともに描かれているのも多い。

Elegant Lady Pouring Tea「茶を注ぐレディ」は、リ・ポーの代表作のひとつと思われるが、ネットでは例えば次のサイトで見られる。

https://www.wikiart.org/en/le-pho/elegant-lady-pouring-tea
ここには次のような表記があった。
Style: Post-Impressionism
Genre: genre painting
Media: gouache, ink, board, silk
Dimensions: 45 x 61 cm

花の絵の一例。人物画とは、かなり趣が異なる。不透明水彩らしく穏やかな華やかさだ。激しい色彩のルドンの花より静か。

https://reneelammers.com/blog/40707/february-26-2012-painter-le-phos-floral-paintings-and-creed


彼がなぜ主たる画材としてガッシュを選んだのか、おおいに関心があるがネットでもリ・ポーに関する記述自体少なく未だ知ることが出来ていない。
リ・ポーの絵は著作権が消滅していないので掲載せず、下手な感想など述べられないのが残念であるが、WikiArtやPinterest で検索すれば素晴らしい作品を容易に鑑賞できる。
肖像写真はウィキペディアから拝借した。


線画水彩からの転向 [絵]

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このブログで「何だか変だぞわが水彩」を書いたのは2012年12月。水彩を習い始めてから8年余も過ぎてしまっていた。それから4年余が過ぎたので、ここで少し反省しておこうと思う。
「何だか変だぞわが水彩」 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12

「何だか変だぞ」ではこう書いた。
「自分の絵は、線画淡彩だから当然海外を含めて、最近の水彩画とは大きく異なる。二つは、別物と言って良いくらいだ。
しかし、今から自分の絵を変えることは、きっと不可能であろう。
マラソンランナーが短距離選手に、なろうとするようなものだろう。あるいはサッカー選手が野球選手になるようなものか。自分の絵を100%否定しないと出来ないような気がする。さすれば、70歳を過ぎた頑迷固陋の生徒には、無理というものである。
とはいうものの、習い始めた時から鉛筆の線の処理が気になっていたので、海外の水彩や最近の水彩画の流れはよく理解できる。確かに漫画やイラストではないのだから、「輪郭線」にこだわることはないのだとも思うからである。
だから、一度は挑戦してみたい気はする。やってみると8年余になるカルチャーで培ったものがすべて消滅し、自分らしさが無くなる、つまり自分の絵を見失うことになるかもしれないという懸念もある。いっぽうでだめでもともとだ、とも思う。
これで今ゆらゆら揺れている。
なお、掲載の絵は、この夏、鉛筆を使わずに描いてみたものである。新宿御苑の葉桜。」

わが教室は週一回 、講座名は「淡彩スケッチ」である。
これを描いたあと、教室でも線画水彩からの脱却を意識するようになり、ネットで調べて色々な技法を試すようになる。教室は10年経ったところでやめた。
白の塗り残し、滲み、ボカシ、スパッタリングは、教室で先生も教えるが、ネガティヴペインティング、マスキング、ソルトペインティング、流し込み、リフティングなどはもちろんファーストウオッシュの上から描き進める技術なども教えない。
先生は本業は油彩画家であり、水彩はペンの線画である。基本的には着彩デッサンであくまで本制作のための下絵、エスキースであろう。
デッサンをしっかり鉛筆で描いた上に着彩するという基本は崩さない。影はもっぱら立体感を出すため、対象を前に出すためにつけると教える。
なかでも際立つのはマスキング技法である。先生は一切使わず生徒(私のこと)が使っていても何もおっしゃらない。たぶん反対なのであろうと推測した。

先月11月ネットで次のような記事を見つけた。書いたのは水彩画のプロで教室の主宰者である。
「例えば、鉛筆できっちり描いて淡彩で仕上げるような絵のスタイルから入った人が10年でそのスタイルを会得したとします。 さて、ステップ2として本格的なニジミ・ボカシを多用した絵を目指そう… と。
それはとてもたいへんなことだと思います。バスケのスーパースター、マイケル・ジョーダンがベースボールメジャーリーグに転向するようなものです。」

私の場合は、線で描き淡彩で仕上げる絵のスタイルを「会得」したわけでは無く、フルレンジの本格的水彩画を目指しているわけでもないので、転向とはおおげさ、ちょっと当てはまらない。まぁ、色つきデッサンからの脱却程度だが、その困難さを自分でも予知していたことが分かる。
たしかにバスケのプロが野球のMLで活躍するのはほぼ不可能であろう。
ソフトから陸上選手になったオリンピアンがいたが、あれも大変な例外だろうと思う。

さて、何だか変だぞと気がついて修正を試みているこの4年間のことである。
まずは、最初に単発の水彩画講座でマスキング技法を習った。まだ週一の教室に通っているうちのことで「10年目の浮気」である。それまで他の先生の水彩を見たこともなかった。
参考記事「10年目の浮気」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-12-02
マスキングは嫌う人もいるが、白の塗り残しの省力化に価値がある。根気のうすれた年寄りに有難い技法である。また、光やハイライトを見つけるのにおおいに役立つ。

ネガティヴペインティングについては、自分はこれまではほとんどポジティブペインティングだったとわかる。表現法の幅が広くなったような気もする。
リフティングは透明水彩でも1回くらいならやり直しが効くこと、流し込みやソルトペインティングでは、水の大事さとそれがもたらしてくれる偶発的な変化の面白さを学んだように思う。
何度かプロのデモンストレーションも見たので、手順や仕上げの大事さも再確認した。これはやる人は大変だろうが、学ぶものには有難い。百聞は一見に如かずである。
皆んな、固定観念にとらわれず自由に何でも試しているのにあらためて驚く。

また、この間パステルや不透明水彩なども試みたのは、より透明水彩の特質を知る上でたぶん役に立ったように思う。

むろんまだまだ線画水彩からの脱却に成功してはいないが、何より、まだ楽しみつつの「修正」を投げ出さずに続けていられるのは、幸いと言うしかない。

池田山公園の記憶 [健康]

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この夏も暑さに負けどこへも出かけず引きこもっていた。
その夏も疾く過ぎて紅葉の季節到来である。

家内が新聞の記事を見て「五反田の近くに池田山公園というのがあって何か良さそう」と言うのを聞き流していたが、友達を誘ったところ帯状疱疹でダメだったと嘆いている。

行ったことがあるかと聞くので、全く無いと答えたがこういう時はあなたと行っても面白くは無いが一緒に行くかと言う意味だ。
それじゃと付き合うことにした。

行き順を事前に調べたという家内のいうままについて行くと、五反田駅前に降りてから何となく嫌な感じがする。美智子妃殿下の「ねむの木の庭公園」と言う案内図を見てやっと気がついた。
…ここは以前スケッチで来たことがある!
すっかり池田山という地名が記憶からかき消えていた。
人は覚えていない地名は行ったことがあっても、そんな場所は無いのだ。
帰ってからファイルしていた絵の画像を見ると2011.4とある。東日本大震災の1カ月後であり、まだ5年半しか経過していない。
そのとき自分の描いた絵は良く覚えていた。画像ファイルを見て公園の佇まいは思い出したが、さて一緒に行った画友の顔は覚えていない。スケッチは10時半からだったはずだが、お昼はどこで食べたのだろうか。これらもなぜか記憶から完全に消えている。
当時の状況をあまり覚えていないのだが、肋間神経痛がひどく体調が悪かったことは確かで、スケッチや教室でも人より早く切り上げ早帰りをしていた。

池田山公園は岡山池田藩の屋敷跡 で池泉回遊式庭園(のぞき式)として名高いとか。一帯は五反田、目黒駅から近い高級住宅地である。行くと良く分かるが、高低差があってすり鉢の底に池がある感じの珍しい日本庭園である。

帰りは目黒駅まで歩き庭園美術館の庭を見たあと、恵比寿駅近くで開催されていたFBで知った先生の個展会場に寄る。
しばらくぶりで先生の素晴らしい絵と絵の話を楽しんでから帰ったが、池田山公園の記憶についてはずっと頭から離れない。
認知症はひどくなると、昔のことを忘れないが最近のことはなから忘れて行き覚えていないという。まことに池田山公園の記憶はそんな感じだ。

物忘れや昔の知人名を思い出せないといったことはしょっちゅうだが、自分が思う以上に認知症、あるいは認知症的な老化が進んでいるのかも知れない、と思わされた一日であった。わが「池田山騒動」などと言って面白がっていて良いのやら。


絵は上が最初の時現地で描いたもの。下は今回写真を見て。並べて見ると、描き方はずいぶん変わったように見える。

そうか 水彩が上手くならない理由はこれか [絵]

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退職後趣味で水彩を習い始めてから13年目になるが、いっこうに上手くならない。13年といえば、小6、中3、高3を終え大学1年生。われながらふがいないと思うのだが、その理由については自分なりに心当たりがいやというほどたくさんある。
先生のおっしゃることをよく聞いていない、デッサンから入っていない、晒してナンボというのだが人に見せるのが苦手などなど。
しかし、最近ある水彩画塾の先生がネットで「絵が上手くならない人はー」という記事書いておられるのを読んで、自分でも気がついていた一つではあるが、あ、これだと腑に落ちたことがある。
先生は「一般的な意味で、あるいは、初心者にとって上手とは、形と色が適確に再現出来ることです。再現力が身に付くとは、様々な画材を思い通りにコントロール出来る様になると言う事です。再現力が身に付いて初めて基礎が修了です。」としたうえで、
「難しい・出来ない・無理・駄目・分からない・下手くそ」・・・等々の(中略)否定的な言葉にしがみついている人はなかなか上達しません。自分自身が自分の能力を押さえつけるからです。」とおっしゃる。そして発した言葉がいつの間にか確信に変わるという。「言霊」の力を侮るなかれと。

練習して出来た自分の絵は、画像にして気がついたことをコメントして記録に残しているが、ほとんどはぼやきばかりだ。イマイチ、道はるか、まだまだである、下手、光がない、情け無いなどなど。絵の恥は描き捨て、我が水彩は習作でなく羞作といった自嘲もこの部類に入る。

現役の頃、五十回以上プレイを2年も続いたことさえあるゴルフも、回数が多い割りには全く上手くならなかった。やはり理由はたくさんあるが、一つにはこの否定的な言葉ばかり発していたことにあるのではないか、と今になって訝る。挙げ句の果ては「どこぞに、ゴルフのない国はないかねえ」と愚痴っていた。非常によく似ている。
ゴルフは体調をくずしたときに、不本意ながらやめてしまって早くも8年目になる。
ゴルフも絵も手すさびだから、上手くならなくても下手は下手なりに楽しいから良いようなものだが、もう少し何とかならないものかと思うのである。
絵もこれからは、下手でもなるべく否定的なことばを避けて、前向きに捉えるようにしよう。自画自賛とまでいかなくとも。

上記の先生はさらに良いことを仰っている。
「多少でも上手く行った部分に意識を集めて満足する事、それに馴れて来ると、更なる満足を意識できる様になり、満足が満足を招き寄せる。満足している人の顔は穏やかで幸せそうな表情になる。自己満足だが幸せそうな表情は周囲の人にも及んで和やかな雰囲気を作る。」と。

最近になく納得感があったので、肝に銘じるべくお教えを無断引用させて頂いた。先生ご寛恕願いたい。

絵は最近描いたもの。文章とは関係ない。
「婦人像」ガッシュ F6 ストラスモア
少しは色と形の再現力がついた…かな。

「女はバカ、男はもっとバカ」 (藤田紘一郎 2015 三五館)を読む [本]



著者は1939生まれ。東京医科歯科大名誉教授で免疫や感染学の大家という。たしか会社のOB会の講師として招聘されていたので名前を知ったが、この時欠席して講演は聴きそびれた。お名前は「八紘一宇」からであろう。紀元二千六百年が1940年。

本のサブタイトルに「我ら人類、絶滅の途上にて」とある。これは異常気象や制御不能の事故原子炉、縮減出来ぬ核兵器、何より戦争をはじめとする愚かな人間のふるまいを見れば、実感することである。
生物の歴史は絶滅の繰り返しだという。恐竜、ドードー、アメリカ旅行バトや最近の絶滅危惧種の増加を知れば、これも頷けること。絶滅回避のキーワードはバカとおっしゃる。女はバカだが、オトコはもっとバカということは、男のバカさ加減が人類の滅亡を回避できるというのだろうか。どうも肝腎のこの辺になると論旨がよく分からない。当方に生物学、病理学の素養がないからであろう。
本旨とどう関わるのか不明ながら、「駆け引きはメスが上手 オスに勝ち目なし」とかいうあたりは共感を覚える。
もとより男は女が創り出したものであり、急ごしらえだから、あちこちに無理があるとされる。人間も女の方が優れていることは間違いない。この意味で言えば、本の表題は正しい。
人類は一夫一婦制 を選択することで非生産的なオス同士の争いから解放され進化してきたが、これも制度疲労が進んできているという。もっと自由な、そして多様な生き方が、絶滅回避のために必要と言われる。自由で多様な生き方とは何か。LGBTや不倫ではないと思うのだが、良く理解できない。

以下も本旨とどう関連するのか分からないが、いくつか個別には納得感がある。
ハイヒールの女性がなぜセクシーか。ロードシス体位といって尻を後ろに突き出し下部脊椎を弓なりにそらすことになる姿勢は、哺乳動物のメスがオスを誘う姿勢だそう。

男性が女性を理解出来ないわけは、男性ホルモン(テストステロン)はほぼ一定量を保ち分泌されるが、女性は女性ホルモンのエストロゲン、 卵胞(ホルモン)、プロゲステロン(黄体ホルモン)の分泌量によって心身の状態が変わる のだという。女心と秋の空の原因は、これらの分泌時期と量が不安定だから。自分も男の心理は他人であってもそう違わないと思うから理解できることが多いが、女性のそれは皆目分からないことばかりだ。
「男にとってはそれが謎めいて魅力的なことであり、しゃむにに追っかけるから種の保存に適っている」とは書いては無い。

生命の本質は子孫(遺伝子)を残すこと 。これは良く理解できる。
が、「この本質を追求するための手段として、芸術は理にかなった一つの表現方法となっている、生産的活力の高い者は創造的な能力も高い、よって芸術家はモテる」という論理は、実態はそうかも知れぬが、 あまりロジカルではないような気がする。
自分がそうでないから、よく分かるというものだが、男がモテるのはハンサムな顔とお金である。それが女性の脳の回路にどう作用するのか説明してほしいものだ。

もう20年近くも前にもなるが、一時期竹内久美子女史の著書を面白がって読んだことがある。竹内 久美子 (1956 - )はエッセイスト、京大日高敏隆教室で学んだ動物行動学研究家。
「浮気人類進化論」(1988)1998文春文庫がなぜか本棚にあったので再読した。中味はすっかり忘れている。もとより藤田氏の著書と関連はあるとは思わなかったが、何となく共通点がありはしないかとふと思ったのである。やはり基本的には共通点はなかったようだ。
こちらは全体に歯切れが良いのが特徴。学者としてどうかと思うかというほど、ユニークな説を断じて憚らないからであろう。
実際に生物学者の伊藤嘉昭(1930-2015)らは、女史の一連の著作は理論の濫用だとして批判 したという。「トンデモ本」ともいうらしいが、初めて聞く。やや不寛容過ぎるという気もするが、そうだと言い切るほどの見識も持ちあわせない。

学者や医者の啓蒙書は、読んで面白いものが多い。多田富雄、棚橋桂子、福岡伸一、日高敏隆、中井久夫、養老孟司などなど。蒙度?の高い自分などは、読んでいて啓かれっぱなし。驚愕し学ぶことばかりで、理論の濫用かなどとは夢にも考えず感心しつつ愉しんできた。

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絵は最近習い始めた不透明水彩(ガッシュ)。
帽子を持つ婦人像 」F6 ストラスモア
本文とは関係ない。

老いらくの恋(その五) ー寂聴「いよよ華やぐ」と岡本かの子「老妓抄」 [本]

岸恵子「わりなき恋」を読んだ勢いで瀬戸内寂聴「いよよ華やぐ 」 (2001新潮社)を読んだ。あまり小説を読まないのに、自分でもびっくり。
2005年頃、連句には、正月や慶事があった時などに詠む「三つもの」なるものがあると知り、初めていたずらに作ったとき、この「いよよ華やぐ」なる言葉を拝借したことがある。この小説を読んだことがあったかも知れぬと、読書メモを検索したが出てこなかった。しかし、どうも読んだことがあるような気もしてならぬ。2度読みでないとすれば、あのときこの句がどこで頭の中に入ったのか記憶がない。

平成十七年乙酉歳旦三つ物
発句 五十肩癒えて 弾き初めバイオリン
脇 いよよ華やぐ 老いの春なり
第三 挙式せん 山笑う頃穂高にて

発句・この頃家人がひどい五十肩になり、好きなバイオリンが弾けず 泣いていた。その平癒を言祝ぐ。脇・老いの春は晩春のつもり。第三・次男が奥穂高神社で結婚式を挙げた。二人は明神池で神主の漕ぐ舟に乗り、ハイカー達にも祝ってもらった年である。

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瀬戸内寂聴氏は1922年生まれだから、この小説は79歳のときの長編。幾らも年齢差のない今の自分の情況とくらべると、その華やぎぶりに驚嘆する。
ご本人はいま96歳。病と闘いながら安保法制反対の活動に参加していたのが、記憶に新しい。

「いよよ華やぐ」の主人公は、91歳の俳人で銀座にある小料理屋「なぎさ」の女将藤木阿紗女。31歳から70歳までの40年間貫いた恋の回想を中心におき、女友達着物研究家・浅井ゆき84歳 、スナックママ・杉本珠子72歳と阿紗女の娘薫ら熟女、嫗たちの愛と性を描く。その描き方はあからさまでさすがに多少うんざりする。当方が枯れてしまったからであろう。

良く知られたように、ヒロインのモデルは俳人鈴木真砂女(1906-2003 96歳没)。銀座で小料理屋「卯波」を経営、傍ら俳句を詠んだことで知られる。
店名は「あるときは船より高き卯浪かな」からという。

真砂女の恋は、7つ下の軍人との愛がその死(真砂女70歳)まで続いたのだから、後半は老いらくの恋とも言えるのだろうか。相手が妻子ある男、不倫ながら一途というところが人の心を捉えるのであろう。真砂女に「夏帯やー途といふは美しく」があり、自分の頭のどこかに入っていた。

真砂女は96歳まで生きて俳句を詠んだ。
代表句はいくつかあるが、なんといってもさきの恋を踏まえたであろう「羅や人悲します恋をして」である。
「羅や」で始まる句はほかにもある。よほど恋に付く季語なのか。
羅や細腰にして不逞なり
羅や鍋釜洗ふこと知らず
羅や恨み持たねば気も安し

永六輔や小沢昭一らの素人句会「東京やなぎ会」のひとり柳家小三治の句に「羅や真砂女のあとに真砂女なし」があるくらいだ。

羅(うすもの)とは、絽、紗、上布など薄織の絹布の着物(単衣)のこと。歳時記によれば「見た目に涼しく、二の腕のあたりが透けているのが心持よく、特に婦人がすらりと着こなして、薄い夏帯を締めた姿には艶(えん)な趣がある」。夏の季語。軽羅、薄衣とも。

真砂女には他の佳什もあって、句全体の切れの良さ、潔さを好む人は多い。
来てみれば花野の果ては海なりし
今生のいまが倖せ衣被
戒名は真砂女でよろし紫木蓮

さて、題名の「いよよ華やぐ」は、岡本かの子 「老妓抄 」(1938 中央公論)の最終章に出てくる作中人物の老妓、小そのこと平出園子が、作者に送つた短歌の中の一首からとっている。
年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

岡本かの子 (1889 - 1939 49歳没)は、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 本名カノ。漫画家岡本一平の妻、画家岡本太郎の母である。妻妾同居ならず夫燕同居?(こんな言葉は無い。わが造語である)までした奔放な妻として世に名高い。

「老妓抄」は青空文庫で読むことが出来る。短編小説でおよそ「いよよ華やぐ」と対照的に性愛を書き連ねず淡々としている。腥さがない。

「老妓抄」のテーマはこの一首に尽きるのであろう。老いの悲しみとそれにあらがうような恋心への戸惑いであろうか。これはこれで老いらくの恋に違いない。
それをよく表している文章を引用してみよう。
「彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。」
老妓「小その」は息子ほどの年齢の電気技師(柚木)を飼って?いる。好きとか愛しているとかは一切言葉にもしない。しかし、老いゆくなかで素振りにも出さないけれど命が輝くように、老女はたしかに若者に恋をしている。
小そのが短歌の師に見てもらうために送った一首は、人の、女の業のようなものが詠われていて哀れも誘う。そして寂聴が書きたかったテーマと重なったのであろう。

寂聴もかの子も「老いの悲しみ」と「命の輝き」を書いているのだが、どちらにウエイトがかかっているのか、不明ながら微妙に違うような気もする。
それにしても、かの子は短編でしかも多くを描写せず、読み手にも想像させてテーマを表現していて達者である。かの子は49歳で亡くなっているが、この小説はその前年1938年に書かれた(青空文庫は1950 ・s25)が、死後に発表された他の多くの作品とともに高く評価されたという。

作者49歳では自らの経験でなく、おそらく聞いた話と自分の想像力で書いた一編である。
寂聴さんのように長生きしたら、どんな老いを書いただろうか。

もうひとつの感想。「いよよ華やぐ」は「人悲しませる恋をして」のように不倫の恋が多く語られる。「老妓抄」にはそれが無い。不倫はおろか、夫のいる家庭に情人を入れるという、常人には理解しがたい私生活をおくった作者にしては、どうしたことか。

寂聴に「かの子撩乱」という岡本かの子の評伝があるそうだが、いまのところ読む気が起きない。関係ないが、かの子の「金魚撩乱」は青空文庫で読んだがこれはこれで面白い短編であった。


ポンピドゥー・センター傑作展 [絵]

息子が誕生日祝いと言って、ポンピドゥー・センター傑作展の切符を買ってくれたが、暑さと体調不良で上野まで出かける元気がなく先延ばしにしていた。
会期が9月の22日までというので、慌ててフィットネスをさぼり秋雨の降るなか、上野の東京都立美術館まで出かけた。病院以外では久しぶりの外出。

秋雨というのは梅雨より雨量も多い、と天気予報士がテレビで言っていたが、このところ台風も連続して来たりして雨がよく降る。大雨による災害が多い。
季節の変わり目に降る長雨には、梅雨のほか秋から冬にかけて降る「さざんか雨」というのもあると予報士が言っていた。また、冬から春に変わる時には「菜種梅雨」が降る。こちらは歳時記にもあるので知っている。春の季語。

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さて、今回の企画展は、所蔵作品から1906年から1977年までの1年ごとに1つの作品を選出し、フランス近現代美術の変遷を紐解いていく「傑作展」という。
ポンピドゥー・センター (ジョルジュ・ポンピドゥー国立美術文化センター)は、仏第五共和政の第2代大統領で、現代芸術の擁護者でもありこの施設を発案したジョルジュ・ポンピドゥー(1911-74)にちなんでいる。様々な形態の同時代の芸術(現代美術や現代音楽、ダンス、映画など)のための拠点をパリ中心部に設けようとの意図から計画され1977年開設された。比較的新しい綜合文化施設、芸術の拠点である。残念ながら行ったことがない。

企画展の狙いは、西洋近代史や絵の知識のある人には良いのであろうが、自分のような不勉強な者にとってはその良さがもう一つ分からなかった。年一枚展示というのもそうだし、1945年の絵をわざと?展示していないのも、現代絵画を円形の部屋にまとめているのも。
もちろん観る側に責があり、企画者に何の咎めはないことだ。

それでもさすが傑作展というだけあって、写真や彫刻などはからきし分からないが、デュフィ、ボナール、ビュッフェなどなど、絵画はなるほど見ごたえがある。
マティスの「Large Red Interior 大きな赤い室内」 (1948 油彩 Henri Matisse )が見られたのは、嬉しい。ピカソの「The Muse ミューズ 」(1935)と比べてオイルが薄いのがよく分かった。マティスの室内ものの最後の作品という。1941年大病をして、奇跡的に回復しグワッシュ切り紙を盛んに制作していた時期の油彩。

あと印象に残ったのはヴァシリイ・カンディンスキー (Vassily Kandinsky) の「Thirty 30 」(1937 油彩)。カンディンスキーの抽象画は、油彩であれ水彩であれ色彩も豊かで形も奔放なものが多いが、これは白、黒のもので30の格子の中に微生物のようなものがきちんとおさまっている。

参考記事:カンディンスキーの水彩画・抽象水彩画1
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-06-06

傑作展では、水彩など油彩以外の絵画は見られないだろうと予想して行った。が、1枚だけ魅力的な絵があった。
ジャン・プーニー(Jean Pougny) の 「The Red Violin 赤いバイオリン」( 1919 デトランプ 紙)である。
ジャン・プーニー(1894~1957)は、シャガール、カンディンスキーと同じロシア人の画家だそうだが、恥ずかしながら初めて知った。
なお、デトランプとは、岩絵具をポリビニール溶液に混ぜたもので、比較的早く乾く性質を持っていて壁塗りや舞台美術によく用いられとか。西洋テンペラと呼ばれる。一見すると不透明水彩(グワッシュ)のよう。

正午過ぎ 、帰りに山手線の大塚あたりまで来ると、「世界堂寄りますか?パスタ作りました、よかったら」と家人から携帯にメール。帰り元気だったら寄って来るかもと、言って出たが疲れてしまうだろうとすっかりヨまれている。
それにしても、この頃外食に魅力を感じなくなってきている。必ずしも良いことではない。

老いらくの恋よたび・岸恵子「パリのおばあさんの物語」と「わりなき恋」 [随想]

「老いらくの恋」について書くのは四回目になる。われながらしつこいと思う。

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図書館の棚で見つけて「パリのおばあさんの物語」(スージー・モルゲンステルヌ/著 岸恵子訳 千倉書房 2008.10)を借りてきて読んだ。
パリに住むユダヤ人のおばあさんの孤愁を書いた絵本だが、表紙絵と挿絵そしてもちろん文も好ましい。
あとがきで訳者岸恵子はこう書いている。
「老いの身の孤独をどう生きてゆけるのか…愚痴っぽくて自分勝手な頑固者になるのか、感謝の気持ちで他人にも自分にも優しくなれるのか、それが人間としての勝負どころです。」といい、「まだまだ旅や冒険を夢見る私にも、老いに対する私なりの覚悟はあります。私にはまだ溢れるような力があるのよ、という自分への信仰と共に。」

これを読んだ直後、たまたま新聞で岸恵子の小説「わりなき恋」(幻冬社 2014)の紹介を見たので、これも借りて読んだ。
たぶん「パリのおばあさんの物語」を先に読んでいなかったら、本の紹介を読んでも「わりなき恋」(幻冬社)を読む気にならなかったと思う。

岸恵子は1932年生まれだから、「パリのおばあさんの物語」を訳した時は76歳のとき。小説「わりなき恋」は2014年刊行だから、その時の著者82歳。
恋の始まりはヒロインの国際的ドキュメンタリー作家が69歳、相手は58歳の現役ビジネスマンで、恋の終わり・別れはそれぞれ76歳と65歳という。7年間の恋である。小説はもとより虚実ないまぜだが、どうしてもヒロインに著者を重ねてしまうのが人情というもの。相手も某大企業のトップマネジメントと特定されているとか。
蛇足 ながら、小説の中でヒロインが絵本の訳をする箇所がある。「パリのおばあさんの物語」とは書いてないが、たぶんそうであろう。この小説も虚実ないまぜである証拠のひとつ。

自分が勝手に思い描く純正の「老いらくの恋」は、男女共に65歳以上としているので、かなりそれに近いなと思ったのが最初の印象だ。65歳というのは閉経年齢51歳に子育て期間15年を加えたもの。子育てを済ませた、いわゆる「高齢者」とされる年齢と重なる。

老いらくの恋といってもどちらかのあいかたが若い場合が多い。我々が知っているのは、歌人川田順、茂吉など男が高齢で女が若いというのが一般的である。
男の身勝手が通った社会的なものもあるが、女性の受胎能力が弱まるのが早いこともその理由ではないかとシロウトは睨んでいる。大岡越前のご母堂の教えにもかかわらず、嫗(おうな)が若いつばめに狂うという例はあまり聞かない。

「わりなき恋」はこの一般論をかなりはみ出した設定と言えよう。我が国が猛スピードで高齢化社会に突き進んでいて、2040年頃には例えば大葬儀時代に入るなどと言われ、暗い時代の到来を予測する者が多い。
76歳のときに「パリのおばあさんの物語」を訳し、あとがきで「私にはまだ溢れるような力があるのよ」という著者が描いた「わりなき恋」はそういった時代にマッチし、しかも暗さを吹き飛ばす話題になるのか興味が沸くというもの。
知らなかったが、小説の発表当時はおおいに騒がれたと言う。もちろん著者が往年の美しき女優ということがあずかって大きいことは言うまでもないが。

題名の「わりなき恋」は、清少納言のひいおじいさんの、清原深養父(ふかやぶ)という歌人が、古今和歌集のなかで詠んだ歌からと、本文にも出てくる。

心をぞわりなき物と思ひぬる 見るものからや恋しかるべき(古今和歌集685)

「わりなき」という言葉は、ふだんあまり使われないが辞書によれば次の通りである。
わりな・い【理無い】(形)[文]ク わりな・し〔「理(ことわり)無し」の意から〕

(1)理屈では割り切れないほどの深い関係だ。特に、男女関係についていう。
(2)道理に合わない。筋が通らない。むちゃくちゃだ。
(3)どうしようもなくつらい。やりきれない。
(4)やむを得ない。避けられない。
(5)ひととおりでない。格別だ。
(6)非常にすぐれている。すばらしい。(三省堂 大辞林)

読後感想としては、こちらが枯れてしまっているせいか老いらくの「わりなき恋」というよりは「わりなき不倫」という印象が強かったのは残念である。
上記の辞書の解説用語を借りれば、(1)より(2)の要素が強い。
つい、小料理屋「卯波」の女将俳人、鈴木真砂女の代表句「羅(うすもの)や人悲します恋をして」(句集 生簀籠)を思い起こしてしまったほど。真砂女は、50歳で離婚しているが、2003年92歳で亡くなっている。
老いらくの恋は、一方かあるいはどちらも結婚している場合が多いだろう。どうしても関係者を騒ぎに巻き込む。どちらも単身という場合であってさえも、過去の配偶者や家庭を引きずるからややこしくなろう。

不倫小説となると「老いらくの恋」と視点、論点がまた変わらざるを得ない。不倫はわりなきと同義語だからわりなき不倫は同義反復。はじめから男は家庭を壊してはならぬといい、女はそのつもりは無いのにそんなことを言うのよ、と友達に話す。本当に愛しているなら離婚してからにすべしなどと野暮を言う人もいるだろう。しかし単身の女性にとってはどうでも良いことか。せいぜい人悲しませる恋の傷みが辛い程度か。いずれにせよ老いらくの不倫の恋については、あまり筆が進まぬ。
婿で恐妻家茂吉の恋がそうだったが、不倫の恋は当事者だけが美化するだけで周りは冷ややかに見ている。
老いらくの恋は、双方単身でかつ多くの初恋がそうであるようにプラトニックラブがあらまほしいと思っているが、無いものねだりか。

小説「わりなき恋」は、先の高齢化社会に一石をという意味ではどうか。著者の後ろに機を見るに敏な編集者の影が見え隠れするが、有吉佐和子の「恍惚の人」ほどのインパクトは無い。恋の終わりに重なる3.11ももうひとつしっくりこない。
男女とも地位、経験など特異なケースだから一般化は難しそう。恋自体はみな特異なもの、一般的なものなどないにしても。
還暦過ぎた男のえくぼに惹かれる女性の心理、気持ちは自分にはどうしても理解できないようだ。修行が足りなかったのか。まして女性のからだのことなど老若によらず理解の外。だから、心身ともに女性の恋を云々言う資格などもとより無いのかも知れぬ。

わりなきは辞書の(5)や(6)のように素晴らしいという意味もあるというが、「わりなき小説」とまでは、残念ながら読めなかった。しかし、著者の80歳を過ぎての「溢れるような力と冒険心」には脱帽、誰しも敬意を払わざるをえないだろう。

神様はなぜ子育てを済ませた人間、もはや子供を産む能力の無い人間をこうも長きにわたり生かしておくのか、あらためて考えさせられる。老いの覚悟を決めるためという人もいるが、時間の長さを考えればそれだけではあるまい。この貴重な時間をどう生きるかは、人それぞれに抱えた難しい課題でしかも画一的なものでは無い。

余生などとも呼ぶこの時間は、このような老いらくの恋を楽しむためではなく、おそらく種属維持のために孫や子供の面倒を見させるためであろうと最近強く思うようになった。
親は子が大人になっても危なっかしいと見る。また世の中は、実際に孫の世話を余儀無くさせられている高齢者、それに頼らざるを得ない事情にある親が何と多いことか。

親になった子供が何らかの事情で子育てが出来ないリスクに備えて、神は祖父、祖母を当分の間生かしておくのだ。孫が可愛い、愛しいという強い感情はその証である。
鮭などは無数の卵を産むから、そのうち数パーセントが確実に成魚になる確率は高いが、ヒトはそうはいかない。子育て期間が長く危険度は高いから、それだけ重層的で幅広いセーフティーネットが欲しい。
高齢者にとり老後の務めの基本は子、孫、曾孫の面倒をみることである。
親が面倒をみるべき生育期間を閉経後15年とすることがそもそも間違いなのである。高齢者といえど、そうたやすく子離れなど出来ない。
老いらくの恋など、子や孫の面倒をしなくても済む恵まれた人達が絵や音楽などの芸術、文学など老後の趣味を楽しむお遊びに似ているという気もする。

これは枯淡の境地というより、やつがれのしらけに近いというものであろう。これではせっかくの「老いらくの恋」も「わりなき恋」もミもフタもなくなるな。高齢者はつらいよ、はそのとおりだが、恋はもしかしたら夢を運んでくれるかもしれないのに。

関連記事
老いらくの恋
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-02-09

老いらくの恋ふたたび・「老いが恋」と「恋の重荷」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-01-12

老いらくの恋みたび・茂吉の恋
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-01-19

不透明水彩 のお稽古 [絵]


リタイア後、透明水彩を手すさびで楽しんでいるが、ある洋画家のブログが絵の勉強に役に立ち、かつ面白いので良く読むようになって久しい。
岡山在住のその画家が「不透明」水彩の1日特別講座東京(と横浜)でされる、というので参加してみた。講師先生は、「水彩といえば透明水彩が主流だが、透明水彩も良いところがありそれを知って貰いたい」とおっしゃる。
透明水彩を10年カルチャー教室に通いお稽古したが、挫折した身とすれば、何やら惹かれるおすすめ。
このわがブログは、自分のために書いているようなもので、およそ人様の役に立たないが、この体験記はふだん不透明水彩って何?と思っていられる方にだけは、少しは参考になるような気がする。

絵の具は有料だが用意するというのでお願いしたが、むかしペリカンの固形セット(パレットがついている)を買って放り出していたことを思い出して念のため持参した。そう、水彩クロッキーのお稽古で一枚だけこれを使ったことを思い出した。

紙はストラスモア(スパイラルブックF4)がおすすめだったので、少し大きめF6 を買った。

先生は最も重要なのは、白とおっしゃる。白はジンクホワイト、パーマネントホワイトではないとのこと。理由はおっしゃらなかったが、あとでジンクは混色用でパーマネントはハイライト用と知る。うかつにもちゃんとした不透明水彩用のパレットを忘れたが、ペリカンについているのと100均で買ったのが一枚残っていたのでそれを使うことに。

先生のデモが始まる。モデルは紫色の洋服を着た小柄な若い女性。F4のストラスモアで下書きなし。いきなり白を混色して人物の顔から描き始めるのに驚かされる。
透明水彩では白の混色はおよそやったことは無く、白ガッシュをハイライトで使う程度なので、白で混色するのは新鮮な感じではある。不勉強でよく分からないが混色して彩度、明度を調節するのだろうか。それとも新しい色を作るのだろうか。
たしかに乾くのが早いようで、上から色を重ね修正が出来るから透明水彩のように手順を考慮する必要がない。早描きスケッチには最適であろう。
先生は、修正を重ね自分の目指す絵を追求すれば良いとおっしゃる。
先生は最後にカラーペンシルを使われた。色鉛筆はサンフォード、水彩の上にかけるおそらく唯一のものとか。細い線が使えるので良さそう。これは早速アマゾンで求めた。
絵の具はホルベイン ガッシュ アーティスト、筆はキャムロンプロ、フィルバート18、10、6号平筆がおすすめ。

透明水彩の技法書は、「格好が良い」ので沢山あるが不透明水彩はひたすら修正していくだけだからほとんどない、と先生。なるほど。
さて、デモは15分ほどで終了、あと実際に白の混色をやってみたが、白の量が分からず意外に難しく良い色がでない。
下書きなしというのもなれないと位置決めが出来ない。絵が下の方に下がってしまうのは、最初に描く顔の位置が間違っているらしい。
とにかく、最初の絵は二目と見られぬぶざまものになった。失敗。
合間に人物画のコツを伝授される。頭と膝の角度に注意、腕の遠近感の出し方etc…。これがおおいに役立つものばかりだ。

最後に先生に幾つか用意していった質問をしてみた。答えは次の通りだった。
ガッシュと不透明水彩は同じですか?ー同じです。(愚問で先生に失礼だが、以前から気になっていて、プロの答えが聞きたかったのである。)
なぜストラスモアがおすすめか?ー画用紙に近いこと、強い紙であること。(水彩紙ならホットプレス、極細系か)
ぼかしや滲みは使いますか?ー使います。(マスキングはどうかを聞きそこねた…白が使えるのだからこれも愚問か)
鉛筆はどう扱うか?ー正しい線は残してあとは消す。
ミックスは?ーパステルを使う。

たしかに不透明水彩も面白そう。2年ほど前パステルに手を出した時も、同じように最初は面白かったから同じことかも知れない。当然ながら、すぐにそんなたやすいことではないと気づかされる。

いわゆる透明水彩(Watercolor)は、産業革命のあとイギリスを中心に発達したものだが、ガッシュは顔料をアラビアガムで溶いたものでそれ以前ヨーロッパでさかんに使われた絵の具あるいは水彩技法全般をさすとネットにある。不透明水彩の方が古いことになる。
日本では小中学校で使用される水彩絵具を、不透明水彩ということが多いという。これは透明水彩の技法は小学生には難しいことから、子供専用につくられたものである。このため、不透明水彩はわが国では多少誤解されているかも知れない。

不透明水彩といえば中西利雄(1900ー48)、小堀 進(1904-75)が知られている。二人とも清澄感溢れた絵を描いている。これは、かつてこのブログにも書いた。

中西利雄の水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-11-27

いまは、わが国だけかもしれないけれど、透明水彩ばかりがもてはやされているのは何としたことか。

ともあれ、先生は熱心に不透明水彩の良さを説明されて、絵を描く楽しさが伝わってくる。確かに面白いかも知れないと思って、帰ってきてからもせっせと練習している。
この2カ月余りで10枚くらいは描いた。ぼかしたり滲ませたりマスキングを試みたりして楽しんでいるが、やはり晴明感ある良い色を出すのが目標。
まだ描いている過程でも、出来上がりも透明水彩とどう異なるのかよく分からないが、
当分は講師先生の絵を模範に続けて見ようと思う。もしかしたら、透明水彩の方にも良い影響があるかも知れないと思って、あわせて透明水彩も同時にお稽古中。 何の根拠もなく、かつ虫が良過ぎると思うが。

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ワークショプでは、洋画家のお嬢さんが熱心に進行を手伝っていて、何とも微笑ましい。
ブログの愛読者には、洋画家のモデルもつとめる(絵も上手 )なじみの(?)お嬢さんだが、実際にお目にかかれご挨拶ができてラッキー。もっと幼いイメージだったのに大きくなっていておどろく。ヴァーチャルの画像の絵で拝見するお嬢さんも美しいが、実物はそれ以上に素敵で可愛いい。きっとすぐに母上似の美しいおとなの女性に、成長されるだろう。

平原綾香 Jupiter [音楽]

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弦楽のための組曲「惑星」(The Planets)作品32は、イギリスの作曲家ギュスターヴ・ホルスト(Gustav Holst 1874- 1934)の作曲した代表的な管弦楽曲である。
ギュスターヴ・ホルストの最も知られた作品は、この組曲「惑星」であるが、合唱のための曲を多く作曲している。またイングランド各地の民謡や東洋的な題材を用いた作品、吹奏楽曲でも知られる。

この組曲「惑星」は7つの楽章から成り、それぞれにローマ神話に登場する神々にも相当する惑星の名が付けられた。
「火星 戦争をもたらす者Mars, the Bringer of War」
「金星 平和をもたらす者Venus, the Bringer of Peace」
「水星 翼のある使者Mercury, the Winged Messenger」


第4曲 の主題が木星 で「快楽をもたらす者Jupiter, the Bringer of Jollity」
Jollityはお祭騒ぎのことだが、なぜ快楽と訳すのか不勉強で知らない。
この「木星」は「惑星」のなかでは知名度が最も高く、とくにイギリスでは愛国歌「I vow to thee, my country(我は汝に誓う、我が祖国よ)」として愛唱されている。
また世界各地で編曲され演奏されている曲でもある。

あと、「土星 老いをもたらす者 Saturn, the Bringer of Old Age」 、「天王星・魔術師」、「海王星・神秘主義者」と続く。

作曲時期は1914年から16年だから第一次世界大戦の頃、今から100年ほど前の組曲になる。

音楽を知らない自分が解説するまでもないが、組曲(suite)は、いくつかの楽曲を連続して演奏するように組み合わせ並べたもの。バレエ、オペラ音楽に名曲が多いがオリジナルもある。
ホルストの「惑星」のほか、交響組曲「シェヘラザード」(リムスキーコルサコフ)、「イギリス組曲」、「フランス組曲 」(バッハ)などが有名である。家人が好きだったので「シェヘラザード」は若かりし頃よく聴いた。「イギリス組曲」は、リタイアしたばかりの頃、さかんに聴いたが最近暫くごぶさたしている。

ところで、木星は地球と比べると半径11倍、質量320倍。太陽系最大の惑星。成り立ちや特徴の縞模様など謎多い惑星である。先日NASAの無人探査機「ジュノー」が、13年ぶりに木星軌道に到達し、観測をはじめたと報道された。
しかし、組曲の方は天文学、宇宙科学というより着想は占星術の世界のようである。

さて、2003年12月17日にリリースされた平原綾香のシングル「Jupiter」(ジュピター)は、このホルストの曲に、吉元由美(1960年生まれ、作詞家、エッセイスト)氏が日本語の歌詞を付けたもの。平原綾香のデビュー曲である。
♪わたしのこの両手で何が出来るの…など、良い歌詞があるが、♪自分を信じてあげられないこと…など気になるのもある。
CDは百万枚を超え大ヒット。アルバム「オデッセイ」にB面蘇州夜曲とともに収録されている。曲は今でも人気が高いという。

歌手がテレビに出演(「スタジオパークからこんにちは」 )していたので、アイパッドで撮影して透明水彩でチャレンジした。紙はアルシュで大きさはF2ほど。
案の定、似ないので往生する。もっとかわいい。猫や子供ももそうだが、このかわいいというのを表現するのは難儀である。まして若さやこの人の持つオーラとか、はなやぎなどはわが水彩レベルでは表現不可。
絵の具がうまく乗らないのは、どうやら用紙がブロック紙の最後から二枚目なので風邪をひいたらしい。下手な絵の言い訳。

アカンサス [自然]


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近所の友達が自宅で転倒して怪我をした、と見舞いに行ってきた家人が戴いてしまったと、アカンサスの花を抱いて帰ってきた。まじまじと近くで見るのははじめてであるが、何となく魅力がある花である。

アカンサス(Acanthus、ハアザミ、葉薊)は広義にはキツネノマゴ科ハアザミ属(アカンサス属 Acanthus) の植物を総称していうが、普通は特に観賞用に栽培されるA. mollisを指す。その名前にはギリシア語で「トゲ」と言う意味があるとネットで知る。
葉は古代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされた。これは何かで聞いたことがある。ギリシア、シルクロード中国そして日本へ伝わった葡萄からくさ紋様などと一緒に、頭の隅っこ奥にあった。

特にギリシア建築のオーダー(円柱と梁のかたち)の一種、コリント式オーダーはこのアカンサスの葉を意匠化した柱頭を特色としているという。ちなみにアカンサスは、ギリシアの国花である。
アカンサスをモチーフとした柄は絨毯にもしばしば用いられ、ビザンチンリーフとして知られる。
大型の常緑多年草で、地中海沿岸(北西アフリカポルトガルからクロアチア)の原産。葉には深い切れ込みがあり、光沢があり、根元から叢生して長さ1m、幅20cmほどになる。日本の多くの花と異なり、葉も花もとにかく大ぶりである。
晩春から初夏に高さ2mほどの花茎を出し、緑またはやや紫がかったとがった苞葉とともに花をつける。花弁は筒状で、頂いた花の色は白だが、ほかに赤もあるという。乾燥にも日陰にもまた、寒気にも強い植物らしい。

かつてアーティチョークに惹かれて、これもネットなどで調べたことがある。大ぶりなのはアカンサスと共通している。

アーティチョークと野あざみ
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-07-04

アーティチョークはキク科チョウセンアザミ属。日本の野アザミに似た宿根草だが大型なのが対照的。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。アカンサスはキク科でなくキツネノマゴ科でハアザミ属。

なお、野あざみ(薊)は、キク科アザミ属 (Cirsium) だからアーティチョークと同じキク科ながら属が異なる。こちらは小さくていかにも可憐。アカンサス、アーティチョーク、野あざみは、それぞれどう違うのか詳らかでないが、近縁種なのであろう。それにしてはアカンサスだけは、薊のような王冠に似た花でないのが不思議。


暫くしてアカンサスの絵を描きたいものだと、家人に頼み庭に入れていただき写真を撮らせて貰った。なるほど強い植物のようで株も大きい。
ガッシュや透明水彩などで何枚か描いてみたが、なかなか手強い。もともと花も苦手だが、アカンサスはとくにダイナミックな葉が難しい。
透明水彩よりガッシュ、さらに油彩の方が合うのかもしれない。

家人の友人はその後だいぶ良くなったと聞いた。まずはめでたい

オノレ・ドーミエの水彩画2 [絵]

前回に続いて水彩画から。

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「Grand Staircase of the Palace of Justice 裁判所の大階段」( 1864 w g )昂然と降りてくるのは判事か、検事かはたまた弁護士か。
「The Defender 弁護人 」(1865 g w)まるで法廷を舞台に展開する映画かアニメのよう。
弁護人がややオーバーアクションな感じもするが。被告人の流し目?が気になる。
「Scene at Tribunal 法廷の場面 」(Date unknown w )上と全く同じ絵ながら、青を基調にしているのは何の意図があるのだろうか。暗転?
「A Criminal Case 犯罪者のケース」(1865 w g )右上に裁判所の衛兵がいる。手強い相手に押され気味なのであろう。束ねた書類と六法全書が意味深。
「Les Saltimbanques アクロバット 」(1866-67 w )サーカスか セピア色。
「The Third-class Carriage三等客室 」(Date unknown w)後掲の油彩画(1863-65)とくらべて迫力においても、力負けしていない。
「三人の裁判官」 鉛筆素描の上にペン描き 淡彩 。29.8x46.4cm 。シカゴ美術館蔵。
ドーミエはこの「三人の裁判官」を三人三様の表情を変えて描いている。見る人によって裁判官の性格、仕事への取り組み方などがうかがえるだろう。それにしても三人ともうさんくさい。

最後に油彩画などを。

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ドーミエは40歳ではじめて油彩画を世に出した。風刺画で大成してからである。

「The Republic 共和国 」(1848 o )73×60 cm。そのはじめて世に問うた油彩画。

「Don Quixote in the Mountains 山中のドンキホーテ 」(1850 o )ブリジストン美術館蔵。
ドーミエはドンキホーテを好んで描いた。理想や野望を持つも空回りするドン・キホーテに、ドーミエ自身の姿を重ねて描いたものと考えられている。

「The Laundress 洗濯女」(1860-61 、1863年頃の2説ある o )49x33,5cm 。これもドーミエの繰り返し描いたテーマ。貧しくも力働く女性が生き生きとかつ、力強く表現されている。まぎれもなく代表作のひとつであろう。

「The Third-Class Carriage 三等客室(三等列車)」(1863-65 o )65.4×90.2cm 。
ドーミエは庶民が乗る三等客室に雪が舞い込むさまなど、同情的に何枚かの描いている。この絵もロマン主義のような感情的表現でもなくクールベのような写実絵画でもない、まるでアニメのひとコマのような自由な筆運び・表現技法によって描かれている。ドーミエの油彩画の代表作とされる。
都市に暮らす人々の孤独感や閉塞感、加えて逞しさが伝わってくる。どこかゴッホの絵に似ている。ゴッホの絵がドーミエに似ているというべきだが。

「Nadal Elevating for Photography to the Hight of Art 写真術を芸術の高みまで引き上げるナダール」(1862 lithograph )45.5× 32cm。伊丹市立美術館蔵。

写真「オノレ・ドーミエとナダール」ドーミエも当時世に出た写真に大いに興味があったという。彼の絵を見ればよく分かる。

「Charles Philipponシャルル・フィリポンの胸像 」(1832テラコッタ)
1832年にさかんにつくった粘土胸像 (painted clay bust)のひとつである。
モデルはジャーナリスト で「カリカチュア、シャリヴァリ」雑誌編集長シャルル・フィリポン(1800-61)

ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo、1802- 1885)はフランスフランス・ロマン主義の詩人、小説家。政治家でもあった。さすがの文豪も、こんな頭でっかちに描かれたらやりきれないだろう。

さて、もう少し知りたいと、「オノレ・ドーミエ」 (ユルク・アルブレヒト/著 Parco出版 1995)を図書館で借りてきて読む。
この本で、政治風刺画で時の権力を相手に壮絶な戦いを生きた前半、カリカチュアと油彩画でパリ市民の精神を描いた後半生を詳しく教えて貰った。コローが家を贈った話はどうも事実と異なるらしいこと、結婚していたことなども知ることになった。
時の芸術家がドーミエの絵を高く評価したことは良く知られたことだが、なかでも「悪の華」、「パリの憂鬱」のシャルル・ボードレール(1821-67)が早くからその才能を認めていた。詩人で美術批評家であった彼は言う。
「彼のリトグラフと木版画は色彩の概念を呼び起こす。彼の筆致は輪郭を区切るための黒以上のものを含んでいる。それは色彩と同時に思想を感じさせる。」(「フランスの風刺家たち」(1857)より)と。
また、ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)は、友人であった画家が脳溢血で亡くなる前年の1878年、顕彰委員会委員長としてドーミエの大回顧展を開催している。
ドーミエがカリカチュアだけではなく、近代芸術全体の中でも重要な画家の一人であることをあらためて認識した。

ところで本題と離れるが、この本は和訳が故の読みにくさよりも、本の体裁のせいで読みにくくて往生した。
本は少し縦長で横書き、字が小さいのが老人には致命的。せっかくの良い本が泣くというものである。美術新書シリーズと称していて、ほかにも読みたい本があるが二の足をふむ。

ドーミエには静物画、風景画、ヌードがない。グランヴィルもだったか。風刺画家はみなそうなのか知らないが、晩年風景画を目指したエドワード・リアとは違っていることは間違いない。人間と社会の方に興味があって目に入らなかったのか。


オーストリアの画家オスカー・ココシュカ(1886年 - 1980年)は、ドーミエの没後に生まれているが彼も風刺画を描いたらしい。ドーミエに絵筆のタッチが似ているという。言われてみると、水彩画でなく油彩画は確かに似ているような気もする。

オスカー・ココシュカの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-01-15

このところ、エドワード・リア、J・Jグランヴィル、オノレ・ドーミエの三人の戯画を続けて見た。
日本のポンチ絵やアニメ、漫画などの源流のひとつであると考えると興味は尽きない。
カリカチュアの面白さを初めて知ったが、彼らもそれぞれ画風は異なるが水彩を描いていたのは意外であった。水彩のもつ「自在さ」が、風刺画の闊達さと相通じるところがあるのだろう。

オノレ・ドーミエの水彩画1 [絵]


オノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier, 1808- 1879 )は、19世紀のフランスの画家。マルセーユに生まれた。
ドーミエは、生前は風刺版画家として知られるが、油彩画家としても高く評価されロートレック、ゴッホをはじめ、印象派などの多くの画家に影響を与えたという。どんな油彩を描いたのか、水彩はあるのかが関心。

ドーミエは雑誌「カリカチュア、シャリヴァリ(編集長シャルル・フィリポン)」に、時の権力を痛烈に批判した政治風刺画を次々発表し、投獄される。その後主題をパリ市民の風俗に変更する。
同世代の人々からは理解されず、晩年失明し惨めな生涯を閉じたと伝わるが、その時代の多くの詩人、小説家など画家以外の芸術家達からは賞賛されたという。親友のコローが買ってくれた(と伝わる)セーヌ・エ・オワーズ県のヴァルモンドワの家で、1879年、71歳でその一貫して名利を求めぬ生涯を閉じた。
異才、鬼才の画家の印象がつよいが、しばしば同じ風刺画家のJ・J・グランヴィル(1803-47)と比較されて論じられる。どちらも辛辣なことに変わりがないが、ドーミエのほうがグランヴィルよりも、どこか温もりがあるというのが一般的のよう。
多作であった彼は、生涯に500以上のタブロー、4000のリトグラフ、1000の木彫(木版画?)、1000のドローイングを残したという。このドローイングの中には、油彩のほか水彩画もある。

また彫刻もあり、ブロンズのほか、 1880年代さかんに作った粘土胸像 (painted clay bust彩色テラコッタか。)が知られている。

ドーミエの水彩は意外に多い。生き生きした動きと表情豊かな人物が特徴であるが、色調は概して暗い。鮮やかな色をあまり使っていない。(以下wは水彩、gはガッシュ、oは油彩、cはクレヨンの略号)

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「Orchestra Seat オーケストラ席 」(1856 w )
「Two Drinkers 二人の酔っ払い 」(1857-69 w g)議論の中身は別として、顔は真剣。
「A Famous Motive 有名な動機 」(1862-65 g crayon )法廷で二人 が叫ぶ。大げさなしぐさが、かえってたいした論理を展開していないように見えて可笑しい。motiveは理由 、本意 、下心などの意味もあるが単純に「動機」ではなさそう。
「A Lawyer and his Client 法律家とクライアント 」(1862 c w )依頼人「大丈夫でしょうか」、弁護士「心配しなさんな」といったところか。
「Two Lawyers 二人の法律家 」(1862 w )ほとんどモノトーン。すれ違う検事と弁護士か。ドラマだ。
「A Theatre Audience 劇場の聴衆 」(1863-65 g w)立ち見の紳士も。一つ空席が。
「Le Départ du train 汽車の出発」(1862-64. Black chalk, pen and ink, wash, conte crayon, watercolor, and gouache )15.0 x 25.5cm。出発前のホームの人々の表情を何ともうまく捉え、再現していることか。写真も顔負け。宮崎駿風アニメの1シーンのよう!
画材が線も色彩も多く使うミックス。彩度は抑えられているのが特徴。
「The Omnibus 乗り合いバス 」(1864 c w )ドーミエはパリ市民を弱い者の側から描いている。温かい眼だ。裁判所の法律家たちを冷ややかに描いているのは、経験からであろう。

次回は水彩のほか油彩画なども。

アルマ・タデマの水彩画2(終)-Ask me no more…もう、何も尋ねないで [絵]

まずは、前回に続き水彩画から。(記号: w …水彩、g…グワッシュ、b…ボディカラー、 o…油彩)


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「Xanthe and Phaon クサンテとパオン 」(1883 w )こぼれるばらの花びら。パオンとの結婚にためらいを見せているクサンテを描いている。大理石のベンチに腰をおろした女性と寝そべって頬杖をついた男性。この構図は、画家のお気に入りで似たものが何枚かある。
「The Drawing Room at Townshend House タウンゼントハウスの客室 」(1885 w )27.2×18.7cm。上に鳥籠のようなものがある。この絵はwatercolor とだけあって、ペン、鉛筆、チョークなどの記載が無いがなんという綿密な描き方か!超絶水彩技法だ。
タウンゼントハウスは、自宅として画家自ら設計して建てた豪邸。

「Drawing Room, Holland Park ホランドパークの客室 」(1887 w )ホランドパークはロンドンにある。壁に掛けられた絵つまり画中画は、ラファエル前派のようだが。ロセッティらと交流はあったらしい。この絵も上と同じく超綿密水彩画。

「Ask me no more...for at a touch I yield もう何も尋ねないで。触れれば、私はきっと挫けてしまうから。 」(1886 w)英詩人アルフレッド・テニスンの詩「女王プリンセス」から。大きさ不明だが、下の油彩(本制作であろう)と比べても遜色無い。

「Ask me no more もう何も尋ねないで 」(1906 oil )80.1 ×115.7 cmとかなり大きいサイズ。2枚は10年のインターバルがあるが、背景、椅子などが変わっているだけだ。

Summer Offering 夏の供物 」(1894 w )白薔薇が供物か。それとも。後掲の油彩(1911)の習作と見られるが、これも15年の間隔がある。

「Interior of Caius Martius's House 」(1901 w b )左下に椅子。タデマの名作のひとつ。
視点が珍しく低い。
「In Beauty's Bloom」( 1911 w )最晩年の水彩画。歿年の前年になる。 花はカラーのよう。

「Self-portrait 自画像 」(1896 o )画家60歳。

「Study for Thermaie Antoniniane」( 1899 pencil )

いつものやり方だが、ネット画集で画家の水彩(ガッシュを含む。ときにパステルも)を探し、その過程で気になったり、良いなと勝手に思う油彩もファイルに保存する。いずれも、自分の水彩のお稽古に参考にならないかと思ってのことである。
作業に使う労力に比べ、たぶん役にはたっていないことは、自分のお稽古の上達ぶりを見れば分かる。

今回もそのうちの何枚かの油彩を。


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「Self portrait自画像」(1852 o )1852年アントワープのアカデミーに入学した年16歳というから驚く。
「Coign of Vantage 地の利」(1895 o )サイズ64.2× 54.0cm。
このタイトルの別訳は「見晴らしのよい場所」。アルマ=タデマ独特の、めまいのするような高さを感じさせる独特な遠近法を使用した画。高所恐怖症には辛いだろう。

はるか下にローマ艦隊の到着の様子が描かれ、向うむきで海を見ている獅子(?)の像と対照をなす。対岸の陸地がぼんやりとして空気遠近法も活用。
地中海の紺青と、眩く光る大理石の白が、印象的な対比を見せている。
絵のタイトル「A Coign of Vantage」 は、シェイクスピアの四大悲劇の一つ『マクベス』からの引用とか。(戦うには)良い地形だ、くらいか。

「Preparation in the Colosseum コロッセウムの準備」(1912 o )歿年、76歳の作品。競技開始前の支度 これも遠近法が独自 。斜め上から見て奥行きを出している。画家は豹柄がお好き。

「Summer Offering 夏の供物 」(1911o )前掲の水彩画の習作(1894)の本制作であろう。左にもう一人女性が加わっている。

「In the Tepidarium テピダリウム 微温浴室にて」(1881 o )
マネの草上の昼食、(オランピアも)は背景が現代(当時)であった故に世上騒然となり落選したが、このタデマのきわどいヌードは、背景が古代ローマ故にお咎めなしだったという。右手に肌かき器(ストリギル)、左手に扇。表情もふくめて実にきわどい。熊の毛皮、足元の赤い花も効果的だ。

「参考文献 サー・ローレンス・アルマ・タデマ 」(1993)
表紙は「Silver Favorite 銀色のお気に入り」( 1903 o )お気に入りは池の鯉という。銀鯉。
この絵をよく見ると、サインのあとにOp.CCCLX.....とある。画家は16歳のときに妹の肖像画を描きOp.1(作品番号1)としたそうだから、生涯に400点とも言われる作品に連番を記したのだろうか。さすれば、上掲の最晩年の作品「コロッセウムの準備」は、幾つになったのか。

掲げていないが、次の2枚はサインとOp.ナンバーが比較的はっきり見える。ただし制作番号はわからないが。
「Under the Roof of Blue Ionian Weather青いイオニアの大気の下で」(1901 color lithograph )55.0×120.5cm。
「The Year's at Spring. All's Right with the World 時は春、すべて世はこともなし 」(1902 o )

アルマ・タデマの歴史絵は、青い空と海、輝く大理石をふんだんに取り入れ、ヴィクトリア朝時代の顧客におおいに受け容れられた。精神性とかの批判はさておき、古代の詳細な建築、風俗時代考証などには文句なしに脱帽である。ハリウッド映画の映画に影響したというのもうなづける。ベン・ハーやクレオパトラを想起する。まるで見てきたように再現して、見る者に違和感を感じさせないようにするには、相当の研究と高度な技法が必要だったのではないか。

詳細な細密画というのはいくらでもあるが、なかでも大理石の硬質や輝きの描写には感心するものがある。水彩もまた油彩と同じようで、とてもアマチュア(自分のことだ)には手に負えない超絶技法。よってその点では、あまり参考にはならないように思う。
ただ、画家のヴィクトリア時代の顧客と同じ気分で絵を眺め、遠く地中海や古代ローマ、ギリシャに思いを馳せる愉しみはあるというもの。


アルマ・タデマの水彩画1-Dolce Far Niente 甘美な無為 [絵]

ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836 - 1912 76歳で没)は、イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家。
同じヴィクトリア朝の画家だがアルマ・タデマはウォーターハウス(1849ー1917)とともにアカデミー側の画家であり、反アカデミーのラファエル前派に分類しないのが一般的だそう。
サーが付いているので、なるほど体制派かと納得する。日本で言えば黒田清輝か。

自分はこの画家を殆ど知らない。「シャロットの女」や「人魚」(漱石の「薤露行」、「三四郎」にそれぞれ登場する)などを描いたJ・w・ウォーターハウスは知っているのだが。

漱石の水彩画http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-05-09

よって「サー・ローレンス・アルマ・タデマ」ラッセル アッシュ著 (トレヴィルブック社1993 )を借りてきて読んだ。以下は、ほぼこれを参考にさせて貰っている。

アルマ・タデマは古代ローマ、ギリシャ、エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を描いた。それらの絵は舞台装置やハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる。

アルマ=タデマは、オランダに生まれ、パリに移住。ドイツ諸邦とフランスとの間に普仏戦争(1870-71)が起き、それを逃れてイギリスに帰化した。
1863年、33歳の時にフランス人女性ポーリーヌと結婚。新婚旅行でポンペイを訪れて、その建築や調度品に感銘を受けて以来、古代ローマなど歴史を題材にした絵画を数多く描いた。
古典主義的主題に、ヴィクトリア朝時代らしく繊細な感受性や官能を美化して描いた作風は、当時からイギリス内外で人気を博した。
古代の建築物や装飾品、生活や風俗を、緻密に正確に描いたので「建築の功績」に対し、1906年には王立建築学会から、ゴールド・メダルを授与されたというから半端ではない。
建築物だけでなく、当時の衣装を纏った人物像には気品に満ち、青い海、白い大理石、鮮やかな花々も美しく、全体に装飾的に描かれているのが特徴である。
一方で絵の精神性の欠如、甘い感傷性、あまりにデテイルへのこだわり過ぎなど否定的な評価もあり、没後一時は忘れられた時代もあったが、現代では高い評価が与えられ人気も高いという。

アルマ・タデマには、水彩画がかなりあるが、大きさからみても、油彩の下絵か、エスキースと見られる。が、アマチュアからみてもどんな技法で描いたのかと思わせる力作も多く、タブローとしてみても面白い。

「The Massacre of the Monks of Tamond僧侶の虐殺 」(1855 w g)
(制作年数字の後のwは水彩、gはガッシュ 、oは油彩、bはボディカラー以下同じ表記)

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「Faust and Marguerite ファウストとマルガレーテ 」(1857 w ) 23歳の作品。マルガレーテはファウストの恋人。ご存知、ゲーテの戯曲「ファウスト」から。

「Fredegonda at the Deathbed Praetextatus 」(1864 w )22.7 ×29.8cm。フレデグンダは、キルクペリク1世の妃。

「An Exedra エクセドラ」(1871 w )左にパラソルを持った男が座っている。エクセドラは建築用語。本来は脇につけられた座席の意。古代では住居の談話室,ギリシャ風神殿の中庭や公共建築として用いられた長方形の広場の端部に半円形に突き出した部分をいう。そこに腰掛が配され談話したりする場所となった。

「Music Hath Charms」( 1873 w )ギリシア神話に登場するダブルリードの木管楽器アウロス(と思われる)を吹く男。

「A Roman Artist ローマの芸術家 」(1874 w )バックの絵はローマ艦隊か。ローマ時代のカンバスが面白い。

「Charles Deschamps ,With Henry Wallace Looking On (detail ) 」(1874 w)

「Flora,Spring in the Garden of the Willa Borghese 花 庭の春 」(1877 w)
ローマのヴィラ・ボルゲーゼの庭園を舞台にした、四季の連作の一つ。
この作絵画の右奥には、遠くて見えにくいが大理石のベンチに腰をおろした女性と、頬杖をついた男性が描かれている。画家はこの情景を独立した作品として、1883年(6年後)に後掲「クサンテとパオン」を、左右反対の構図で描いた。また、「A Declaration 告白」(1882 w)も同じ構図でありよほど気に入ったものと見える。

「Stirgils and Sponges 」(1879 w )Stirgils ストリギルは、肌かき器。ブロンズの道具らしい。右側の女性が左手で持ち、自分の右腕を洗っている。手前にはスポンジ(海綿)が置いてあり、絵のタイトルになっている。これも体を洗うもの。

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「Pandora パンドラ 」(1881 w)パンドラは、ギリシャ神話中の人類最初の女性。開けた箱の中から病気、貧困、戦争、犯罪、嫉妬、憎悪、老いが出たが、奥に希望が一つだけ、あったという有名な故事がテーマ。

「Roses ばら 」(Date unknown )水彩と明記されていないが、たぶん水彩スケッチであろう。

「Between Venus and Bacchus ヴィーナスとバッコスの間 」(1882 w )噴水の彫像、右上にヴィーナス、下にバッコス。その間にタンバリンを持つ少女が水を飲もうとして噴水に顔を近づけている。左の女性が掲げているのは松ボックリの飾りのついたバッカスの杖。随分説明調のタイトルではある。

「Dolce Far Niente 甘美な無為 」(1882 w )題訳はこれで良いのか、無聊、アンニュイとかか、自信は無い。イタリア語か。フェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画「甘い生活」の原題は「La dolce vita」(1960)だった。絵の女性はなにやら忘我の境。サイズは不明。
「A Female Figure Resting やすむ女性」(1882 o ) 油彩は意外に23.5×15.9cmと小さい。
右手に薔薇を持ち、左右反対であることを除けば全く同じ絵なので割愛したが、ほかに2枚あった。こちらはいずれも油彩とあるが、一枚は水彩のようにも見える。
ちなみに題名だけ記すと、<「 Resting 休息」 (1882 o)と「Daydreaming 白昼夢 」(1882 o )23.0 ×16.5cm。>である。

「A Declaration 告白」(1882 w)愛の告白。大理石のベンチに腰をおろした女性と、頬杖をついた男性の構図を、アルマ=タデマは好んで描いている。後掲の「クサンテとパオン」と同じ。

「A Street Altar 街路の祭壇 」(1883 w ) 街角にある小さな祭壇を掃除している若い女性。左側に笛を吹く男性は月桂樹を冠る。大道芸人か。

次回も引き続き水彩画と若干の油彩画を。

2年目、芽出ール! [自然]

カボスへ柑橘類を接ぎ木することに昨年惨敗して、原因が分からなかったのでもう今年はやめようと思っていたが、熊本市の友人M君から穂木が送られてきた。何と届いたのは、4月16日である。(昨年は4月14日だから2日だけ遅い)
熊本を襲った大地震が4月14日、M君はそれまで集めていた穂木を、地震の翌日の15日、混乱のさなかに郵便局へ出向き東京へ送ってくれたのである。
周知のように、2度目の震度7の強震が16日に発生、これが余震でなく本震と訂正されるという、これまでに経験したことが無いことが起きた。
あとで知らされたところによれば、中央区水前寺にあるM君の家は比較的被害軽微だったそうだが、大変だったことに変わりは無い。
幸い、ご一家は人身事故等なかったとのこと 不幸中の幸いというもの。
熊本、大分両県ではその後に続いた執拗な1500回を優にこえる余震をはじめとして、被害は眼を覆うばかり酸鼻を極めた。
熊本や阿蘇もそうだが、隣の湯布院を含め被害地は、現役時代大分、福岡で働いていた頃、しばしば訪ねたわが縁ある土地である。
テレビのニュースを見るたび、何とも言いよう無く辛い。ひたすらお見舞いを申し上げて、1日も早く復興し安寧の日々が戻ることを祈るばかりである。

とまれ、被災にもかかわらず連年で穂木、芽デール、テープまで一式を送ってくれたM君の好意を無にすることは出来ない。災難にめげない彼の親切に応えねばならぬ。
もはや原因が分からないなどと言ってはいられない。切り出しナイフだけ新調して4月20日(昨年は4月19日)に14、5本接ぎ木をした。しかし、正直なところ、やり方は昨年と同じなので全く自信がないと、完了後M君にメールで報告をする。
案の定1ヶ月ほどたつと、今年は昨年より早く穂木が茶色く変色し始める。やはり奇跡は起きなかったとM君に詫びた。

ところが、諦めきれず6月20日に見ると 一本だけだが、小さな芽が出ていた!


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蟻んこにふたばの一枚は食われているので育つかどうか不明だが、とにかく接ぎ木に成功したのである。穂木はレモン、デコポン、ダイダイ、みかん、ザボン、ライム、パール柑、スイートスプリングのうち何だったかを記録していなかった。残念。
大地震のさなかに熊本隈府からきた柑橘が、江戸東京で芽出たく発芽したのだ。感激せずにおられようか。まことに災害のさなかに不謹慎極まりないが。
さっそく写真をつけてM君に報告する。すぐ返事がきて朗報だと喜んでくれた。

メールのなかでM君は、常緑樹の高枝接ぎ木は難易度が高く、根元での割り接ぎ、また、バラや落葉樹などから勧めるべきところだったと反省している、とあくまで優しい。

熊本ではまだ身体に感じる震度2,1の余震が続いていて落ち着かないが、受け容れて生きていかねばともと書いている。

今朝熊本では、4月16日以来の震度5弱が起きたと報じられた。なんということか。梅雨に入り、九州を毎年のように襲う梅雨明けの豪雨も、また気がかりである。(28・6・13)

J・Jグランヴィルの戯画2(終)ー「19世紀フランス幻想版画 鹿島 茂コレクション」を読む [絵]


19世紀中頃、7月革命で王位についたルイ=フィリップの治世下、不安定に揺れ動くフランスにあってパリは、近代の都市として大きく変化しようとしていた。
言論弾圧に対抗しつつ、グランヴィル、ドーミエらを中心にフランス戯画、風刺画は、新聞の隆盛、石版画などの印刷技術の進歩もあってこの時期最盛期、黄金時代を迎える。

「グランヴィル 19世紀フランス幻想版画 鹿島茂コレクション」 (グランヴィル2011)を図書館で借りて読んだ。
この本は、2011年練馬美術館で開催されたグランヴィル展の目録をほぼそのまま刊行したものだが、グランヴィルの生涯や作品など概略を知るには格好の本である。
鹿島茂氏は1949年生まれ。共立女子大、明治大教授。専門は19世紀仏文学。自他?ともにみとめるグランヴィルファン、狂?とか。

自分としては巻末の練馬美術館学芸員 小野寛子女史による論稿「グランヴィルとマネ ー絵画との関係」がたいへん面白く勉強になった。 大衆アーティストと正統派絵画の関係、大衆詩人と文学者の関係など、グランヴィルとマネと比較しながらの興味深い考察のように思えたのである。
グランヴィルは、あまり油彩を描かなかった(7点のみ)という。その理由の一つは、一気に対象の本質を捉えるには、油彩が適切な画材でなかったからという。
かたや戯画のほか、多くの油彩をダイナミックに描いたオノレ・ドーミエはどうだったのか。グランヴィルには時間がなく、ドーミエは長生きしたからだけではないような気がする。ドーミエにも言及してくれると有難かったのだが。

著書から前回掲げなかった好きな絵を引用させて貰った。


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「グランヴィル 19世紀フランス幻想版画」(鹿島茂コレクション 2011)
表紙 「私、マフをいただきましたの」手彩色木口木版。マフは両手を両端から入れて暖まる毛皮の戸外用防寒具。19世紀流行した。「動物たちの私生活・公生活情景 」より。

「動物たちの私生活・公生活情景 1842 扉」
「…滑稽なフクロウでしかなかった」手彩色木口木版。グランヴィルの鳥の絵はどれも一級。
「…ペー・リー地方の中国猫」手彩色木口木版。
「…ではまた明日」手彩色木口木版。左下の猫、右下のフクロウが秀逸。ドアの昆虫類も面白い。
<カードの戦争>「もう一つの世界」(1844)版元手彩色木口木版。不思議の国のアリスを誰でも想起しよう。
「彗星の大旅行
「フーリエのシステム
<宵の明星>「レ・ゼトワール(星々)」(1849) 版元手彩色鋼版。星の美しさを不気味な下の古城と蝙蝠が引き立てている。
「流れ星」版元手彩色鋼版。グランヴィルらしからぬ甘い抒情が漂う絵。

グランヴィルの油彩(水彩も)を見つけられなかったが、手彩色リトグラフや木版、銅版などはあたかも水彩のような仕上がりにみえる。また、モノトーンの戯画、挿絵なども魅力的だ。不思議の国のアリスの挿絵を描いたテニエル、シュールリアリズムのサルバドール・ダリらがグランヴィルの絵に触発されたであろうことは、アマチュアにも容易に理解できる。
奇想のそして孤高の画家が、もう少し長生きしていたらどんなものを描いただろうかと、月並みなことを考えてしまう。

戯画、風刺画はその時代の者にしか理解出来ないものと、後世の人々にも分かる普遍的なものとあるところは、川柳や戯詩と同じであろう。
グランヴィルの絵が後世の人々に評価されたのは、当然普遍性があるからだが、それをもたらしたものは何か、画像を見ながらしみじみと考えさせられている。

J・Jグランヴィルの戯画1 ーE・リア、H・ドーミエと比べて [絵]

J・Jグランヴィル(J.J. Grandville1803-1847)はフランスの19世紀前半に活動した風刺画家である。戯画家でもあったエドワード・リア(英)、オノレ・ドーミエ(仏)らと同世代作家だ。

筆名の「グランヴィル」は、通称。役者をやっていた祖父母の芸名から名づけたという。画号のようなものか。本名の「ジャン=イニャス=イジドール・ジェラール」(Jean Ignace Isidore Gérard )よりこちらの方で呼ばれる。1803年フランスの南東、ナンシー生まれ。1847年、44歳で没。
絵については、細密画家の父から学んだ。
21歳のときパリに行き「Les Tribulations de la petite proprieté」と題したリトグラフ集を出版。その後「Les Métamorphoses du jour現代版変身譚」(1828-29)で名声を確立する。これは胴体が人間で首から上が動物で描かれている風刺画の作品集であった。「当世風変身譚」と訳す人もいる。
後年、体制に対する風刺画からより幻想的な作風に変化し、没後に花を擬人化した作品集「花の幻想」(フルール・アニメ、生命を与えられた花々)、さらに幻想的な「もう一つの世界」などの作品集が刊行され残っている。

彼はエドワード・リア(1812-1888)より9年年上、彼と同じように人物戯画で有名になったが、家族の不幸や自らの病で失意のうちに1847年、44歳の若さで亡くなっている。
リアが鳥類画家、戯画、戯詩で成功したうえ、好きな風景画を晩年まで描き続けて76歳まで生きたことと比べると対照的である。
しかし、二人が後世の絵画、文学におけるシュールレアリズム、カリカチュアに与えた影響は甲乙つけがたいのではないか。
同じ戯画でもリアは漫画風、コミック調だが、グランヴィルはリアルなのでブラックユーモア調と言えるように思う。

しかし、グランヴィルの戯画は、リアよりもオノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier 1808-1879)とよく比較される。
ドーミエはグランヴィルより5歳下、同じ風刺版画作家として活躍したが、油彩画家でもありゴッホやロートレックらに影響を与えたとされるから大家だ。
二人とも風刺雑誌「ラ・カリカチュール」や日刊紙「ル・シャリヴァリ」において石版画(リトグラフ)で政治風刺画を発表して世に出るが、権力と衝突し、のちに大きく変わっていく方向がそれぞれで面白い。
ドーミエは、近代都市へと変貌するパリの人々の暮らしに視点を転回。ユーモアと悲哀に満ちた「風俗風刺画」へと変化する。
一方グランヴィルは動物擬人化にとどまらず植物擬人化、やがては器物や鉱物など無機質な存在へ広がっていく。その超現実的な世界を描いた作品は「シュルレアリスム」の先駈けとなる。
二人の差異はドーミエの「ユーモア」とグランヴィルの「皮肉あるいはブラックユーモア」にあるともいえる。ドーミエには辛辣ながらどこか温もりがあるが、グランヴィルは容赦なさのようなところがあると言われる。グランヴィルの人間嫌い(ミザントロープ)を指摘する人もいる。
グランヴィルを襲った数度の不幸もその原因の一つであろうが、持って生まれた気質もあるのか。
このようにグランヴィルは、動物を擬人化した体制批判の風刺画から幻想的、抒情的なものに変化していくのだが、没後に刊行された「動く花々(命を与えられた花々)」や「もう一つの世界(別世界)」などに描かれた女性像の「優しさ」は、若い時の擬人化された動物群とは大きな落差がある。
女性像は亡妻を追慕したイメージとされるが、見事まで優しさが表現されている。ここには、グランヴィルの徹底した人間否定のようなものはない。

グランヴィルが正当な評価を得たのは、シュルレアリズムが登場してからのことである。動物、植物の擬人化、妄想、夢想、幻想、抒情など一人の人間の中に、こうも異質なものがあるのかと思わせるくらい多様な思念、情念がパラノイア、シュールレアリズムと直結したのに違いない。

フルール・アニメや現代版変身譚などから画像を拾ってみた。アトランダムに。

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「Water Lilly 睡蓮」(1847)
「Flowers in Human Form 」(1847)フルール・アニメの扉。アルフォンス・カーがグランヴィルの没後刊行した。妖精が美しい。
「Tulip チューリップ 」(1846)版元手彩色鋼版。
「Primrose and Snowdrop 桜草とスノードロップ」(1847/1867 )待雪草、雪の花とも。
「The Wondrous Pilgrimage of Beetles かぶと虫の不思議な巡礼」甲虫の僧侶が可笑しい。現代版変身譚から。
「The Animals' Masked Ball 動物の仮面舞踏」(1844)Un Autre Mondeから。
「Repas du Corps 食事隊 」(1829 )ユニコーンと二本角の7人の哲学者とか。犀らしき一頭を入れると8人?になる。現代版変身譚から。
「Academy of Art アートアカデミー」(1829)何やら変な雰囲気。現代版変身譚から。
「Adventures Beneath the Microscope 顕微鏡下の冒険者」(1842 )いかにもシュールな。逃げまどっているのはパリジャンとか。さすれば深海魚のようなモンスターは何?「Vie Privée et Publique des Animaux」から。

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「Hog and dogs 豚と犬」
「Belle de Nuit 美しい夜」花は朝顔か昼顔のようだが、美しい夜とは?
「Pois de Senteur スウィートピー」さやえんどう。
「Chevrefuille ハニーサックル」和名 匂い忍冬においにんどう、ミツバチのすきなスイカズラの一種とか。
「Thistle アザミ」
「Les Fleurs Animees 花の幻想(動く花々)」(1846)
「自画像」

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「裕福な鸚鵡」
「Thrush Bird in Dressドレスを着たツグミ」(1842)-Hand-Colored Lithograph
「百の諺 」(1845 )「狼たちは共食いしない」木口木版、手彩色。
「ラ・フォンテーヌの寓話 」「熊と園芸家」木口木版。
「現代版変身譚 」「…そんな顔しないでおくれよ」石版手彩色。
「フロリアンの寓話 」(1842)木口木版。
「Le roi des pingouins キングペンギン」

次回は「グランヴィル 19世紀フランス幻想版画 鹿島茂コレクション」 (グランヴィル2011)から幾つか魅力的な絵を。

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