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村上春樹を読む(その13)・「村上さんのところ」などとCD「僕と小説とクラシック」 [本]

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「パン屋再襲撃」( 1986 文藝春秋)
表題は1985年作(下記の絵本「パン屋を襲う」で触れたい)。あと「象の消滅」、「ファミリー・アフェア」、「双子と沈んだ大陸」の短編。ほかに2篇、計6篇が収められている。
いずれも面白く読める。「ファミリー・アフェア」は「家庭の事情」とでも訳すのか。60~70年代に活躍したアメリカのファンクバンド、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの曲名「Family Affair」と同じだと指摘する人も。
主人公の妹の婚約者の名前が渡辺昇、安西水丸の本名だ。「ノルウェイの森」ほか、あちこちに出てくるのが可笑しい。この短編集「パン屋再襲撃」では主人公僕の共同経営者、「象の消滅」では象の飼育係、「双子と沈んだ太陽」ではやはり共同経営者として、渡辺昇が俳優のごとく出てくる。皆別人ながら短編集に通した横串と見るのはうがち過ぎか。
ほか2篇のうちの「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(1986)は、後の長編の冒頭の書き出しでほぼそのまま使われた。失踪猫の名はノボル・ワタナベで「クロニクル」のわたやのぼるにほぼ同じ。
「ねじまき鳥クロニクル」の刊行は、1994年だから、この短編が書かれてから9年が過ぎていることになる。

「パン屋を襲う 」(2013 新潮社)
「パン屋を襲う」「 再びパン屋を襲う」の2編の短編を収録。それぞれ「パン屋襲撃(1981)」、「パン屋再襲撃(1985)」を改題、絵本に仕立てたもの。
絵はカット・メンシック(独イラストレーター)なる女性が描いている。絵は好みだから評価は人によるだろう。自分は嫌いではない。
「パン屋を襲う」は若い男の二人連れがパン屋に押し入ってパンを強奪しようするが、パン屋の主人からワグナーを一緒に聞けば、パンをやると持ちかけられ、襲撃が頓挫する話。
「再びパン屋を襲う(旧題パン屋再襲撃)」は、結婚したばかりの若い男女が、猛烈な空腹に耐えかねてパン屋を襲う話である。かつてパン屋を襲った経験のある男の方が妻と再びパン屋(実際にはハンバーガーのマグドナルド)を襲う。物語はいわば独立しており、読者は二つの物語の関連性はそれぞれ考えろ、とつき放されることになる。いつものことだが、なぜワグナーなのか(「パン屋を襲う」の方)も含めて不分明、謎めかせて読者を惹きつける魂胆と見た。

「波の絵、波の話」(1984 写真 稲越功一 文村上春樹 文藝春秋)Pictures of Wave,Tales of Wave英題名。
波の絵は絵画かと誤解しかねないが、Photograph の方。マンハッタン、パリ、ロングアイランド、ハワイなどの波の写真と歌詞、短編レイモンド・カーヴァー村上春樹訳など。
手元に置いて、ウイスキーでもやりながら時折眺めるには大判で重過ぎると思う。

「The scrap 懐かしの一九八〇年代」(1987 文藝春秋)
スポーツ・グラフィック・ナンバー誌に掲載(1982~1986)された。
「オリンピックにあまり関係ないオリンピック日記」がとぼけていて読ませる。

「地球のはぐれ方 東京するめクラブ」(2008 文春文庫)
海外はハワイ、サハリンのみ。日本のはぐれ方である。名古屋、熱海、江ノ島、清里などであまりはぐれたくない。

「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問」  (2000 朝日新聞社)
村上朝日堂のHPの掲示板での作家と読者とのやりとりを収録したもの。村上春樹の答えは丁寧で辛抱強い。大方は共感する、あるいはそういう考えもあろうと思うものが多い。
個人的に言えば、一人が好きで一人でいたいので走ったり、音楽を聞いたり小説を書くことに没頭するのだ、というあたりは、やや誇張もあろうが、同感するところもある。

ただ一つだけ違和感を覚えたのは、なぜ選挙に行かないかという28歳の主婦からの問いへの回答。政治性において極端に個人的であるとして、選挙に行かないのは、人それぞれだから、とやかくいう筋合いではないのかも知れない。しかし、自分は決して非政治的な人間ではないというからには、質問者にはどうすべきかを言うべきではないかと思う。そうでないと、村上春樹でさえ行かないのだから、と若い人たちが安易に思ってしまうような気がする。著名人の発言力は本人が思う以上に強いのだ。もっと言えば、行くべきだと言って欲しい気さえするのだが、余計なことだと叱られそう。

「村上さんのところ」  (2015新潮社)
上記「村上さんに聞いてみよう」から15年後になされた読者との対話。
17週119日間にわたり37万7465通(うち外国語14カ国2530通 )の質問があり3716通に答えたという。うち473通のやりとりを収録。驚くべきタフネス。
二つ気になった応答がある。
村上春樹の小説は主人公に主体性がなく草食男子が多い、と言うの住職(ドイツ人僧侶)に対する答え。
一面的な見方だ。世界の変化を認識し自分の世界観を調整しようとしている のであって、新しいモデルを物語からこしらえたいと書いている。受動的ではないと、作家はやや気色ばんで答えている感じ。
もう一つは、50代主婦の「1Q84」における薬物・sexシーンは必要だったのかという問い。たしか主人公が父を見舞いに行って世話になった看護婦とのエピソードだったと、自分も覚えている。
大麻は、日本では禁止されているがアメリカの幾つかの州では合法。フィクションの中での話 だ。物語の中では殺人でも解せないということになる。ナーヴァスな自主規制の方が怖いのではないか。
必要かという問いへの答えとしては行違いがあるような。

なお、蛇足ながら質問者の最高齢84歳とか。作家より高齢な読者は少なそうだし、ましてメールをうって作家にコードネームを欲しがるような人は少なかったとみえる。

「みみずくは黄昏に飛び立つ 川上未映子インタビュー村上春樹」(2017 新潮社)
「職業としての小説家」「 騎士団長殺し」をめぐるインタビュー 。自分は主題の2冊とも読んでいないので特に感想も書けない。

さて、ここ5ヶ月ほどに村上春樹の著書をほぼ一読(最近作「騎士団長殺し」を除き)したが、読む前に持っていたイメージとそんなに大きく違っていたかというと、そんな感じはあまりしない。
多くのファンが村上春樹に魅かれるのは、第一に読みやすい文体にあり、第二に不分明なテーマと展開、第三に著者の読者への親切心などであろう。
第一の文体は分かりやすくリズミカル。もちろん推敲され磨き上げられたものだからでもある。二番目の「不分明な」というのは我ながら適切ではないと思うのだが、いまのところ良いことばが見つからない。謎めくオープンエンド、敢えて余白の多い絵のように読み手にも想像させる。三つ目の読者に対する親切心については、日常生活の描写にしても、無意識下の異界の物語にしても随所にそれが溢れているから多くの説明は不要だろう。
「村上春樹の読み方」や解説本が沢山あるのは初めて知ったが、これも上記の3点と関係がありそうだ。
自分はといえば、総じて違和感より共感が上回ってきたとまでは言い切れないが、これだけの量の本を通読することになったのは意外であった。もっとも、美味しい卵を産む鶏を知りたいという好奇心で読んだ本も多かったが。

蛇足ながら、この5ヶ月ほど著書に出てくる音楽を聴きたくなりアマゾンミュージックで探し、アイポッドやアイフォーンで聴いている。音楽と小説の関係は、今なお不分明で情けないが。
もとより音楽の鑑賞能力は極端に低い。ただ、常日頃少しでも音楽に親しめればと思っているので、良いとっかかりになったことは最大の収穫かも知れない。
同じようなファンもいるらしくニーズに対応して「僕と小説とクラシック」というCD(巡礼の年篇、泥棒かささぎ篇、シンフォニエッタ篇の3アルバム)があってアイフォーンで時折り聴いている。リストの「巡礼の年」、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」、プッチーニ「泥棒かささぎ」などが収録されている。いまどきはなんでも用意されていると感心するが、「僕」とは誰かなどと詮索すると面倒な気もしないでは無い。不分明なままの方がよさそうだ。
そのうち、僕と小説とビール、ワイン、料理レシピでも現れるのだろうか。

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アイスペールで稲づくり [雑感]

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今年の春5月、新宿駅近くで買い物のあと散歩していると、JA東京のアグリパーク(農業情報発信拠点)を宣伝する店舗がオープンフェアを開催していた。
商品を買ったら福引きが出来て4等賞品「バケツで稲づくり」のキットが当たった。
種籾と肥料と稲づくりマニュアルがセットになっている。平成元年から28年まで小学生など960万人が参加した実績があるとパンフにある。教材として人気があるのだろう。

適当なポリバケツがなかったので、使っていないアイスペール(ワインクーラー)でチャレンジする。
土は家人が培養土をスーパーで買ってきてくれた。園芸用腐葉土なのでやや有機質が多いのが気になったがそのまま使用した。
マニュアルを後でよく読むと、土についてはかなり詳細につくり方が書いてあったが、無視した。これは稲の成長、米の品質に影響があったと思われるが、具体的にはどんな影響を及ぼしたかは分からない。

収穫は10月予想だから栽培期間はほぼ6ヶ月かかるが、やることは基本的には水を切らさないことだけである。ただ、分けつ、中干し、水落ちなどのタイミングが難しい。いつそれをやるかだが、忘れるとまずいことになる。

分けつ(苗の移し替え)で失敗した。芽がでてから葉が4、5本になったところで苗を植え植え替える(たぶんこれが田植えだ)のだが、余分な苗をもったいなくて捨てられず側に植えたのである。小さなアイスペールには苗が多すぎることになり、その後の稲の生育に悪影響を及ぼしたようだ。ケチは駄目と思い知った。

懸念したとおり苗全体に勢いが弱く下の方の葉も枯れてきたものもあり、なかなか穂が出てこない。もうダメかなと焦ってきた8月18日にやっと1、2本穂が出て、白い花がこぼれてきたのを見つけたときはホッとした。近くで見ると稲の花はきれいである。
米づくりは八十八も手がかかると言う。キットは病気、虫、嵐、田の水の管理などが無いので楽だが、実際には農家はもっと大変だろうと思う。
実際の手間もそうだが、いっときも気が抜けないだろうことは容易に想像できる。

米は水田で栽培されるが、極めてシンプルなもので優れた装置であることが良く分かる。
しかも連作が可能であり、保水の機能も持ち合わせている田んぼというのは食糧生産だけでなく環境保全にも優れたシステムだ。バケツ稲作りはそれをよく教えてくれる。

10月5日稲刈り。束ねて干す。穂から籾を落としてから(脱穀)、玄米にするためすり鉢で籾を剥がそうとしてもうまくいかない。籾殻(もみがら)をはずす作業を脱稃(だっぷ)と呼ぶそうだが、こんな言葉は知らなかった。
乾燥不足かと思って暫く放っておく。JAのネットでは軟式野球ボールで摺りあげると良いというのだが。軟式も公式も野球ボールなど無い。
これでは、「稲は出来たが米は出来なかった」になってしまう。
ジムで頂いた筋膜リリースのボールを代用して小さなすり鉢でやってみるが、なかなか籾殻が剥がれない。長時間かけてやっと玄米らしくなった。次は精米。
なお、この段階で計ってみたら22g。これではご飯茶わん一杯にも足りないだろう。ふうっ、疲れた。
いつもスーパーで買う米は、決して高価とはいえない気がしてきた。


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村上春樹を読む(その12)・「日出ずる国の工場」ほかノーベル文学賞のこと、など [本]

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「日出ずる国の工場」(1987 平凡社)
安西水丸との工場見学記。前書きで次のように言う。
日本人は愛おしいくらいよく働く人種で…仕事そのものの中に楽しみや哲学や誇りや慰めを見出そうと努めている…取材を続けているうちに日本とか日本人の概念が徐々に膨らみタイトルを変更した…。(当初「村上朝日工場」あるいは「メン・アット・ワーク」にしようと考えたのだと述懐する)
現場を見ての作家の気持ちの変化が良く分かる文章である。作家は正直である。
自称「ノン・ノンフィクション作家」が選んだ取材先は①京都科学標本(人体模型)、②アデランス、③CD工場、④コム・デ・ギャルソン、⑤松戸・玉姫殿(結婚式場)、⑥消しゴム工場、⑦小岩井牧場(経済動物たちの午後)である。
アデランスは「ねじまき鳥クロニクル」で主人公が笠原メイと「髪の毛調査」をするアルバイトのシーンに登場する。作家はいやに細かいことまで知っていると思いながら読んだ覚えがある。作家のいう引き出しの一つだろう。

自分はこの中で小岩井牧場だけは昔仕事で訪ねたことがある。
思い立って「愛おしいくらいよく働く人」であった自分は、どのくらい牧場や工場を見学しただろうと、記憶を呼び覚まして辿ってみた。
牧場は、酪農場、養豚場(黒豚、無菌豚、種豚)、肥育牛(乳雄牛、黒毛和牛、短角牛)、養鶏(採卵鶏、ブロイラー)、種競馬など畜産関係が多い。15、6くらいは見学している。他に養殖場(養鰻、養鱒、養鼈、鰤、鯛、鮑)などもあった。
工場は、食品工場(製パン、清酒、ビール、ウイスキー、ワイン、ジュース、製糖、味噌、醤油、ハムソーセージ、ジャム)が多く、機械工場(農機、自動車ハーネス、)、製紙、製缶、縫製、段ボール工場など30近くをすぐに列挙できた。
他に思い出せないものもあるに違いない。引き出しとしては充分過ぎるほどだが、引き出しても使いようが無いのは残念。

「遠い太鼓」(1990 講談社)1986年から89年の3年間ギリシャ、イタリアなどで暮らした作家の滞在記、旅行記。作家は37~40歳。
表題はトルコ民謡ー遠い太鼓に惹かれて旅に出るーという古謡からとのこと。旅行記なのに短編集の表題かと思ってしまう。この海外で暮らした時期に作家は「ノルウエイの森」、「ダンス、ダンス、ダンス」を書いたという。
この種の旅行記、滞在記を村上春樹はスケッチと呼ぶ。これらは小説を書くときに、頭の中の引き出しから時々引っ張り出すのだともいう。
このあと、アメリカ東部で暮らし「ねじまき鳥クロニクル」などを書くのだが、加納クレタなどいくつかギリシャ関連のことどもが引出しから出てくることになる。

読んでいていくつか感想があるが、二つだけ。
一つは作家の妻のこと。当然のことながら、ほとんど夫婦揃っての海外暮らしなのでいつも一緒であるから、記述の多くは「僕らはー」が多い。しかし夫婦の会話は、時々出てくるもののきわめて少ない。
読む方は、いつも表に出なくともこのとき奥さんはどうしているのか、なんと言っているのかなどと妙に気になる。作家は夫婦の性格の違い、二人の距離感、衝突した時の対処の仕方なども時折書いているが、若いのにまぁ我慢強いなと感心する。勿論片方だけでは無く、二人ともである。どこかで作家は、妻が最初の読者で意見を貰うと書いてあったように思うが、日常生活、作家生活とも好感の持てる二人三脚のようだ。勿論読者に推し量れ無い事情もあるのだろうが。
もう一つは、この時期の自分が送っていたわがサラリーマン生活との違い。自由とはこういうものかと再認識する。作家の支払う代償の大きさとその代わりに手にする自由が光り輝いて見え、改めて驚く。支払うものが小さい代わりに、心身の安寧を得て暮らしていた自分を顧りみて、人の一生はかくも異なるのだという感慨を覚える。

「雨天炎天 GREECE アトスー神様のリアルワールド」(1990 新潮社)
村上春樹はヨーロッパ滞在中の1988年にギリシャのアトス半島にショート・トリップを行った。なお、そのあとトルコへ行った紀行文も「雨天炎天」である。「雨天炎天 Turkey チャイと兵隊と羊-21日間トルコ一周 」(1990 新潮社)は、このブログ記事「その10」ですでに書いた。
今回のこちらがアトス半島の旅。アトス半島は、ネットによれば、マケドニア南部テッサロニケの東南に突き出た三つの半島のうち一番東側の細長い半島。独特の宗教共同体の自治で知られているという。ギリシャ正教の修道院が二十、そのもとに粗末な建物が立ち並ぶ。住人のほとんどは男子聖職者であって、彼らはここで修行をし、宗教的な生活を送って一生を過ごすという。ミャンマーやチベットの僧などを思い起こすが、日本にはこれほど厳しい生活をする修行僧はいるのだろうか。

「ラオスにいったい何があるというんですか?紀行文集」(2015 文藝春秋)
作家がかつて住んだギリシャ、イタリア、アメリカ再訪記など。再訪記よりイタリア・トスカーナ州のワイナリー訪問記が面白くて印象に残った。キャンティといえば藁苞の瓶も有名で水彩画でもよく題材で描いたことがあるが、本格的なキャンティ・クラシコの方を飲んで見たいものだ。(黒い鶏のエンブレムが目印らしいが。)
トスカーナは粘土と石灰石の混じった土壌が美味い葡萄を育てるという。昔訪ねてワインテイスティングをさせて貰ったブルゴーニュも、地底にある石灰石に葡萄の根が届くとワインが美味しくなるのだと聞いた。ワインの味を決めるのは石灰石か。

ちなみに題名はラオスに行った時にヴェトナム人に聞かれた言葉という。何があるか分かっている旅は旅とはいえぬという作家の持論。それはそうだ。再訪はその地の変わりようを見る旅だし。

「蛍・ 納屋を焼く・その他短編」(1984 新潮社)
帯にリリックな7つの短編 とある。「叙情的」というように流れるような文章だが、例により書かれない部分があるので分かりにくくもある。(書かれぬ余白が味を出しているのだろうとは思うが。)
表題の2編と「踊る小人」、「めくらやなぎと眠る女」、「三つのドイツ幻想(冬の博物館としてのポルノグラフィー、ヘルマン・ゲーリング要塞1983)」、「ヘルWの空中庭園」)が収められている。
長編「羊をめぐる冒険」(1982)と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(1985)との間に書かれた初期の短編集。
「蛍」はノルウェイの森の原形のようだ。他の短編も村上春樹の長編小説のシーンや登場する女性などと似た所があるのは面白いし、村上春樹の小説を理解するヒントがあるかも知れない。

「シドニー!」(2001 文藝春秋)
2000年シドニー・オリンピックの村上春樹による観戦記録である。スポーツ情報誌「ナンバー」に掲載された。
観戦記よりオーストラリア事情、歴史などの方が力が入っている感じ。マラソンやトライアスロンを除いてだが。
女子マラソン金メダルの高橋尚子より、有森裕子のインタビューに力が入っているのも村上春樹らしい気もする。理由はよく分からないが。
アボリジニーの女性が金メダリストとなった女子400mの決勝レースは読ませる。原住民と侵略者の歴史は何処でも奥が深いものがあるとあらためて考えさせられる。アメリカインディアン、アイヌ、マヤ・アステカしかり。

終始五輪は退屈だと言いつつ膨大な観戦記(409ページ!)を書いた作家は、後半で次のように総括的に呟く。このつぶやき末尾の「長い結婚生活の薄暗い側面」という意味は何か良く分からないし、ここに相応しい喩えなのかどうかとも思うが。
「シドニー・オリンピックは、とことん退屈ではあったが、それを補ってあまりあるくらい~あるいはやっとこさ補うくらいには~価値あるものだったということができる。長く続いた結婚生活の、ある種の薄暗い側面と同じように」

この文章を書いていた時にカズオ・イシグロ(1954長崎生まれ)のノーベル文学賞受賞のニュースが伝えられた。彼の「日の名残り」はこのブログでも取り上げたが、「記憶」が主たるテーマとは読んでいなかった。とても立派な小説読みとは言えないなと反省。

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-07-22
カズオ・イシグロ「日の残り」ーマナーハウスとカントリーハウスのことなど

イギリス国籍の日本人であるカズオ・イシグロは、村上春樹より5歳ほど下、二人は友人でもある。受賞理由は「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」という。

村上春樹はいつも有力候補に挙げられながら受賞を逸していて、その理由を何かで読んだことがある。
たしかに村上春樹の書くなかにノーベル賞となじまないものもあるようには思う。例えば暴力(性)などもその一つであろう。選考委員会がどんな基準を持っているのか知る由も無いが、それが何か危険なものに結びつく怖れを懸念することは考えられる。
しかしもっと小説を書く者、読む者を信頼しても良いという気持ちもある。
何れにしても受賞と小説の良さは別物であろう。世の中にはいろんな書き手といろんな読み手がいるのだから、良し悪しは人によるのだ。









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へびうり、柱サボテンなど ーびっくりご近所の庭木 [自然]

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近所を散歩していると、よその家ながらついつい庭木や花に目がいく。
日本は公園は少ないけれど、個人の家の庭は一つ一つは小さいが、集積するとかなりの面積になるのだと聞いたことがある。小さな庭を集積した大きな面積に、いかほどの意味があるのかよく分からないが。
庭のあるじはみなそれぞれ手をかけ楽しんでいる。一方自分を含めて道行く人、散歩をする人もまたその成果を楽しみ恩恵を受ける。
なんの変哲も無い平凡な花、百日草、ペチュニアなどを植えている家もある(我が家がまさにそうだ)が、一見して高価そうな鉢に植えた華麗な花木を、季節に応じて変えている家、一年かけて世話をして見事な花を咲かせる薔薇屋敷など様々である。

しかし中には庭の前の道を覆うほどの鬱金桜の見事な木があって、花の時期に見つけうわぁとびっくりすることもある。びっくりといっても他の人もびっくりするかどうかは知らない。人は皆違うことに驚くような気がするからである。自分でさえその時の気分のありようで、びっくりしたりしなかったりする。だから人によりびっくりするものが異なるのはなんの不思議もない。

びっくりした一例をあげると、蛇瓜。インド原産。カラスウリ科の蛇瓜(へびうり)。別名毛烏瓜とも。自転車に乗って走りながら、数本ぶら下がっているのを見たときは、えーっと驚いた。
英名は、Snake gourd 。れっきとした野菜であり、イタリヤ料理、カレー料理などにも使うとか。見たところあまり美味しそうではない。率直に言って気味が悪い。

最近では山法師。ヤマボウシ(山法師、山帽子、学名 Cornus kousa)はミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。これは、花水木のあとしばらくして咲くが、庭木として最近では特段珍しくはない。驚いたのは栽培種なのか亜種なのか、普通は木のてっぺんに花をつけるのだが、側面にびっしりと花をつけているのを見つけたときである。

また、近くの普段歩かない路地で見つけたサボテン。家の二階にまで届き、更に上に伸び続けている背の高いのを見つけたときは驚いた。壁に釘を打ち丈夫そうな紐でサボテンを家が抱え込んでいる。ネットで調べてみると柱サボテンというものらしい。正確かどうかは自信がないけれど、サボテン科 ケレウス属 の鬼面角というのに一番似ている。南米産で6-8月に花もつけるという。こんなに大きくなるんだと初めて知る。

近所の方が育てている鉈豆。刀豆(トウズ )ともいう。マメ亜科 ナタマメ属 で血行促進や免疫や力の向上に資するという。古くから良薬として珍重されたらしい。そういえば、新聞広告で何かに効くというサプリがこの写真入りで掲載されていたのを見た覚えがある。驚くのはそのさやの大きさである。たぶん中の豆もさぞかし大きいのだろう。食用にもなるが、食べたことはないので、味はどうか知らない。

話は逸れるが、青梅街道を車で走ると「びっくりドンキー」というハンバーグレストランがあって、壁や屋根にトタンなどを張り付けいかにも廃屋の雰囲気を出していた。中に入るとどんなびっくりが用意されているのかとずっと思っていたが、とうとう入る機会がなかった。
最近リフォームして小綺麗なデザインに変わってしまったのである。あの佇まいも味があったのにと残念がっている。たぶんびっくりは外装だけで普通のファミレスだったのであろう。

加齢とともにか引きこもりがちなこともあって、最近ここにあげた類のびっくりがとみに少なくなっているような気がする。

原発再稼働、政治混乱、自然災害、人災などにはびっくりさせられてばかりいるのに、片手落ちだ。
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村上春樹を読む(その11) ・「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」など [本]


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村上春樹の随筆などをランダムに読んでいる。

「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」(1999 平凡社)
陽子夫人の撮影した写真が掲載されたスコットランド、アイルランドのウイスキー紀行文。
ウイスキーは、アイルランドで生まれアイラ島を経てスコットランドに渡ったという。
この紀行文を読む前には、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という表題はアイラ島のシングル・モルト・ウイスキーとアイリッシュウイスキーにしても、言葉で良さを人に伝えるより飲めば分かるということかと思ったが、それにしては言いまわしが少し変である。やはりそう単純でもないようだ。
ウィスキーのもつ味わいを少しでも読者に「共有」して欲しいという願いをこめてこの文章を書いたらしい。つまり、自分の言葉だけで読者がウィスキーを味わえたらどんなにかすばらしいだろうか、という作家としての思いがこもっているのである。むろん言葉だけでウィスキーを味わうことはできない。言葉はウィスキーでなく言葉に過ぎないからだ。それでもなお作家は「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と夢を見続けるのだと次のように書く。作家が伝えたいのは何もウイスキーのうまさだけでは無い。
「でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、ぼくらのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは(少なくとも僕はということだけれども)いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ」
言葉を扱う作家としての希望、姿勢を示した表題なのだ。直球でなくカーブかナックルボールの言いまわしで、人の目を惹くところは相変わらずである。

1999年2月、仕事でスコットランドはインバネスのモルツメーカー・トマーチンデイストラリーを訪ねて見学させて貰った旅を懐かしく思い出した。
ここのウイスキーのブランドは「LANG」だった。lang は辞書によればlanguage の省略形だとある。とすれば村上春樹の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と偶然ながら呼応するような気もする。

少なくとも作家の「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という夢想とトマーチンディストラリーが、そこで蒸溜して作ったウイスキーにLANG(language・言葉)とネーミングしたココロには似たものがあるかも知れない。

自分がインバネスに行った1999年は平凡社からこの本が出版された年だが、作家は1997年に「サントリークオータリー」にこの文を書いているので、旅の時期は自分よりかなり前になるようだ

作家は「うまい酒は旅をしない」とも言う。舌では分からないが雰囲気は少し分かる。灘の清酒メーカーの人から清酒は野菜や魚と同じで新鮮が一番と教えられた。地酒が美味しいのはそのせいだという。ウィスキーはどうなのだろう。都会の薄暗いバーで飲むより、荒涼としてうそ寒いインバネスで飲んだ方がうまいと思ったかどうか、今となると思い出せない。
ディストラリーの側を流れていた小川の水は、ピートが混ざっているのか茶色く濁っていたのだけいやに記憶に残っている。


「村上朝日堂 はいほー!」(1989 文化出版社)
「ハイファッション」なる服飾雑誌(眼にしたことはないが)に連載していたエッセイ集。
作家はかなり気楽に自分自身の生い立ち、性格や生活態度、趣味や夫婦仲などを書いている。自分の夫婦仲のことをこだわりなく披瀝するというのは、なかなか出来る事ではない。作家は意外とまじめな性格のよう。村上朝日堂というのは朝日新聞社専売ではなさそうだし、例により「ハイホー!」の説明はなかった(のではないか)と思うが、訳が分からないエッセイの表題ではある。

「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」(1997 朝日新聞社)
サリン事件被害者インタヴューを一年間かけて文章化していた同時期に、週刊朝日に連載していた気楽なコラム。著者は「アンダーグラウンド」(1997 講談社)とのバランスをとっていたという。シリアスなものと気楽なものとの。

「村上ラヂオ」(2001 講談社)
「anan」連載のコラム集。短くて気楽ながら丁寧で好ましいエッセイ集。読者を20歳前後の女性と決めつけず書いているのが良いのか、1話が(文庫本で)1ページ半ほどの短文なのが良いのか、理由は分からないが好感度が高いと思う。
中でも気に入ったひとつ。
「パスタでも茹でてな!」
イタリアの車の運転モラルが低い話。車の窓をあけてドライバーが「シニョーラ、運転なんかしないで、うちでパスタでも茹でてな!と怒鳴る。」という話からパスタの話になり、「国境をまたいで超えただけで、パスタが突然信じられないくらいまずくなる。国境って変なものだ。それでイタリアに戻ってくると、そのたびに「おお、イタリアってパスタがおいしいんだなあ」とあらためてしみじみ実感する。思うんだけど、そういう「あらためてしみじみ」がひとつひとつ、僕らの人生の骨格をかたちづくっていくみたいですね。」としめる。
思うんだけどという転じ方がすこぶる良い。そして後に続く文章がまたすこぶる結構。わがブログ「しみじみ e 生活」のテーマそのものだ。

「村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボガド」(2011 マガジンハウス)
「アボガドはむずかしい」
作家は難しいのは食べどきのことを言っているのだが、自分の経験では、アボガドの難しさは傷んでいるのに外からは分からないことだ。これで何度泣かされたことか。
食べどきなら、キウイの方がよほど難しい。かつて「採り時を教へぬキウイの硬さかな」という駄句を作ったことがある。
紹介されている村上夫妻のたのしむタマネギときゅうりとアボガドのサラダ、ショウガドレッシングが美味しいとの由。一度試してみたい気がした。

「村上ラヂオ3 サラダ好きのライオン」(2012 マガジンハウス)
「ブルテリアしか見たことがない」
ブルテリアは犬の種類。これしか飼ったことのない人に犬は分からない。一度しか結婚していない人に女を分かったと言えない。
各文最後の「今週の村上」がくだらないけれど面白い。特にダジャレ。フリーダイアルと不倫ダイアル、洗剤意識と潜在意識、何回止まっても一時停止など。わが記憶力が急低下しているのに、覚えているのがいくつかある。ダジャレや言葉遊びの好きな人は好きである。回文だが、「またたび浴びたたま」という著書がある。

「またたび浴びたタマ」(2000 文藝春秋)
うーむ。自分も「伊丹の酒今朝飲みたい」など言葉遊びは好きだが、一冊の本にするほどのことかなとも思う。回文に怪文が添えられているが、読んでいて「定型」は物語を作りやすいのではないかとふと感じた。5・7・5調が俳句、短歌を、韻が詩を、折句が追悼句を、作りやすいように回文は怪文を生みやすい。

「意味がなければスイングはない」(2005 文藝春秋)
かねて作家が音楽(ジャズやクラシック)についてじっくり書いて見たいとして実現したエッセイ。
相変わらず上手いアイキャッチの表題について作者は「あとがき」でデュークエリントンの名曲「スウイングがなければ意味はない」のもじりと明かしている。名言はそのままひっくり返しても意味がある場合があるものだと知る。
本文では、「シューベルトピアノソナタ17番ニ長調D850 ソフトな混沌の今日性」、「ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト」
の二章だけが少し理解できたような気がするが、あとのジャズやロックの話は殆どが理解の外にあった。


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村上春樹を読む(その10) ・「辺境・近境」など [本]


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「辺境・近境」(1998 新潮社)は、ロード・エッセイと称する8編が収録されている。
「辺境」のなかでは「ノモンハンの鉄の墓場」が印象に残る。
「近境」では「讃岐・超ディープうどん紀行」が面白かったが、これはどこか別のところで読んだような気もする。
同じく「近境」では、やはり1997年5月の「神戸まで」(書き下ろし)が出色。
前のブログに取り上げた「アンダーグラウンド」を書き上げた後だという興味と、自分が当時作家が歩いたそこに住んでいたので、懐かしい記憶を呼び覚まされながら面白く読んだ。
自分は1995年から1997年7月までの2年間、大阪支店勤務だった。前半1年は、豊中市の一戸建て社宅に住んだ。前任者が住んでいた社宅は芦屋のマンションだったが、地震で損壊して住めなくなったのである。1年後修復されたので戻って、後半1年間は芦屋から大阪は御堂筋の淡路町まで車で通勤した。
マンションは芦屋川の西側に山に沿って建てられ、エレベーターが登山電車のように斜めに昇降する頑丈だが変わった建物。前任者は1月17日定例会議のため上京していて、辛くも難を逃れたのである。
部屋が9階なのでベランダからの夜景は、六甲ランド、ポートアイランドの灯も見えて夜も見事な眺めだった。
前の芦屋川の河原では猪の親子が、時々数頭しきりに餌を求めて徘徊していた。
神戸の事務所は2階建てで一階が潰れ、壊滅的な被害を受け金庫の重要書類などを取り出すことを含め難儀したが、人的災害を免れたのが何よりであった。

大阪支店は兵庫、和歌山、滋賀、京都府の支店、事務所を所管していたが、神戸には取引先も多くて、挨拶と言う名の営業でせっせと通った。西宮、伊丹、灘の清酒メーカー、六甲ランド、ポートアイランド立地の企業などなど。転勤では静岡、新潟、大分、福岡で暮らしたことがあるが、関西は初めてで、しかも初めての単身赴任生活だったので毎日が新鮮な感じだった。

芦屋に住み高校まで育った作家は、2日かけて西宮から神戸までを散歩する。いわばセンチメンタルジャーニー、故郷紀行だが、震災(とサリン事件)の後だからただのそれではない。

神戸を襲った大震災は2年前の1995年1月17日である。その2ヶ月後にサリン事件が起きたとき、アメリカにいた作家は帰国して被害者にインタビューしてノンフィクション「アンダーグラウンド」と(のちにオウム信者へのインタビュー集「約束された場所で」も)を上梓する。
「僕がこの本で書きたかったのは、我々の足下に潜んでいるはずの暴力性についてであった。」と言う。そして、地下鉄サリン事件と阪神大震災は別々のものじゃない、二つは心的で物理的なもの、だという。このあたりは我々読者が正しく理解するには努力が必要かもしれない。
しかし、それとは別にせよ、起きてしまった二つのことに何が出来るかを考えても、自分(作家)にもまだ答えはないともいう。答えを得るまでに時間がかかるが、間に合うだろうか?と危惧するとも。
突然起きた理不尽なカタストロフに対して自分が何が出来るかという問い、これは我々と同じ普通の人の感覚であろう。作家と言えど特別な人間ではないのだから少しもおかしい事ではない。
なお、神戸の震災については直接テーマにした著作は無いが、短編小説集「神の子供達はみなおどる」という地震にまつわる連作があることは前に触れた。

「ノモンハンの鉄の墓場」は、「うずまき鳥クロニクル」を理解するために得るところがあった。
「うずまき鳥クロニクル」では、ノモンハン事件(実質的戦争を「事件」というのは、最近やたらと多い「言い換え」である)の生き残りが重要な語り手で登場するが、暴力は物理的なものでかつ心的なもので別物じゃないのだという作者の意識を思えば、ノモンハン事件が時・空を超えてエピソードとして挿入されている意味も分かるというもの。時を超えてということをクロニクルという言葉で表したのか。
作家のこの小説で書きたかった一つに暴力(性)があり、これは作家の持つ大きなテーマの一つであるが、なかなかどうして分かりにくい。

作家のノモンハンへの旅が小説を書く前でなく後であったということは面白いし、訪ねる前に書いた現地の様子は現実もそのとおりであったと、どこかで書いていたのも面白い。さすがであるが、人は心に浮かばないものは見えないという怖れもないわけではない。

作家は戦跡を歩いた日の深夜2時過ぎ、得体の知れない地震のような激しい揺れを経験することになる。それが大地の揺れでなく作家自身の心の揺れだと知覚する。
「暴力」が物理的かつ心的なもので、過ぎた時間に関係ないという証であろう。村上春樹の小説が少しわかるような気がして、これも収穫のひとつだった。

「雨天炎天 Turkey チャイと兵隊と羊-21日間トルコ一周 」(1990 新潮社)
紀行文というのは、近々その地を訪ねるといった目的意識なく読み始めるとよほど好奇心が強いひとでないと、無理やり旅の道連れにされたようなもので、文章が面白くなければ最後まで読み通せない。まぁ、埒もない読後感想の「辺境ブログ」文よりはもちろんましだが。
この旅行記では、トルコ東部高地ヴァン湖の泳ぐヴァン猫の話が面白かった。作家が絨毯屋とグルのホテルマンの誘いに乗り、猫を見たさに絨毯屋に案内される。幸い世にも珍しいヴァン猫にも会えたが、絨毯を買うことにもなるのが面白い。自分だったら、きっと同じようなことをしたに違いないと思う。
ネットによればヴァン猫は、世界に1000匹ほどしかいない希少種という。可愛らしい顔をして、瞳が青もしくは琥珀色、または片方が青で、もう片方が琥珀色というのもいるというのだからすごい。しかも写真で見ると上品な猫である。
水を怖がらずに泳ぐ猫としても知られる。トルコのヴァン県原産。(写真はネットから拝借した)




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村上春樹を読む(その9) ・「アンダーグラウンド」など [本]


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「アンダーグラウンド」(1997 講談社)
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件の被害者(本人および家族62人)から聞き出した体験談のインタビュー記録。後記の「約束された場所で underground 2」とともに村上春樹には、珍しくノンフィクションである。

サリン事件の起きる2ヶ月前、1995年1月には阪神淡路大震災が起きた。我が職場の神戸にも事務所があり、崩壊したので自分は本社にいたが、東京にも直ちに対策本部が設置された。
自分はその後間も無く7月に復興中の関西(大阪支店)に赴任した。55歳であった。前任者の芦屋の社宅は傾き入居不可能となり、豊中市の新しく借り上げた戸建ての社宅で1年間暮らした。

3月20日にサリン事件が起きた時は、東西線で高田馬場から大手町まで行き日比谷線に乗り換え日比谷駅まで通勤していたことになるが、その朝のことはよく覚えていない。通勤時間帯が自分の方が早かったのだろうか。後から職場のテレビで霞ヶ関駅辺りの映像を見た様な気がする。
今にして思えば、相次いで起きたこの二つの大事件は、自分の身近かで相次いで炸裂したのである。まかり間違えば自分が遭遇していたかもしれない、というのがまさしく実感である。

自分は「アンダーグラウンド」を講談社文庫で読んだが、731ページに及ぶ大作である。しかもインタビュー部分は全て上下段。本は当然ながら分厚くて手に重く、内容からしても、 寝ころがって読むには難がある。
アンダーグラウンドは言うまでもなく地下鉄を指すが、また「心の闇」である人間の内なる影の部分をもイメージしている。村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」に登場する「やみくろ」の世界である。
それは我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実とから排除し続けている真っ暗闇であり、そこに光を当てると言うのが作家の狙いだ。確かに加害者でなく被害者の声を先ず聞く、というのはユニークなアプローチである。

当然ながら個々の被害の状況は似ているが、被害者それぞれは家族を含めた周囲の状況は異なる。いずれも同時代に生きるひとの言葉だけに迫るものがある。
自分も、西武新宿線の立川近くから勤務地大手町に1時間半余りかかる長距離通勤に音を上げた。少し近くになる中野に引っ越したが、引き続き東西線の満員電車を経験していた自分には、事件に遭遇した人の話を読んでいて身につまされて、しばしば胸が苦しくなった。そして当時の自らの追想に誘発されつつ、多くのことを考えささられることになった。

ところで、巻末の「目じるしのない悪夢 ・私たちはどこに向かおうとしているのだろう」によれば、事件を知ることだけでなく作家は、海外から帰り日本をももっと知りたいという動機もあったと説明している。

自分などは、被害者に聞くのならオウムサリン事件より東日本大震災による福島原発事故の方が日本を知るのに好材料だと思う。しかし、原発事故はオウム事件の16年後に起きたのだから、比較しても詮無きことではあるが。
この二つはどこが異なるのか、考えさせられる。原発事故は地上(Terrene)で起きたこと、サリン事件は地下(Underground)で起きた違いがある。小説家は地下の方が惹かれるかも知れないが、起きた場所が事件の本質に差異をもたらすことでは無かろう。
被害者が普通の生活者だというのは同じである。原因ではかたや宗教(らしきもの)、片や自然現象に併発した原発事故と明らかに異なる。

心の救済を求めて生活者であることを放棄し教祖に全てを委ね安寧を得た者が、無差別殺人に加担するというのは常軌を逸している。しかし、現実に起きた。
電力確保のための原発建設は生活者の為ではあるが、それだけなら代替手段がないわけではない。使用済核燃料処理が出来ない中での原子力産業は、いったい誰のものかも問われねばならない。原子力村か過疎にあえぐ地域住民か。こちらは経済が直接絡む。
オウムの方は、信者の出家に見られるように経済からは一見して遊離しているように見えるが、どうだろうか。
原発事故で強制的、自主的を問わず避難した被災者にインタビューしたら…経済、家計、家族など日本の何かが見えてくるのではないかと思う。
そうは言っても、政府、国家、核兵器開発、政治など解明出来ぬ怪物がずるずる出てくるだろうから余ほどの覚悟が必要だろうが。
また、オウムについて作家は「内なるアンダーグラウンド」と言って、誰もが持っていて意識的に避けていることについて語るが、原発についても同じこと、つまり「内なる原発」が言えるのではないかと強く思った。

「約束された場所で underground 2」(1998 文藝春秋)
オウム事件の被害者へのインタビューのあとに加害者たちへ同じことを行い、彼らの生の声なり、正直な思いなりを、そのままの形で紹介したいと思うようになったと作者は言う。それもまた、先の場合と同様に、「明確な多くの視座を作り出すのに必要な<材料>を作り出す」という目的のもとで。こうして同じかたちで書かれたのがこの本である。
こちらは、マスコミなどで詳しく世に知らされたことが多いのだが、オウム側のことについては、いくら聞いても理解し難いことがある。なぜ、こんな教祖に全生活を投げ打ち、全身を捧げることが出来るのか。
自分が読んだのは、「村上春樹全作品 1990~2000 [2]-7 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく」である。「ー会いに行く」も再読した。
「約束された場所で」にも巻末に河合隼雄との対談がついている。
河合隼雄は、村上春樹とのこの対談で教祖について「あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなすごい悪い奴がいないと、うまくバランスがとれません」といっているが、そうしたメカニズムが反社会的な行為に走っていくところは、ヒットラーのナチズムとよく似ているという。そしてオウムの幹部とBC戦犯も似ていると。たしかにあなた任せの思考停止、誰もが責任を取らぬ曖昧さはサリン事件、原発事故、太平洋戦争に通奏低音のように鳴り響いている。

また、オウムに走った者の発想(宗教の追求)と作家の物語をつくる精神の類似性、共通点についてあるいは異なる点についての心理学者と小説家のやり取りは大変興味のあるものだった。

なおこの本の題名「約束された場所で」は、アメリカの現代詩人マーク・ストランド(Mark Strand)の詩からとったものだという。その部分を、村上自身が次のように訳している。 
ここは、私が眠りについたときに
約束された場所だ
目覚めているときには奪い去られていた場所だ

このノンフィクションは、村上春樹の「悪」についての考え方に近づく一つの手がかりになるのかも知れないが、まだ自分には作家の問題意識そのものが分かりかねる感じもしてもどかしい。
悪とは何か。閉じられた世界の悪はその世界の住民にとり悪ではない。開かれた世界の善も閉じられた側から見れば悪の場合もある。
一人ひとりの心の闇にある小さな我欲が集積、増加すると量が質に変化するように大きな悪(例えば戦争)になるのか。我欲には小さな安穏な生活、家族の安寧願望も含まれる。
人間の暴力、自然の暴力。人が損なわれるとはどういう事か。
脳裡に作家の言、自分の考えなどが交錯しつつ靄のように来ては去り、去っては来てまとまらない。
これでは村上春樹の良き読者には、まだなれそうもないなとしみじみと思う。


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村上春樹を読む(その8) 「走ることについて語るときに僕の語ること」など [本]

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村上春樹がボストンマラソンなどを走るマラソンランナーであることはよく知られている。
玉子が美味しければ鳥など見なくても良いというのはどこに書いてあったか、メモしそこなったので分からないのだが、村上春樹の言ではなかったかと思う。また、同じ作家が贔屓のヤクルトの選手の活躍を知れば彼の生い立ちや周辺の事を知りたくなるのは自然だともどこかで読んだような気もする。これは全く正反対である。
小説とプロ野球を同列にするわけにいかないが、長編小説の事を知るのに書いた作家の人柄や周辺のことを知ろうとするのは間違っているのかどうか自分には分かりかねるが、うまい卵を産む鶏がどんな種類か、どんな餌を食べ、どんなファームで暮らしているかがすぐ気になる方である。よって随筆や短編集インタビューなどをせっせと読むことになる。

「走ることについて語るときに僕の語ること」(2007 文藝春秋)
著者はエッセイでなく自分史に近い「メモワール」だという。メモワールはフランス語で「記憶」「思い出」を意味する。英語でも主に「回想録」「自伝」を指す言葉として使われる。ここでは「英・仏」合わせたものか。
村上春樹の場合、小説の作法が長距離ランニングと同じようなものと言うのは、よく理解できる。武道家の評論家がいるようにジョガーの小説書きがいるのは、数は少ないがありうることだ。三島由紀夫みたいな例も(やや中途半端にも見えるが)ある。
しかし、スイム、バイク、ランのトライアスロンをやり、大学で教えながら海外生活をする作家は少ないことは確かで、それが小説に反映しないとはとても思えない。
しかし、そう聞いて(年寄りはとくに)だれでも思うだろう。身体能力の低い老いた作家は、遅かれ早かれ小説が書けなくなるに違いないと。もっとも、武術やランニングをしない作家でも歳をとれば書けなくなるのは同じでもある。物語を作り出すと言うのは力技だというのは、容易に想像出来る。
ピカソ、北斎などをみれば画家は幾分違うかも知れない。油彩は力技にも見えるのだが、80歳を過ぎても傑作を残した巨匠は少なくない。
表題は相変わらず巧みなアイキャッチだが、著者の敬愛する作家レイモンド・カーヴァーの短編集のタイトルが原型という。そのタイトルとは、
"What We Talk About When We Talk About Love" うん、なるほど。

「神の子どもたちはみな踊る」(2000 新潮社)
表題のほか5篇の短編小説が収録されている。初出し、連作「地震のあとで」その1~その6。
1995年の阪神大震災がテーマになっているが、地震そのものを取り上げている物語はない。地震は物語の背景だったりストーリー展開のきっかけとしてあつかわれている。
大災害でも当事者以外は外から被災を見ているわけで、神戸であれば北海道の人、東北の災害であれば大分の人はそれぞれ同情はすれど、また自分の日常に戻るのだからこういう扱いもありだろう。地震をめぐる全く別の物語をいくつか書くというのは俳句、短歌の連作あるいは連句、連詩のようで一種の趣がある。
表題が代表作なのだろうが、(そして大方の人と異なるかも知れないが)自分は「蜂蜜パイ」が一番好きだ。村上春樹の小説の原型みたいで読んでいて楽しい。ハッピーエンドなのも老人には有難い。
ところでこの短編集を読みながら、村上春樹は東日本大震災、福島原発事故についてどんな発言をしていたかが気になり出した。何処かにあったのだろうが、あらためて探して見ねばなるまい。

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011」(2012文藝春秋)
村上春樹の小説作法、執筆姿勢がよく分かる。例は適切では無いがギリギリ自らを憑依状態に追い込んで物語を作り出すという感じを受けた。プロットなし、シュール、闇、夢、井戸、壁、異界など作品の特異性から見て、そういう状況に耐えられる精神力と体力が必要だと解釈したが、的を射ているか否か自信は勿論無い。少なくともマラソンやトライアスロンで体を鍛え規則正しい日常を、作家が心がけるのはこのためかと思う。

「海辺のカフカ」、「スプートニクの恋人」など個々の作品への応答もあるので素人読者(自分のことだ)には大いに助かる。
特に海外メディアのインタビューにおける作家の説明が、率直にして分かり易くて良い。

村上春樹 はこの時60歳だが、小説家の老いについてこう触れている。
「あれほど才能を持った人(カポーティ、チャンドラー、サリンジャーら)たちが、老境を迎える前に思うように現実に書けなくなってしまうというのは、本当に惜しいことだし、切ないことだと思うんです。反面教師といったらそれまでだっけれど、僕はどこまでやれるか挑戦して見たいです。」「るつぼのような小説を書きたい 1Q84前夜」(2009)。
身体を鍛えているからか自信がありそう。ふと、「韃靼疾風録」(1987)を最後に63歳で長編をやめ、晩年は「街道をゆく(1971-1996)」などを書いた司馬遼太郎(1923-1996 、73歳没)を想起した。

ところで、作家は神戸の震災やサリン事件に強い関心を寄せてはいるが、2011年の福島原発事故についてはどうだったかと前から気になっていた。
2011年6月のカタルーニャ国際賞受賞インタビューにおけるインタビュワーの紹介の中で村上春樹の東日本大震災、福島原発事故についての言及を見つけた。(インタビューの応答ではなく作家の言だとして紹介されている)
「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。それが広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。」

「レキシントンの幽霊」(1996 文藝春秋)表題を含む7編の短編集。いずれも怖い話だがそれぞれに怖い中味は違う。読む人によって怖さは異なるだろう。自分はいじめの「沈黙」より、妻が洋服を買い漁りはてに交通事故で死んでしまう「トニー滝谷」の孤独が異様に怖かった。

「スプートニクの恋人」(1997 講談社)
「僕」が恋した女性すみれは、年上の女性ミュウと恋に落ちたが、うまくいかず忽然とこの世界から消えてしまう。僕はミュウに頼まれギリシャまで探しに行くが見つからない。
レズビアン、性をめぐって展開する中編小説。単線型小説に属するのだろうと思う。
ミュウの髪を一瞬に白髪にした不思議な経験も性にまつわる。オープンエンドであり、女をなくした男など村上春樹特有の展開。「ノルウェイの森」もこれに似た雰囲気の小説だが、こちらは表題の「スプートニクの恋人」がもう一つ分かりにくいというか、テーマとの付きが離れている感じ。スプートニクはロシア語でみちづれ、人工衛星の軌道はすれ違っても会うことはない。恋愛とはこれに似ているというのだろうが。「象徴と記号」の違いは「片思いと相思相愛」の違いだという方が分かりやすいが表題には向かないだろう。Symbol やSign(Codeなど)をどう使ってもたぶん「The Sputnik Sweetheart 」には敵わない。


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滑り莧(スベリヒユ) ワタシのことか ポーチュラカ [自然]


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春過ぎてパンジーなどが終わると、夏のプランターに植える草花の種類が少なくて、花屋さんの店頭でいつも悩む。
定番は日々草くらいであるが、今年はポーチュラカの苗を見つけた。時期が過ぎたのか6個300円。お買い得のこれが見事に赤と黄の花をつけてくれて夏中楽しめた。

ネットで調べると、ポーチュラカオレラセア(学名)はスベリヒユ科スベリヒユ属ポーチュラカ。
多肉質の葉と茎をもち、同属に松葉ボタンがあってたしかに雰囲気が似ている。
酸味があり、ぬめり(これが滑るもとになる)のある独特の食感を持つとある。東北では「ひょう」と呼び、茹でて芥子醤油で食べる山菜の一種、干して保存食にもされたという。
中国では生薬として解熱、解毒、虫毒利尿に効き目あるとされ馬歯莧、馬歯菜、五行草、酸莧、豬母菜、地馬菜、馬蛇子菜、長寿菜、老鼠耳、宝釧菜などと沢山の名前があるというから薬効顕著な漢方薬なのだろう。
トルコ、ギリシャ、沖縄などでは葉物野菜の不足する夏季に重宝されサラダに入れたりして食べるというが、リンゴ酸由来の苦味があるらしい。
食べられるとか薬草でもあるとかも知らなかった。ハナスベリヒユはこのスベリヒユの近縁種で「花滑り莧」(はなすべりひゆ)と書く。「莧」などという漢字は初めて見る。これも知らなかった。

スベリヒユの「スベリ」は茎や葉を茹でた際にぬめりが出ることや踏みつけると滑ることに由来し、「ヒユ」はヒヨコと同源の言葉で小さくて可愛らしいという意味らしい。
ポーチュラカという花名は、ラテン語の「porto(持ち運ぶ)」と「lac(乳)」が語源で、茎や葉を切ると乳状の液が出ることにちなんでいるという説や、ラテン語の「porta(ポータ・入口)」が語源で、実が熟すと蓋が取れて口が開くことに由来するという説があるが、自分には確かめる術はない。

暑さや乾燥に非常に強い植物で、地表を覆うように育つ。朝顔のように朝開いて夕方に一斉にしぼむいわゆる一日花。
今年の夏は雨の日が多く日照時間も極端に少なく異常気象が続く。もうこれ以上の変な天気は勘弁して欲しいと祈るのみである。
ポーチュラカの花が元気に咲いてくれて嬉しい。


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村上春樹を読む(その7)・「小澤征爾さんと、音楽について 話をする 」など [本]

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その作家の随筆などを先に読んでから小説を読むのと、小説を読んだ後に随筆を読むのでは、少し味わいが異なるような気がする。自分の場合で言えば、前者が丸谷才一、後者が村上春樹である。
随筆で代表させたが、対談、インタヴュー、解説、批評などを指す。
自分は、どちらかと言えば小説をあまり読まない方だからであるが、随筆、エッセイなどである程度人となりを知ってから小説を読む方が多いが、小説を読んでから人となりや考え方を随筆などで知るというのは少ない。

村上春樹の小説の理解に少しは役立つかと、あとから随筆などを何冊か借りてきて読んだ。短編小説も何冊かあったが、これは人となりを知るために役立つというものではない。

「小澤征爾さんと、音楽について 話をする 」(2011 新潮社)
村上春樹の小説にはジャズやクラシックが出てくるからと手にした。世界的な指揮者との音楽対談。
この書を通読して自分が理解したのは2割とないだろうと思う。小澤征爾は勿論、素人と言っている村上春樹の音楽のレベルは、極めて高いことが一読して分かる。
音楽の奥の深さに驚きつつ、かたや今さらながらわが音楽の素養なしに呆れる。もっと若い時から音楽に親しむべきだったと悔やんでも遅い。
それにもかかわらずこの本を読了したのは、ひとえに村上春樹の筆力以外の何物でもないだろう。わからなくても本は読み終えるものだなと妙なことに感心する。
対談に登場する名曲(ブラームス「ピアノ協奏曲1番」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲3番」、ジョージ・ガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」)などをひたすらアマゾンミュージックなどで聴いているのみである。嗚呼。
ただ、「インターリュード」と称したコラムは、 interlude 幕間、間奏曲だからか、少し内容が分かるものもあってほっとする。

「村上春樹、河合隼雄に会いにゆく 」(新潮文庫 1996)
「ねじまき鳥クロニクル」(1994,5)を書いた直後の対談。
村上:スポンティニアスな物語でなければならない (…自発的な 自然発生的な)など、作者の意図などが知り得て参考になる箇所がある。河合隼雄は一頃盛んに読んだ。
対談によるば、河合はこの小説をかなり評価していたことが分かるが、その物語性、主人公の屈折した心理描写を見れば理解できるように思う。

「ランゲルハンス島の午後」(光文社 1986)
安西水丸の絵のついた気楽な内容のエッセイ集。表題は書き下した少年(中学生)時代の話。ランゲルハンス島は膵臓の細胞(膵島)のこと、ランゲルハンスはそれを発見した医師の名前。
アイキャッチの巧みさに驚くが、例によって、それで何を言わんとしているのか、説明もないので明確でなく何やらあとに引くこともたしか。
これもアメリカ滞在記の「うずまき猫の探し方」(1996新潮社)で作者が、あとがきの最後に「うずまき猫は見つかりました?」というのと似た雰囲気。どこかにうずまき猫のことが書いてあったかな、斜め読みなので読み落としたかな、という感じ。

「TVピープル」(1990文藝春秋)
表題のほか数編の短編集。その中のひとつに「加納クレタ」がある。
水の音を聴く姉マルタのもとで働らくクレタは4年後「ねじまき鳥クロニクル」で再登場するが、これは「スポンティニアス」な物語なのか。

「回転木馬のデットヒート」(1985 講談社)
表題のほか8編の短編小説。
表題には、「はじめに」と付いていて小説に対する作家の考え方のようなものが記されている。村上春樹の小説についての考え方の一端が分かるのかもしれない。
「僕がここに収められた文章を<スケッチ>と呼ぶのは、それが小説でもノンフィクションっでもないからである。マテリアルはあくまでも事実でありヴィークル(いれもの)はあくまでも小説である。」とある。人から聴いた話を短編にしておき、それを材料にして小説を構想するのだろうか。確かに村上春樹の短編が長編の素材になっているものがあるような気もする。
だが、他人から「聴いた話」と自分自身の関係がどうして回転木馬(メリーゴーランド)のように追いつきも追い越しもせず、「仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートを繰り返す」のかというあたりになると、当方は小説家ではないからかストンと腑に落ちないところがある。

「カンガルー日和」(1983 平凡社)
表題のほか22編の短編小説。
「図書館奇譚」には、1982年の「羊をめぐる冒険」、その続編である1988年の「ダンス・ダンス・ダンス」に出てくる羊男、美少女が登場 する。
図書館は村上春樹の好きな場所(中でもその地下室?)で「海辺のカフカ」など頻出する場所だ。

「村上朝日堂の逆襲」(1986 朝日新聞社)
週刊朝日連載のコラム。朝日堂とは何だろうと思っていたが、週刊朝日のコラムだからか?いわく因縁があるのかと想像していたのだが。?うん、「村上朝日堂」は、アンアン連載だったかも。この辺になると、わけが分からない。ま、とまれ一連の朝日堂ものからはかなり作者の人となりや考えをうかがうことが出来る。

「やがて哀しき外国語」(1994 講談社)
1991年から2年半米国ニュージャージー州プリンストン滞在記。
「うずまき猫の探し方」(1996新潮社)はそのあと2年間住んだマサチューセッツ州ケンブリッジ滞在記。いずれも安西水丸の漫画風挿絵付きだが、後者に比べ「やがて哀しきー」はまじめな感じ。

「夢で会いましょう」(1986 講談社文庫)
糸井重里との共著。短編というよりショートショートをアイウエオ順に並べたもの。村上は「かなり面白い」、と前書き口上にいうがア行2、3編で読むのをやめた。
自分にはまだ、これらを面白がる才知と度量はないようだ。1986年と言えば昭和61年。

こところ小説や随筆などを集中して読んだが、なお村上春樹を理解していないという気がする。
もっとも理解できないのは、なにも村上春樹に限った話ではない。
一人の作家、その小説を分かろうとすることなど無理なのだろう。力不足だ。
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村上春樹を読む(その6)・「ねじまき鳥クロニクル」など(下) [本]


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題名の「ねじまき鳥クロニクル」は、「ねじまき鳥」が何をシンボライズしているのか、「クロニクル」がいかなる「年代記」なのか、読了しても明確にならなかった。
ロッシーニ歌劇「泥棒かささぎ」、シューマン組曲「予言の鳥」、モーツァルト戯曲「鳥刺し男」もそれぞれの巻きで何を表徴していて、「ねじまき鳥」とどんな関わりがあるのか、作者は明示せず読者に委ねているのだが。文学的ないし音楽素養に乏しいからか、想像力が足りないのか、「付き」が漠としていて察しかねるのである。題名、副題が分からないのでは、とても良き読み手とはとうてい言えない。

さて、村上春樹の小説を読むときセックス、暴力(悪)、死(異界)をどう読むか触れねば、核心に迫ることは出来ないだろうが、自分には多少荷が重すぎる。
性と暴力は、夢、月、闇、想像懐胎、共振現象などシュールなものでまぶされ、あたかも現実にある様にみせかけて語られることが多いのが特徴であろう。表現が適切か知らぬが、虚実皮膜の間に遊ぶ危うい趣きがある。死についても世界の果て、黄泉の世界と現世との往き来などで語られるが、性、悪(暴力)とセットで描かれ、これらは、この「ねじまき鳥クロニクル」にかぎらず作家の重要なテーマであることは明白である。
しかしながら率直なところ「セックス」、「暴力」に限って言えば、少しく「過剰」と感じる。これは明らかに自分が老来、歳をとったせいでもある様な気もする。
「ねじまき鳥クロニクル」より「1Q84」の方を好ましく読んだのは、どうやらこのあたり(過剰感の強弱)にあった様に思う。

村上春樹の小説では美少女や娼婦が登場する一方で、良く動物や鳥が頻繁に登場する。
「うずまき鳥クロニクル」では、猫が登場する。
物語の始めのころ、妻が家出する前に可愛がっていた猫が、姿をくらます。戻らぬ猫を探し続け、後半になって妻を取り戻すことができずにいる主人公のもとにある日ふらりと帰ってくる。
自分が知らなかっただけだが、村上春樹は猫好きで若い時から猫を飼っていたようである。どんなに好きかは彼の手になる絵本「ふわふわ」(文 村上春樹 画 安西水丸 1998 講談社)を読むだけで分かる。
この楽しい絵本は、「ぼくは世界じゅうのたいていの猫が好きだけれど、この地上に生きているあらゆる種類の猫たちのなかで、年老いた雌猫がいちばん好きだ。」と始まる。
絵本に登場する年老いたおおきな猫の名前は「だんつう (段通)」という。

彼の書く猫は、自分も家に猫が一匹いるので感じがよく分かるのだが、猫リアリティに並々ならぬ気配が感じられる。
「うずまき猫の探し方」(1996新潮社)というのもある。これは米国ケンブリッジ滞在記、絵日記風エッセイで陽子夫人が撮影した近所の猫がしばしば登場する。

猫を扱った小説の3大傑作は源氏物語、漱石の猫、谷崎の「猫と庄造と二人のおんな」だと何かで読んだ記憶があるが、いつの日か村上春樹がそれに匹敵するような傑作を書いてくれることを期待したい。
妄想ながら、村上春樹「騎士団長殺し」のあとの大作を新聞発表!「100万回生きたねこ」。題は佐野洋子の絵本を仮に拝借したが、そんな感じのものがいい。

再び苦手な音楽の話。
「僕」が良く行く駅前のクリーニング店の主人は、JVCの大型ラジカセでパーシー・フェイス・オーケストラが演奏する「タラのテーマ」や「夏の日の恋」を聴きながら仕事をする。
村上春樹の小説では、クリーニング店の主人に限らずタクシー運転士、ホテルのボーイなど音楽に詳しいフツウの人が登場する。端役、脇役だったりするがときに重要な人物だったりもするので油断は禁物である。
「彼はおそらくイージーリスニング・ミュージックのマニアなのだ」と主人公に評される。easy listeningとは、くつろいで楽しめる軽音楽のことだ。JVCはむろん日本ビクター株式会社のブランド。
なお、パーシー・フェイス・オーケストラの「夏の日の恋」は「ダンス・ダンス・ダンス」や短編集「女のいない男たち」にも登場する。「ダンス・ダンス・ダンス」ではドルフィン・ホテルのフロアでBGMとし流れる。
前回取り上げた短編の「女のいない男たち」では語り手が次のように告白する。「僕は彼女を抱きながら、いったい何度パーシー・フェイスの「夏の日の恋」を聴いたことだろう。こんなことを打ち明けるのは恥ずかしいが、今でも僕はその曲を聴くと、性的に昂揚する」
ちなみに「夏の日の恋」は、1959年11月に公開された映画「避暑地の出来事」の主題歌である。パーシー・フェイス・オーケストラはシングルとして発表。パーシー・フェイスのバージョンは翌年1960年初から春にかけて全米チャート1位を9週連続で記録した、とネットで知る。
アマゾンミュージックで早速ダウンロードして聴いてみたが、それほど感激しなかったのは残念。「タラのテーマ」は昔見た映画「風と共に去りぬ」の火事のシーンなどをを思い出しただけであった。

「ねじまき鳥クロニクル」は長いだけに面白いことがふんだんにあり、話題に事欠かないのであげているとキリがない。当方の文章もつい長くなったが、もうひとつだけ。
主人公は、義兄綿谷ノボルとパソコン通信でやりとりする。最後に妻とも同じ方法で話すのだが今でいうチャットである。これを読みながら、これも連句の「文韻」というのを思い出した。両吟歌仙(二人で巻く連句)で長句と短句を交互に詠むのは座でやるのが主流だが、昔の人は手紙でもやりとりをしたらしい。のんびりしたよき時代の風流なものと感心したことを思い出したが、現代では「メール韻」というものがあると聞いてこれを真似て挑戦したことがある。

村上春樹の作品はまだ読み始めたばかりだが、これまで読んだ小説の文章の中では一つだけ気になる書き方があった。
登場人物Aの(考えや気持ちが)分かる?という問いに対してBが「分かると思う」と答える科白が多い。
<思う>というのは、いらない場合も時にはあるのではないかと思うのだが「分かる」と言い切らないのが多いのである。
確かに他人の気持ち、考えは100パーセント分かると言い切れない。だから分かる<と思う>と答えるのは理屈は通っているが、じぶんには何故か気になる。かといって不快というわけではない。たぶん作者の生真面目さが出ているだけのことかも知れないのだが。


村上春樹を読む(その5)・「ねじまき鳥クロニクル」など(上) [本]


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「ねじまき鳥クロニクル」(1994,5 新潮社)は、作者45歳のときの著作。1996年読売文学賞を受賞している。英訳版「The Wind-Up Bird Chronicle」。
「羊をめぐる冒険」の続編という「ダンス・ダンス・ダンス(1988)」の6年後に書かれた長編小説である。この後の長編小説が2002年「海辺のカフカ」になる。

「ねじまき鳥」も「クロニクル(chronicle 年代記 歴史)」も思わせぶりなもので商品でいうアイキャッチ力(りょく)抜群。
後の「1Q84」と同じように、第1部 「泥棒かささぎ」編(1994・308ページ)と第2部 「予言する鳥」編 (1994・356ページ)が先に刊行され、1年後に第3部 「鳥刺し男」編 (1995・492ページ)が発表された。
副題も人の目を惹くし、1年間結末を読者に想像させるところも「1Q84」と同じスタイルで本の商品力を高めたに違いない。

ページ数が示すように長大な小説である。このように長い小説というのは、外国は知らず日本ではあまり類が無いのでは、と思う。
読後感としては、長大なだけにまず大きな「樹木」のような小説だなという感じを持ったこと。真ん中にてっぺんまで達する太い幹があって、無数の大小の枝が伸び葉を茂らせている様を思い起こした。幹は妻を失った僕が取り戻そうとあえぐ、「女のいない男」の物語である。

枝はサブストーリー、葉がデティルであり、これが樹全体を覆っている感じ。樹種のイメージは、なぜか針葉樹でなく広葉樹。春の樹でなく冬の樹。
サブストーリーがたくさんあり、作家特有のデティルがそこにも丁寧に書き込まれる。登場する人物の細かな描写、散歩した、ビールを飲んだ、音楽を聴いたetc.と延々と続く。ときに比喩、警句も混じる。長い小説になるのは当たり前だ。何と言ってもどうやら作者はプロットなしで書く部分が多いらしく、どう書こうか行きつ戻りつするところまでも書いたりしているのでは無いか、と訝る。長くなるのは必然というもの。

この小説も複線型の部分がある。「僕」が主人公だが、手紙形式で間宮中尉や笠原メイなどが交互に語り手のごとく出てくる。「1Q84」の方が、複線のかたちがすっきりしていて、こちらはまだぎこちない感じは否めぬ。むろん、そう感じるほとんどの責は読み手の自分の方にあるのだが。

読んだ順序は逆だけれど、「1Q84」の牛河が出てきて手塚治虫のランプ、ヒゲオヤジをまた思い出し、さぁ俳優の登場と思ったが、どうやら、村上春樹の場合は「俳優方式」といった単純なものでも無いらしい。

例えば「ねじまき鳥の探し方」 (久居つばき 1994 太田出版)では、俳優説はとらず208号室、16階、いるか(ドルフィン)ホテル、高松など良く出てくる場所と同じようなものとして解説している。
なお、この本は「うずまき鳥クロニクル」第3部が刊行される前に出版された(追っかけ)本 だが、井戸を緯度とし 北緯35度15分から20分の間にある地名から登場人物名を付けていると推測している。へぇ、と思いつつ読んだ。
第3部で主人公の義兄綿谷 昇は長崎で死ぬのだが、長崎は同一線上から外れているのはご愛嬌。

読みながら、ふと村上春樹の小説は、和歌 、俳句や連句のように「付き」の世界のようだなと思う。別の小説の登場人物を再登場させる、前使った場所を再登場させる、前使った場所、月、井戸、ホテルを使うことで 、言葉の持つ意味に加えて以前読んだ作品を思い出させる、読者がそれを読んでいれば、連れて想起することでイメージがさらに膨らむ。よく使う音楽も、それから色々なものを想像させ、イメージが膨らむ。
連句は前進のみで後戻りなしだから、基本的には時空を自在に行き来するハルキワールドとは別だが、匂い付けや面影付けなど連想させるところが似ている。登場人物、エピソード、場所、音楽などだけでなく、言葉もあたかも俳句の季語のように読者が脳裡にあるものを惹起させるのが上手い。短歌や俳句における本歌取りの面白さやテクニックを思えばよく分かるというもの。
この手法は読者が知識、経験、情報を豊かに持つほど効果が高まる。逆にそれらが小さいとしぼむ。
自分の場合で言えば音楽などが「しぼむ」ほうの良い例だろう。「ねじまき鳥クロニクル」の第1~3部の副題はロッシーニのオペラ「泥棒かささぎ」の序曲、シューマン 組曲 「森の情景」第7曲 「森の予言する不思議な鳥」 、モーツアルトの戯曲「魔笛」のキャラクター「鳥刺し男」からという。

かささぎ(鵲)は韓国旅行でよく見た「カチガラス」のことだなと、間抜けなことを考えただけだった。九州では佐賀県にたくさんいた。東洋では瑞鳥、西洋では「まともでない者」とか。主人公がまともでないのか?予言する鳥は本田さんのことか?、鳥刺し男とは?謎めいている。まったく推理小説仕立てだ。
オペラに限らず音楽的素養のない者(自分のことである)にとっては、作者の意図はストレートには伝わらぬ。読後にオペラの筋を知り音楽を聴いても、受け止め方には微妙な差があろう。
音楽だけでなく車の車種(例えばスバル360とポルシェとか)、ワイン、ウイスキーの銘柄、ファッションなども、読者が作者と同程度の情報レベルならより意図は伝わり楽しめる。
地名なども同じだ。「海辺のカフカ」で主人公の少年は中野区の野方に住み、そこから家出した。我が家の近くだ。高円寺や阿佐ヶ谷なども出てくる。読者がその場所を知っていれば、その地に一瞬思いを馳せる。
むろん、この連想に正解のようなものは無く、読み手によって異なる。イメージの膨らまし方も強弱それぞれなのが特徴であり、基本的にイメージすべてが曖昧なところが、小説の醍醐味であろう。村上春樹に限ったことではない。(つづく)


村上春樹を読む(その4)・「 世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」など [本]


「世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」(1985 新潮社)は、作家が36歳のときの作品で代表作のひとつである。谷崎潤一郎賞受賞を受賞している。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の章は、暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。
「世界の終り」の章は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街(「世界の終り」)に入ることとなった「僕」が、「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語である。
当初は関係ないように思える二つの物語が、「一角獣の頭骨」という共通のキーワードで繋がる。
村上春樹お馴染みの二つの物語が並行して進み、先で出合うという形式の長編小説だが、かなり難解という印象は免れない。二つの話の時間軸も一方に流れるわけでもなく、時に戻る感じもあったりして戸惑う。
現実と異界、表層と無意識の二つの世界がどう繋がるのか、或いは結びつかないのか、読者にはストーリーの構造が必ずしも明確に示されるわけではないから、物語の筋を追いつつ考えねばならないことがあるようで落ち着かない。
難解という印象はそのあたりからくるのか。ただし、それこそが、読者に考えさせる作家の意図するところでもあろう。ゆっくり何度か読み返すことが必要な小説なのかもしれない。
村上春樹自身は自作の中では重要な位置にあると言う。確かにこの世とあちらの世界との往き来は彼のメインテーマのひとつであることは疑いないようだが、それを読者としてきちんと理解は出来ていない確信があって情けない。

例によってこの小説にも音楽はたくさん登場するが、代表は何と言っても最終章に出てくるプロテストソングシンガー、ボブ・デュランの「激しい雨が降る」であろう。1941年生まれのボブ・デュランのこの曲は1963年リリースだから、小説に書かれたときは既にそれから20年以上が経過していた。2016年、75歳でノーベル文学賞を受賞した歌手22歳のときの曲。邦題「今日も冷たい雨が」。叫ぶようなリフレインが人の胸を打つ。

  And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, and it's a hard,
  And it's a hard rain's a-gonna fall.

そして最終章の文章は次の通りである。
「誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降り続けるのだ(中略)私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。ボブ・ディランは「激しい雨」を唄いつづけていた。」

小説での雨は人間の終わり「死」を表徴している。ボブ・デュランの雨は世界の終わりを歌っているとも見える。村上春樹らしい洒落た歌の引用である。


「国境の南 太陽の西」 (1992 講談社)
失われた初恋を取り戻そうとして主人公が煩悶するリアリスティックな恋愛小説というふれこみ?だが、残念ながら自分には典型的な不倫小説としか読めなかった。たぶんまっとうな読み手ではないのだろう。

アフターダーク(2004 講談社)
「海辺のカフカ」のあとに書かれた小説。「悪」が一つのテーマというが、これが悪と明確には示されていないように思う。その後もこのテーマは追求されていくので、その初期的な位置にあるとする人もいるようだ。
題名が示すように、日が暮れてから夜が明けるまでの二人の姉妹(姉のエリ妹のマリ)の行動、一晩の出来事を交互に語っている。これも複線物語。
語り手が私たちという一人称複数なのが珍しい。だが、私のほかは誰なのか分からぬ。なぜ単数ではないのか。
この小説が一人の少女の成長の物語ということは感じられるが、全体に「海辺のカフカ」より分かりにくい感じがする。少年の成長譚が多い印象の村上春樹にしては、少女というのは珍しいし、当然ながら、自分の経験を踏まえていないからか。などと言うのは想像力の豊かな巨匠に失礼というものだろうが。

東京奇譚集 (講談社 2005)
アフターダークの翌年に出されたもの。短編集は読んでそのとき面白くても、余程のことでない限り直ぐ忘れるのが難点。ハワイのカウアィ島ハナレイ湾(ベイ)で高校生の息子を(鮫に襲われて)無くした母親の話「ハナレイベイ」が印象に残っている。関係ないが、昔行ったオアフ島ハナウマ湾(ベイ)の景色を思い出しながら読み終えた。
作家は、偶然や共振現象など非日常的な奇妙な話に強い興味があり、それらは長編小説でも良く登場して雰囲気を盛り上げるとともに読者を煙にまく。しかし、独立した話にすると何やら不自然になるのは仕方がないのか、「品川猿」が好例。奇譚の難しいところ。

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雑文集 (2011 新潮社)
雑文とは、作家による自作、翻訳書の解説や、インタヴュー 、交遊録、エルサレム賞受賞挨拶「壁と卵」だったりだが、随筆、エッセイ風のものもあり、作家の周辺、考えを垣間見ることが少し出来る。村上春樹はこの種のものは少ない作家の一人であろう。
友人安西水丸、和田誠のカバー装画が楽しい。
掲載文の中では、「音楽について」に興味があったが、素養ゼロの自分には残念ながら難しかった。ただ「ノルウェイの森」についてビートルズの曲がノルウェイの「森」か「内装材、家具」かの議論に関して釈明?しているのが、印象に残った。第三の説があるという紹介も面白い。

少ないコラムの中では「温かみを醸し出す小説を」(2005 読売朝刊)が記憶に残った。
村上春樹の小説を読むときに心にとどめておくことにしよう。作家は次の通りに書いている。
生きていくにはきつい日々に、どこまでが人間でどこまでが動物か、どこまでが自分の温かみでどこまでが他の誰かの温かみか、どこまでが自分の夢でどこからがほかの誰かの夢か、境目が失われてしまうような小説を書きたい。これだけが良き小説の基準だ。

インタヴューでは、オープン・エンドが多い理由を問われて「明白な結末が必要ないと思うからであり、日常生活の局面でも(明白な結末は)そうはないのでは、と答えている。
そう言われれば何やら納得感がある。

ほかに「世界の終わりとハードボイルド・アンダーランド」について「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」では書きながら使っている脳の部分が違っている感覚だったとか、二つの物語がどこで繋がるか決めずに書き進めたとか、いくつか興味のあることが披瀝されていて面白い。

さて、作家はインタヴューで読んでほしい自分の長編小説として「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「うずまき鳥クロニクル」をあげている。大きな転換点となった長大な小説と言っているので、次は「うずまき鳥クロニクル」も読んでみよう。かつて、一度読んだような気もするのだが、全く思い出せない。

村上春樹を読む(その3) 「 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 」など [本]


「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013文藝春秋)。
この長い題の小説は、先にブログで書いた「1Q84」BOOK3が発表された(2010年)3年後に刊行された長編である。
最近作「騎士団長殺し」は、4年後(2017)に発表されたという位置関係になる。「色彩を~」は376ページという長さだから、どちらかと言えば二つの長編のあいだに書かれた中編小説か。
内容も多崎つくるという名の一人の中年男が、仲の良かった高校の5人組(主人公の他は、赤松、青海、白根、黒埜と4人とも苗字に色が付いている)から追放された、自分の真実を求めて遠く(フィンランドまでも)巡礼の旅をするという単純なストーリーである。

英訳版は「Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage」である。
先に書いたが、自分は「色彩を持たない」という語に惹かれた。手遊びで透明水彩画のお稽古を続けているせいでもある。もっとも水彩画はWatercolor であるが。
小説家は小憎い表現で人の気をひくのが上手い。「透明なー」ではありふれているし、透明水彩画の用語でもある「trancelucent 半透明」「tranceparent(分かりきった)透明水彩」でもない。
しかし読んで見るとなんということも無い。自分を見失った少年という意味も読者に暗に知らしめているのだろうが、苗字に色が付いて無いというだけのこと。作家の諧謔というか言葉遊びに付き合わされたていである。
登場する二人の脇役も灰田、緑川と色付きでしかもそれぞれに個性的 で面白いキャラクターである。
旅をして自分を探せと勧めるつくるの恋人、木元紗羅にはなぜか色がついていないが、その理由は知らない。
ちなみに中国語訳の題名は「没有色彩的多崎作和他的巡礼之年」。色彩がメイヨー。

先に村上春樹の小説には音楽がたっぷり盛り込まれていると書いたが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、ハンガリー出身のフランツ・リストのピアノ独奏曲集である「巡礼の年」がそれ。
ロシアのピアニスト、ラザール・ベルマンの演奏が有名という。主人公田崎つくるの4人の友達のうちの一人シロ(白根 柚木)が弾くピアノ曲の「ル・マル・デュ・ペイ」はこの「巡礼の年」の一節である。ル・マル・デュ・ペイとはフランス語でホームシックという意味の言葉だそうだが、ノスタルジアとも訳すように昔のことが懐かしいとか、過去にこだわるとかいう意味もあるよう。青年の自分探しという物語の基調と共振して、物語全編に流れている。
先にこのブログで書いた新田次郎 ・藤原正彦著の「孤愁 サウダーデ」のサウダーデ(ポルトガル語)は「愛するものの不在により引き起こされる胸の疼くような思いや懐かしさ」のことというが、「ル・マル・デュ・ペイ」も同類の感情であろう。

ラザール・ベルマンの「巡礼の年」もアマゾンミュージックでダウンロードして聴いた。
作者はこの音楽から小説を構想したのだろうか、それとも小説が出来てからふさわしい音楽を探すのだろうか。多分前者であろうという気がするが、そう思わせるだけで小説は成功したと言えるのだろう。しかし、音曲を知って小説を読むのと、自分のように後から聴くものでは、小説の味わいがかなり異なるだろうという気はする。

さて、作家を理解するためには、やはり初期の作品に触れる必要があるだろうと思ってデビュー三部作といわれる作品から読むことにした。

「風の歌を聴け」( 1979 講談社)
デヴュー作 (作家30歳 )のこの小説は、なかなか手強いというのが読後感。同じ遊びでも、全く何の足しにもならない遊び、読んだ後に何も残らないような、無益な遊びに終始している不思議な小説だ。評価、賛否が分かれたのは自然であろう。丸谷才一が評価したと何かで読んだ覚えがあるが、分かるような気がする。
「1973年のピンボール」(1980 講談社)
「僕の目に前にいるピンボールマシンはもはやただの機械ではない。それは人間のように話すこともでき、しかも僕の心に向かって訴えかけてくれる恋人でもある。」といった文章が続く。文体も取り上げられた題材も、日本文学ではこれまでにないユニークなものと評価する人もいる。

「羊をめぐる冒険 」(1982講談社)
村上春樹の小説は、この「羊をめぐる冒険」を境にして大きく転換したとされる。
この小説は、幽霊となった友人の行方を追う冒険物語であるとともに、羊に隠された不思議な秘密を解き明かそうとする推理小説でもある。羊男が面妖(緬羊)でユニーク。

村上春樹の小説はこのデビュー三部作もそうだが、鼠、羊男、牛河など登場人物が映画俳優のように何度も登場するのが一つの特徴だ。
ハルキストにはこれもたまらぬ魅力になっているのだろうか。
手塚治虫の漫画に何度も登場するキャラクター、ひげおやじ、ランプ、お茶の水博士などをつい思い出してしまった。村上春樹は小説で、手塚治虫は漫画で、同じ俳優が別の物語で別の人物を演じるという映画の手法をそれぞれ試みたのであろうか。

ダンス・ダンス・ダンス(1988講談社)
羊をめぐる冒険の続編。6年後に刊行された。全体的には「1Q84」に似ている。パラノイア、幻想小説、擬似世界、あっちの世界が描かれ、霊媒的な能力を持った美少女(ユキは「1Q84」のふかえりと重なる)などが登場する。例によって数多の音楽が出てくるが、村上春樹には珍しく絵・ピカソ の「オランダ風の花瓶と髭をはやした三人の騎士 」が登場する。
しかし、こんな絵は実際にないものだという。ありもしない絵をなぜ持ち出したのか、作家の遊びか。

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続いて読んだのは短編集。
「中国行きのスロウ・ボート」( 1986 中央公論社)
村上の初期の短編小説七篇を収めている。スロウボートは貨物船のこと。
表題になっている「中国行きのスロウ・ボート」は、日本人が中国人から負わされている重荷のようなものを描いた作品だ。一人の日本人が、これまでの半生で三人の中国人と
会ったと語り始めるのだが、作者の父が中国で暮らしたというから、そのことが下敷きになっていることは明らかというのが一般的な見方のようである。
「貧乏な叔母さん」、「カンガルー通信」などそれぞれなにを言わんとしているのかはっきりは書いていないが、読者に考えさせるような書き方である。
「午後の最後の芝生」は、自分が求めているのはきちんと芝生を刈ることだけという男の話。各編が何かの暗喩のようなものになっているのが特徴か。
文学的素養のないもにはもう少しはっきり言ってくれという感じがないわけでもない。
「午後の最後の芝生」にブラームスのインテルメッツォ(間奏曲)が出てきたのでアマゾンでダウンロードして聴いたが、音楽の素養がないせいで良さが分からなかった。ブラームスはバイオリンソナタくらいがせいぜいのところのようだと知る。

「女のいない男たち」(文藝春秋 2014 短編集)
女のいない男の話ばかりの6篇が収められている。女のいないというのは、離婚されたり、死別したりして相手を失った男のことでペットロスならぬ女性ロスに陥った男の話である。
「 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 」とほぼ同時期に書かれた最新の短編集。
「色彩を~」もあえて言えば女のいない中年男の話とも言えなくも無い。村上春樹の小説に登場する男は比較的ちゃんとした男が多いが何故か女に去られるケースが多いのは不思議だが、そこから新しい女性を求めて遍歴する。なにを言おうとしているのか明らかにされない。しばしば次の女性とどうなったのかわからずに物語が終わったりする。

短編を読むと作家がどんなことに関心があるのか、少し分かるような気がするが、随筆などを書いてくれるともっと良いのだが、などとつい思ってしまう。安直と言われそうだが。
村上春樹は前書きや後書き自作解題なども嫌いと見える。

村上春樹の文章は読みやすい方であろう。読みやすいと言って話が分かりやすいというわけではない。むしろ説明が少なく結末がない話もあるなど、読者に何を言おうとするのか分からず難解とも言える。
加えて何気ない描写の中に多くの比喩が散りばめられる。しかし、この中には独特のものがあって面白い。
またそれらがアフォリズム(警句、箴言、金言)のていをなしているものがあって、ストーリーから外れるのだが、人を驚かすような、なかなかのものが時にある。読者にとっては、これも楽しみのひとつであろう。


村上春樹を読む(その2)・ 「1Q84」など(下) [本]

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「1Q84」に戻る。
「1Q84」のどこが意外に面白かったかだが、もとより「村上春樹は総合遊戯施設である」というのは通説のよう。例えば、「村上春樹の1Q84を読み解く」(村上春樹研究会 2009 データハウス)では、ずばりそう言っている。
「1Q84」のストーリーは好き合った少年と少女が幼くして別れ、成年になってお互いを探し再会するというものだが、作者のエンターテイメント性が存分に発揮され、 読者サービスは旺盛である。さながら恋愛小説、推理小説、ハードボイルド、アクションドラマ、ポルノ、幻想小説、怪奇小説、ホラー小説、メルヘン小説などの集合体のようだ。
もちろん、音楽(ジャズ、ロック、クラシック)、車、ファッション、映画、ワインなど日常の人の楽しみについて蘊蓄を傾け、教養、宗教、哲学などまでたっぷりと教えてくれて楽しめるだけでなくオウム、サリン事件、連合赤軍事件らしき深刻な社会現象などまで読者に提供し考えさせることまでしている。
だが、批評家はこの本のテーマは「世界を変える」人たちの思考と行動の物語であるという。どのような世界に変えるかと言えば、「クローズド」な世界から「オープン」な世界へ。クローズドシステムとは、その中に入ると個人が失われるシステムのことだという。
このあたりになると、クローズドな世界、オープンな世界とは具体的にどんなものか、読者には具体的には示されない。読み手がそれぞれ考えるということだろう。

この小説は構成もかなり凝っている。二人の主人公青豆と天吾が交互に登場して物語が進展して、かなり先でこれが繋がる。読者は二つの別の話がいつ一緒になるか先を想像しつつ楽しむ趣向だ。ブック3ではもう一人牛河が加わるのも、何やら意味ありげである。

2005年の「海辺のカフカ」(2005 新潮文庫 )は、「1Q84」の5年前、作家56歳の時の長編小説で、テーマ(母子相姦、父親殺し、姉犯し、近親相姦など)こそ違うが、構成、手法は酷似している。この小説は「1Q84」の後に読んだのだが「1Q84」に全体的によく似ている。
構成やストーリー展開が独特であり、深刻になりがちなテーマを普通のそれとは異なったイメージにカモフラージュしている感じだ。
「1Q84」がこの世1984年とあの世1Q84年の間の往き来であり、猫の町、二つの月が異界の象徴であるが、「海辺のカフカ」では少年が異界(死の淵から)入り口の石を経てこの世に生還する。基本的な設定もかなり似ている。

天吾の代作した小説「空気さなぎ」が、愛し合う二人を再会させるという手の込んだストーリーを楽しむだけでなく、作者はブック1(4~6月)、2(7~9月)で完結したかに見せかけ、10先(10~12月)もあるよと、それとなく予告し、1年後間を置いてブック3(10~12月)を発表したのだ。
1年間読者に次の展開を考え、想像する時間を持たせ楽しませることまでしている。ハルキストへのサービスだろうが、その後に三冊を一気に通読してしまうことになる読者にはこの楽しみを享受することはできない。
それにしても、1~3月はどうなっているのか自分には謎だが。

また、この小説はプロット(プロットはストーリーの要約、出来事の原因と結果を抜き出したもの)を事前に作らず、筆の赴くまま行き当たりバッタリで小説を書いているのではないか、とさえ思わせるような展開ぶりである。
構成の複雑さから見ても、全くのプロットなしということはありえないだろうが、文体と軽やかな語り口がそう思わせるのだろうか。
自分は、内田康雄の推理小説を思い出した。この作者は、プロットなしでその場で思いつくまま書くのだと公言している。作者も読者も思わぬ展開を楽しむ。

ところで、村上春樹の小説は、彼がジャズバーを経営していたことがあったというだけに音楽が随所に登場することで知られる。音楽はさりげない日常の中の点描であったり、物語の重要な展開に関わったり、ときに小説のテーマそのものに関わったりさえする。
「1Q84」で言えば、 チェコの作曲家ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」である。ヤナーチェクが1926年、63歳(老いらくの恋!)のときに恋人に触発されて作曲したという管弦楽のための小品という。自分のように音楽に疎いものにとっても、クラシックの中ではマイナーな方ではないかと思う。
管楽器の大掛かりなユニゾン(音)が特徴で、冒頭は威勢のよいファンファーレに始まり、金管楽器の叫ぶような音と、ティンパニのおののくような響きがこたえあう。
ヒロイン青豆 がタクシーのカーステレオで聴き、恋人探しのきっかけになった曲であり、かたや天吾が高校時代管弦楽のクラブで臨時にティンパニーを叩く曲という小粋な設定。

自分もさっそくアマゾンミュージックでダウンロードした。聴いてみると、なるほどスポーツジムのインストラクターである青豆にふさわしい曲であり、ストーリー全体にマッチするような気もする。
自分も通っているフィットネスクラブでストレッチなどをしながら、アイポッドで時折聴いたりする。
村上春樹の読者はこの類いの楽しみも、たっぷりと味合うのだろうと確認したかたちだが、あまり音楽を知らぬ者には新しく名曲を知ることになって有難いことではある。

自分が年寄りのせいであろうが、「1Q84」では、天吾が千葉県の千倉の病院に入院している父親を2年ぶりに訪ねて見舞うシーンが印象に残っている。「ノルウェイの森」でも、主人公ワタナベがガールフレンドの小林 緑の晩年の父親を見舞って面倒を看るシーンがある。この二つを比べると、「1Q84」の方がかなりリアルな感じがする。
例えば、父親は自分の死を覚悟して終活しているのだが、死後遺された者の事務負担軽減の為に戸籍まで移しているという。つい二つの長編が書かれた20年余のインターバル、過ぎた時間を意識してしまった。小説の中では二つとも重要なシーンの一つでもあるといえ、小説家の書きたかったことはこんな些末なことではないのは承知しているが。

さて「1Q84」は「クローズド」な世界から「オープン」な世界へと変える人々の思考と行動の物語という小説のテーマだというが、なかなか解りにくい。その理由の一つは、イメージするそれぞれの世界が人によって異なることにあるような気がする。例えば、極端な喩えで誤解されそうだが、あえて言うと北朝鮮をクローズドな世界と見る人もいるが、彼の国と国交のある160カ国以上の国の人から見ればオープンな世界と言えなくもない。ちなみに彼の国と国交のない国は日本、米国をはじめ30ケ国あまりしかない。
彼の国はクローズドだが、対極にある国々でも「人として損なわれることはない」とも言い切れまい。
東にも正義があり,西にもまた正義があるようなものである。確たるクローズ、オープンな世界というのもないような気もする。
そこにいると「人として損なわれてしまう世界」がクローズドな世界だ、と抽象的、観念的にならざるを得ない。
そんな難しさはあるが、「1Q84」が小説としては面白いことに変わりはない。二つの世界を具体的に示すのは小説家の仕事ではないし、エンターテイメントを愉しむ、それで良いのだろう。


村上春樹を読む(その1)・「1Q84」など(上) [本]

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この頃、がらにもなく村上春樹の著書を読んでいる。
図書館では読みたい本だけ探していると、どうしても偏るせいで借りたい本が少なくなる。興味が薄くても読めば何かしら面白い発見もあるわよ、という家人の言に従って見た。
偏見だと非難されそうだが、一般的に言えば、村上春樹の小説は若い人向けであって、高齢の老人はあまり読まないのではないかという気がする。
しかし、年齢を問わずハルキストと称する人もいるくらいで、誰もが認めるように熱烈なファンが多い。海外向けにも数多く翻訳され、毎年のようにノーベル文学賞候補と騒がれるのは周知のとおりである。
村上春樹は1949年生まれだから、68歳。少年の成長譚、自分探し、ビール、タバコ、ジャズ、セックスなどのイメージが強い作家も今や前期高齢者に仲間入りしている。

村上春樹著「1Q84」は、たまたま「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013文藝春秋)を図書館で手にして読んで見ようかと借りた時、側にBOOK1があったので一緒に借りて読んだ。
思い出したが、「ノルウェイーの森」(1987 講談社)を、通勤電車の中で読もうと文庫本を(上)だけ買った。が、読んだ覚えがなく、あるいは読んで忘れたのか、本棚に置いたままだった。
そのころ、さかんに読んだ安部公房の方が印象が強い。なぜかしら自分の中では村上春樹は奇天烈なことばかり書く安倍公房と一緒にくくられているが、実際には若い頃も読んでいなかったのである。
もちろん、村上春樹は早くから人気があったのだが、皆がなぜこうも読むのか、よく理解出来なかったのは、実のところほとんど読んでいないからであろう。

今回ついでに図書館でこの「ノルウェイーの森」(「下」)も借りて来て通読した。累計発行部数1000万部を超えた超ベストセラーだという。
老人には、似て非である堀辰雄「風立ちぬ」を思い出させたが、文章には村上春樹特有の色つやのようなものがあるような気がした。さらにアマゾンのビデオ(映画)もアイパッドで見たが、ヒロインでもない(つまり脇役の)小林 緑が印象に残ったほか、とりたてて良いなとも思わなかった。こちらが枯れてしまったのだろう。
標題の「ノルウェイの森」は、広く知られているようにビートルズのヒット曲からだが、ノルウェイのウッドは、森でなくノルウェイの木材であって部屋の内装とか家具とかの誤訳だという説もあるとか。
She showed me her room
Isn't it good, Norwegian wood
個人的には歌詞などから、森は少し無理があり、内装材説だが、森でも、内装材でもそれなりの雰囲気があって面白いのは、小説でも同じであるのが何やら可笑しい。

村上春樹は、最近も近著「騎士団長殺し」がベストセラーになったりして、話題になっているので、(ふだんあまり小説を読まないのだが)「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に手が伸びたというところか。勿論、「透明な…」でなく、「色彩を持たない…」という独特の言い回しに惹かれたこともある。

この「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の方は、あとで機会があれば読後感を、ということにして、今回は「1Q84」の方について書こうと思う。
上記の通りあまり熱心な読者、(勿論ハルキストにあらず)ではないので人に役立つ感想はとても無理というもの、いきおい自分のための備忘的なものになる。
なぜ、先に読んだ「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」でなく「1Q84」か、というと読む前に想定した以上に、総じてこの本は「面白かった」からである。

「1Q84」は、Book1,2 が2009年、Book3が翌年2010年に刊行された長編小説で3冊ともミリオンセラーになった。それぞれ、554p 、501p、602p の大部だが放り出さずに読了したのは面白かった証左であろう。

題名は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説「1984年」(Nineteen Eighty-Four 1949刊行)にちなむという。「1984年」は、トマス・モア「ユートピア」などのいわゆるディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く作品である。全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。
「1984年」という年号は、この本が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラム説などがある。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。
なお、アナグラム(anagram)とは、言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びのことである 。「回文」などと同じ言葉遊びだが、「いろは歌」のほうがこれに近いか。

ところで話が少し逸れるが、前述の村上春樹近著「騎士団長殺し」(2017.2 英訳「Killing Commendatore」)は、全2巻からなり第1部「顕れるイデア編」(512p)と第2部「遷ろうメタファー編」(544p)に分かれている。初版部数は2巻合わせて130万部。2010年の「1Q84」Book 3 から7年ぶりの長編作品になる。
これを読んで、書評らしきものを書けばタイムリーだから読む人が少しはいるだろうが、7、8年も前の「1Q84」ではもう興味は薄れていて(ふと六昌十菊という言葉を思い出した)読後感想文など読んでみようという人は、もはやいないような気がする。

「騎士団長殺し」をダメモトで図書館に4月23日、インターネット予約 してみた。
順番は5月23日現在、上744、下 820 とある。仮に杉並区の図書館に1冊しかないとして、予約取置き期間、貸出期間含めて一人2週間かかると仮定すれば、借りて読めるのは24、5年かかる。仮に5冊あるとしても5、6年かかる計算になり、老い先短い高齢者には間に合わない。「1Q84」など(下)に続く

蜜柑の接ぎ木 [自然]


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はじめての接ぎ木は二年前の春(27年4月)だった。一年目は、かぼすの台木に接ぎ木した柑橘類14本全部枯死して完敗したが、昨春二回目は28年4月20日に接ぎ木したところ、ついに二年目にしてやはり14本の穂木のうち1本から芽が出た(芽デール28.6.11)。そのことを興奮してこのブログに書いた。

2年目、芽デール!
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-06-13

その後他のもう一本の穂木から芽が出たが、夏を過ぎて秋頃までに残念ながら二本とも芽が枯れてしまった。
やはり我が素人技術では無理と思い知らされた。接ぎ木の初歩的な技術を教えてくれて、穂木を熊本から二年連続で送ってくれたM君にこれ以上迷惑はかけられない。
まして彼のところは28年4月の地震の激甚な被災を受け、かつての日常を取り戻すのに何かと落ち着かない状況下にある。

29年3月5日、メールで今年(三回目)はやめると申し出る。

事実上の敗北宣言をして1ヶ月あまり、29年4月17日、昨年発芽して枯れた穂木から新芽が出ているのを発見した。4月23日には蕾らしきものもついているのに気づく。5月3日にはそれが三つあり少し膨らんでいるのを確認した。

一昨、昨年と2回14、5本も接ぎ、殆ど失敗したと思ったが、昨年は芽が出て喜んだのもつかの間 、その芽は枯れたのに今年になって新しい芽が出たのはどういうことなのか。
それに何と花蕾までついていたのだ。
しかもこの穂木は地震のさなかに空輸されたものだ。復活、復興のシンボルのようなものではないか。これが感激せずにおられようか。

思わず昨年作った駄句に七七を付け足して腰折れを。花はまだ先である、無茶苦茶だ。
隈府より東都に飛びし蜜柑穂木 地震(なゐ)の翌年 芽吹き花咲く

接ぎ木も挿し木も自然の力を利用した伝統技術だろうが、不思議なものだ。成長した個体の一部だから移植されても、元の木の花芽をつける能力を持ちそのまま発揮する。実生なら花が咲くまで数年かかるのだが、一気に時間を速めるバイオテクノロジーである。

はじめての接ぎ木を体験して、結果がどうなっているかを見るのは楽しいものである。カボスの木に接いだデコポン、レモン、甘夏などがたわわに実るのをずっと夢見ていた二年間だった。農園で園芸を趣味に楽しんでいるM君の気持ちが、ほんの少しだが、分かったような気がする。

M君に報告したら、メールに添付した画像から推定すると、花が咲き実がなる可能性があると喜んでくれて、「①三つの花のうち一つは授粉用にして実が二つなったら一つを摘果し一つを残すか、②人工受粉もせずそのまま三つを大きくし後で二つを摘果する二方法がある」と教えてくれた。
三つとも大きくして食べるものとばかり思っていたのでびっくりした。あなたは欲張りだと家人から笑われる
人工授粉は難しそうなので後者②の方法を選択することにする。周りのかぼすの花が同時に咲いていれば、三つとも実がなる可能性はあるとM君のご託宣。幸いかぼすは、今年も今沢山の白い蕾をつけている。
取らぬみかんの皮算用である。

花芽が出た穂木が何か記録しておかなかったのが残念だが、それが分かるかも知れないという楽しみもある。
M君は、画像の花芽から推定して晩柑種だろうという。

ネットで晩柑種を調べると、文旦(ブンタン)の突然変異種に河内晩柑というのがある。
「大正時代に熊本県河内町で発見された柑橘で、ブンタン系の自然雑種。地域によって「美生柑(みしょうかん)」や「宇和ゴールド」、「ジューシーフルーツ」などと呼ばれることもある。果汁が豊富で果肉がやわらかく、さっぱりとした甘味がある。その外観から「和製グレープフルーツ」ともいわれるが、グレープフルーツのような苦みや酸味はない。サイズは250~450g程度で3月下旬~6月頃に出回る。」とあり何やら美味しそう。

このあと実がなり大きくなることを願うが、この二年の経験からみても、自然は何が起きるかわからない。まだまだ、接ぎ木の楽しみと心配の泣き笑いが続きそうである。


新田次郎・藤原正彦著「孤愁 サウダーデ」 を読む [本]


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「孤愁 サウダーデ」(文藝春秋 2010)は 新田次郎 (1912-1980 67歳没)の死去により未完となった小説を、30年後に息子の藤原正彦(1943~ お茶の水女子大名誉教授 数学者)が書き継いで完成させた。
ほかにも小説の合作というのがあるものやら、不学にして知らない。かりにあったにしても、親子というのは珍しいのではないか。
森鴎外と於菟、露伴と文(あや)など親が小説家で子が随筆家というのは多いが、親子とも小説家というのはいられるのだろうか。
親子作家といえばアレクサンドル・デュマなどがすぐに頭に浮かぶ。「モンテクリスト伯」のペール(大デュマ)と「椿姫」を書いたフィス(小デュマ)であるが、小デュマは脚本家だったという。
親子で画家、音楽家であったりするのは、環境やDNAを考えれば自然であってそう珍しくはないけれど、コラボしたとか共同で作品をものしたというのは、あまりないとみえて聞いたことがない。

藤原親子の例は珍しかったし、引き継いだ子が作家でなく数学者だったから、自分は知らなかったが、刊行されたときは話題になったようだ。
正彦の母、つまり新田次郎の妻藤原てい(1918ー2016 98歳没)には、(自分は読んでいないが)「流れる星は生きている 」の著書がある。
新田次郎は気象庁の気象学者だったが、妻の小説が売れるのを見たことが小説を書く動機の一つだったらしいから、まあ変わった家族ではある。

藤原正彦は「国家の品格」、「管見妄語」など随筆家としても知られる。「管見妄語」は週刊新潮連載のコラムを単行本化したもので何冊か読んだことがある。自分は、たしか近刊の「出来すぎた話」を読んで知り、この本(「孤愁」)を読む気になった。

さて、その「孤愁」は、ポルトガルの軍人、外交官で文筆家だったヴェンセスラオ・デ・モラエス(1854-1829 75歳沒)の評伝である。
モラエスは、明治後期に来日し神戸でポルトガル領事をつとめた。、日本の自然、文化、女性を愛し、その日記や日本を題材にした著作で、日本の素晴しさ、日本人の美徳を世界に知らしめた。
リタイア後、神戸から徳島に移住し、亡くなった日本人妻の墓守のように暮らしその地で没した。
文学者でもありあまり知られていないが、「もう一人の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」といわれている。
題名の「孤愁 サウダーデ」とは、「愛するものの不在により引き起こされる胸の疼くような思いや懐かしさ」のことという。
ポルトガル人が特に強く持つ心情とされるが、ロシア人など他の民族も持ついわば万国共通の一般的なヒトの感情であろう。似たものにはメランコリー 、無常感 、憂愁 、悲愁 、哀愁 、憂鬱 などがあるが、郷愁とともに語られるところが特徴的と言えるか。

「孤愁」は、文藝春秋の単行本では、630ページ。422ページまでが新田次郎の書いた部分だから、藤原正彦は後半三分の一を書いたことになる。

読む前から当然文体の違いからくる不自然はないか、書こうとしたことが変わってしまってはいないかなど気になったが、小説技法など知らぬ自分にはあれこれ言う資格はない。
長い時間をかけて父と同じ取材をして資料を集めて書いた、と言うだけに読んでいてそれなりに面白い。
藤原執筆部分は、今の日本人が忘れている日本の良さ、日本人の美徳に触れた箇所が随所に出てくる。「国家の品格」の著者である、藤原の個性が色濃くなっているのは何やら微笑ましい。

父新田次郎が心筋梗塞で倒れたとき、藤原正彦は36歳の数学者で、新婚ホヤホヤだった。父の無念を思い、引き継いで書くと宣言したものの直ぐには書けなかったという。その後30年間、資料を集め続け、ようやく、新田次郎がこの「孤愁」を書き始めた年と同じ67歳で、物語の続きを書き始めることができたと述懐している。
とくに後半は主人公の晩年を書くことになるので、36歳では難しかったろう。若者が「死にゆく者の孤独」を描くだけでも、それなりに想像力が求められる。まして67歳の父が何を書こうとしたか、テーマに迫りながら文体も近いものにするのは至難だったに違いない。

あとがきで藤原は次のように書いている。
「確かに難しい仕事だった。当初の父の書いたであろうようにというのは早々に諦めざるを得なかった。どうしても別個の人格が出てきてしまうのである。父が全力で書き、そのバトンを受けた私が全力で書く、という作品となった。

さらに藤原は「父の無念をやっと晴らした 」という想い、「父の珠玉の作品を凡庸な筆で汚したかもしれない」という危惧を持ちつつも、「一つだけ確かなことは、父との約束を三十二年間かけて果たした安堵感である。」とあとがきを結んでいる。

家族から離れ異郷に単身骨を埋めた主人公の「孤愁」と藤原一家の家族の結びつきの強さが、読み終えて対照的につよく心に残った。
この読後感は、藤原の父への強い思慕、母ていの三人の子を引き連れての引き揚げ潭、「管見妄語」に記された正彦家の家庭の話などに影響された自分だけのもので、きっと正しい読み方、良い読み手ではないような気がする。

なお、自分は新田次郎の小説を読んでいない。似たタイプの吉村昭、城山三郎などは何冊か読んでいるのだが。作品一覧をみてもあまり読みたい本がなさそうだ。「孤高の人(1969)」、「剣岳 ;点の記(1977)」といったところか。


千駄ヶ谷で富士登山 [風流]

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家人が渋谷区千駄ヶ谷の八幡神社に富士塚があると新聞記事で見つけて、一度登ってみたいと言うのでついて行った。桜はまだ蕾小さく春とはいえ、晴天なのに少し寒い弥生某日である。
八幡神社は千駄ヶ谷一帯の総鎮守で「鳩森八幡神社」(はとのもりはちまんじんじゃ)とも呼ばれる。860年(貞観2年)、遣唐使慈覚大師(円仁)によるというから、 かなり古い社である。

阿佐ヶ谷駅から総武線(各駅停車)に乗り15分ほどの千駄ヶ谷駅下車、鳩森神社は約600メートル歩いて8分ほど。富士山まで家から40~50分ほどしかかからない。山は6メートル。あっという間の富士登山である。

江戸時代中期に富士信仰が盛んになると江戸を中心に多くの富士講が生まれ、「江戸八百八町講中八万人」といわれたという。
江戸中期から後期にかけての人口は50~100万と推計する人もいるが、八万人とは大げさといえ、かなりの愛好者がいたことは確かのようだ。
そのため講に集まる人によって富士塚も多数つくられ、現在東京都内には約50か所もあるとは知らなかった。
富士山の世界遺産登録は、風景美だけでなく日本人の富士信仰など文化的な価値が認められたからであることは周知の通りだが、講や富士塚などはその具体的な例のひとつであろう。

江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」と呼ばれた。また、各地に点在する富士塚は庶民から「お富士さん」などと呼ばれ親しまれていたという。
当時の場所に現存する富士塚としては、千駄ヶ谷富士が都内最古のもので、東京都の有形民俗文化財にも指定されている。
江戸八富士にはほかに品川富士(品川神社境内)、茅原浅間神社境内の江古田富士などがあるとか。
最も高いものでも15メートル(品川富士塚)というからまさにミニュチュア富士。

実際に登ってみると、富士山から運んできたという熔岩が積み上げられ、日本庭園の築山の趣き、6メートルだとさほど高いという感じではない。
浅間大社もある。浅間大社に祀られているのは、木花咲邪姫(コノハナサクヤヒメ)という、美しい女神。
江戸時代の人も、今でいうヴァーチャル リアリティの世界で富士登山の疑似体験を楽しんだのだろうが、講にも参加出来ず富士山に登れなかった庶民が少し可哀想な気がしないでもない。

ところで、自分は社会人になり最初の転勤が静岡市だった。近くに富士を見ながら、4年ほど暮らしたが一度も富士登山をしなかった。なぜか是非登りたいとも思わなかったような気がする。新潟市で暮らした3年間に、佐渡へ行かなかったのも同じことだが、余り感心した性格ではない。

さて、千駄ヶ谷富士登山が終わったあと、お昼でも食べようとと探したが、神社周辺ではまだ11時前で開店しているレストランなどがない。
東京体育館近くまでもどり、モーニングカフェとやらでアスリートらしき人達と一緒にフレンチトーストを食べて帰った。
家を9時ごろ出て、なんと12時前には帰宅した。スピード富士登山、しみじみしている間などはなかった。家人はすぐにヘヤーカットに行ってくると出かけた。


やまどりの長き尾一閃いま雲に [詩歌]

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この一月、畏友を一人失った。友というより会社の一年上の優秀な先輩で、自分がどうしても追いつけなかった方である。まさしく自分とは「月と何か」くらいの差があり、同僚、部下(会社の先輩さえも!)に慕われ、誰もが一目置いた存在だった。
新入社員の頃からの家族ぐるみで世話になって以来のお付き合いなので、奥様にお悔やみの手紙を出したら、これ以上ないと思われる見事な返礼状を頂いた。このご夫婦にはとうていかなわんとまた思い知らされた。
昨年の賀状に夫婦で喜寿を迎えると添え書きがあって、その前の年にはまた会いたいものですねと、書いて頂いたことを思い出したが、そうしなかったことを悔やんでいる。
彼は役員で退任したとき、自分が設立の企画に携わって新発足した信託銀行の社長に就任された。周囲が期待したとおりの実績をあげたが、それは彼の人生のほんの一部に過ぎなかっただろう。しかし我ら二人が意図しなかったことといえ、この関わりは自分には何か因縁めいたものを感じたものである。

追悼の折句を作った。

やまどりの長き尾一閃いま雲に

自分の句は柿本人麻呂の有名なやまどりの歌を踏まえている、などというほど立派なものではないが、誰でもこの歌を想起するだろう。

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む

この歌は拾遺集に収められたものだが、離れて暮らすという山鳥のつがいが啼いて呼び合うという習性をふまえて作られた歌である、ということはよく知られている。

絵は水彩(F4Waterford)で描いた山鳥。このあと空にもう一羽を付け加えたが、こちらの方が良いのは想像の余地があるからか。




一年ニ句選 [詩歌]


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俳句は身のまわりにたくさんあったのに、なぜか自分で作ろうなどと思ったことがなかった。例えば自分が働いていた会社では入社した頃、毎月発行する貯蓄債券の商品の広告に俳句を使っていた。
まあ何とも古いセンスときめつけ老人にしか受けないだろうなと思っていたが、俳句は人気があるとみえて花を広告のテーマにするようになってやめるまで、随分長く続いたようだ。

わがサラリーマン生活が不本意にも突然終わる時がきて、あわただしい生活が終わろうとしていたときに、なぜかふっと頭に浮かんだのが俳句だった。俳句はため息文学とも言うとか、その通りふうっと息を吐いたときに生まれた。
残っている記録では平成14年(2002)の歳末の二句がはじめての俳句である。
いわば処女句である。

蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日
すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る

最初の句は、蠟梅と大晦日とが冬の季重なり、しかも多弁は造語。蠟梅は普通香りを愛でるが、五弁の梅と違い花弁の多いのが良いねと話しているというだけのもの。
二句目は、すさまじい(秋の季語)は、冷じいで、「荒ぶる」が語源という。季語としては「秋冷がつのる」という意とか。
すさまじいとしか言いようのない今年も過ぎて行くんだなあ、という感慨にふけりながら風呂に入る、と詠むときに使っても季語になるのやら心もとない。
なお、風呂は季語ではないとかで、困惑するばかり。「年も過ぎ行き」で年の暮れになるのだろうか。
いずれにしても、はじめての句は今思うとなやましいことでいっぱいだが、こういった悩みは、いつまでも消えないものである。
それにしても自分にとって平成14年(2002)は、年頭1月から年末まで確かに凄まじいとしか言いようのない年であったことを、この句を読むと思い出す。
しかし、そんな年の暮れに俳句を詠むことが出来たのは、何より幸せだったと思わねばならぬ。

あれから15年も経ち、これまで多くの自己流の駄句を作ったが、これを俳句と言って良いものかといつも考える。いずれにしてもいくら作っても良い句は出来ない。もっとも、自己流だからどんな句が良句なのかも分からないのだが。
いつも「冷や汗駄句駄句」とつぶやきながら作っているのである。

一年ニ句を選んで見た。たくさん作った年と少ない年がある。二句という数に意味は無い。一句を選びきれなかったのも実力がない証拠か。
こうして時系列で並べてみても、年を経たからといって出来は良くなっていないのは明らかだ。が、俳句というものは作者にとって日記の代わりにはなることだけは確認出来た。
何やら最近勢いが弱くなって来たのは気になる。句数も減って来ている。

2002 (平成14) 蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日
すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る
2003 (平成15) 意馬心猿鬱金桜に風と消え  
故宮にて翡翠白菜息を呑み
2004 (平成16) 御徒町女義太夫夏袴
被爆せしおうな傘寿や半夏生
2005 (平成17) 嘉魚棲みて明神池の佳き日哉   
飯桐の実のおびただし過ぎし日よ
2006 (平成18) セーターをせめて二枚に老痩躯
田の中の耳塚暮れて秋深し
2007 (平成19) 寒酒や父の形見の河豚徳利
栃わかば明日は晴れよ破れ傘
2008 (平成20) やまももや遅疑逡巡もせず熟れて  
春潮やさかしまマンション船溜まり
2009 (平成21) 採り時を教へぬキウイの硬さかな   
冬ざるるアイスプラント塩きらら
2010 (平成22) ふゆばらや麻酔科女医の声やさし
口縄に似た瓜まっつぐぶらさがり
2011 (平成23) リフォームや壁に仔猫の出入り口 
引越しの猫に木天蓼(またたび)キャリ-籠
2012 (平成24) 水彩を学び八年破蓮(やれはちす) 
武蔵野の武蔵野うどん武蔵振り
2013 (平成25) 初孫は男の子なり若緑       
春さむき春のあかつき有明山
2014 (平成26) ゆくりなく翡翠にあう花見かな
寒明けや気くばりボスのお別れ会 
2015 (平成27) 右手(めて)上げてピンクの信号毛布猫
自画像の髪眉白く冬帽子
2016 (平成28) 眼裏(まなうら)に白鷺を見てくらしをり
隈府から東都に飛びし蜜柑穂木

気配りボスの偲ぶ会    [随想]


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世の中には凡夫の自分などには、到底及びもつかぬ傑出した人、器の大きな人がいるものである。
例えば自分が組織に属してサラリーマンとして仕えた上司、直接の部下だったことはないので正確に言えば上司の上司だった方はまさしくそんな人である。

残念ながら平成25年(2013)暮れに亡くなられ、翌年明けに偲ぶ会が開かれた。もうあれから三年になる。

自分が謦咳に接したのは氏が組織のトップとして在任した平成3年(1991)から平成12年(2000)の間10年弱になる。  
近くで見たその言動は、若い人を育てることを第一に考えていたように思う。
大物は清濁併せてというが、濁は決して飲まず、片や清酒を愛した。勲章などを毛嫌いし、権力を持ちながら分け隔てせず人と接しておられた。  
宴会では、客人をよそに仲居さんと何やら熱心に議論したりしていた。愛犬のために膳の残り肉を紙に包んでポケットに入れて、見つかると照れ笑いをされながら言い訳をした。  気くばりのひとという揶揄めいたあだ名は、接する人のことを真に思う立ち居振る舞いから付いたもので、本人は意にも介していなかったのではと思う。 死すれば人は急に大人物になったりするが、この人は生前からまさしくそうであった。  
お別れ会の前夜、東京に降った雪がたいしたことがなく、朝晴れたのは、帝国ホテルに集まる大勢の老人への天上からの気くばりに違いない。
氏は昭和2年(1927)大阪生まれ。86歳没。

  寒明けや気くばりボスのお別れ会    杜 詩郎

大江戸線 ゆめもぐら [随想]

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西武新宿線の鷺ノ宮駅から中井で乗り換えて新宿へ行くのに利用している都営大江戸線は、昭和47年から建設が検討され、20年かかって平成3年度に開通したという。
東京の地下鉄の中では比較的新しい方だが、すでに4半世紀近くが経っていることになる。
この地下鉄の始発駅は都庁前、終点光が丘駅、6の字型の珍しい「環状」線である。  
何といっても、特徴は大深度地下鉄であること。六本木駅は東京の地下鉄駅で最も深い42.3m、わが西武線乗換駅の「中井」が第6位で35.5mある。トップテンにあと3駅(新宿、東中野、中野坂上駅)もランクインしている。
 エスカレーターは、途中踊り場がある2段がほとんどでしかも長い。「下り」がないところも多く、膝の悪いひと、老人泣かせである。
 車体のラインカラーは「マゼンタ」。紫を帯びた紅色でおしゃれだ。
 路線名の由来は東京の古称である江戸の雅名「大江戸」からだが、路線名称選好委員会で公募した時、多かった候補の「東京環状線」・愛称「ゆめもぐら(!)」に某都知事が難色を示したという。理由は、土竜が畑を荒らす小害獣だからではなく、「環状線」の方だったらしい。ん?、感情問題か。
 結局、2位の「大江戸線」に決定した。このあたりの経緯を今知っている人は、いまや少ない。
 毎週、都庁前駅で聞くBGMは、小鳥の声。いつまでたっても耳に馴染まない。蓼科や栂池で聞いた美しい声を、思い出すよすがになるだけの効果はあるが。

いくつかの駄句。
新宿の地下鉄駅の百千鳥

老鶯や地下鉄駅の谷渡り

おぼろ夜や地下に消えたるゆめもぐら
(もぐらは季語ではない。「土竜追い、土竜打ち」は新年とか)

ゆりかもめ東京ベイに舞い翔びて (ゆりかもめ 都鳥のこと 冬)

平成二十九年 丁酉歳旦三つ物 [詩歌]


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むかしといっても、江戸時代であろうか、連句が盛んだった頃、正月や慶事があった時に第三までの三句を三つ物といって詠んだと知った。そこで自分も我流で2005年頃から作って愉しんでいる。
今年も歳旦三つ物をつくった。俳句、連句、短歌にしろ定型詩というのは、つくりやすいという側面があるが出来たからといって、良いものになるという保証はない。自分の場合大抵は良くない。加えて歌仙の独吟は文字どおりの独りよがり。以下のごとく解説をつけても余人には理解しがたいだろう。

平成二十九年 丁酉歳旦三つ物
発句 沼袋井草繁や鷺ノ宮
脇 まなうらに見るしらさぎの舞
第三 今朝のジムヨガ瞑想で始まりて

東京は中野の白鷺なる地名のここに、同じく都下の東大和市芋窪なる地から引越してきて早くも36年余の月日が流れた。
白鷺と芋窪では地名の雅さにおいて落差がある。芋窪という地名は自分が新興住宅地の分譲地を購入した時にはすでに上北台という地名に変わっていたが、聞くところでは由緒ある地名なのに変えたという。地価を上げようとする魂胆が透けて見える。
白鷺もその類いであろうと調べたら、鷺宮という地名があって人口が膨らみ、鷺宮から分離したとき、当時すでにあった白鷺八幡神社の別当寺南蔵院の山号が白鷺山だったことから、白鷺という地名にしたらしい。
まぁ許せる範囲か。自由が丘、ひばりが丘などよりましというもの。統合、合併などでつけられる新地名が生まれる一方、由緒ある地名が消滅するのはいただけない。西東京市が出来て田無や保谷が消えた如くに。

参考記事 「白鷺35年」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23

西武新宿線沼袋駅と上下井草駅の間に鷺ノ宮駅がある。わが最寄り駅になるが、中央線だと阿佐ケ谷駅になる。周囲の地名から容易に想像できるように、ここがかつて低湿地だったことを示す。近くを妙正寺池を水源とする妙正寺川が流れ、やがて神田川になる。

上記のブログで白鷺なる地に住んで長いが、白鷺を見たことはないという意味だけの駄句を詠んだ。
眼裏(まなうら)に白鷺を見て暮らしをり

今年の歳旦三つものは、これを発句の初案にしたが、脇以下のあとが続かず低湿地だから藺草も繁っていたであろうと、駅名を並べ雰囲気だけを詠んで発句とした。

発句 沼袋井草繁や鷺ノ宮
「藺草刈る」が夏の季語という。別案「沼袋藺草刈り干す鷺ノ宮」もお宮の座敷用の畳藺草をイメージできて捨て難かったが、シンプルに「繁や」とした。

脇 まなうらに見るしらさぎの舞
初案の駄句(五・七・五)を短句(七・七)になおしたが、鷺ノ宮と白鷺がつき過ぎ。同字を避けてしらさぎを平仮名にしても修正ができぬ。他に代案が浮かばず、不満ながらやむなく採用。

第三 朝のジムヨガ瞑想に始まりて
10年近く通った鷺宮フィットネスクラブが老朽化を理由に閉鎖してしまい、隣の下井草駅前のジムに移って7ヶ月になる。
週2ないし3回行くジムでは、スローヨガ45-60分のプログラムに参加するのがメイン。あとはたまに筋トレ、プール。
第三は大きく転換するのが理想(特に発句と重なるのは禁忌…後戻りしてしまう)ながら、これでは白鷺の地からいくらも出ていない。
最近すっかり出不精になり、引き籠もっている我が身を歌っているようだ。

ところで、昨年も「二十八年丙申歳旦三つ物」をつくった。

発句 金婚や持ち重りする薔薇の花
脇 冷房きかせ聴くクインティット
第三 水彩画かくも長きに愉しみて

「持ち重りする薔薇の花」は丸谷才一の小説の題名から。我ら「金婚」によく付くのではとそのまま拝借した。小説のテーマは四重奏団(カルテット)のメンバーの確執、葛藤を描いたもの。当方は金婚なので五重奏(クインティット)にしたところがミソ(冷房をクーラーと読み、か行の句でもあると自画自賛)。
これも解説をつけても他人には理解困難だが、(心臓で)年賀状に添えた。お稽古中の静物画、薔薇の花の水彩画をつけて。

参考記事「二十八年歳旦三つ物」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-01-10

さて、今年の年賀状に三つ物を添えるとしたら、絵は何が良いか考えた。そうだ、あれだと思い出したのが、J・オーデュボンの白鷺の水彩画。模写のお稽古にもなる。
オーデュボンはたくさんの鷺類を描いている。
中でも有名なのが、「Great Egret 大白鷺」(1821 Watercolor,graphite,ink ,and chalk on paper)で、これを添えたいものだ。この辺は良し悪しは別として、連句的発想である。

オーデュボンの「大白鷺」の原画は紙に水彩、グラファイト、インク、チョークとされるが、ある雑誌の記事では水彩、石墨、グワッシュ、パステル、白色顔料、黒インク、黒チョーク、紙とある(芸術新潮 2013年6月号) 。いずれにしろ驚異のマルチな画材を駆使した絵だ。オーデュボンの代表作の一つ。

ジョン・ジェームズ・オーデュボン( John James Audubon, 1785- 1851 66歳没)は米国の画家・鳥類研究家。北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描い
た博物画集の傑作「アメリカの鳥類」(Birds of America, 1838年)によって知られる。

参考記事「オーデュボンの水彩画」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-06-01

当方の模写は、水彩と鉛筆、ボールペン(白)。細い白い羽は烏口でマスキングし、白のぼかしにパンパステルを使ったりしたが、およそ二百年前のオーデュボンの足もとにも及ばぬ出来になった。紙はウオーターフォード(F4)。

何はともあれこの歳になると、今年も昨年に続き、下手な絵と歳旦三つ物ができて年賀状が出せたことは、誠に幸いであるとしみじみ思う。

受け取ったひとが「ん?」という顔をしているだろうことはまちがいないが。


リ・ポーの不透明水彩画 [絵]

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今年のわが水彩のおけいこ史に残るヒットは、不透明水彩(Gouache )の1日講座に参加したことである。いろいろ考えさせられることがたくさんあった。透明水彩(Watercolor)の理解にも大いに役立ったように思う。

その時、ネット画集でガッシュ作家にはどんな人がいるのだろうと探したらヴェトナムのリ・ポーが出てきた。知る人ぞ知るのであろうが、不学の自分ははじめて知った。
ガッシュを使う画家は多い。とくに油彩画家はパステルと同じく素描の画材として使うようだ。しかし本制作にこれを使う画家は、(日本に中西利雄などがいるが)リ・ポーの他にあまり知らない。

リ・ポー(Le Pho )は1907年生まれ(2001年に94歳で没した)ヴェトナムの画家である。
生年の1907年は明治40年、日本水彩画の先駆者浅井忠が51歳で没した年である。1904年に開戦した日露戦争が2年前に終結している。
マンダリン二世の家に生まれたというから、中国系なのであろう。
18歳でハノイのエコール・デ・ボザールで5年間学び、その後2年間パリのエコール・デ・ボザールで学んだという。
フランスのヴェトナム侵略は1847年にはじまり、植民地としては1887年から第二次世界大戦終戦まで仏領印度支那連邦として続いたからフランス文化の影響は大きい。

リ・ポーは自らの教育を修了した後ベトナムに戻り、エコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts)で4年間教えた。その後、1937年に国際博覧会の代表としてパリ​​に戻る。ま彼はまた、この展覧会の審査員の一員として勤務したという。
彼は30代と40代の間、ヨーロッパとアジアで幅広く旅する。この時彼は、水彩を細長いブラシでシルク(絹)に描いている。
彼の絵の主題は鳥、竹、蓮の花などの静物画、家族の肖像画、ヴェトナムの風景画などであり、これらは伝統的にアジアのもの(Asian)だった。
彼の作品はピエール・ボナール(Pierre Bonnard 1867年 - 1947年 80歳 歿))とオディロン・ルドン(Odilon Redon1840年-1917年 76歳没)の影響を強く受けているとされる。
ルドンは水彩画の巨匠ギュスターブ・モロー(1826-98)の影響を受けているが、リ・ポーがそのルドンから影響を受けたというのは大変興味がある。また、ボナールはジャポニズムや墨絵など中国絵画などの影響を受けたとされるから、その観点でリ・ポーを見ると面白い。

ルナール博物誌の挿絵 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-03-12
オディロン・ルドンの水彩画 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-09-26
オディロン・ルドンの水彩画その2 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-10-09

しかし、リ・ポーは繰り返してベトナムの女性を描いているが、ほとんどの場合、シュルレアリスムの影響を想起させる細長い図形として描かれ独自の画風を持っている。
リ・ポーの絵は、アマチュアの目で見ると大きく二つに分かれる。ひとつは「茶を注ぐレディ」に代表される黒っぽい色調が多い人物画(シュールだ)と鮮やかな明るい花を主体にした絵である。
前者は線が目立ち、後者はそれが少なくて色彩が豊か。こちらは花だけのものもあるが人物がともに描かれているのも多い。

Elegant Lady Pouring Tea「茶を注ぐレディ」は、リ・ポーの代表作のひとつと思われるが、ネットでは例えば次のサイトで見られる。

https://www.wikiart.org/en/le-pho/elegant-lady-pouring-tea
ここには次のような表記があった。
Style: Post-Impressionism
Genre: genre painting
Media: gouache, ink, board, silk
Dimensions: 45 x 61 cm

花の絵の一例。人物画とは、かなり趣が異なる。不透明水彩らしく穏やかな華やかさだ。激しい色彩のルドンの花より静か。

https://reneelammers.com/blog/40707/february-26-2012-painter-le-phos-floral-paintings-and-creed


彼がなぜ主たる画材としてガッシュを選んだのか、おおいに関心があるがネットでもリ・ポーに関する記述自体少なく未だ知ることが出来ていない。
リ・ポーの絵は著作権が消滅していないので掲載せず、下手な感想など述べられないのが残念であるが、WikiArtやPinterest で検索すれば素晴らしい作品を容易に鑑賞できる。
肖像写真はウィキペディアから拝借した。


線画水彩からの転向 [絵]

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このブログで「何だか変だぞわが水彩」を書いたのは2012年12月。水彩を習い始めてから8年余も過ぎてしまっていた。それから4年余が過ぎたので、ここで少し反省しておこうと思う。
「何だか変だぞわが水彩」 http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12

「何だか変だぞ」ではこう書いた。
「自分の絵は、線画淡彩だから当然海外を含めて、最近の水彩画とは大きく異なる。二つは、別物と言って良いくらいだ。
しかし、今から自分の絵を変えることは、きっと不可能であろう。
マラソンランナーが短距離選手に、なろうとするようなものだろう。あるいはサッカー選手が野球選手になるようなものか。自分の絵を100%否定しないと出来ないような気がする。さすれば、70歳を過ぎた頑迷固陋の生徒には、無理というものである。
とはいうものの、習い始めた時から鉛筆の線の処理が気になっていたので、海外の水彩や最近の水彩画の流れはよく理解できる。確かに漫画やイラストではないのだから、「輪郭線」にこだわることはないのだとも思うからである。
だから、一度は挑戦してみたい気はする。やってみると8年余になるカルチャーで培ったものがすべて消滅し、自分らしさが無くなる、つまり自分の絵を見失うことになるかもしれないという懸念もある。いっぽうでだめでもともとだ、とも思う。
これで今ゆらゆら揺れている。
なお、掲載の絵は、この夏、鉛筆を使わずに描いてみたものである。新宿御苑の葉桜。」

わが教室は週一回 、講座名は「淡彩スケッチ」である。
これを描いたあと、教室でも線画水彩からの脱却を意識するようになり、ネットで調べて色々な技法を試すようになる。教室は10年経ったところでやめた。
白の塗り残し、滲み、ボカシ、スパッタリングは、教室で先生も教えるが、ネガティヴペインティング、マスキング、ソルトペインティング、流し込み、リフティングなどはもちろんファーストウオッシュの上から描き進める技術なども教えない。
先生は本業は油彩画家であり、水彩はペンの線画である。基本的には着彩デッサンであくまで本制作のための下絵、エスキースであろう。
デッサンをしっかり鉛筆で描いた上に着彩するという基本は崩さない。影はもっぱら立体感を出すため、対象を前に出すためにつけると教える。
なかでも際立つのはマスキング技法である。先生は一切使わず生徒(私のこと)が使っていても何もおっしゃらない。たぶん反対なのであろうと推測した。

先月11月ネットで次のような記事を見つけた。書いたのは水彩画のプロで教室の主宰者である。
「例えば、鉛筆できっちり描いて淡彩で仕上げるような絵のスタイルから入った人が10年でそのスタイルを会得したとします。 さて、ステップ2として本格的なニジミ・ボカシを多用した絵を目指そう… と。
それはとてもたいへんなことだと思います。バスケのスーパースター、マイケル・ジョーダンがベースボールのメジャーリーグに転向するようなものです。」

私の場合は、線で描き淡彩で仕上げる絵のスタイルを「会得」したわけでは無く、フルレンジの本格的水彩画を目指しているわけでもないので、転向とはおおげさ、ちょっと当てはまらない。まぁ、色つきデッサンからの脱却程度だが、その困難さを自分でも予知していたことが分かる。
たしかにバスケのプロが野球のMLで活躍するのはほぼ不可能であろう。
ソフトから陸上選手になったオリンピアンがいたが、あれも大変な例外だろうと思う。

さて、何だか変だぞと気がついて修正を試みているこの4年間のことである。
まずは、最初に単発の水彩画講座でマスキング技法を習った。まだ週一の教室に通っているうちのことで「10年目の浮気」である。それまで他の先生の水彩を見たこともなかった。
参考記事「10年目の浮気」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-12-02
マスキングは嫌う人もいるが、白の塗り残しの省力化に価値がある。根気のうすれた年寄りに有難い技法である。また、光やハイライトを見つけるのにおおいに役立つ。

ネガティヴペインティングについては、自分はこれまではほとんどポジティブペインティングだったとわかる。表現法の幅が広くなったような気もする。
リフティングは透明水彩でも1回くらいならやり直しが効くこと、流し込みやソルトペインティングでは、水の大事さとそれがもたらしてくれる偶発的な変化の面白さを学んだように思う。
何度かプロのデモンストレーションも見たので、手順や仕上げの大事さも再確認した。これはやる人は大変だろうが、学ぶものには有難い。百聞は一見に如かずである。
皆んな、固定観念にとらわれず自由に何でも試しているのにあらためて驚く。

また、この間パステルや不透明水彩なども試みたのは、より透明水彩の特質を知る上でたぶん役に立ったように思う。

むろんまだまだ線画水彩からの脱却に成功してはいないが、何より、まだ楽しみつつの「修正」を投げ出さずに続けていられるのは、幸いと言うしかない。

池田山公園の記憶 [健康]

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この夏も暑さに負けどこへも出かけず引きこもっていた。
その夏も疾く過ぎて紅葉の季節到来である。

家内が新聞の記事を見て「五反田の近くに池田山公園というのがあって何か良さそう」と言うのを聞き流していたが、友達を誘ったところ帯状疱疹でダメだったと嘆いている。

行ったことがあるかと聞くので、全く無いと答えたがこういう時はあなたと行っても面白くは無いが一緒に行くかと言う意味だ。
それじゃと付き合うことにした。

行き順を事前に調べたという家内のいうままについて行くと、五反田駅前に降りてから何となく嫌な感じがする。美智子妃殿下の「ねむの木の庭公園」と言う案内図を見てやっと気がついた。
…ここは以前スケッチで来たことがある!
すっかり池田山という地名が記憶からかき消えていた。
人は覚えていない地名は行ったことがあっても、そんな場所は無いのだ。
帰ってからファイルしていた絵の画像を見ると2011.4とある。東日本大震災の1カ月後であり、まだ5年半しか経過していない。
そのとき自分の描いた絵は良く覚えていた。画像ファイルを見て公園の佇まいは思い出したが、さて一緒に行った画友の顔は覚えていない。スケッチは10時半からだったはずだが、お昼はどこで食べたのだろうか。これらもなぜか記憶から完全に消えている。
当時の状況をあまり覚えていないのだが、肋間神経痛がひどく体調が悪かったことは確かで、スケッチや教室でも人より早く切り上げ早帰りをしていた。

池田山公園は岡山池田藩の屋敷跡 で池泉回遊式庭園(のぞき式)として名高いとか。一帯は五反田、目黒駅から近い高級住宅地である。行くと良く分かるが、高低差があってすり鉢の底に池がある感じの珍しい日本庭園である。

帰りは目黒駅まで歩き庭園美術館の庭を見たあと、恵比寿駅近くで開催されていたFBで知った先生の個展会場に寄る。
しばらくぶりで先生の素晴らしい絵と絵の話を楽しんでから帰ったが、池田山公園の記憶についてはずっと頭から離れない。
認知症はひどくなると、昔のことを忘れないが最近のことはなから忘れて行き覚えていないという。まことに池田山公園の記憶はそんな感じだ。

物忘れや昔の知人名を思い出せないといったことはしょっちゅうだが、自分が思う以上に認知症、あるいは認知症的な老化が進んでいるのかも知れない、と思わされた一日であった。わが「池田山騒動」などと言って面白がっていて良いのやら。


絵は上が最初の時現地で描いたもの。下は今回写真を見て。並べて見ると、描き方はずいぶん変わったように見える。

そうか 水彩が上手くならない理由はこれか [絵]

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退職後趣味で水彩を習い始めてから13年目になるが、いっこうに上手くならない。13年といえば、小6、中3、高3を終え大学1年生。われながらふがいないと思うのだが、その理由については自分なりに心当たりがいやというほどたくさんある。
先生のおっしゃることをよく聞いていない、デッサンから入っていない、晒してナンボというのだが人に見せるのが苦手などなど。
しかし、最近ある水彩画塾の先生がネットで「絵が上手くならない人はー」という記事書いておられるのを読んで、自分でも気がついていた一つではあるが、あ、これだと腑に落ちたことがある。
先生は「一般的な意味で、あるいは、初心者にとって上手とは、形と色が適確に再現出来ることです。再現力が身に付くとは、様々な画材を思い通りにコントロール出来る様になると言う事です。再現力が身に付いて初めて基礎が修了です。」としたうえで、
「難しい・出来ない・無理・駄目・分からない・下手くそ」・・・等々の(中略)否定的な言葉にしがみついている人はなかなか上達しません。自分自身が自分の能力を押さえつけるからです。」とおっしゃる。そして発した言葉がいつの間にか確信に変わるという。「言霊」の力を侮るなかれと。

練習して出来た自分の絵は、画像にして気がついたことをコメントして記録に残しているが、ほとんどはぼやきばかりだ。イマイチ、道はるか、まだまだである、下手、光がない、情け無いなどなど。絵の恥は描き捨て、我が水彩は習作でなく羞作といった自嘲もこの部類に入る。

現役の頃、五十回以上プレイを2年も続いたことさえあるゴルフも、回数が多い割りには全く上手くならなかった。やはり理由はたくさんあるが、一つにはこの否定的な言葉ばかり発していたことにあるのではないか、と今になって訝る。挙げ句の果ては「どこぞに、ゴルフのない国はないかねえ」と愚痴っていた。非常によく似ている。
ゴルフは体調をくずしたときに、不本意ながらやめてしまって早くも8年目になる。
ゴルフも絵も手すさびだから、上手くならなくても下手は下手なりに楽しいから良いようなものだが、もう少し何とかならないものかと思うのである。
絵もこれからは、下手でもなるべく否定的なことばを避けて、前向きに捉えるようにしよう。自画自賛とまでいかなくとも。

上記の先生はさらに良いことを仰っている。
「多少でも上手く行った部分に意識を集めて満足する事、それに馴れて来ると、更なる満足を意識できる様になり、満足が満足を招き寄せる。満足している人の顔は穏やかで幸せそうな表情になる。自己満足だが幸せそうな表情は周囲の人にも及んで和やかな雰囲気を作る。」と。

最近になく納得感があったので、肝に銘じるべくお教えを無断引用させて頂いた。先生ご寛恕願いたい。

絵は最近描いたもの。文章とは関係ない。
「婦人像」ガッシュ F6 ストラスモア
少しは色と形の再現力がついた…かな。

「女はバカ、男はもっとバカ」 (藤田紘一郎 2015 三五館)を読む [本]



著者は1939生まれ。東京医科歯科大名誉教授で免疫や感染学の大家という。たしか会社のOB会の講師として招聘されていたので名前を知ったが、この時欠席して講演は聴きそびれた。お名前は「八紘一宇」からであろう。紀元二千六百年が1940年。

本のサブタイトルに「我ら人類、絶滅の途上にて」とある。これは異常気象や制御不能の事故原子炉、縮減出来ぬ核兵器、何より戦争をはじめとする愚かな人間のふるまいを見れば、実感することである。
生物の歴史は絶滅の繰り返しだという。恐竜、ドードー、アメリカ旅行バトや最近の絶滅危惧種の増加を知れば、これも頷けること。絶滅回避のキーワードはバカとおっしゃる。女はバカだが、オトコはもっとバカということは、男のバカさ加減が人類の滅亡を回避できるというのだろうか。どうも肝腎のこの辺になると論旨がよく分からない。当方に生物学、病理学の素養がないからであろう。
本旨とどう関わるのか不明ながら、「駆け引きはメスが上手 オスに勝ち目なし」とかいうあたりは共感を覚える。
もとより男は女が創り出したものであり、急ごしらえだから、あちこちに無理があるとされる。人間も女の方が優れていることは間違いない。この意味で言えば、本の表題は正しい。
人類は一夫一婦制 を選択することで非生産的なオス同士の争いから解放され進化してきたが、これも制度疲労が進んできているという。もっと自由な、そして多様な生き方が、絶滅回避のために必要と言われる。自由で多様な生き方とは何か。LGBTや不倫ではないと思うのだが、良く理解できない。

以下も本旨とどう関連するのか分からないが、いくつか個別には納得感がある。
ハイヒールの女性がなぜセクシーか。ロードシス体位といって尻を後ろに突き出し下部脊椎を弓なりにそらすことになる姿勢は、哺乳動物のメスがオスを誘う姿勢だそう。

男性が女性を理解出来ないわけは、男性ホルモン(テストステロン)はほぼ一定量を保ち分泌されるが、女性は女性ホルモンのエストロゲン、 卵胞(ホルモン)、プロゲステロン(黄体ホルモン)の分泌量によって心身の状態が変わる のだという。女心と秋の空の原因は、これらの分泌時期と量が不安定だから。自分も男の心理は他人であってもそう違わないと思うから理解できることが多いが、女性のそれは皆目分からないことばかりだ。
「男にとってはそれが謎めいて魅力的なことであり、しゃむにに追っかけるから種の保存に適っている」とは書いては無い。

生命の本質は子孫(遺伝子)を残すこと 。これは良く理解できる。
が、「この本質を追求するための手段として、芸術は理にかなった一つの表現方法となっている、生産的活力の高い者は創造的な能力も高い、よって芸術家はモテる」という論理は、実態はそうかも知れぬが、 あまりロジカルではないような気がする。
自分がそうでないから、よく分かるというものだが、男がモテるのはハンサムな顔とお金である。それが女性の脳の回路にどう作用するのか説明してほしいものだ。

もう20年近くも前にもなるが、一時期竹内久美子女史の著書を面白がって読んだことがある。竹内 久美子 (1956 - )はエッセイスト、京大日高敏隆教室で学んだ動物行動学研究家。
「浮気人類進化論」(1988)1998文春文庫がなぜか本棚にあったので再読した。中味はすっかり忘れている。もとより藤田氏の著書と関連はあるとは思わなかったが、何となく共通点がありはしないかとふと思ったのである。やはり基本的には共通点はなかったようだ。
こちらは全体に歯切れが良いのが特徴。学者としてどうかと思うかというほど、ユニークな説を断じて憚らないからであろう。
実際に生物学者の伊藤嘉昭(1930-2015)らは、女史の一連の著作は理論の濫用だとして批判 したという。「トンデモ本」ともいうらしいが、初めて聞く。やや不寛容過ぎるという気もするが、そうだと言い切るほどの見識も持ちあわせない。

学者や医者の啓蒙書は、読んで面白いものが多い。多田富雄、棚橋桂子、福岡伸一、日高敏隆、中井久夫、養老孟司などなど。蒙度?の高い自分などは、読んでいて啓かれっぱなし。驚愕し学ぶことばかりで、理論の濫用かなどとは夢にも考えず感心しつつ愉しんできた。

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絵は最近習い始めた不透明水彩(ガッシュ)。
「帽子を持つ婦人像 」F6 ストラスモア
本文とは関係ない。

老いらくの恋(その五) ー寂聴「いよよ華やぐ」と岡本かの子「老妓抄」 [本]

岸恵子「わりなき恋」を読んだ勢いで瀬戸内寂聴「いよよ華やぐ 」 (2001新潮社)を読んだ。あまり小説を読まないのに、自分でもびっくり。
2005年頃、連句には、正月や慶事があった時などに詠む「三つもの」なるものがあると知り、初めていたずらに作ったとき、この「いよよ華やぐ」なる言葉を拝借したことがある。この小説を読んだことがあったかも知れぬと、読書メモを検索したが出てこなかった。しかし、どうも読んだことがあるような気もしてならぬ。2度読みでないとすれば、あのときこの句がどこで頭の中に入ったのか記憶がない。

平成十七年乙酉歳旦三つ物
発句 五十肩癒えて 弾き初めバイオリン
脇 いよよ華やぐ 老いの春なり
第三 挙式せん 山笑う頃穂高にて

発句・この頃家人がひどい五十肩になり、好きなバイオリンが弾けず 泣いていた。その平癒を言祝ぐ。脇・老いの春は晩春のつもり。第三・次男が奥穂高神社で結婚式を挙げた。二人は明神池で神主の漕ぐ舟に乗り、ハイカー達にも祝ってもらった年である。

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瀬戸内寂聴氏は1922年生まれだから、この小説は79歳のときの長編。幾らも年齢差のない今の自分の情況とくらべると、その華やぎぶりに驚嘆する。
ご本人はいま96歳。病と闘いながら安保法制反対の活動に参加していたのが、記憶に新しい。

「いよよ華やぐ」の主人公は、91歳の俳人で銀座にある小料理屋「なぎさ」の女将藤木阿紗女。31歳から70歳までの40年間貫いた恋の回想を中心におき、女友達着物研究家・浅井ゆき84歳 、スナックママ・杉本珠子72歳と阿紗女の娘薫ら熟女、嫗たちの愛と性を描く。その描き方はあからさまでさすがに多少うんざりする。当方が枯れてしまったからであろう。

良く知られたように、ヒロインのモデルは俳人鈴木真砂女(1906-2003 96歳没)。銀座で小料理屋「卯波」を経営、傍ら俳句を詠んだことで知られる。
店名は「あるときは船より高き卯浪かな」からという。

真砂女の恋は、7つ下の軍人との愛がその死(真砂女70歳)まで続いたのだから、後半は老いらくの恋とも言えるのだろうか。相手が妻子ある男、不倫ながら一途というところが人の心を捉えるのであろう。真砂女に「夏帯やー途といふは美しく」があり、自分の頭のどこかに入っていた。

真砂女は96歳まで生きて俳句を詠んだ。
代表句はいくつかあるが、なんといってもさきの恋を踏まえたであろう「羅や人悲します恋をして」である。
「羅や」で始まる句はほかにもある。よほど恋に付く季語なのか。
羅や細腰にして不逞なり
羅や鍋釜洗ふこと知らず
羅や恨み持たねば気も安し

永六輔や小沢昭一らの素人句会「東京やなぎ会」のひとり柳家小三治の句に「羅や真砂女のあとに真砂女なし」があるくらいだ。

羅(うすもの)とは、絽、紗、上布など薄織の絹布の着物(単衣)のこと。歳時記によれば「見た目に涼しく、二の腕のあたりが透けているのが心持よく、特に婦人がすらりと着こなして、薄い夏帯を締めた姿には艶(えん)な趣がある」。夏の季語。軽羅、薄衣とも。

真砂女には他の佳什もあって、句全体の切れの良さ、潔さを好む人は多い。
来てみれば花野の果ては海なりし
今生のいまが倖せ衣被
戒名は真砂女でよろし紫木蓮

さて、題名の「いよよ華やぐ」は、岡本かの子 「老妓抄 」(1938 中央公論)の最終章に出てくる作中人物の老妓、小そのこと平出園子が、作者に送つた短歌の中の一首からとっている。
年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

岡本かの子 (1889 - 1939 49歳没)は、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 本名カノ。漫画家岡本一平の妻、画家岡本太郎の母である。妻妾同居ならず夫燕同居?(こんな言葉は無い。わが造語である)までした奔放な妻として世に名高い。

「老妓抄」は青空文庫で読むことが出来る。短編小説でおよそ「いよよ華やぐ」と対照的に性愛を書き連ねず淡々としている。腥さがない。

「老妓抄」のテーマはこの一首に尽きるのであろう。老いの悲しみとそれにあらがうような恋心への戸惑いであろうか。これはこれで老いらくの恋に違いない。
それをよく表している文章を引用してみよう。
「彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。」
老妓「小その」は息子ほどの年齢の電気技師(柚木)を飼って?いる。好きとか愛しているとかは一切言葉にもしない。しかし、老いゆくなかで素振りにも出さないけれど命が輝くように、老女はたしかに若者に恋をしている。
小そのが短歌の師に見てもらうために送った一首は、人の、女の業のようなものが詠われていて哀れも誘う。そして寂聴が書きたかったテーマと重なったのであろう。

寂聴もかの子も「老いの悲しみ」と「命の輝き」を書いているのだが、どちらにウエイトがかかっているのか、不明ながら微妙に違うような気もする。
それにしても、かの子は短編でしかも多くを描写せず、読み手にも想像させてテーマを表現していて達者である。かの子は49歳で亡くなっているが、この小説はその前年1938年に書かれた(青空文庫は1950 ・s25)が、死後に発表された他の多くの作品とともに高く評価されたという。

作者49歳では自らの経験でなく、おそらく聞いた話と自分の想像力で書いた一編である。
寂聴さんのように長生きしたら、どんな老いを書いただろうか。

もうひとつの感想。「いよよ華やぐ」は「人悲しませる恋をして」のように不倫の恋が多く語られる。「老妓抄」にはそれが無い。不倫はおろか、夫のいる家庭に情人を入れるという、常人には理解しがたい私生活をおくった作者にしては、どうしたことか。

寂聴に「かの子撩乱」という岡本かの子の評伝があるそうだが、いまのところ読む気が起きない。関係ないが、かの子の「金魚撩乱」は青空文庫で読んだがこれはこれで面白い短編であった。


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