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不透明水彩 のお稽古 [絵]



リタイア後、透明水彩を手すさびで楽しんでいるが、ある洋画家のブログが絵の勉強に役に立ち、かつ面白いので良く読むようになって久しい。
岡山在住のその画家が「不透明」水彩の1日特別講座東京(と横浜)でされる、というので参加してみた。講師先生は、「水彩といえば透明水彩が主流だが、透明水彩も良いところがありそれを知って貰いたい」とおっしゃる。
透明水彩を10年カルチャー教室に通いお稽古したが、挫折した身とすれば、何やら惹かれるおすすめ。
このわがブログは、自分のために書いているようなもので、およそ人様の役に立たないが、この体験記はふだん不透明水彩って何?と思っていられる方にだけは、少しは参考になるような気がする。

絵の具は有料だが用意するというのでお願いしたが、むかしペリカンの固形セット(パレットがついている)を買って放り出していたことを思い出して念のため持参した。そう、水彩クロッキーのお稽古で一枚だけこれを使ったことを思い出した。

紙はストラスモア(スパイラルブックF4)がおすすめだったので、少し大きめF6 を買った。

先生は最も重要なのは、白とおっしゃる。白はジンクホワイト、パーマネントホワイトではないとのこと。理由はおっしゃらなかったが、あとでジンクは混色用でパーマネントはハイライト用と知る。うかつにもちゃんとした不透明水彩用のパレットを忘れたが、ペリカンについているのと100均で買ったのが一枚残っていたのでそれを使うことに。

先生のデモが始まる。モデルは紫色の洋服を着た小柄な若い女性。F4のストラスモアで下書きなし。いきなり白を混色して人物の顔から描き始めるのに驚かされる。
透明水彩では白の混色はおよそやったことは無く、白ガッシュをハイライトで使う程度なので、白で混色するのは新鮮な感じではある。不勉強でよく分からないが混色して彩度、明度を調節するのだろうか。それとも新しい色を作るのだろうか。
たしかに乾くのが早いようで、上から色を重ね修正が出来るから透明水彩のように手順を考慮する必要がない。早描きスケッチには最適であろう。
先生は、修正を重ね自分の目指す絵を追求すれば良いとおっしゃる。
先生は最後にカラーペンシルを使われた。色鉛筆はサンフォード、水彩の上にかけるおそらく唯一のものとか。細い線が使えるので良さそう。これは早速アマゾンで求めた。
絵の具はホルベイン ガッシュ アーティスト、筆はキャムロンプロ、フィルバート18、10、6号平筆がおすすめ。

透明水彩の技法書は、「格好が良い」ので沢山あるが不透明水彩はひたすら修正していくだけだからほとんどない、と先生。なるほど。
さて、デモは15分ほどで終了、あと実際に白の混色をやってみたが、白の量が分からず意外に難しく良い色がでない。
下書きなしというのもなれないと位置決めが出来ない。絵が下の方に下がってしまうのは、最初に描く顔の位置が間違っているらしい。
とにかく、最初の絵は二目と見られぬぶざまものになった。失敗。
合間に人物画のコツを伝授される。頭と膝の角度に注意、腕の遠近感の出し方etc…。これがおおいに役立つものばかりだ。

最後に先生に幾つか用意していった質問をしてみた。答えは次の通りだった。
ガッシュと不透明水彩は同じですか?ー同じです。(愚問で先生に失礼だが、以前から気になっていて、プロの答えが聞きたかったのである。)
なぜストラスモアがおすすめか?ー画用紙に近いこと、強い紙であること。(水彩紙ならホットプレス、極細系か)
ぼかしや滲みは使いますか?ー使います。(マスキングはどうかを聞きそこねた…白が使えるのだからこれも愚問か)
鉛筆はどう扱うか?ー正しい線は残してあとは消す。
ミックスは?ーパステルを使う。

たしかに不透明水彩も面白そう。2年ほど前パステルに手を出した時も、同じように最初は面白かったから同じことかも知れない。当然ながら、すぐにそんなたやすいことではないと気づかされる。

いわゆる透明水彩(Watercolor)は、産業革命のあとイギリスを中心に発達したものだが、ガッシュは顔料をアラビアガムで溶いたものでそれ以前ヨーロッパでさかんに使われた絵の具あるいは水彩技法全般をさすとネットにある。不透明水彩の方が古いことになる。
日本では小中学校で使用される水彩絵具を、不透明水彩ということが多いという。これは透明水彩の技法は小学生には難しいことから、子供専用につくられたものである。このため、不透明水彩はわが国では多少誤解されているかも知れない。

不透明水彩といえば中西利雄(1900ー48)、小堀 進(1904-75)が知られている。二人とも清澄感溢れた絵を描いている。これは、かつてこのブログにも書いた。

中西利雄の水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-11-27

いまは、わが国だけかもしれないけれど、透明水彩ばかりがもてはやされているのは何としたことか。

ともあれ、先生は熱心に不透明水彩の良さを説明されて、絵を描く楽しさが伝わってくる。確かに面白いかも知れないと思って、帰ってきてからもせっせと練習している。
この2カ月余りで10枚くらいは描いた。ぼかしたり滲ませたりマスキングを試みたりして楽しんでいるが、やはり晴明感ある良い色を出すのが目標。
まだ描いている過程でも、出来上がりも透明水彩とどう異なるのかよく分からないが、
当分は講師先生の絵を模範に続けて見ようと思う。もしかしたら、透明水彩の方にも良い影響があるかも知れないと思って、あわせて透明水彩も同時にお稽古中。 何の根拠もなく、かつ虫が良過ぎると思うが。

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ワークショプでは、洋画家のお嬢さんが熱心に進行を手伝っていて、何とも微笑ましい。
ブログの愛読者には、洋画家のモデルもつとめる(絵も上手 )なじみの(?)お嬢さんだが、実際にお目にかかれご挨拶ができてラッキー。もっと幼いイメージだったのに大きくなっていておどろく。ヴァーチャルの画像の絵で拝見するお嬢さんも美しいが、実物はそれ以上に素敵で可愛いい。きっとすぐに母上似の美しいおとなの女性に、成長されるだろう。

平原綾香 Jupiter [音楽]

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弦楽のための組曲「惑星」(The Planets)作品32は、イギリスの作曲家ギュスターヴ・ホルスト(Gustav Holst 1874- 1934)の作曲した代表的な管弦楽曲である。
ギュスターヴ・ホルストの最も知られた作品は、この組曲「惑星」であるが、合唱のための曲を多く作曲している。またイングランド各地の民謡や東洋的な題材を用いた作品、吹奏楽曲でも知られる。

この組曲「惑星」は7つの楽章から成り、それぞれにローマ神話に登場する神々にも相当する惑星の名が付けられた。
「火星 戦争をもたらす者Mars, the Bringer of War」
「金星 平和をもたらす者Venus, the Bringer of Peace」
「水星 翼のある使者Mercury, the Winged Messenger」


第4曲 の主題が木星 で「快楽をもたらす者Jupiter, the Bringer of Jollity」
Jollityはお祭騒ぎのことだが、なぜ快楽と訳すのか不勉強で知らない。
この「木星」は「惑星」のなかでは知名度が最も高く、とくにイギリスでは愛国歌「I vow to thee, my country(我は汝に誓う、我が祖国よ)」として愛唱されている。
また世界各地で編曲され演奏されている曲でもある。

あと、「土星 老いをもたらす者 Saturn, the Bringer of Old Age」 、「天王星・魔術師」、「海王星・神秘主義者」と続く。

作曲時期は1914年から16年だから第一次世界大戦の頃、今から100年ほど前の組曲になる。

音楽を知らない自分が解説するまでもないが、組曲(suite)は、いくつかの楽曲を連続して演奏するように組み合わせ並べたもの。バレエ、オペラ音楽に名曲が多いがオリジナルもある。
ホルストの「惑星」のほか、交響組曲「シェヘラザード」(リムスキーコルサコフ)、「イギリス組曲」、「フランス組曲 」(バッハ)などが有名である。家人が好きだったので「シェヘラザード」は若かりし頃よく聴いた。「イギリス組曲」は、リタイアしたばかりの頃、さかんに聴いたが最近暫くごぶさたしている。

ところで、木星は地球と比べると半径11倍、質量320倍。太陽系最大の惑星。成り立ちや特徴の縞模様など謎多い惑星である。先日NASAの無人探査機「ジュノー」が、13年ぶりに木星軌道に到達し、観測をはじめたと報道された。
しかし、組曲の方は天文学、宇宙科学というより着想は占星術の世界のようである。

さて、2003年12月17日にリリースされた平原綾香のシングル「Jupiter」(ジュピター)は、このホルストの曲に、吉元由美(1960年生まれ、作詞家、エッセイスト)氏が日本語の歌詞を付けたもの。平原綾香のデビュー曲である。
♪わたしのこの両手で何が出来るの…など、良い歌詞があるが、♪自分を信じてあげられないこと…など気になるのもある。
CDは百万枚を超え大ヒット。アルバム「オデッセイ」にB面蘇州夜曲とともに収録されている。曲は今でも人気が高いという。

歌手がテレビに出演(「スタジオパークからこんにちは」 )していたので、アイパッドで撮影して透明水彩でチャレンジした。紙はアルシュで大きさはF2ほど。
案の定、似ないので往生する。もっとかわいい。猫や子供ももそうだが、このかわいいというのを表現するのは難儀である。まして若さやこの人の持つオーラとか、はなやぎなどはわが水彩レベルでは表現不可。
絵の具がうまく乗らないのは、どうやら用紙がブロック紙の最後から二枚目なので風邪をひいたらしい。下手な絵の言い訳。

アカンサス [自然]


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近所の友達が自宅で転倒して怪我をした、と見舞いに行ってきた家人が戴いてしまったと、アカンサスの花を抱いて帰ってきた。まじまじと近くで見るのははじめてであるが、何となく魅力がある花である。

アカンサス(Acanthus、ハアザミ、葉薊)は広義にはキツネノマゴ科ハアザミ属(アカンサス属 Acanthus) の植物を総称していうが、普通は特に観賞用に栽培されるA. mollisを指す。その名前にはギリシア語で「トゲ」と言う意味があるとネットで知る。
葉は古代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされた。これは何かで聞いたことがある。ギリシア、シルクロード中国そして日本へ伝わった葡萄からくさ紋様などと一緒に、頭の隅っこ奥にあった。

特にギリシア建築のオーダー(円柱と梁のかたち)の一種、コリント式オーダーはこのアカンサスの葉を意匠化した柱頭を特色としているという。ちなみにアカンサスは、ギリシアの国花である。
アカンサスをモチーフとした柄は絨毯にもしばしば用いられ、ビザンチンリーフとして知られる。
大型の常緑多年草で、地中海沿岸(北西アフリカポルトガルからクロアチア)の原産。葉には深い切れ込みがあり、光沢があり、根元から叢生して長さ1m、幅20cmほどになる。日本の多くの花と異なり、葉も花もとにかく大ぶりである。
晩春から初夏に高さ2mほどの花茎を出し、緑またはやや紫がかったとがった苞葉とともに花をつける。花弁は筒状で、頂いた花の色は白だが、ほかに赤もあるという。乾燥にも日陰にもまた、寒気にも強い植物らしい。

かつてアーティチョークに惹かれて、これもネットなどで調べたことがある。大ぶりなのはアカンサスと共通している。

アーティチョークと野あざみ
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-07-04

アーティチョークはキク科チョウセンアザミ属。日本の野アザミに似た宿根草だが大型なのが対照的。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。アカンサスはキク科でなくキツネノマゴ科でハアザミ属。

なお、野あざみ(薊)は、キク科アザミ属 (Cirsium) だからアーティチョークと同じキク科ながら属が異なる。こちらは小さくていかにも可憐。アカンサス、アーティチョーク、野あざみは、それぞれどう違うのか詳らかでないが、近縁種なのであろう。それにしてはアカンサスだけは、薊のような王冠に似た花でないのが不思議。


暫くしてアカンサスの絵を描きたいものだと、家人に頼み庭に入れていただき写真を撮らせて貰った。なるほど強い植物のようで株も大きい。
ガッシュや透明水彩などで何枚か描いてみたが、なかなか手強い。もともと花も苦手だが、アカンサスはとくにダイナミックな葉が難しい。
透明水彩よりガッシュ、さらに油彩の方が合うのかもしれない。

家人の友人はその後だいぶ良くなったと聞いた。まずはめでたい

オノレ・ドーミエの水彩画2 [絵]

前回に続いて水彩画から。

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「Grand Staircase of the Palace of Justice 裁判所の大階段」( 1864 w g )昂然と降りてくるのは判事か、検事かはたまた弁護士か。
「The Defender 弁護人 」(1865 g w)まるで法廷を舞台に展開する映画かアニメのよう。
弁護人がややオーバーアクションな感じもするが。被告人の流し目?が気になる。
「Scene at Tribunal 法廷の場面 」(Date unknown w )上と全く同じ絵ながら、青を基調にしているのは何の意図があるのだろうか。暗転?
「A Criminal Case 犯罪者のケース」(1865 w g )右上に裁判所の衛兵がいる。手強い相手に押され気味なのであろう。束ねた書類と六法全書が意味深。
「Les Saltimbanques アクロバット 」(1866-67 w )サーカスか セピア色。
「The Third-class Carriage三等客室 」(Date unknown w)後掲の油彩画(1863-65)とくらべて迫力においても、力負けしていない。
「三人の裁判官」 鉛筆素描の上にペン描き 淡彩 。29.8x46.4cm 。シカゴ美術館蔵。
ドーミエはこの「三人の裁判官」を三人三様の表情を変えて描いている。見る人によって裁判官の性格、仕事への取り組み方などがうかがえるだろう。それにしても三人ともうさんくさい。

最後に油彩画などを。

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ドーミエは40歳ではじめて油彩画を世に出した。風刺画で大成してからである。

「The Republic 共和国 」(1848 o )73×60 cm。そのはじめて世に問うた油彩画。

「Don Quixote in the Mountains 山中のドンキホーテ 」(1850 o )ブリジストン美術館蔵。
ドーミエはドンキホーテを好んで描いた。理想や野望を持つも空回りするドン・キホーテに、ドーミエ自身の姿を重ねて描いたものと考えられている。

「The Laundress 洗濯女」(1860-61 、1863年頃の2説ある o )49x33,5cm 。これもドーミエの繰り返し描いたテーマ。貧しくも力働く女性が生き生きとかつ、力強く表現されている。まぎれもなく代表作のひとつであろう。

「The Third-Class Carriage 三等客室(三等列車)」(1863-65 o )65.4×90.2cm 。
ドーミエは庶民が乗る三等客室に雪が舞い込むさまなど、同情的に何枚かの描いている。この絵もロマン主義のような感情的表現でもなくクールベのような写実絵画でもない、まるでアニメのひとコマのような自由な筆運び・表現技法によって描かれている。ドーミエの油彩画の代表作とされる。
都市に暮らす人々の孤独感や閉塞感、加えて逞しさが伝わってくる。どこかゴッホの絵に似ている。ゴッホの絵がドーミエに似ているというべきだが。

「Nadal Elevating for Photography to the Hight of Art 写真術を芸術の高みまで引き上げるナダール」(1862 lithograph )45.5× 32cm。伊丹市立美術館蔵。

写真「オノレ・ドーミエとナダール」ドーミエも当時世に出た写真に大いに興味があったという。彼の絵を見ればよく分かる。

「Charles Philipponシャルル・フィリポンの胸像 」(1832テラコッタ)
1832年にさかんにつくった粘土胸像 (painted clay bust)のひとつである。
モデルはジャーナリスト で「カリカチュア、シャリヴァリ」雑誌編集長シャルル・フィリポン(1800-61)

ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo、1802- 1885)はフランスフランス・ロマン主義の詩人、小説家。政治家でもあった。さすがの文豪も、こんな頭でっかちに描かれたらやりきれないだろう。

さて、もう少し知りたいと、「オノレ・ドーミエ」 (ユルク・アルブレヒト/著 Parco出版 1995)を図書館で借りてきて読む。
この本で、政治風刺画で時の権力を相手に壮絶な戦いを生きた前半、カリカチュアと油彩画でパリ市民の精神を描いた後半生を詳しく教えて貰った。コローが家を贈った話はどうも事実と異なるらしいこと、結婚していたことなども知ることになった。
時の芸術家がドーミエの絵を高く評価したことは良く知られたことだが、なかでも「悪の華」、「パリの憂鬱」のシャルル・ボードレール(1821-67)が早くからその才能を認めていた。詩人で美術批評家であった彼は言う。
「彼のリトグラフと木版画は色彩の概念を呼び起こす。彼の筆致は輪郭を区切るための黒以上のものを含んでいる。それは色彩と同時に思想を感じさせる。」(「フランスの風刺家たち」(1857)より)と。
また、ヴィクトル・ユーゴー(1802-85)は、友人であった画家が脳溢血で亡くなる前年の1878年、顕彰委員会委員長としてドーミエの大回顧展を開催している。
ドーミエがカリカチュアだけではなく、近代芸術全体の中でも重要な画家の一人であることをあらためて認識した。

ところで本題と離れるが、この本は和訳が故の読みにくさよりも、本の体裁のせいで読みにくくて往生した。
本は少し縦長で横書き、字が小さいのが老人には致命的。せっかくの良い本が泣くというものである。美術新書シリーズと称していて、ほかにも読みたい本があるが二の足をふむ。

ドーミエには静物画、風景画、ヌードがない。グランヴィルもだったか。風刺画家はみなそうなのか知らないが、晩年風景画を目指したエドワード・リアとは違っていることは間違いない。人間と社会の方に興味があって目に入らなかったのか。


オーストリアの画家オスカー・ココシュカ(1886年 - 1980年)は、ドーミエの没後に生まれているが彼も風刺画を描いたらしい。ドーミエに絵筆のタッチが似ているという。言われてみると、水彩画でなく油彩画は確かに似ているような気もする。

オスカー・ココシュカの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2014-01-15

このところ、エドワード・リア、J・Jグランヴィル、オノレ・ドーミエの三人の戯画を続けて見た。
日本のポンチ絵やアニメ、漫画などの源流のひとつであると考えると興味は尽きない。
カリカチュアの面白さを初めて知ったが、彼らもそれぞれ画風は異なるが水彩を描いていたのは意外であった。水彩のもつ「自在さ」が、風刺画の闊達さと相通じるところがあるのだろう。

オノレ・ドーミエの水彩画1 [絵]


オノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier, 1808- 1879 )は、19世紀のフランスの画家。マルセーユに生まれた。
ドーミエは、生前は風刺版画家として知られるが、油彩画家としても高く評価されロートレック、ゴッホをはじめ、印象派などの多くの画家に影響を与えたという。どんな油彩を描いたのか、水彩はあるのかが関心。

ドーミエは雑誌「カリカチュア、シャリヴァリ(編集長シャルル・フィリポン)」に、時の権力を痛烈に批判した政治風刺画を次々発表し、投獄される。その後主題をパリ市民の風俗に変更する。
同世代の人々からは理解されず、晩年失明し惨めな生涯を閉じたと伝わるが、その時代の多くの詩人、小説家など画家以外の芸術家達からは賞賛されたという。親友のコローが買ってくれた(と伝わる)セーヌ・エ・オワーズ県のヴァルモンドワの家で、1879年、71歳でその一貫して名利を求めぬ生涯を閉じた。
異才、鬼才の画家の印象がつよいが、しばしば同じ風刺画家のJ・J・グランヴィル(1803-47)と比較されて論じられる。どちらも辛辣なことに変わりがないが、ドーミエのほうがグランヴィルよりも、どこか温もりがあるというのが一般的のよう。
多作であった彼は、生涯に500以上のタブロー、4000のリトグラフ、1000の木彫(木版画?)、1000のドローイングを残したという。このドローイングの中には、油彩のほか水彩画もある。

また彫刻もあり、ブロンズのほか、 1880年代さかんに作った粘土胸像 (painted clay bust彩色テラコッタか。)が知られている。

ドーミエの水彩は意外に多い。生き生きした動きと表情豊かな人物が特徴であるが、色調は概して暗い。鮮やかな色をあまり使っていない。(以下wは水彩、gはガッシュ、oは油彩、cはクレヨンの略号)

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「Orchestra Seat オーケストラ席 」(1856 w )
「Two Drinkers 二人の酔っ払い 」(1857-69 w g)議論の中身は別として、顔は真剣。
「A Famous Motive 有名な動機 」(1862-65 g crayon )法廷で二人 が叫ぶ。大げさなしぐさが、かえってたいした論理を展開していないように見えて可笑しい。motiveは理由 、本意 、下心などの意味もあるが単純に「動機」ではなさそう。
「A Lawyer and his Client 法律家とクライアント 」(1862 c w )依頼人「大丈夫でしょうか」、弁護士「心配しなさんな」といったところか。
「Two Lawyers 二人の法律家 」(1862 w )ほとんどモノトーン。すれ違う検事と弁護士か。ドラマだ。
「A Theatre Audience 劇場の聴衆 」(1863-65 g w)立ち見の紳士も。一つ空席が。
「Le Départ du train 汽車の出発」(1862-64. Black chalk, pen and ink, wash, conte crayon, watercolor, and gouache )15.0 x 25.5cm。出発前のホームの人々の表情を何ともうまく捉え、再現していることか。写真も顔負け。宮崎駿風アニメの1シーンのよう!
画材が線も色彩も多く使うミックス。彩度は抑えられているのが特徴。
「The Omnibus 乗り合いバス 」(1864 c w )ドーミエはパリ市民を弱い者の側から描いている。温かい眼だ。裁判所の法律家たちを冷ややかに描いているのは、経験からであろう。

次回は水彩のほか油彩画なども。

アルマ・タデマの水彩画2(終)-Ask me no more…もう、何も尋ねないで [絵]

まずは、前回に続き水彩画から。(記号: w …水彩、g…グワッシュ、b…ボディカラー、 o…油彩)


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「Xanthe and Phaon クサンテとパオン 」(1883 w )こぼれるばらの花びら。パオンとの結婚にためらいを見せているクサンテを描いている。大理石のベンチに腰をおろした女性と寝そべって頬杖をついた男性。この構図は、画家のお気に入りで似たものが何枚かある。
「The Drawing Room at Townshend House タウンゼントハウスの客室 」(1885 w )27.2×18.7cm。上に鳥籠のようなものがある。この絵はwatercolor とだけあって、ペン、鉛筆、チョークなどの記載が無いがなんという綿密な描き方か!超絶水彩技法だ。
タウンゼントハウスは、自宅として画家自ら設計して建てた豪邸。

「Drawing Room, Holland Park ホランドパークの客室 」(1887 w )ホランドパークはロンドンにある。壁に掛けられた絵つまり画中画は、ラファエル前派のようだが。ロセッティらと交流はあったらしい。この絵も上と同じく超綿密水彩画。

「Ask me no more...for at a touch I yield もう何も尋ねないで。触れれば、私はきっと挫けてしまうから。 」(1886 w)英詩人アルフレッド・テニスンの詩「女王プリンセス」から。大きさ不明だが、下の油彩(本制作であろう)と比べても遜色無い。

「Ask me no more もう何も尋ねないで 」(1906 oil )80.1 ×115.7 cmとかなり大きいサイズ。2枚は10年のインターバルがあるが、背景、椅子などが変わっているだけだ。

Summer Offering 夏の供物 」(1894 w )白薔薇が供物か。それとも。後掲の油彩(1911)の習作と見られるが、これも15年の間隔がある。

「Interior of Caius Martius's House 」(1901 w b )左下に椅子。タデマの名作のひとつ。
視点が珍しく低い。
「In Beauty's Bloom」( 1911 w )最晩年の水彩画。歿年の前年になる。 花はカラーのよう。

「Self-portrait 自画像 」(1896 o )画家60歳。

「Study for Thermaie Antoniniane」( 1899 pencil )

いつものやり方だが、ネット画集で画家の水彩(ガッシュを含む。ときにパステルも)を探し、その過程で気になったり、良いなと勝手に思う油彩もファイルに保存する。いずれも、自分の水彩のお稽古に参考にならないかと思ってのことである。
作業に使う労力に比べ、たぶん役にはたっていないことは、自分のお稽古の上達ぶりを見れば分かる。

今回もそのうちの何枚かの油彩を。


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「Self portrait自画像」(1852 o )1852年アントワープのアカデミーに入学した年16歳というから驚く。
「Coign of Vantage 地の利」(1895 o )サイズ64.2× 54.0cm。
このタイトルの別訳は「見晴らしのよい場所」。アルマ=タデマ独特の、めまいのするような高さを感じさせる独特な遠近法を使用した画。高所恐怖症には辛いだろう。

はるか下にローマ艦隊の到着の様子が描かれ、向うむきで海を見ている獅子(?)の像と対照をなす。対岸の陸地がぼんやりとして空気遠近法も活用。
地中海の紺青と、眩く光る大理石の白が、印象的な対比を見せている。
絵のタイトル「A Coign of Vantage」 は、シェイクスピアの四大悲劇の一つ『マクベス』からの引用とか。(戦うには)良い地形だ、くらいか。

「Preparation in the Colosseum コロッセウムの準備」(1912 o )歿年、76歳の作品。競技開始前の支度 これも遠近法が独自 。斜め上から見て奥行きを出している。画家は豹柄がお好き。

「Summer Offering 夏の供物 」(1911o )前掲の水彩画の習作(1894)の本制作であろう。左にもう一人女性が加わっている。

「In the Tepidarium テピダリウム 微温浴室にて」(1881 o )
マネの草上の昼食、(オランピアも)は背景が現代(当時)であった故に世上騒然となり落選したが、このタデマのきわどいヌードは、背景が古代ローマ故にお咎めなしだったという。右手に肌かき器(ストリギル)、左手に扇。表情もふくめて実にきわどい。熊の毛皮、足元の赤い花も効果的だ。

「参考文献 サー・ローレンス・アルマ・タデマ 」(1993)
表紙は「Silver Favorite 銀色のお気に入り」( 1903 o )お気に入りは池の鯉という。銀鯉。
この絵をよく見ると、サインのあとにOp.CCCLX.....とある。画家は16歳のときに妹の肖像画を描きOp.1(作品番号1)としたそうだから、生涯に400点とも言われる作品に連番を記したのだろうか。さすれば、上掲の最晩年の作品「コロッセウムの準備」は、幾つになったのか。

掲げていないが、次の2枚はサインとOp.ナンバーが比較的はっきり見える。ただし制作番号はわからないが。
「Under the Roof of Blue Ionian Weather青いイオニアの大気の下で」(1901 color lithograph )55.0×120.5cm。
「The Year's at Spring. All's Right with the World 時は春、すべて世はこともなし 」(1902 o )

アルマ・タデマの歴史絵は、青い空と海、輝く大理石をふんだんに取り入れ、ヴィクトリア朝時代の顧客におおいに受け容れられた。精神性とかの批判はさておき、古代の詳細な建築、風俗時代考証などには文句なしに脱帽である。ハリウッド映画の映画に影響したというのもうなづける。ベン・ハーやクレオパトラを想起する。まるで見てきたように再現して、見る者に違和感を感じさせないようにするには、相当の研究と高度な技法が必要だったのではないか。

詳細な細密画というのはいくらでもあるが、なかでも大理石の硬質や輝きの描写には感心するものがある。水彩もまた油彩と同じようで、とてもアマチュア(自分のことだ)には手に負えない超絶技法。よってその点では、あまり参考にはならないように思う。
ただ、画家のヴィクトリア時代の顧客と同じ気分で絵を眺め、遠く地中海や古代ローマ、ギリシャに思いを馳せる愉しみはあるというもの。


アルマ・タデマの水彩画1-Dolce Far Niente 甘美な無為 [絵]

ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836 - 1912 76歳で没)は、イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家。
同じヴィクトリア朝の画家だがアルマ・タデマはウォーターハウス(1849ー1917)とともにアカデミー側の画家であり、反アカデミーのラファエル前派に分類しないのが一般的だそう。
サーが付いているので、なるほど体制派かと納得する。日本で言えば黒田清輝か。

自分はこの画家を殆ど知らない。「シャロットの女」や「人魚」(漱石の「薤露行」、「三四郎」にそれぞれ登場する)などを描いたJ・w・ウォーターハウスは知っているのだが。

漱石の水彩画http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-05-09

よって「サー・ローレンス・アルマ・タデマ」ラッセル アッシュ著 (トレヴィルブック社1993 )を借りてきて読んだ。以下は、ほぼこれを参考にさせて貰っている。

アルマ・タデマは古代ローマ、ギリシャ、エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を描いた。それらの絵は舞台装置やハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる。

アルマ=タデマは、オランダに生まれ、パリに移住。ドイツ諸邦とフランスとの間に普仏戦争(1870-71)が起き、それを逃れてイギリスに帰化した。
1863年、33歳の時にフランス人女性ポーリーヌと結婚。新婚旅行でポンペイを訪れて、その建築や調度品に感銘を受けて以来、古代ローマなど歴史を題材にした絵画を数多く描いた。
古典主義的主題に、ヴィクトリア朝時代らしく繊細な感受性や官能を美化して描いた作風は、当時からイギリス内外で人気を博した。
古代の建築物や装飾品、生活や風俗を、緻密に正確に描いたので「建築の功績」に対し、1906年には王立建築学会から、ゴールド・メダルを授与されたというから半端ではない。
建築物だけでなく、当時の衣装を纏った人物像には気品に満ち、青い海、白い大理石、鮮やかな花々も美しく、全体に装飾的に描かれているのが特徴である。
一方で絵の精神性の欠如、甘い感傷性、あまりにデテイルへのこだわり過ぎなど否定的な評価もあり、没後一時は忘れられた時代もあったが、現代では高い評価が与えられ人気も高いという。

アルマ・タデマには、水彩画がかなりあるが、大きさからみても、油彩の下絵か、エスキースと見られる。が、アマチュアからみてもどんな技法で描いたのかと思わせる力作も多く、タブローとしてみても面白い。

「The Massacre of the Monks of Tamond僧侶の虐殺 」(1855 w g)
(制作年数字の後のwは水彩、gはガッシュ 、oは油彩、bはボディカラー以下同じ表記)

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「Faust and Marguerite ファウストとマルガレーテ 」(1857 w ) 23歳の作品。マルガレーテはファウストの恋人。ご存知、ゲーテの戯曲「ファウスト」から。

「Fredegonda at the Deathbed Praetextatus 」(1864 w )22.7 ×29.8cm。フレデグンダは、キルクペリク1世の妃。

「An Exedra エクセドラ」(1871 w )左にパラソルを持った男が座っている。エクセドラは建築用語。本来は脇につけられた座席の意。古代では住居の談話室,ギリシャ風神殿の中庭や公共建築として用いられた長方形の広場の端部に半円形に突き出した部分をいう。そこに腰掛が配され談話したりする場所となった。

「Music Hath Charms」( 1873 w )ギリシア神話に登場するダブルリードの木管楽器アウロス(と思われる)を吹く男。

「A Roman Artist ローマの芸術家 」(1874 w )バックの絵はローマ艦隊か。ローマ時代のカンバスが面白い。

「Charles Deschamps ,With Henry Wallace Looking On (detail ) 」(1874 w)

「Flora,Spring in the Garden of the Willa Borghese 花 庭の春 」(1877 w)
ローマのヴィラ・ボルゲーゼの庭園を舞台にした、四季の連作の一つ。
この作絵画の右奥には、遠くて見えにくいが大理石のベンチに腰をおろした女性と、頬杖をついた男性が描かれている。画家はこの情景を独立した作品として、1883年(6年後)に後掲「クサンテとパオン」を、左右反対の構図で描いた。また、「A Declaration 告白」(1882 w)も同じ構図でありよほど気に入ったものと見える。

「Stirgils and Sponges 」(1879 w )Stirgils ストリギルは、肌かき器。ブロンズの道具らしい。右側の女性が左手で持ち、自分の右腕を洗っている。手前にはスポンジ(海綿)が置いてあり、絵のタイトルになっている。これも体を洗うもの。

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「Pandora パンドラ 」(1881 w)パンドラは、ギリシャ神話中の人類最初の女性。開けた箱の中から病気、貧困、戦争、犯罪、嫉妬、憎悪、老いが出たが、奥に希望が一つだけ、あったという有名な故事がテーマ。

「Roses ばら 」(Date unknown )水彩と明記されていないが、たぶん水彩スケッチであろう。

「Between Venus and Bacchus ヴィーナスとバッコスの間 」(1882 w )噴水の彫像、右上にヴィーナス、下にバッコス。その間にタンバリンを持つ少女が水を飲もうとして噴水に顔を近づけている。左の女性が掲げているのは松ボックリの飾りのついたバッカスの杖。随分説明調のタイトルではある。

「Dolce Far Niente 甘美な無為 」(1882 w )題訳はこれで良いのか、無聊、アンニュイとかか、自信は無い。イタリア語か。フェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画「甘い生活」の原題は「La dolce vita」(1960)だった。絵の女性はなにやら忘我の境。サイズは不明。
「A Female Figure Resting やすむ女性」(1882 o ) 油彩は意外に23.5×15.9cmと小さい。
右手に薔薇を持ち、左右反対であることを除けば全く同じ絵なので割愛したが、ほかに2枚あった。こちらはいずれも油彩とあるが、一枚は水彩のようにも見える。
ちなみに題名だけ記すと、<「 Resting 休息」 (1882 o)と「Daydreaming 白昼夢 」(1882 o )23.0 ×16.5cm。>である。

「A Declaration 告白」(1882 w)愛の告白。大理石のベンチに腰をおろした女性と、頬杖をついた男性の構図を、アルマ=タデマは好んで描いている。後掲の「クサンテとパオン」と同じ。

「A Street Altar 街路の祭壇 」(1883 w ) 街角にある小さな祭壇を掃除している若い女性。左側に笛を吹く男性は月桂樹を冠る。大道芸人か。

次回も引き続き水彩画と若干の油彩画を。

2年目、芽出ール! [自然]

カボスへ柑橘類を接ぎ木することに昨年惨敗して、原因が分からなかったのでもう今年はやめようと思っていたが、熊本市の友人M君から穂木が送られてきた。何と届いたのは、4月16日である。(昨年は4月14日だから2日だけ遅い)
熊本を襲った大地震が4月14日、M君はそれまで集めていた穂木を、地震の翌日の15日、混乱のさなかに郵便局へ出向き東京へ送ってくれたのである。
周知のように、2度目の震度7の強震が16日に発生、これが余震でなく本震と訂正されるという、これまでに経験したことが無いことが起きた。
あとで知らされたところによれば、中央区水前寺にあるM君の家は比較的被害軽微だったそうだが、大変だったことに変わりは無い。
幸い、ご一家は人身事故等なかったとのこと 不幸中の幸いというもの。
熊本、大分両県ではその後に続いた執拗な1500回を優にこえる余震をはじめとして、被害は眼を覆うばかり酸鼻を極めた。
熊本や阿蘇もそうだが、隣の湯布院を含め被害地は、現役時代大分、福岡で働いていた頃、しばしば訪ねたわが縁ある土地である。
テレビのニュースを見るたび、何とも言いよう無く辛い。ひたすらお見舞いを申し上げて、1日も早く復興し安寧の日々が戻ることを祈るばかりである。

とまれ、被災にもかかわらず連年で穂木、芽デール、テープまで一式を送ってくれたM君の好意を無にすることは出来ない。災難にめげない彼の親切に応えねばならぬ。
もはや原因が分からないなどと言ってはいられない。切り出しナイフだけ新調して4月20日(昨年は4月19日)に14、5本接ぎ木をした。しかし、正直なところ、やり方は昨年と同じなので全く自信がないと、完了後M君にメールで報告をする。
案の定1ヶ月ほどたつと、今年は昨年より早く穂木が茶色く変色し始める。やはり奇跡は起きなかったとM君に詫びた。

ところが、諦めきれず6月20日に見ると 一本だけだが、小さな芽が出ていた!


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蟻んこにふたばの一枚は食われているので育つかどうか不明だが、とにかく接ぎ木に成功したのである。穂木はレモン、デコポン、ダイダイ、みかん、ザボン、ライム、パール柑、スイートスプリングのうち何だったかを記録していなかった。残念。
大地震のさなかに熊本隈府からきた柑橘が、江戸東京で芽出たく発芽したのだ。感激せずにおられようか。まことに災害のさなかに不謹慎極まりないが。
さっそく写真をつけてM君に報告する。すぐ返事がきて朗報だと喜んでくれた。

メールのなかでM君は、常緑樹の高枝接ぎ木は難易度が高く、根元での割り接ぎ、また、バラや落葉樹などから勧めるべきところだったと反省している、とあくまで優しい。

熊本ではまだ身体に感じる震度2,1の余震が続いていて落ち着かないが、受け容れて生きていかねばともと書いている。

今朝熊本では、4月16日以来の震度5弱が起きたと報じられた。なんということか。梅雨に入り、九州を毎年のように襲う梅雨明けの豪雨も、また気がかりである。(28・6・13)

J・Jグランヴィルの戯画2(終)ー「19世紀フランス幻想版画 鹿島 茂コレクション」を読む [絵]


19世紀中頃、7月革命で王位についたルイ=フィリップの治世下、不安定に揺れ動くフランスにあってパリは、近代の都市として大きく変化しようとしていた。
言論弾圧に対抗しつつ、グランヴィル、ドーミエらを中心にフランス戯画、風刺画は、新聞の隆盛、石版画などの印刷技術の進歩もあってこの時期最盛期、黄金時代を迎える。

「グランヴィル 19世紀フランス幻想版画 鹿島茂コレクション」 (グランヴィル2011)を図書館で借りて読んだ。
この本は、2011年練馬美術館で開催されたグランヴィル展の目録をほぼそのまま刊行したものだが、グランヴィルの生涯や作品など概略を知るには格好の本である。
鹿島茂氏は1949年生まれ。共立女子大、明治大教授。専門は19世紀仏文学。自他?ともにみとめるグランヴィルファン、狂?とか。

自分としては巻末の練馬美術館学芸員 小野寛子女史による論稿「グランヴィルとマネ ー絵画との関係」がたいへん面白く勉強になった。 大衆アーティストと正統派絵画の関係、大衆詩人と文学者の関係など、グランヴィルとマネと比較しながらの興味深い考察のように思えたのである。
グランヴィルは、あまり油彩を描かなかった(7点のみ)という。その理由の一つは、一気に対象の本質を捉えるには、油彩が適切な画材でなかったからという。
かたや戯画のほか、多くの油彩をダイナミックに描いたオノレ・ドーミエはどうだったのか。グランヴィルには時間がなく、ドーミエは長生きしたからだけではないような気がする。ドーミエにも言及してくれると有難かったのだが。

著書から前回掲げなかった好きな絵を引用させて貰った。


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「グランヴィル 19世紀フランス幻想版画」(鹿島茂コレクション 2011)
表紙 「私、マフをいただきましたの」手彩色木口木版。マフは両手を両端から入れて暖まる毛皮の戸外用防寒具。19世紀流行した。「動物たちの私生活・公生活情景 」より。

「動物たちの私生活・公生活情景 1842 扉」
「…滑稽なフクロウでしかなかった」手彩色木口木版。グランヴィルの鳥の絵はどれも一級。
「…ペー・リー地方の中国猫」手彩色木口木版。
「…ではまた明日」手彩色木口木版。左下の猫、右下のフクロウが秀逸。ドアの昆虫類も面白い。
<カードの戦争>「もう一つの世界」(1844)版元手彩色木口木版。不思議の国のアリスを誰でも想起しよう。
「彗星の大旅行
「フーリエのシステム
<宵の明星>「レ・ゼトワール(星々)」(1849) 版元手彩色鋼版。星の美しさを不気味な下の古城と蝙蝠が引き立てている。
「流れ星」版元手彩色鋼版。グランヴィルらしからぬ甘い抒情が漂う絵。

グランヴィルの油彩(水彩も)を見つけられなかったが、手彩色リトグラフや木版、銅版などはあたかも水彩のような仕上がりにみえる。また、モノトーンの戯画、挿絵なども魅力的だ。不思議の国のアリスの挿絵を描いたテニエル、シュールリアリズムのサルバドール・ダリらがグランヴィルの絵に触発されたであろうことは、アマチュアにも容易に理解できる。
奇想のそして孤高の画家が、もう少し長生きしていたらどんなものを描いただろうかと、月並みなことを考えてしまう。

戯画、風刺画はその時代の者にしか理解出来ないものと、後世の人々にも分かる普遍的なものとあるところは、川柳や戯詩と同じであろう。
グランヴィルの絵が後世の人々に評価されたのは、当然普遍性があるからだが、それをもたらしたものは何か、画像を見ながらしみじみと考えさせられている。

J・Jグランヴィルの戯画1 ーE・リア、H・ドーミエと比べて [絵]

J・Jグランヴィル(J.J. Grandville1803-1847)はフランスの19世紀前半に活動した風刺画家である。戯画家でもあったエドワード・リア(英)、オノレ・ドーミエ(仏)らと同世代作家だ。

筆名の「グランヴィル」は、通称。役者をやっていた祖父母の芸名から名づけたという。画号のようなものか。本名の「ジャン=イニャス=イジドール・ジェラール」(Jean Ignace Isidore Gérard )よりこちらの方で呼ばれる。1803年フランスの南東、ナンシー生まれ。1847年、44歳で没。
絵については、細密画家の父から学んだ。
21歳のときパリに行き「Les Tribulations de la petite proprieté」と題したリトグラフ集を出版。その後「Les Métamorphoses du jour現代版変身譚」(1828-29)で名声を確立する。これは胴体が人間で首から上が動物で描かれている風刺画の作品集であった。「当世風変身譚」と訳す人もいる。
後年、体制に対する風刺画からより幻想的な作風に変化し、没後に花を擬人化した作品集「花の幻想」(フルール・アニメ、生命を与えられた花々)、さらに幻想的な「もう一つの世界」などの作品集が刊行され残っている。

彼はエドワード・リア(1812-1888)より9年年上、彼と同じように人物戯画で有名になったが、家族の不幸や自らの病で失意のうちに1847年、44歳の若さで亡くなっている。
リアが鳥類画家、戯画、戯詩で成功したうえ、好きな風景画を晩年まで描き続けて76歳まで生きたことと比べると対照的である。
しかし、二人が後世の絵画、文学におけるシュールレアリズム、カリカチュアに与えた影響は甲乙つけがたいのではないか。
同じ戯画でもリアは漫画風、コミック調だが、グランヴィルはリアルなのでブラックユーモア調と言えるように思う。

しかし、グランヴィルの戯画は、リアよりもオノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier 1808-1879)とよく比較される。
ドーミエはグランヴィルより5歳下、同じ風刺版画作家として活躍したが、油彩画家でもありゴッホやロートレックらに影響を与えたとされるから大家だ。
二人とも風刺雑誌「ラ・カリカチュール」や日刊紙「ル・シャリヴァリ」において石版画(リトグラフ)で政治風刺画を発表して世に出るが、権力と衝突し、のちに大きく変わっていく方向がそれぞれで面白い。
ドーミエは、近代都市へと変貌するパリの人々の暮らしに視点を転回。ユーモアと悲哀に満ちた「風俗風刺画」へと変化する。
一方グランヴィルは動物擬人化にとどまらず植物擬人化、やがては器物や鉱物など無機質な存在へ広がっていく。その超現実的な世界を描いた作品は「シュルレアリスム」の先駈けとなる。
二人の差異はドーミエの「ユーモア」とグランヴィルの「皮肉あるいはブラックユーモア」にあるともいえる。ドーミエには辛辣ながらどこか温もりがあるが、グランヴィルは容赦なさのようなところがあると言われる。グランヴィルの人間嫌い(ミザントロープ)を指摘する人もいる。
グランヴィルを襲った数度の不幸もその原因の一つであろうが、持って生まれた気質もあるのか。
このようにグランヴィルは、動物を擬人化した体制批判の風刺画から幻想的、抒情的なものに変化していくのだが、没後に刊行された「動く花々(命を与えられた花々)」や「もう一つの世界(別世界)」などに描かれた女性像の「優しさ」は、若い時の擬人化された動物群とは大きな落差がある。
女性像は亡妻を追慕したイメージとされるが、見事まで優しさが表現されている。ここには、グランヴィルの徹底した人間否定のようなものはない。

グランヴィルが正当な評価を得たのは、シュルレアリズムが登場してからのことである。動物、植物の擬人化、妄想、夢想、幻想、抒情など一人の人間の中に、こうも異質なものがあるのかと思わせるくらい多様な思念、情念がパラノイア、シュールレアリズムと直結したのに違いない。

フルール・アニメや現代版変身譚などから画像を拾ってみた。アトランダムに。

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「Water Lilly 睡蓮」(1847)
「Flowers in Human Form 」(1847)フルール・アニメの扉。アルフォンス・カーがグランヴィルの没後刊行した。妖精が美しい。
「Tulip チューリップ 」(1846)版元手彩色鋼版。
「Primrose and Snowdrop 桜草とスノードロップ」(1847/1867 )待雪草、雪の花とも。
「The Wondrous Pilgrimage of Beetles かぶと虫の不思議な巡礼」甲虫の僧侶が可笑しい。現代版変身譚から。
「The Animals' Masked Ball 動物の仮面舞踏」(1844)Un Autre Mondeから。
「Repas du Corps 食事隊 」(1829 )ユニコーンと二本角の7人の哲学者とか。犀らしき一頭を入れると8人?になる。現代版変身譚から。
「Academy of Art アートアカデミー」(1829)何やら変な雰囲気。現代版変身譚から。
「Adventures Beneath the Microscope 顕微鏡下の冒険者」(1842 )いかにもシュールな。逃げまどっているのはパリジャンとか。さすれば深海魚のようなモンスターは何?「Vie Privée et Publique des Animaux」から。

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「Hog and dogs 豚と犬」
「Belle de Nuit 美しい夜」花は朝顔か昼顔のようだが、美しい夜とは?
「Pois de Senteur スウィートピー」さやえんどう。
「Chevrefuille ハニーサックル」和名 匂い忍冬においにんどう、ミツバチのすきなスイカズラの一種とか。
「Thistle アザミ」
「Les Fleurs Animees 花の幻想(動く花々)」(1846)
「自画像」

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「裕福な鸚鵡」
「Thrush Bird in Dressドレスを着たツグミ」(1842)-Hand-Colored Lithograph
「百の諺 」(1845 )「狼たちは共食いしない」木口木版、手彩色。
「ラ・フォンテーヌの寓話 」「熊と園芸家」木口木版。
「現代版変身譚 」「…そんな顔しないでおくれよ」石版手彩色。
「フロリアンの寓話 」(1842)木口木版。
「Le roi des pingouins キングペンギン」

次回は「グランヴィル 19世紀フランス幻想版画 鹿島茂コレクション」 (グランヴィル2011)から幾つか魅力的な絵を。

オーデュボンの水彩画2(終)…白鷺・しらさぎ・シラサギ・Egret ・White Heron [絵]


オーデュボンの水彩の博物画は、アマチュアが見てもハッキリ分かるいくつかの特徴がある。順不同であげてみる。

①画材が多く使われたミックスである。
水彩のほかに屋外で素早く写生する必要性からか速乾性のグワッシュが用いられ、どんな効果があるか分からないがパステルまで使われている。線もグラファイト、チョーク、インクが同じ絵に複数使われている。
②紙に工夫。
技術的にどんなものか分からないが、単に「…on paper 」とするものはごく稀で、
~with touches of (gold)metallic pigment and selective glazing on paper ,laid on card.といった具合。touchesは手触り、glazing は艶出し、pigmentは顔料だが、何やら加工紙と分かるもののどんなものか判然としない。紙自体もlaid on Japanese paper 、scratching out ,scraping など難しそう。ふと、クレーやターナーも紙にさまざまな工夫をしたと何かで読んだことを思い出した。
③餌となる虫、花 、木などが描かれたものが多い。背景の景色も風景画のように描き込まれているものまである。
④鳥に動きがある。闘っている図、求愛図などスローモーションを止めたように生き生きと描かれている。③とともに生態に固執して描いた博物画。
⑤鳥は原寸大を心がけたといい大きい絵も多い。


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「Ruffed Grouse襞襟(ヒダエリ)雷鳥」(1812-16 パステル)35.9 ×45.0cm、若い27歳頃のもの。画材がパステルのみというのは珍しい。
「Ivory-Billed Woodpecker ハシジロキツツキ」(1825-16 w p g )木に甲虫まで描かれている。注:(かっこ)の中のw、p、gはwatercolor,pastel, gwacheの略。以下同じ。

「Carolina Parakeet カロライナインコ」(1825 w 、graphite 、p 、g、black ink with scrapping and selective glazing paper)
「Osprey ミサゴ」(1829 w p )鶚はタカ目猛禽類の一種。いまやオスプレイの方が有名。別名魚鷹。
「Purple Grackle ムラサキクロムクドリモドキ」(1851 w )紫色の黒椋鳥擬 き。
1851年は没年、おそらく最晩年のものか。水彩、鉛筆、チョーク、インクのみ。グワッシュ、パステルを使っていないのは珍しい。
「Colombia Jay コロンビア カケス」(1827 w p collage )
「Golden Eagle 金鷲」(1833 w p )左下に一本丸木橋を渡っているのは猿か?
「The Passenger Pigeon リョコウバト」「アメリカの鳥類 」に収録された銅版画。
原画は、前回掲載した1824年の水彩画。それを銅版画に起こし、点描で陰影をつけ手彩色をしたもの。
オーデュボンは鳥だけでなく沢山の野生動物を描いているが1枚だけ。
「Grizzly Bear グリズリー熊」(1845-48 Hand-colored lithograph )グリズリーはハイイログマ(灰色熊)のことで北米に生息するクマ科の大型動物、北海道のヒグマと近いという。
アメリカの水彩画家は、ウィンスロー・ホーマーらもそうだが、伝統的に熊や鹿など動物を好んで描くと何かで読んだことがある。

余興ながら、我が家の住所は白鷺(しらさぎ)なる地名が入っているので、鷺づくしと洒落た。
ネット画集を見ているとどうやら鷺は「Heron」 で白鷺は「Egret 」らしい。white heronといえば白鷺だからややこしいが。
日本のシラサギは、白鷺の総称でシラサギという鷺がいるわけではない。ちなみにシラサギには、ダイサギ(Great Egret )、コサギ(Little Egret)、チュウサギ(Intermidiate Egret )の三種がいる。

ほかに鷺にはゴイサギ(Black crowned night Heron ,Night Heron) 、アオサギ(Grey Heron)、クロサギ (Eastern reef Heron )などがいる 。アマサギ(Cattle egret )は、egretだからシラサギのようだ。注:()は英名。
ついでながら、鳥の名前はCrane鶴 、Storkコウノトリ 、Mallard マガモ 、anhinga へび鵜、Grouse雷鳥、Woodpecker啄木鳥などなど鳥類画集をみていると、亜種もいるから、いろいろな名がついていて面白いなと思う。


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「Great Egret 大白鷺」(1821 Watercolor,graphite,ink ,and chalk on paper)
紙に水彩、グラファイト、インク、チョークだが、ある雑誌の記事では水彩、石墨、グワッシュ、パステル、白色顔料、黒インク、黒チョーク、紙とある。(芸術新潮 2013年6月号)オーデュボンの代表作の一つ。
「Great White Heron 大白鷺」(1827 Aquatint )69.85 ×100.33cm 。
「Great Blue Heron 大青鷺」(1821 oil )油彩は珍しい。
「Little Blue Heron 小青鷺」(1827 w g p )51.8 73.5cm。
「Reddish Egret 赤みを帯びた白鷺」(1832 w g p )65.2× 96.5cm。アマサギか。
「Snowy Egret 雪白鷺 」(1832 w g )Birds of America: List of Plates - 「アメリカの鳥類」(1827-38)の図版リスト (English)ではなぜかSnowy Heronとなっている。
「Louisiana Heron ルイジアナ鷺 」(1834 Hand-colored etching and aquatint on Whatman paper )手彩色のエッチングとアクアチントとあるが銅版画。52.8×66cm。
「Little Blue Heron 小青鷺」(Date unknown)
Yellow-crowned Night Heron 黄色冠のゴイサギ」(1821 w p)


あらためて博物画(natural history illustration)は、動物・植物および鉱物などの観察対象の姿を詳細に記録するために描かれる絵であるが、16世紀ヨーロッパで博物学と共に発展した。
大航海時代や米欧の植民地政策などとも関連するのは、わがシーボルト編の「日本動物誌」(1833-50)、日本植物誌(1835-70)を見ても明らかだろう。
19世紀になると写真が登場したにもかかわらず、全盛時代を迎える。

イギリスではジョン・グールド(1804−1881)が代表的な博物学アーチストとして名高く、 ヨーロッパ鳥類図譜(1848)など多くの図鑑を残している。
また、ベルギーの画家、植物学者で百合やバラなどの植物を描いた博物画を多く残しているピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (1759 - 1840)も、「バラの画家」「花の画家」として知られる。彼らの絵は科学的に有用だけでなく、芸術性も高く現代でも愛好者は多い。

オーデュボンやグールドが活動した時代は、日本では江戸時代末期から明治初期ということになる。北斎、若冲らの動、植物絵にも似たものがあるが、写実的で美しく芸術性は高く評価されるけれども、ヨーロッパの博物画より科学性が低いという点で大きく異なる。中国の花鳥図なども同類といえよう。

ヨーロッパの博物図鑑の絵は水彩などで描いた原画をもとに銅版画、石版画に起こし、点描で陰影をつけ手彩色をしたものだが、原画とは印象が随分と異なるのは否めない。しかし、印刷技術によって貴族の趣味や一部の科学者だけでなく、一般の人々も楽しめるようになったことは大いに評価されて良いことだと思う。

自分もオーデュボンの水彩などの原画を画像でなく、実物を見たくなった。日本での企画展を望むのはムリか。

オーデュボンの水彩画1…カラカラ、リョコウバトのことなど [絵]

ジョン・ジェームズ・オーデュボン( John James Audubon, 1785- 1851 66歳没)は米国の画家・鳥類研究家。北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描い
た博物画集の傑作「アメリカの鳥類」(Birds of America, 1838年)によって知られる。

いきなりだが、オーデュボンカラカラという鳥がいることを知っている。
わが、四度目の地方勤務は福岡市。職場では札幌支店と並ぶ希望者の多いところ。昭和63年から平成元年にかけて一年1カ月、西鉄薬院駅そば浄水通りに面したマンションが社宅であった。
休日に近くに動物園があり家族で出かけたとき初めて知って、いまでも覚えているのがこの鳥だ。鳴き声が高くしかも長いうえ、終わり方が独特で皆で笑った。鳥舎の名札を見るとオーデュボンカラカラと書いてあった。三十年近く昔のことになるのに、ときどき思い出して話題になる。
どんな鳥だったか、高い木の上にいたので姿かたちは良く覚えていない。今回ネットで画像を探したらなんと!オーデュボンの絵がでてきた。


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Northern caracaras fighting. Painted by John James Audubon.(Unknown date)
「ジョン・ジェーム・スオーデュボンによる闘うノーザンカラカラ」(制作年不詳)である。
Original description: Brasilian Caracara Eagle (Polyborus vulgaris)、Modern name: Northern Crested Caracara (Caracara cheriway) と付記されている。
原記載:ブラジリアンカラカラ 鷲 ,現代名:ノーザンカンムリカラカラと訳せば良いのか。
明記されていないが、水彩と思われる。
Northern Crested Caracara(ノーザン カンムリ カラカラ)は、オーデュボンカラカラとしても知られるとも書いてあるから、カラカラという鳥はこの絵を描いた鳥類画家オーデュボンと関わりがあるのだろう。

ジョン・ジェームズ・オーデュボン 。西インド諸島ハイチの生まれ。父親はフランス商船長。3歳のときその父の養子となり、渡仏フランスで絵を学ぶ 。
1803年、ナポレオン戦争を避けて18歳のとき単身渡米、ペンシルバニアの農場で働きながら鳥を観察して暮らした。
この時、彼が鳥の帰巣本能を突きとめたことを書いた絵本がある。
「鳥に魅せられた少年 鳥類研究家オーデュボンの物語」(わくわく世界の絵本 ジャックリーン・デビース/文 小峰書店2010 原作 2004)。
図書館で借りて読んだが、なかなか洒落た感じの絵本だ。

さて、オーデュボンは、NYなどで鳥類図鑑を刊行しようとするが叶わず、1826年41歳で渡英する。
イギリスの詩人で画家のエドワード・リア(1812ー1888)は、この頃盛んに鳥を描いていて「オウム図譜(1831)」を19歳の若さで発行している。リアはオーデュボンより27歳年下で親子ほどの年齢差だが、オーデュボンはリアの鳥類図鑑にも影響されたのではないかと想像する。

オーデュボンによって1827年から1838年にかけてイギリスで出版された「アメリカの鳥類」には、水彩画を元にした435枚の彩色銅版画が収められた。
いまでは最も高価な印刷刊行物として知られ2010年、ロンドンサザビーズで1150万ドル(約6億6000万円)で落札されたという。
いま我々もネットで見ることができるが、鳥好きにはたまらないだろう。

http://web4.audubon.org/bird/BoA/ListOfPlates.html

標本を元にして描かれることの多かったそれまでの博物画と違い、原画は生きた鳥が自然の生息環境の中で躍動的に描かれおり、しかも、一羽一羽の鳥が原寸大で描かれているのが特徴とされる。

彼の水彩画を見る前にもう一つのエピソードを。

題名に惹かれて新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した「オーデュボンの祈り」(伊坂幸太郎2000 )を借りてきて読んだ。

かつて北米大陸東岸に棲息していたリョコウバト(旅行鳩)は、ハト目ハト科の渡り鳥で、生息地のアメリカにちなんで、一般的にアメリカリョコウバトとも呼ばれた。
北米に50億羽と言われた鳥類史上最も多くの数がいた、このリョコウバトが、生息地の破壊と乱獲によって20世紀初頭にたった200年の間に絶滅した。最後の一羽のマーサは、1914年に動物園で亡くなる。
リョコウバトは肉が美味だったこと、飼料、衣料(羽毛)として有用だったこと、数が多く絶滅などよもやと思わせたことがかえって禍いしたという。
このハトは、空が暗くなるほどに数十万羽単位で飛翔する圧倒的な個体数とは裏腹に、繁殖力の弱い鳥類であり、小さな集団では繁殖できなかったという。繁殖期は年に1度で、しかも1回の産卵数は1個だけであった。人々が絶滅の危惧ありと気づいた時には既に手遅れになったいて、あっと言う間に地上から消えてしまったのである。

「オーデュボンの祈り」は、このことをモチーフにして展開する少し変わった推理小説である。
「誰にも止められない、悲しい結末に向かうことを」「人間ってのは失わないと、ことの大きさに気がつかない」
という作者のメッセージが、(聞いたことはないのに)リョコウバトの悲痛な鳴き声とともに伝わってくるようだ。

オーデュボンにこのリョコウバトの水彩画がある。
「Passenger Pigeon ( Ectopistes Migratorius )リョコウバト」(1824 水彩 、パステル 、グワッシュ 、グラファイト 、黒チョーク、黒インク on laid card)だ。

リョコウバトは、数十万羽の単位で飛翔しオーデュボンが描いたとき(1824年)は絶滅すると考えた人はなかったという意味でも、いろいろ考えさせられる貴重な絵である。

次回はオーデュボンの水彩画を。

エドワード・リアの水彩画3(終) 風景画など [絵]



リアは風景画に転向し、1837年以降晩年まで地中海沿岸、アフリカなど各地を旅して水彩や油彩で多くの風景画を描いた。これまで見た鳥獣画や戯画類とは一変したある種威厳に満ちた様なイギリス伝統のランドスケープ、シースケープである。

水彩を中心に並べて見ることにする。

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「Mount Athos.アトス山 」(1857 Black chalk, bodycolour, watercolour on paper. 298mm x 466mm)アトス山は、ギリシャ北東部・エーゲ海に突き出したアトス半島の先端にそびえる標高2033mの山。1856グワッシュと水彩とする画集もある。ボディカラーあるいは、グワッシュは白い高峰に使っているのか。

「Selmun Palace, Malta.マルタ島のセルマン宮殿 」(Unnown Pen and brown ink, watercolour. 103mm x 203mm.)

「A view of Mendrisio, Switzerland.スイス メリデリジオの景観」(1878 Watercolour and ink, unframed. 9 x 15cm )

「Hubert and Arnold Congreve, one carrying a cat on a slope above the Villa Congreve, San Remo.」(1871 Pencil, pen and watercolour with touches of gum arabic. 17.2 x 11.8cm )

「Tughlaqabad Fort, Delhi. 」(1874 Watercolour over traces of pencil. 11 x 22cm )
以下の3枚は風景画ではないが。
Orange Treesオレンジの木 」(1856 水彩)
「Greek Woodcutterギリシャの木こり 」(1856 ペン インキ 水彩) 23.0 ×15.4cm
「Head of a chimpanzeeチンパンジーの頭部」(1835 グラファイト 水彩) 23歳のときの作品。

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「 View Near Palermo パレルモの景観 」(1847 ペン インキ 水彩 鉛筆 )パレルモはイタリアシチリア(シシリー)島の都市
「Calendar」( 1848 ペン インキ 水彩)
「Temple at Bassae バッサイの寺院」 (1849 水彩 )バッサイはギリシャの古代神殿跡がある。線画淡彩のスケッチ。
「Wady Sidera 」(1849 水彩 )左にらくだ、右に隊商らしき人々。
「Luxor ルクソール 」(1854 ペン ブラウンインキ エンピツ 水彩 )左に白衣の人。ルクソールは、エジプトの都市。神殿跡、王家の谷で知られる。
「Corfu, Nymphes コルフ」(1856 ペン インキ水彩 )左に細く高い木 。コルフ島またはケルキラ島はギリシャ。地中海東部にある。

「On the road Two ours from Tepelene テペレネから2時間の道で」(1857 水彩) 左に太い木。テペレネ県はアルバニア。
「Goniaゴニア 」(1864 水彩 )左に青い海。ゴニアはギリシャ、アテネの南に浮ぶ島内にある村落。


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「Golf Juan ,noon 」(1865 水彩) 白はグワッシュか?
「Monaco from Cap d'ail キャップ デゥアリからのモナコ」(1865 彩)17.2×37.5cm。
これも白がきいている。
「Grand Canal,with Santa Maria Della Salute,Venice,Italy グランド カナル」(1865 水彩)34.9×50.1cm。誰もが描く場所。ヴェニスの大運河。
「Abydus 」(1867水彩 )アビダスはギリシャの港町。
「Derr, Egypt 」(1867 水彩)
「Howatke 」(1867 水彩 グワッシュ )55歳の作品 。アフリカ エジプト。
「Tivoli 」(Date unknown 水彩)城 デンマーク コペンハーゲン チボリ公園か?
「Wied Zurrik ,Malta」( Date unknown 水彩 )マルタ島はイタリアのシチリア島の南93kmほどのところにある島。マルタ会談で有名。

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「Villa Castellane,Varese」( 1884 水彩) 28× 54 cm 。油彩のように見える。カステラーヌは仏南東部プロヴァンスにある。 ヴァレーゼは北イタリアの都市。二つの関係性が分からない。高峰が手がかりになりそう。ヴィラは別荘だが。没(1888)年の 四年前、72歳の作品だからおそらく最晩年の水彩画。リアの風景画はスケッチで小さいが、これは、少し大きく完成度も高いように思える。

「Kincninjunga from Darjeeling ダージリンからのカンチェンジュンガ 」(1879 油彩)119.8×182.9cm。水彩画に比して大きい絵。1977年に描いた同じ絵がある。
カンチェンジュンガ山はヒマラヤ山麓(さんろく)の保養地ダージリンからわずか50キロメートル足らずの所にある。
ヒマラヤ山脈の東部、シッキム・ヒマラヤ山脈にある大山群。インド東部のシッキム州とネパール東部の国境上にそびえる。五つの峰が群がり、そのうちの3峰までが8000メートルを超す高峰で、とくに主峰カンチェンジュンガ(8586メートル)は、エベレスト(8848m)、k2(8611m)に次ぐ世界第3位の高峰である。
カンチェンジュンガとはチベット語で「大きな五つの雪の宝庫」を意味し、仏教的に「五大宝蔵」をさすという。

ロンドンで21人兄妹の20番目に生まれたというリアは、もうそれだけで普通の人と変わっていることが分かる。多くの兄妹は亡くなり、多産に疲れてしまった母の愛も多くは受けずに成長した。
「ノンセンスこそ命の息ぶきだ」「人生は根っからっからのむなしい悲劇で、大事なのはちょとした冗談だけだ」とリアはいったとされるが、この思いに至るまでの懊悩、葛藤はいかばかりかと思う。
幸い鳥類の絵で生活が出来て、詩作と絵を楽しむことが出来たのは幸せというものだろう。
しかも、好きな風景画を描いて後半生を過ごした。ヴィクトリア朝という産業革命の興隆期のイギリス社会には目もくれず、生涯独身を通しスケッチしつつ放浪の旅を楽しんだ感がある。画人、詩人としては恵まれた方であろう。

例えば、同年代に風刺画家として成功したフランス人グランヴィルの生涯と比べると、はっきりする。
「ジャン=イニャス=イジドール・ジェラール」(1803~1847年)は、1803年生まれ、通称グランヴィルと呼ばれた。22才でパリに出て絵を描いた。後に彼はリアと同じように人物戯画で有名になったが、家族の不幸や自らの病で失意のうちに1847年、44歳の若さで亡くなっている。
しかし、二人が後世の絵画、文学におけるシュールレアリズム(カリカチュア性も)に与えた影響は甲乙つけがたいのではないか。

さて、リアは晩年も風景画を描く傍ら、1867年真冬のカンヌで病気の少女を励まそうと、「フクロウと子猫」と題した挿絵入りのノンセンス抒情詩を書く。もとより優しい男だったのであろう。
また1871年、詩集「ノンセンスのうた」を出版した。翌年、続編「もっとノンセンス」を発表し、この2作でたちまちノンセンス詩人として名をあげ、1877年、最後のノンセンス詩集「笑いのうた」を発表した。

上掲のイギリス伝統の水彩画を思わせる静謐で穏やかな風景画「ヴィラ カステラーヌ、ヴァレーゼ」や油彩の「ダージリンからのカンチェンジュンガ」を眺めていて、だれが細密なオウムやインコ、コミックバード、植物や人物戯画、ナンセンス絵本、リメリック戯詩などを想起するだろうか。とても同一人物の作品とは思えぬ気もする。

自分としては、リアの鬱屈していたであろう「精神」と、それとたぶん深いところで関係がある「戯画や戯詩」を思いながら、静かな水彩画を見ていると画人か詩人かはどちらでも良いのであって、ただ多才に驚愕するのみだ。
そして一人の孤高の男の生涯を思い、何とも表現し難いしみじみとした気分になる。

エドワード・リアの水彩画2 鳥類画・コミックバードなど [絵]



エドワード・リア(1812-1888)といえば、日本では鳥の絵なかでも鸚鵡で有名であるが、リアは最初オウムやインコなどの鳥類画家(代表作「IIIustrations of the Family of Psittacidae,or Parrots 1830年刊)として出発する。鳥の絵は江戸時代末期に生きた鸚鵡や鸚哥とともに日本に伝わり、人々を驚かせたようだ。

リアは貴族が趣味で集めた珍鳥類の絵を貴族の専属画家として描いて生活する傍ら、好きな戯画や風景画を描いたというから、画家としてもちょっと変わっている。

リアの鳥獣は記録のための図鑑だから、多くは精密なカラーリトグラフとして残っているが、水彩の絵もある。

また、それとは対照的な何枚かの戯画風の鳥の絵(水彩、ペン、インキ)があって、こちらは「コミックバード」と称している。「漫画鳥」だから何やら可笑しいのは当然ながら、つい本業の生真面目な鳥の絵と比べるからだろう。鳥たちは、写生でなくリアの頭の中に浮かんだイメージであろうが、とぼけてしかも生き生きしている。

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「The Crimson Bird ,from Drawings of Sixteen Comic Birds真紅の鳥、16の漫画の鳥の絵から.」 (Date unknown Pen and ink and watercolor on paper )

他にThe Light Green Bird ,The Pink Bird ,The Runcible (三又スプーンの?)Bird,The Purple Bird,The Scroobious Birdなどなど。16枚どころか他にも沢山あるようだ。色や模様の鳥名がつけられているのも愛敬。

さて、ネットを見ていたら、このコミックバードとは違う鳥の絵のスケッチ風の面白い一連の絵を見つけた。鳥類図鑑ためのスケッチらしい。グラファイトと水彩の絵の具のようだが、鳥のまわりに試し色がついていて、一見すると制作過程・メイキングのよう。

こうしたスケッチを経た上で詳細で写実的な鳥類図が描かれたのであろうか。このスケッチはこれだけを見ても、躍動感があり十分独立して美しいので楽しめる。特に試し色が綺麗で独特の雰囲気を出している。
また、少しラフだから見ようによっては「コミックバード」との中間にあるようにも思える。

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「Parrot head(red and yellow macaw) インコの頭部(赤と黄のコンゴウインコ)」
オウムとインコは、いずれもオウム目である。インコはオウム目インコ科(330種、英名true parrots) 、オウムは、オウム目オウム科(21種、英名Cockatoo)。オウムは冠羽(crest)があり、冠羽のないインコと区別が容易に出来る。
「Macaw コンゴウインコ」
「Green and red parrot 緑と赤のインコ」
「Salmon-crested Cockatoo 鮭色−トキ色のオウム」54.7×36.6cm 。
「Green parrot 緑のインコ」
Blue parrot 青いインコ」
「Green parrot 緑のインコ」
「Little Hokum Rag」(graphite and Watercolor) 「Barnard's Parakeet バーナードインコ 」とする画集もある。どちらが正しいのか不明。parakeetもインコだが。
「Two parrots 二羽のインコ」
「Sulphur and crested cockatoo 硫黄とトキ色オウム」crestedは朱鷺色だが、「冠羽の…」と訳すのが正しいのか。

さて、リアの鳥獣類の水彩で「watercolor on paper」とあるのは、意外と少ない。たいていはリトグラフだ。

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「Paloeornis India」( 1830 水彩 ) 28歳の時の絵。
「Brazil、May 」(1836 水彩 )コンゴウインコ。
「A Weasel イタチ 」(1832 水彩 グワッシュ)
「African Soft-shell Turtle 」(Date unknown 水彩)
「Kite 鷹 」(Date unknown 水彩)
「Shrews トガリネズミ 」(Date unknown 水彩)

水彩ではないがリアの代表作なので掲げた。
「Blue and Yellow Macaw 青と黄色のコンゴウインコ」( Date unknown Color engraving)(engravingは彫刻だが?リトグラフとどう違うのか)
「Salmon-Crested Cockatoo 鮭色−冠羽のオウム」(Date unknown Color lithograph)
「Sulphur and white breasted Toucan 硫黄色と白色の胸のオオハシ 」(Date unknown Color lithograph)

次回はリアが画家として目指した風景画を。

エドワード・リアの水彩画1 ナンセンスの絵本など [絵]


エドワード・リア(Edward Lear 1812 - 1888 76歳没)は、イギリスの画家であるが、ナンセンス詩人でもある。ナンセンス詩人とはあまり聞きなれないが、リメリック詩(5行脚韻詩)に滑稽な挿絵をつけた作品を発表した。リアは詩人であるが、画家でもあると紹介する人もいる。「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルなどに影響を与えたとされるが、童話の方か、テニエルの挿絵の方か。

リメリック(limerick)は厳格な形式を持つ五行詩で、滑稽五行詩、五行戯詩とも呼ばれる。イギリスでは、リアによって広まったという。

There was a young lady from Riga, - (A)
who smiled as she rode on a tiger. - (A)
They returned from the ride - (B)
with the lady inside - (B)
and the smile on the face of the tiger. - (A)

作者不詳。大意「リーガ(地名)出身の若い淑女がおりまして/虎にまたがり微笑みました/乗虎から戻った時/淑女は虎の中にいて/虎の顔には微笑みが」

AABBAと韻を踏むが、リアのリメリック滑稽本の代表作「ナンセンス絵本」の扉にある五行詩を引くとよりわかりやすい。

There was an Old Derry down Derry,
who loved to see Little Forks Merry;
So he made them a Book,
and with laughter they shook
At the fun of that Derry down Derry.

ロンドンデリーのあるおじさん いつも子どもに笑いを持参/それぞれ本を書いたわい/すると子どもがかわいーのわい/笑いがなければ作家を辞さん(柳瀬尚紀訳)

リア 「ナンセンスの絵本」は、柳瀬尚紀訳、岩波文庫(2003年刊行)があるので図書館で借りて読んだ。無理して韻を踏もうとするので、訳には少々苦しいものもあるが、なるほど絵は楽しい。

詩人リアの滑稽詩、滑稽画はのちの滑稽・パラノイア小説やカリカチュア(ポンチ絵)、シュールレアリズムなどに大きな影響を与えて、強い興味がわくが、わが関心は水彩画の方にある。

イギリスの水彩家の巨匠といえばウィリアム・ターナーであるが、彼は1775年 生まれ(1851年 没、リアと同じ76歳だった)である。
エドワード・リアはその37年後に生まれて、19世紀後半に活動した画家、詩人である。ヴィクトリア朝 (1837-1901 )、つまりヴィクトリア女王の統治時代という事になる。
実際彼はヴィクトリア女王の絵の個人教授をしたことがあったという。
19世紀後半イギリス絵画界では、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828-1882)らのラファエル前派(ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood)が活躍した時期である。写実的な細密描写は共通点があるが、象徴主義の先駆とも言われるラファエル前派の絵とはおよそ異なる。

順序が逆になるやも知れぬとも思うが、リアの水彩の前にまずは戯画などを。

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「A Book of Nonsense」(1846)
「Nonsense」
「Edward Lear aged 73 and a half and His Cat Foss, Aged 16」リア73歳と1/2 と彼の猫16歳 」 (Date unknown リトグラフ)。73歳とすれば1885年で亡くなる三年前になるが。猫の16歳も相当の老猫だ。
「ナンセンスの絵本」柳瀬尚紀訳 岩波文庫 2003刊。
「Self-caricature in profile, standing 」(1870) 58歳か。リアは自分を卵に擬して描いたという。あと特徴はあごひげ。
「The Letter C of the Alphabet」( 1880 )面白そうなので他のアルファベットも探したが、見つからなかった。SはたしかSnail カタツムリ。
「Self-Portrait 」
「illustration for "The Owl and the Pussycat" 」(1888) 「フクロウと子猫」は1867年の挿絵入りナンセンス叙情詩。
「アルファベットの「A」を魚に例えたイラスト」(NONSENSE BOOKS 1894年のイラスト)シュールだ。
「Enkoopia Chickabiddia 」何やら植物に鳥かごと鳥たち。リアのボタニカルアート。
ほかにも多くのナンセンスボタニイ、猫づくしなどもあってリアのナンセンス絵は多彩である。

参考
http://www.nonsenselit.org/Lear/リアのホームページ

リアの水彩は鳥や小動物の絵、人物、静物、風景画があって多彩。次回は鳥の絵を。

二人のガブリエル・マリ [絵]


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結婚五十一年目に入ってから、「金婚式」という曲があることを知った。音楽はとくにオクテである。たぶん老人のための歌なのに、祝婚歌のように明るく美しい曲なのでiPodにダウンロードして時々聴く。
「金婚式 La cinquantaine(サンカンテーヌ)」は、フランスの作曲家ガブリエル・マリーによるガヴォット風のピアノ独奏曲。
フランス語のタイトル「cinquantaine(サンカンテーヌ)」は「50」のこと、50回目の結婚記念日を金製品の贈り物で祝う、「金婚式」そのものである。
今日では、ヴァイオリンとピアノの室内楽やヴァイオリン独奏、フルート独奏曲、管弦楽曲などに編曲されて演奏される機会が多く、演奏家にとっては練習曲のひとつのよう。

ガブリエル=マリ(Gabriel-Marie)ことジャン・ガブリエル・プロスペル・マリ(Jean Gabriel Prosper Marie, 1852 - 1928 76歳で没)は、フランスの指揮者、作曲家。

ガブリエル・マリーは指揮者としても活躍しており、サン=サーンスらの主導で設立された国民音楽協会(Société nationale de musique)の演奏会で7年間指揮を務めた。
なお、ガブリエル・マリーが作曲した作品はいくつか確認されているが、この『金婚式 La cinquantaine』以外の曲は現代ではほとんど知られていないという。

ネットでこのことを調べていたら、曖昧回避か、もう一人のガブリエルマリーがいた。こちらは画家、しかも女性。知らない画家である。オクテは音楽だけではなかった。

女流画家はこれまで、三人をこのブログで取り上げている。ほかには葛飾応為、三岸節子もいる。
画家を男だから女だからとして見ることはないが、なぜ閨秀画家というのか。閨秀作家もいるが閨秀音楽家とはあまり言わないのはなぜか、などと埒もないことを考える。キュリー夫人が閨秀学者とも言わない。閨秀とは、「学問・芸術に優れた女性」と辞書にあるのだが。

話が飛ぶけれど、私見、偏見、独断ながら我が国では現代の水彩画家は、どうも女性の方が良い絵を描くような気がする。実際、一緒にカルチャーでお稽古をした仲間でも、女性の方が男性よりセンスも良いように思った。

これまで取り上げた女流画家。
①ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841年- 1895年)は、19世紀印象派の女性画家。男性中心の19世紀における初期の女性画家ということもあって、フェミニズム研究でのアプローチが多いというが、マネの影響を受けて素晴らしい絵を描いている。

ベルト・モリゾの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-09-12

②メアリー・スティーヴンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt, 1844年- 1926年)は、アメリカの画家・版画家。ベルト・モリゾより3歳下の生まれ。モリゾは51歳で亡くなったが、カサットは82歳の長寿を全うした。ドガのパステルに触発されてパステルが多いが水彩もある。

メアリー・カサットとドガの水彩画
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-10-06

③シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon, 1865- 1938 72歳で没)はフランス、モンマルトルの画家。画家になる前は、ルノアールら著名な画家のモデルでもあった。画家モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883 - 1955 71歳で没)の母である。

「ユトリロとヴァラドン展」へ行く
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2015-06-05


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さて、マリー=ガブリエル・カペ(Marie-Gabrielle Capet, 1761 - 1818)は、18世紀後半に活動した新古典主義のフランスの画家である。
代表作が「自画像」(1783年頃 油彩) 国立西洋美術館蔵、であるというのも珍しい。


美術アカデミーの最初の閨秀画家のひとりとして名をはせていた肖像画家アデライード・ラビーユ=ギアール(Adélaïde Labille-Guiard, 1749 - 1803)のもとに弟子入りし、このときに描いた絵が、カペの「自画像」といわれている。このとき、カペは芳紀22歳だった。まさに発しとしている。
カペはパステルで肖像画も描いたというが、残念ながら画像を見つけられなかった。

師のギアールの代表作は「弟子二人と一緒の自画像」(1785 油彩) NY、メトロポリタン美術館蔵で二人の弟子とはマリー・カペとキャロー・デュ・ローズモンド。どちらがかぺなのか、自分には分からない。

ところで、18世紀で最も有名なフランスの閨秀画家は、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755 - 1842)とされる。
代表作は「麦藁帽子をかぶった自画像」(1782 油彩)。真正面を向いた画家の唇にちいさな歯が見えるのが話題になったというのは、小事ながら時代を反映しているのか。この時世女流画家には、生きにくかったであろうことは想像に難くない。

ルブランはマリー・アントワネット王妃の御用画家であり、多くの王妃の肖像画を描いている。王妃の「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている。王妃の悲劇と重なり痛々しい。ふと、昔行ったトリアノン村を想い出した。
掲げたのは、代表作となっている「マリー・アントワネット」(1783 油彩)。

18世紀後半といえば、フランス革命が1787年の貴族の反抗から1799年のナポレオンによるクーデターまでをいうのだから、まさに彼女たちは革命前、ルイ王朝の宮廷画家として活躍したのだ。19世紀初期に男性画家と肩をならべ先駆的に活動したモリゾやカサットらの1世代前になる。
ガブリエル・マリー・カペらを新古典主義というからには、美術史の専門家なら、彼女たちの中に単なる肖像画家だけでなく、次代に伝えられていく新しい芽も見出すに違いない。

今のところ自分には、美人画としか見えないのは残念である。

それにしても、名前が同じというだけで無関係の人物を並べて話題にするとは、われながらとりとめのない、方向感のないブログであると思う。このブログらしいといえばそのとおりではあるが。
ラ・トォールもそうだが、なぜかあまり意味のない同じ名前とかに惹かれるたちであることは間違いない。

病院に「ジャズ」が… [随想]


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リタイア以前を含めて20年以上、世話になっている病院の待合室にアンリ・マティスの「ジャズ」20点すべてが展示されているのに気づいた。
今もほぼ毎月一回程度は行くのに、気がつかなかったのはどうしてだろう。
人は知らないものは見えない、関心が無いものは眼に入らないというが、それにしてもわれながらひどい。年はとりたくないものである。
病院は最近リフォームしているので、そのときから「ジャズ」を飾ったのだろう。目に入らないはずはないと思うのだが、わが眼を疑うとはこのこと。

版画集「ジャズ」については、このブログにマティスの切り紙絵のことを書き、そのなかでとりあげたばかりである。

アンリ・マティスのグワッシュ切り紙絵2ー 挿し絵本 「ジャズ」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2016-04-11

病院には原画すべてが1,2階の壁に掛けてあり、一番手前には「ジャズ」について過不足ない説明文まで掲示されていた。
マティスが1941年、第二次世界大戦が始まろうとしている時、生死にかかるほどの腸の手術を受け、回復に時間がかかり車椅子の生活を余儀なくされた時期(1947年)に編纂された、と紹介したうえで、
「どのように苦しい時でも希望を失わない心の強靭さが、見る者を元気づける作品となっています」ーとある。
まさにそのとおりで、医者に診て貰おうと、病院にきて順番を待つ不安いっぱいの人々を励ますにはもっとも適した絵に違いない。
マティスの切り絵だと知って観るか、知らずに観るかは全く関係無い。絵から何を感じるかということが一番大事なことと思いつつも、あらためてまじまじと絵を見つめた。我が絵画鑑賞眼のレベルの低さを思い知らされるだけである。
これがマティスの「室内」や「婦人像」だったら、あ、マティスだと気付いたであろうから、デザイン性の高い「切り紙絵」だからきづかなかったのか、と繰り返しうだうだ考えている。

さて、展示されている絵は、フランス出版社が2005年リトグラフ(石版画)によって複製したものという。大きさはF 20くらいか、「ラグーン」や「トボガン」などいずれも見ごたえがある。

例えば「白と青のトルソ(1944)」は、題名が「フォルム」となっていたが、鋏のあとらしきものまで残っている感じで、当然ながらデジタル画像よりも迫力がある。

病院の壁に「ジャズ」を選んだのは、存じ上げている院長先生、世話になっている先生らお医者さんでなく、担当の方であろうが、決定された方々を含めて良い選択だと感心する。
今まで気づかなかったのは恥ずかしいが、これからは待ち時間も退屈しないと思うと嬉しい。この病院はやたらと待たせる病院なのである。

八国山緑地散歩 [自然]

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5月2日、新緑を見たくて初めて八国山緑地に出かけた。出かけたというより、前に行ったことがあるという家人に連れて行って貰ったという方が正確。体調もうひとつで今年は、桜も近所の桜だけしか見に行かずに終わった。春が急ぎ足で行ってしまう。
鷺ノ宮駅から東村山駅で乗り換え西武園駅まで30分ほど。八国山は競輪場のすぐ側にある。駅は競輪場へ行くおじさんが多く、GWなのに子ども連れ家族は少ない。
8時半ごろ出発して1時前には帰宅、お昼は家で食べる。最近は家で食べるのが一番いい。

八国山緑地(はちこくやまりょくち)は、東京都東村山市と埼玉県所沢市にまたがる緑地であり、都立公園となっている。宮崎駿の映画「となりのトトロ」のモデルになったともいわれる。
足弱ならずも老人には、丸太の椅子がありがたい。
東村山市にあり都立公園のくせに、なぜか所沢市管理という立て札が。合同管理か。

八国山緑地は、なだらかに広がる狭山丘陵の東端にある。面積36.7ha。
八国山の名は、山頂から、かつて上野、下野、常陸、安房、相模、駿河、信濃、甲斐が見渡せたことが名前の由来とされる。山というより丘のようなものだから、茨城なら筑波山、静岡は富士山、群馬の浅間山、栃木は男体山などが見えたということであろう。今は木が高く育ってほとんど眺望がきかない。
古戦場など史実、伝説の豊富な場所で将軍塚もある。将軍とは将門か義貞か定かでない。多分後者だろうが、疲れて見に行くのをやめた。
1333年 反鎌倉幕府の上野の国の御家人新田義貞が、小手指原の戦いで幕府軍を破りここ八国山に陣を張ったという。このあと鎌倉の東勝寺合戦をへて鎌倉幕府が滅亡、南北朝時代へ突入することになる。
東西1.9kmにつらなる都と埼玉県境の尾根道は、適度なアップダウンがあり、歩きやすく、くぬぎ、コナラ、リョウブ(リョウブ科落葉高木)やヤマザクラを見ながらのウオーキングを楽しめる。
今は、みずきが白い花をつけていて美しい。ホーホケキョを練習中の鶯や野鳥の啼く声も聞こえる。
尾根道から南側へ、幾本もの枝道があり、その途中静かな林内に設けられたほっこり広場は、楓やみずきなどの木に囲まれた草の原である。花と綿毛のタンポポやカラスノエンドウなどが目を楽しませてくれる。また、園内南のふたつ池周辺は、バードウオッチングのスポットになっているというが疲れてしまい、残念ながらここも行くのを諦めた。

八国は見えずみずきの花高し

亡き友の笑顔がつらし青楓 (杜 詩郎)

帰ってから俳句をと思ったが、なかなか句にならない。体調が優れないと下手な句さえ浮かばぬと体調のせいにする。寝床の中でひねり出したのが上の2句。我ながら駄句と思う。なお、亡き友とは家人と親しかった方で、この八国山にも何年か前に二人で来たと言う。

以下は、駄句を作るためにネットと歳時記で調べたことども。

ミズキ(水木、学名:Cornus controversa)はミズキ科ミズキ属の落葉高木。別名、クルマミズキ(車水木)。
花期は5-6月。新枝の先に多数の白色4弁の小白色花を散房花序につける。果実は核果、球形で紫黒色をしている。
和名は早春に芽をふく時、地中から多量の水を吸い上げることから。
歳時記では、季語 夏 。「枝は扇形に広がり、遠望すると雪をかぶったようである。幹に樹液が多く、材は下駄、箸、器具などに用いられる。春の「花水木」とは別。」とある。

例句 水木咲く高さ那須嶽噴く高さ  斎田鳳子

ヤハズエンドウ(矢筈豌豆、Vicia sativa subsp. nigra)はソラマメ属の越年草。ヤハズエンドウが植物学的局面では標準的に用いられる和名だが、カラスノエンドウ(烏野豌豆)という名が一般には定着している(「野豌豆」は中国での名称)。
歳時記をめくるも、季語になさそう。

楓は歳時記に「若楓」があった。若葉の楓の略。「青楓」とともに古歌に詠まれてきた伝統をもつ言葉で、独立した季語。夏。
例句 雨重き葉の重なりや若かへで  太祇

カンタン・ラ・トゥールのパステル画 [絵]

モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(Maurice Quentin de La Tour,1704 - 1788)は、フランスのロココ期(18世紀)の画家。パステルを使った肖像画家として有名で、国王はじめ、宮廷人、知識人などを描いた。「パステル画家」とさえ呼ばれる。

代表作に「ポンパドゥール侯爵夫人の肖像」がある。
ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)ことポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour, 1721 - 1764)は、フランス18世紀のルイ15世の公妾で、その立場を利用してフランスの政治に強く干渉し、七年戦争ではオーストリア・ロシアの2人の女帝と組んでプロイセンと対抗したという。
公妾(こうしょう)は、側室制度が許されなかったキリスト教ヨーロッパ諸国の宮廷で主に近世に採用された制度。'Maîtresse royale'(仏、英:Royal mistress、王の愛人)から訳された歴史用語とか。それにしてももう少し良い訳語は無かったのだろうか。

フランスの爵位は13世紀、国王フィリップ3世が貴族身分を制定したのが始まりで18世紀に王族の大公を筆頭に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士、エキュイエ(平貴族)までの階梯が確立した。フランス革命で爵位制度は一度廃絶されたが1814年の王政復古により、ナポレオン帝政下の帝政貴族と王朝貴族が併存する形で爵位制度が復活するものの貴族の特権は伴わず爵位は純然たる名誉称号と化した。第三共和政以後は私的に用いる以外その効果を失った。(ウキペディアより)
つまり、フランスでは、爵位は家につかず人についたということらしい。

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そのカンタン・ド・ラ・トゥールのパステル画である。
「Jeanne Antoinette Poisson, marquise de Pompadour ジャンヌ・アントワネット・ポワソン、ポンパドゥール侯爵夫人」(1755 パステル )177×130cm ルーブル美術館。

テクニックはPastel on seven sheets of Blue paper mounted on canvas とあるので、直訳すれば、「カンヴァスに貼った七枚のブルーペーパーに描いたパステル」となるが、
パステルで大作にするために紙を七枚貼り合わせたのだろうか。たしかにパステル画としては大きい。七枚をどう継ぎ合わせたのか、油彩に対抗せんとする苦労がしのばれる。

画には優雅な佇まいのポンパドゥール侯爵夫人とともに、学問や高い教養を象徴する地球儀や書物が描かれている。夫人が手にする楽譜や画面左側(夫人の座る椅子の奥)に配される楽器は音楽を、画面右側の豪華な机の上に描かれる地球儀やぶ厚い書物などは、学問、高い教養をもった女性であることを表している。スケッチブックらしきものもあり、デッサンなどは芸術への造詣の深さなどを意味しているという。

「Madame De Pompadour ポンパドゥール夫人」(1752 パステル)32×24cm。
本制作のための習作だろうか。それにしては、描かれた時期が本制作の3年前というのがよく分からないが。夫人への売り込み用か、などと考えるのは、なんとかの勘繰り。

ポンパドゥール侯爵夫人以外の肖像画もたくさんあるが、好きなのを一枚。
「Portrait of Marie Fel 」(1757 パステル )32×24cm。モデルはバロック後期フランスの名ソプラノ歌手:マリー・フェル(Marie Fel, 1713-1794)であろう。

「Studies Of Men's Hands 男の手の習作 」(date unknown パステル)52 ×35cm 。アマチュア(自分のこと)には、参考になりそうなので。
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権勢を誇った美女だから、多くの画家が彼女の肖像画を描いたであろう。パステル画と比較すべく似たものをさがしたら、同じフランスの画家、フランソワ・ブーシェ(François Boucher, 1703- 1770)の油彩があった。ラ・トゥールのパステルの1年後のもの。

「ポンパドゥール夫人」(1756 油彩)212×164cm、キャンヴァスに油彩、こちらには犬がいる 、地球儀などがない。あとはほぼ同じ。カンタン・ラ・トゥールのパステル画より一回り大きい。

カンタン・ラ・トゥールは、肖像画において人物の性格などまで表現したと評されている。自画像も何枚か描いているが、それを見るとどんな性格の画家だったのだろうと想像してしまう。
「Self-portrait With Frill フリルを着た自画像 」(1751年頃 パステル)64×53cm 。ピカルディー美術館(アミアン)蔵。
この絵は、繊細な明暗対比や色彩の微妙な変化、基本的には軽快でありながらも適度に濃密さを感じさせる質感表現などは画家の超絶技巧によって示されたパステルの魅力そのものだとされる絵だ。今でいうソフトパステルであろうが、たしかに油彩と見紛う完成度である。

なお、これと似た自画像を見つけた。
「ジャボット(レースの飾り襞の付いた衣服)を着た自画像」(制作年不詳 パステル)
こちらの青いjabotの色がより鮮やか。ビロードのような布の質感が凄い。


さて、画家にもう一人のラ・トゥールがいる。
日本では、どこかフェルメールに似た雰囲気もあってか、こちらの方が人気があり上記のパステル画家より知っている人が多いに違いない。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour 1593 - 1652)である。

フランス北東部ロレーヌ地域圏で17世紀前半(パステルのカンタン・ラ・トゥールは18世紀後半)に活動し、キアロスクーロを用いた「夜の画家」と呼ばれる。彼にはパステル、水彩もない。また珍しいことに自画像がない。肖像画も見あたらない。
キアロスクーロは明暗のコントラスト(対比)を指す言葉。それを用いた技法が「明暗法」「陰影法」である。

代表作のひとつが「Mary Magdalene With A Night Light 悔悛するマグダラのマリア(聖なる火を前にしたマグダラのマリア)」 (1630-35 油彩)128×94cm ルーヴル美術館。

StyleがTenebrism とある。テネブリズムは、光と闇の強烈なコントラストを用いた絵画のスタイル。 語源はイタリア語のテネブローソ tenebroso (闇) で、dramatic illumination (劇的照明)とも呼ばれる。 明暗法のより高まった様式で、暗闇から人物が浮かび上がったような画面を作る。カラヴァッジョ、ティツィアーノ、レンブラントなどがこのスタイル。17世紀スペイン画家に多いとされる。

有名な油彩画をもう一枚。こちらは同じ画家ながらキアロスクーロでなく、上掲の「夜の絵」対応して「昼の絵」と呼ばれる。
「The Card-Sharp with the Ace of Diamonds いかさま師(ダイヤのエースを持った)」 (1635-38 油彩 )97.8x 156.2 cm ルーヴル美術館。

なお、ジョルジュ・ラ・トゥールは同じ絵のヴァリエーションが多い。たとえば、マグダラのマリアも複数枚ある。
「いかさま師」には、いかさま師が後ろ手に隠すカードが、ダイヤでなくクラブのエースもあることでも知られる。それ以外は全く同じだから見分けがつかない。

「ラ・トゥール」はフランス語の「塔」で、ワインの銘柄「シャトー・ラトゥール (Chateau Latour)」(ボルドー)や高級レストラン「ラ・トゥール・ダルジャン (La Tour d'Argent)」(パリ・銀の塔)の名で広く知られる。
むしろ、二人の画家ラ・トゥールの方が、ワインやレストランより一般的でないと思われる。
しかも二人の間には1世紀余の時間の隔たりもあり、画風も全く異なる。
名前が同じだけということで取り上げ、比べるのはいかにもアマチュアらしいところではあろう。

自分の興味で言えば、19世紀印象派、新印象派の画家、ドガやマネがパステルをさかんに描き、近代絵画発展の渦中で画材としてあらためて見なおされ、「パステルが鎖を外し天に舞い上がった」と言われる前のパステル画も相当なものだったと知ったことが、おおいに収穫であった。

アンリ・マティス グヮッシュの切り紙絵7 (終) 余録 [絵]



さて、マティスの切り紙絵を見て、あらためてマティスが巨人であることを思い知らされた。マティスの研究者や絵の専門家には、初歩的なことで笑われそうだが、アマチュアにはあらためて驚くことが多い。
初めて教えて貰ってビックリしている中学生のように、へぇと思ったことをランダムに幾つか。いつもの余談、備忘、補遺…である。

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①これもマティスの晩年の絵だが、1本の樹を描いたものがある。黒い筆の一筆書きのような単純なものだが、どこか惹きつける絵だ。構図が切り絵の「La Gerbe 束 」(1953 )と似ているなと思う。「Le platane プラタナス 」(1951 )である。見ると区別がつかないくらいそっくりののもう一枚があった。
「Le Buisson 低木 」(1951 )である。枝はどちらも七本。見分け方は、「プラタナス」は根が二股、二本。「低木」の方は根が三本ある。

②マティスは、切り紙挿し絵本ジャズのほか、本の装丁や「ヴェルヴの表紙 」(1948)なども手がけている。また、「Mille Et Une Nuits 版画集 千夜一夜物語」もある。Thousand and One Nights 、シェラザードだ。病気によっても創作、追究意欲が落ちていないことに感心する。

③「Madame de Pompadour ポンピドー夫人」(1951 )も晩年のもので切り絵と黒い線画。ポンピドー大統領夫人か、ポンパドゥール侯爵夫人か知らないが。なんともマティスらしい絵だ。

④「Tree Of Life' Stained Glass Behind The Altar In The Chapel Of The Rosary At Vence 祭壇の背後のステンドグラス命の木 ヴァンスのロザリー教会」(1948-1951)
メディアはヴィトラージュとある。擦りガラスの技法か。晩年のマティスは教会のステンドグラスやセラミックの壁画にも取り組む。教会の祭壇に光を取り込もうとし、壁に聖人をマティスの線で現出させようとしている。

⑤「Still life with Books and Candle 本とろうそくのある静物」(1890 油彩)マティスの最も若い時(21歳)の絵。生真面目なそして静謐な絵。これと晩年の油彩「オリーブの樹の大通り 」(1952 )や切り紙絵「ブルーヌード」(1952)などと並べて眺めていると、画家が絵を追求した60年以上の長い時間をあらためて考えさせられる。そしてため息だけが出る。

⑥ブルーヌードのパーツ 。「ブルーヌードⅣ」だと思うが、切り取ったパーツを大きい順に並べたものを見つけた。研究者が試みに作ったものか。アマチュアにも何かしら絵画について考えさせられるものがある。

⑦「Decorative Figure On An Ornamental Background 鑑賞的な背景の装飾的な人物」(1925 油彩)Decorative、Ornamenntalとも装飾的だが。訳は「鑑賞的な背景の装飾的な人物」で良いのか。正しくはどう訳すのか。背景の方はわかるが、装飾的な人物(ヌード)とは何か。
マティスのヌードは、写実的なもの、デフォルメしたものなど多様だが、これは少し変わっているという気がする。デコラティブとデザイン性は近いような気もするが、牽強付会或いは単に考え過ぎか。

⑧猫 「ブルーキャット」これはマティスのものだろうか。マティスも愛猫家だったからあり得る切り絵と思いつつも、切り紙絵ははさみで切る「デザイン」だからだれでも出来るとかんがえると怪しくもなる。確認するすべもない。H.Mとサインもいくらでも似せられるだろうし…。

マティスとピカソは、ナチスのフランス占領下のパリから逃げ出さなかったという。ピカソが左翼、反体制派であったことは「ゲルニカ」とともに有名だが、マティスが反戦派でなかった筈はない。しかしピカソのような反戦画がないのだろうかなど、知りたいことはまだまだ多いが、晩年の切り紙絵を見るだけでへとへとになった。

一気に見てきたので、一人よがりは勿論だが、絵や、題名、制作年などに間違いがないか、やや自信なし。マティスの切り紙絵は、天地逆さでも気がつかないようなのも時にある。

アンリ・マティス グヮッシュの切り紙絵6ー最晩年の絵 [絵]

前回の切り紙絵「ブルーヌード(1952)」は、アンリ・マティス82歳のときのものだから、もう最晩年の作品である。
つぎにあげる作品の多くも制作年は1952年であり、没年の2年前まで画家は意欲的な創作活動を行ったことが見てとれる。

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「The king's Sadness 王の悲しみ 」(1952 )王は古代イスラエルのダビデ王 だという。大きさは292×386cm 。およそ縦4m、横3mの大きさの切り絵だと、リディア・ディレクトルスカヤのほかに手伝う弟子が何人もいるだろう。そして大鋏も。題名、仏語では「La Tristesse Du Roi 」。


「La Perruche et Sirene インコと人魚 」(1952 )よく見れば左にインコ、右にマーメイドらしきものがいる。大きさは分からなかったが展覧会の展示写真は人と比べてもかなり大きそう。

「Avenue of Olive Trees オリーブの樹の大通り 」(1952 油彩)おそらくは、画家の最後の油彩の風景画か。写実的なのが意外である。

Memory of Oceania, オセアニアの記憶」 (1952-1953)青の斜めの短冊が目立つ。鉛筆のような線があるのは珍しい。オセアニアの海や空の青などを想像させるが、全体にはかなり抽象画風だ。

「The Snail, かたつむり」(1953 )曲線ならぬ直線の矩形の折り紙が、時計まわりに渦を巻いている。たしかにカタツムリだ。最晩年(83歳)の作品。

「La Gerbe 束 」(1953 )これも最晩年(亡くなる前年)のもの 83歳。英語ではThe Sheafー穀物の束のことである。これも一見して植物、或いは花束(ブーケ)のようだが抽象的なデザイン。上のダビデやカタツムリもそうだが、鮮やかな色の中にある黒色が画面を複雑にしているよう。

さて、大病後のマティスの芸術活動をグワッシュ切り紙絵を主に見て、例えば同時代のパブロ・ピカソともまた違った魅力を持った偉大な芸術家だと、あらためて思い知らされる。
ピカソはマティスの11歳下、友人でライバルだから常に比較されるがマティスはピカソの一歩先を走っていたと思う。(アマチュアの独断と偏見は承知ながら。)

アマチュアには上手く言えないが、マティスが終始追求してきたのは、線と色彩面をいかに二次元の画面に表現するかという課題である。これは勿論ピカソも同じ。

病気前のマティスの絵は、線と色彩が鮮やかで装飾的であるが、病気になって画材を切り紙絵に変えざるを得なくなって思わぬ展開をしたようにも見える。

切り絵になっても装飾的という特徴は変わっていないが、目立つのはデザイン性が付加されたこと、いわば絵のデザイン化のように思える。

ハサミで切り取ったかたちは、マティスのものであり、その並べ方もマティス独特のものであることは確かだが、同じようなことはマティスでなくとも出来る。出来上がったものはもちろんその人の個性を主張するが。

切り紙絵は一種のデザインである。だから本の装丁や壁画、ステンドグラスなどと親和性が高い。
マティスは、晩年切り紙絵を始めたことで、職人的なデザイナーになったようにも見える。芸術的なデザイナーと言い換えねばならないが、一般人でもなれるのがデザイナーだとすると「芸術的」は、少し変なような気もする。

ピカソも版画に熱中したり、絵皿を描いたりして「デザイン」をしている。
しかしマティスは、晩年(病を奇貨としてだが)切り絵によってより、徹底したデザイナーになったのではないか。
二人には似た面も異なる面もあるが、マティスの切り紙絵による絵画のデザイン化(そういう表現が許されるとすればだが)、ピカソが晩年追究したものとマティスのそれとかなり違うところではないかと思う。

次回は最終回マティスの晩年についての補遺など余録を。

アンリ・マティス グヮッシュの切り紙絵5 ー「ブルーヌード」など [絵]

アンリ・マティス(1869-1954)は1941年の大病後、72歳から83歳まで10年余にわたり創作活動を続ける。
この間の傑作は、挿し絵本ジャズに収録された切り絵など数多いが、やはりなんといってもグワッシュ切り絵「ブルーヌード」であろう。

「ブルーヌード」は1952年に描かれている。画家はなんと82歳になっている。
このブルーヌードの青は、1912年、42歳のときモロッコの北端にあるタンジェを訪ねて受けた印象の色だと言われている。切り紙絵に登場するまで40年が経過していることになる。
タンジェは、北アフリカのモロッコ北部にある都市。人口は、約95万人。ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインやジブラルタルなどから多くの船が行き来し、国際都市として栄えた。

モロッコの青い壁シャウエン。漆喰に現地でとれる青い塗料が混ぜられていることで、世界中のどの地域にもない、なんとも幻想的な街の景色が現出するという。
マティスのブルーヌードの青がこれなのか、海や空の青か知らないが、切り絵は白地に真っ青なグワッシュだけ。

以下のように「ブルーヌード」には似た切り絵がたくさんある。それぞれに特徴があって趣きがある。

Blue Nudes 青いヌード」(1952) アクロバットふうの2人のヌードか。
「Bather in the Reeds 葦の中で水浴びをする人」(1952 )
「Blue Nude with Green Stockings 緑の靴下を履いた青いヌード」( 制作年不詳)

「The Flowing Hair, たなびく髪の毛 」(1952) 1947年刊行の「ジャズ」に収録された「サーカス(1943)」の右に描かれたヌードに似ている。躍動感にあふれた絵。

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「The Blue Nude Ⅳ 青のヌードⅣ 」(1952) 4番だが最初の作品といわれる。鉛筆の線のようなものが描かれている。足が捩れて、腕を上げヨガのポーズのよう。
「ブルーヌードI (青い裸像 I)」(1952 ) 胸、腹、背の形が特異。
「Blue Nude Ⅲ 青のヌードⅢ」(1952) 116.2 cm × 88.9 cm (45.7 in × 35 in)。 Ⅳに似ているが手首が切れている。腕時計を外した後のよう。
「Blue Nude Ⅱ, 青のヌードⅡ」(1952) 82歳の画家の集大成ともいわれるブルーヌード。お腹というか胴が切れていないところがⅢと異なる。106.30cm×78.0cm。

「Nude with Oranges オレンジとヌード 」(1951)線画ヌード。周りのオレンジは切り紙絵であろう。青のヌードが作られた前年の絵。
翌年の1952年には、ブルーヌードのように線のない切り紙だけの絵になる。


上掲のように「ブルーヌード」そのものにも、Ⅰ〜Ⅳまでヴァリエーションがある。アマチュアには、ヴァリエーションといってもほんの少しの違いのように見える。また、それが重大な意味を持つのか(持つのだろうが)、どれが最終の完成品なのか知る由も無い。

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Webをめくっていたら、たぶんⅣだと思われるものに青以外の色をつけたものを見つけて仰天した。比べればやはり青でなければなならぬ、と思わせる。

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マティスの油彩のヌードは多く、1925年前後にさかんに描いたオダリスクが高名だが、切り絵の青いヌードと比べたいものを二枚。
「Blue Nude Memory of Biskra 青いヌード ビスクラの記憶」(1907 油彩)ビスクラはアルジェリアの都市。「Blue Nude (Souvenir of Biskra)」と訳しているのもあったが、こちらの方が良い。

「Nude on a Blue Cushion ブルークッションのヌード」(1924 油彩 )足の組み方が切り絵のポーズに似ているような。気にし過ぎ。

最後はとくに切り絵のヌードの話との脈絡はないが、ピカソの青の時代のヌードを。
「ブルーヌード」 (1902 油彩 )。題名だけは同じ。

次回は最晩年の絵などを。

アンリ・マティスのグワッシュ切り紙絵4 病気になってからの絵 [絵]



そしてマティスは1941年病魔に襲われる。がん手術。当時の医療からすれば、「奇跡」とも言える成功だろう。回復後の傑作を見ることが出来る後世の私たちにとっては「僥倖」以外の何ものでもない。

マティスは病気の直後も油彩を描いている。切り紙だけではないのが凄い。切り絵とともにそれらの油彩画も並べてみた。


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「Ivy in Flower 花と蔦 」(1941 油彩 )病気の年の絵はさすがに少ない 。右下にフランス語 lierre、ツタとある。

「Dancer and Rocaille Armchair on Black Back ダンサーとロカイユ肘掛椅子(黒い背景の)」(1942 油彩)病気の翌年に描かれた油彩画。 マティスの言葉に「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」と言うのがあるそう。「ロカイユ」はロココ様式のロココのこと。

「The Lagoon 1 珊瑚礁1 」(1943 )同じような「ラグーン」はいくつかある。ラグーンは珊瑚礁でなく「潟」と訳するものもあるが珊瑚礁の方が好きだ。
前々回、ブログで書いた1947年に発行された 挿し絵本 「ジャズ 」(illustration for the Book Jazz ,screen after Gouache on paper out cut ステンシル/紙 42.2×65.5cm)にも収録(ラグーンはこれを含め3点)されている。
「1930年のタヒチ旅行に結びつくイメージである。有機的なかたちが具体的にどのような植物あるいは動物をあらわしているかは定かではないが、これらの水生生物は、枠組みからはみ出そうな勢いを持ちつつ、たゆたっている。」(解説は「ブリジストン美術館 アンリ・マティス特集」
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/special/matisse/stencil/index.htmlから引用。以下も切り絵の解説はこれによる。)

「Icarus イカロス 」(1943 ) 同じく「ジャズ」に収録されている。胸の赤い点が印象的で1度見たら忘れない絵。上記美術館の解説は次の通り。
「オウィディウスの「変身物語」にもとづく。工匠ダイダロスは鳥の羽を蝋でかためた翼をつくり、息子イカロスとともに空に旅立つ。父の戒めを忘れて天高く飛んだイカロスは、太陽に翼の蝋を溶かされ、海に落ちてしまう。」

「The Clown 道化師(ピエロ)」(1943 )「ジャズ」に収録される。「サーカスに関連する画題である。右側の黒いカーテンから道化師が登場したところ。サーカスの呼び込みのために、道化師は、これから小屋の前で余興をみせるのだろう。挿絵本の始まりにふさわしい場面となっている。」

「The Circus サーカス 」(1943 )これも「ジャズ」に。「右下に赤いカーペットが敷かれ、その上に黄色い綱が渡される。綱渡りする人の黒いシルエットが目を引く。「サーカス」という文字が見開きの両面に書かれていることから、当初は「ジャズ」の表紙として制作されたものと考えられる。」

「The Destiny 運命 」(1943 )
「右側の青い四角形のなかの白いかたちは、不安に怯えるように抱き合うカップルをあらわし、左側の黒と紫の抽象的なかたちは、彼らを脅かす運命をあらわしている。大きさという点でも運命はその存在感を誇示している。」

「The Heart 心 」(1943)
「ジャズ」には、サーカスに基づくもの以外にも、抽象的な題材が含まれる。この作品では、少々いびつな赤色のハート型が使われている。次につづく「イカロス」の胸の赤くて丸い心臓につながるテーマとなっている。

さかんにこれらの切り絵を作成した1943年に描かれた油彩を二枚。

「The Lute リュート 」(1943 油彩)リュートを弾く女性。
「Tulips and Oysters on a black background チューリップと牡蠣 」(1943 油彩)
これらの油彩と切り紙絵との間の距離は遠いようで近い様にも見える。特にたてよこの直線やバックの黒など、油彩を単純化していけば切り絵になってしまう様な錯覚に落ちいる。先入観がそうさせるのだろう。


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「White Torso and Blue Torso 白と青のトルソ 」(1944 )これは「ジャズ」に収録されている切り絵。絵は単純化するとこうなるのか。
「1944年のテリアード(出版者)宛ての手紙で、マティスは、「私がつくったのは、造形的ポーズ、二つの美しいトルソである。裏面にはほぼ白い灰色が空色の上にあり、表面には空色のトルソがほぼ白い灰色の地の上にある」と述べている。」

以下の3点の切り紙絵は、「ジャズ」発行時(1947)、後の作品なので「ジャズ」に収録されていないようだ。
「Polynesia,The Sea ポリネシア、空」(1946 Gouache on paper out-cut )1946年は画家75歳。数羽の鳥が空を飛ぶ。
「Polynesia,The Sea ポリネシア、海」(1947 Gouache on paper out-cut)。こちらは海の魚。セットなのだろう。いずれも青地に白抜きの切り絵。

「Anfitrite, 」(1947 )「昆布」のような海藻に似たかたちに切られた模様?が格子枠の中に配置されている。題名の意味不明。

「Interior with Egyptian Curtain エジプトカーテンのある室内 」(1948 油 彩)89.2×116.2cm 。カンヴァスに油彩なれど、これもまた少し切り絵に感じが近いといえないか 。

「The Dancer ダンサー 」(1949 )真ん中に白い昆布模様。ダンサーらしき者はどこにも見当たらない。

「The Creole Dancer クレオールのダンサー 」(1950 )よく見ればダンサーに見える半具象。12 ×20.5cm と小さい 。クレオールは西インド諸島、中南米で育ったヨーロッパ人のこと。

「Zulma, 」(1950 )青と黄色のヌード。題名の意味不明。画家80歳。

「Beasts of the Sea 海の野獣 」(1950 Gouache on paper ,cut and pasted)295.5 ×154cm とかなり大きい。ステンドグラスの下絵になりそう。黒いのが海獣か。

「The Japanese Mask 日本の仮面 」(1950 )何の絵か解らぬ。平仮名のさ(?)のように見えるが。イラストレーション。
マティスも浮世絵やウッドカットなどジャポニスムの影響を受けただろうが、ゴッホのような着物や扇子などの絵はないようだ。これはどうか。


いよいよ次回は本命「青のヌード」を。巨匠最晩年の挑戦の傑作を鑑賞したい。

アンリ・マティスのグヮッシュ切り紙絵3ー病気直前の絵など [絵]

マティスが大病を患ったのは1941年、72歳のときである。

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病気になって、切り絵を始める前には、油彩だが周知のようにダンスやダンサーをテーマに後世の画家たちに大きな影響を与えた名作を描いている。
マティスの代表作「La Dance (first version) ダンス (最初のヴァージョン)」(1909 油彩)は、画家が40歳のときの作品。線も目立つ写実的な絵だが、背景の青がすごいなと思う。「Dance ダンス」(1912 油彩 )もすこぶる結構、好きな絵。

その後30年近く経った後の「The Dance(detail) ダンス (部分)」(1932-33 油彩)は、三幅対の壁画(mural)。同じオイルながらかなり様式化され装飾的だが、後の切り紙絵「青のヌード」と雰囲気は似てはいまいか。

さらに1938年の「Two Dancers 二人のダンサー、( Study for Rouge et Noir 赤と黒のための習作)」は、コラージュ、切り紙絵そのものなのでもっと似ているように見える。
赤と黒のためのスタディとあるが、バレリーナのコスチュームをマチスが手がけたときのもののよう。病気になる3年前だが、この頃から切り絵の魅力に惹かれていたのであろうという気がする。

これらは病気になり、切り紙に熱中する前のものだが、自分には何か連続性があるように思える。気のせいだけとも思えない。

切り絵への転回、転進と関係ないが、自分の好きな「The Romanian Blouse ルーマニアのブラウス」(1940 油彩)、「The Dream 夢 」(1940 油彩)は、あらためて制作年を確認したら1940年とある。離婚後1年、大病の1年前の作品ということになる。
この二枚の絵の特徴はたくさんあり、アマチュアには手におえないが、気のせいか画面いっぱいに描かれた人物の構図は切り絵の「青のヌード」に似ていなくもない。(ふちの余白が同じように小さい)
離婚に疲れ、第二次大戦も迫って来ていて画家を不安にさせたであろう時期に描かれた傑作である。
この1940年は、ナチス・ドイツのフランス侵攻の年、関係ないけれど自分の生年。
なお、パリ解放は1944年。マティスを襲った苦難と描画から切り絵への展開は、このパリ占領の最中だった。

ついでに画家の自画像と妻アメリー・パレイルの肖像画を。
Self Portrait in Shirtsleeves ワイシャツ姿の自画像 」(1900 油彩 )画家31歳。のちに高齢になったマティスの自画像は好々爺風だが、これは若さがみなぎった緊張感あるもの。

「Portrait of Mme.Matisse ミセスマティスの肖像 」(1913 油彩 )Mme.はMrs.の仏語。
寒色が基調の絵で冷たい感じ、そのうえ顔は仮面のよう。モジリアニの女性像のように瞳もない。元?野獣派代表作「The Green Line 緑の筋のあるマティス夫人の肖像」(1905 油彩)と比べると、制作年のインターバルは8年ほどなのに、その落差に驚く。

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不断に絵の追求を続けてきた巨匠だから、油彩がしんどくなり切り絵に変更しても基本的な作風の連続性が途切れ、全く別のものになるはずはないのだろう。

病気のとき、回復のときの絵を次回に並べてみるがマティスは、一貫してマティスだなとも思う 。

アンリ・マティスのグヮッシュ切り紙絵2ー挿し絵本「ジャズ」 [絵]


マティスの「切り紙絵」がどんなものかを見るには、画家が1943年前後に描いた切り絵を纏めた20点を挿し絵本として1947年に発行した「ジャズ」シリーズ(版画集)を見るのが、いちばん手っ取り早い。
これは切り紙絵をもとに、版の形をくりぬいたステンシルという版画技法を使い、切り紙絵で用いたものと同じ銘柄の絵具を使って制作したもので、数年をかけて制作されたものである。(screen after Gouache on paper out cut )

この挿し絵本については、「ポーラ美術館」のサイトにある解説が一番分かりやすかったので少し長くなるが引用させていただく。
ポーラ美術館「紙片の宇宙 アンリ・マティスの挿し絵本」より。
「ジャズ」は、切り紙絵を原画とする20点の挿絵と自筆のテキストを収めたマティスの挿絵本の集大成です。挿絵のテーマはサーカスと劇場に関わるもの、珊瑚礁、またハート型や単純化されたトルソといった抽象的な題材に分けられます。出版者テリアードに依頼された当初、マティスはサーカスを主題にした版画集を構想しましたが、完成までのあいだにタイトルはジャズに変更されました。版の制作についても、まず木版が試されましたが、最終的に切り紙絵のシャープな輪郭線を再現できる紙製のステンシル版が用いられ、あらゆる面で理想の書物が追究されました。
この本のなかで、マティスは次のように記しています。「ジャズ―生き生きとして激しい色調のこれらのイメージは、サーカス、民話、そして旅の記憶が結晶化したものから派生している。私はこのページを、私の色彩とリズムの即興によって同時におこる効果を和らげるために書いている。それぞれのページは、音が鳴り響く場を形成し、それらの個性にあわせて支え、包み込み、守っている」。

ポーラ美術館 http://www.polamuseum.or.jp/sp/shihen/w20140916_04

またこのサイトでは、切り絵を紹介するアニメーションがついていて、ユーチューブで見ることができる。切り絵の醍醐味が少し体験出来たような気がして楽しい。

イメージムービー:マティスの「ジャズ」ができるまで
https://www.youtube.com/watch?v=GhAjWCN-1jI

普通画家の制作する挿し絵本は、例えばこのブログでも書いたサルバドール・ダリの「不思議の国のアリス」のように、物語から絵のイメージを作るが、この「ジャズ」は少し変わっている。
上記の解説の通り、マティスの旅の記憶や好きなサーカスなどがメインだ。挿し絵画集というよりオリジナル絵本に近い。

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この二十枚の切り紙絵の解説の方は、「ブリジストン美術館」のマチス特集のサイトが秀逸である。

ブリジストン美術館アンリ・マティス特集
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/special/matisse/stencil/index.html

マティス自身の作ったⅠからⅩⅩ(20)までの目次が、なかなかに味がある。サイトでは、その目録アイコン(略画?)をタップすると作品解説(キャプション)が現れる工夫がしてある。これは、優れものだ。読み終わってタップすると消えるのもお洒落で良い。

以下そのうち七枚を掲げる。
いつもなら、掲げた絵に怖いもの知らずで自分の感想をつけるのだが、今回は、挿し絵本に収録された個々の切り絵の解説はこれを拝借した。さすがにブログはイッキに品格アップするも、自分のブログでないみたいになった。

「劍を呑み込む男」( 1943)
大きく首をそらして、三本の剣を呑み込むサーカスの芸人が描かれている。「ロワイヤル氏」も当初は剣を呑み込む男として制作されており、天地を逆さにすれば、口を大きく開けた顔が姿をあらわすことが知られている。(ブリジストン美術館のサイトより。以下同じ。)

「馬、曲馬師、道化師」
サーカスの一場面があらわされている。白と黒のスカートをはいた曲馬師が馬にまたがり、そのそばに、緑と黒と黄色の衣装を身につけた道化師が立つ。画面を横切るように配置された黄色の曲線は、馬をうつムチである。

「コマド兄弟 」(1943)
コドマ兄弟は20世紀初頭の有名な空中ブランコ乗り。青と白の空中ブランコからコドマ兄弟がジャンプするところである。コドマ兄弟は黄色であらわされている。下には、万が一に備えての安全ネットが置かれている。

「水槽を泳ぐ女」
舞台の上に置かれた水槽のなかで、女性の演技者が泳いでいる。これは、パリのミュージックホールでしばしば演じられる出し物だった。右下には、この出し物をみつめる観客の頭部が、赤色の大きな丸であらわされている。

「ロワイヤル氏」
特徴的な横顔をみせるのは、19世紀のサーカス団「シルク・ナポレオン」の曲馬団長ジョゼフ=レオポル・ロワイヤル氏(1835-89)。背景の青色はロワイヤル氏の衣装をあらわしている。二列に並ぶ黄色の丸は上着の金ボタンである。

「ピエロの葬式
花吹雪の舞うなか葬礼の馬車が行く。道は落ち葉に覆われている。ピエロの遺体は赤十字で表現されている。この作品の原画は1943年に制作された。当初は「四輪馬車」と題されており、1944年に「ピエロの葬式」に変更された。

「橇 」(1943)
「ジャズ」は1941年にテリアードが発案し、1943年にマティスが「道化師」と「橇(そり)」の二枚の原画を制作したことから始まった。この作品では、トボガンと呼ばれる舵のない橇で斜面を滑り降り、転がる人物を描いている。

さて、マティスの描画から切絵への変更、転進は、専門家によって詳細研究つくされているのだろうが、紙の色がなぜ水彩(watercolor)でなくグワッシュ塗りなのか、自分には分からない。
アクリルやオイルオンペーパーを使わなかったのは、何となく分かるような気がするのだが。

切り取った形を上下、左右自由動かしながら位置も変えられるとか、拡大すればどんな大サイズにも、壁画にさえ出来るなどメリットはアマチュアにも理解できるが。
なぜ水彩の透明感を採用せず、不透明水彩のグワッシュなのだろうか。
さらに、つけくわれば、透明でも不透明でも水彩なら「滲み」や「ぼかし」も使えたのだろうが、色彩の単純化を優先してそれをやらなかった理由も知りたいものだ。

まだ、マティスの切り絵についていろいろ知りたいので、次回は病気になる直前のころの絵を見たい。

アンリ・マティスのグヮッシュ切り紙絵 1 ー巨匠晩年の追究 [絵]


マティス(Henri Matisse, 1869ー1954 84歳で没)は、仏の画家。フォーヴィズム(野獣派)のリーダ-的存在。野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」といわれ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている。

まぁ、こんなことは絵の好きな人は誰でも知っている。自分がマチスの晩年はいつだったかを確認したいだけ。没年から著作権の消滅時期も知りたいし。

ボザール(仏・高等美術学校)への入校を目指したが叶わなかった。が、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を受けた。この時、ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。このエピソードは、モローの水彩画をこのブログに書いた時に初めて知った。師弟三人の画風の違いに驚いたのである。

マティスの絵は好きである。自分が40年余にわたるサラリーマン稼業のリタイア後に、水彩のお稽古をカルチャーで始めた年、2004年(H16)に、たまたまマティス展 が国立西洋美術で開催されたので観に行った。わけもわからず心を動かされ、大版の「ルーマニアのブラウス」、「ドリーム(夢)」などの複製画を買って帰った。今でも時々取り出して見る。

彼ほど生涯を通じて絵を追求した画家は少ないに違いない。web画集でも彼の絵画活動「アートワーク・スタイル」を次の様に列記していた。
絵を学ぶ学生なら、この変遷を辿るだけで多くのことを学べるだろう。

抽象画Abstract Art、抽象的表現主義Abstract Expressionism、カラーフィールドペインティングColor Field Painting、キュービズムCubism、分割描法Divisionism、表現主義Expressionism、野獣派Fauvism、印象派Impressionism、東洋主義Orientalism、点描画法Pointillism、後期印象派Post-Impressionism、写実主義Realism。

なお、このうちカラーフィールド・ペインティング(Color Field, Colorfield painting)は、ウキペディアによると厳密には1950年代末から1960年代にかけてのアメリカ合衆国を中心とした抽象絵画の一動向をいうが、絵の中に線・形・幾何学的な構成など、何が描かれているか分かるような絵柄を描いたりはせず、キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめるという特徴があった。その作品の多くは巨大なキャンバスを使っており、キャンバスの前の観客は身体全体を一面の色彩に包み込まれることになるのでマティスの一時期の絵画をそれにみたてたのだろうか。専門家でないのであてにならないが、少し分かるような気がする。
マティスの絵画のうち、色彩による「面」の領域が画面のなかで大きな割合を示すものを指すくらいに理解すればよい のであろう。

マティスは、作品が生まれてくる過程(プロセス)にもとりわけ大きな関心をはらったことでも知られる。制作の途上で変わっていく表現を写真に撮影して記録しておくだけでなく、実際に一枚の絵を描くのに同じ様な絵を描く何枚も描いている。前記の展覧会でもそれが紹介されていて、色々な意味で衝撃的だったことを今でも覚えている。

今回は若い時の魅力的な油彩画のことでなく、晩年に病を得てから取り組んだ「切り紙絵」に強い興味を持ったのでそのことを。
2004年に観たマティス展でも大いに気になった絵である。

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上記のWeb画集によれば、マティスの技法(テクニック)には、チャコールcharcoal、グヮッシュgouache、リトグラフィlithography、油彩oil、鉛筆pencil、ヴィトラージュvitrageとある。が、この中には素描を含めて水彩(watercolor、trance parent)、パステルがない。
このマティスのグヮッシュが切り紙絵である。
ヴィトラージュは良く理解していないが、ガラス絵に似たものか。ステンドグラスとは別もの。

巨匠たちにも、素描や下絵、エスキースを油彩以外の画材で描いて残している者と、殆ど残していない者といるようだ。それぞれに理由があるようだが、ポール・セザンヌは前者の代表でマティスは後者に属する。いきなり本制作(制作過程のものを含め)にかかったのかどうか。チャコールや鉛筆はあるのでそうではないと思うのだが。

さて、マティスの切り紙絵とは、「グワッシュ アウトカット」のことである。英語では「Gouache on paper out-cut」、仏語で「les gouaches découpées 」。グヮッシュで塗られた色紙を使う。

マティスは1939年、70歳で離婚する。理由は知らない。
1941年(72歳のとき)に十二指腸癌を煩い、手術は奇跡的に成功するも、車椅子生活を余儀なくされる。
そのマティスの世話は、かってモデルであったリディア・ディレクトルスカヤが行うことになった。
 この頃から、健康上の理由で絵筆を使うことが難しくなり、リディアに手伝ってもらって、ガッシュで着色した紙をはさみで切り抜いて貼り合わせる「切り紙絵」に没頭する。

マティスは言う。「切り紙絵は色彩で描くことを可能にしてくれた。輪郭線を引いてから中に色を置く代わりに、いきなり色彩で描くことができる」、「切り紙絵では色彩の中でデッサンすることができる」

従来の絵画の技法では、「線」と「色」がバラバラになってしまう―。そんなマティスの悩みを解決したのが「切り紙絵」であったという。

つまり、かねてから色彩と線、どちらも並び立つ表現を追求してきたマティスにとって、切り紙絵は、切り抜くことで色彩と線が同時に決まり、両方を満足させる表現方法だったということになる。
いわば、線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り紙絵に到達したのだ。マティスのハサミは鉛筆以上にデッサンに適した道具だったということになる。

マティスは、目まぐるしく絵のスタイルを変えていく中で「線と色彩の調和」という問題に生涯をかけて取り組んだ。その一つの答えが、グワッシュで色を塗った紙から、まるで線を引くようにハサミでモティーフを切り出し、紙の上に配置する「切り紙絵」だった。この方法によってマティスはついに「線」と「色」とが一体になった表現を実現したのである。

次回はマティスの切り紙絵の挿し絵本「ジャズ」について。

内田樹著「日本辺境論」を読む [本]

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内田樹(たつる)氏は1950年生まれ、神戸女学院教授、専門はフランス思想史という。殆ど著作を読んだことはないが、学者、学校の先生で武道をやると何かで知り、珍しい人だな興味は持っていた。

大先生と比較するのも烏滸がましいが、自分も受験などであっさり挫折したものの高一の時に空手部に入り、演武の稽古をちょこっとしたことがある。流派は神道自然流と記憶しているが、正確かどうか自信が無い。
自分の身体を鍛えれば、いじめなどから自分をまもれるのではないか、という短絡的動機だったと思う。強くなってというより抑止力がついてという軟弱な考えである。
武器なしで闘える身体を作ることができる、というのが最大の魅力だった。
やめてからも身体と心について考える時に、この経験がいつも頭に浮かんだことは確かでそれなりによい経験だったと思う。

さて、閑話休題。内田樹著「日本辺境論」(新潮社 2009)である。

著者はこの本に新味、新コンテンツは無いと最初に断っている。率直な物言いで好感が持てる。丸山眞男、沢庵禅師、養老孟司、岸田秀らのうけうりだと。先賢の書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなものだが、うけうりでも何度もやって確認すべきことというものはあるという。同意、賛成。
丸山、沢庵はそれぞれ難解と決めつけ読まないが、養老、岸田は一時期良く読んだこともこの辺境論を読む気になったし、良く読んだ司馬遼太郎も辺境好きだったこともある。

読んでみるとたしかに、多くの人が考えてきた「日本の特殊性がその辺境性にかなり拠ること」を的確に解説していると思う。
目新しいものは無いが、本当にそうだと合点するから、著者の執筆意図は充分伝わったと言ってよい。
中でも、日本語が表意文字と表音文字を併用する特異な言語 であることが日本の文化の特殊性を形作ってきたことの話。これからもきっとそうであり、何か新しい文化を創造するするかも知れない可能性への思いが膨らみ楽しかった。
グローバリゼーションとインターネットを考えると、ハイブリッド日本語がマンガ脳を生んだように、また新しいカルチャーが生まれて世界に届くようなことが現れないか期待してしまう。
ほかにも、いろいろ考えさせられ得るところが多く、人にも薦めたくなる好著だ。

が、アマチュアの老人には少し言い回しと用語を易しくして貰えると、もっとありがたいと思う。
理系の福岡伸一、柳澤桂子、多田富雄らはとっつきにくい話を易しく説明してくれる。
学校の先生の著書は、読者、生徒はこのくらいの語彙は知ってわが本を読めという感じがする。
読者は学生より一般人の方が多い。凡百の読者には、自分のようなボキャ貧の固陋な古老(孤老)も中にはいる。
特に外来語は文脈から想像してもわからんのがあって困る。漢訳が難しいのであれば、趣旨が大きく変わらない「言い換え」で良いのだが。

何度か辞書を引いた。不学の恥をしのびその一部を記す。
「コロキアル 」Colloquial 、口語の、日常会話の
「佯狂」ようきょう 、狂ったふりをする
「メタ・メッセージー」メッセージ読み方に指示を与えるメッセージ 例もしもし
「フラクタルのように」fractal 、不規則な断片のように
「圭角 」カド、角、トゲ 、キズ
「アモルファス」amorphous 、非定型の
「アマルガム 」amalgam 、水銀と他の金属との合金
「アポリア」aporia 、論理的な難点
「執拗低音」辞書では出てこない。Web検索して丸山眞男の表現だと知った。執拗低音とは「バッソ・オスティナート」という音楽用語の訳語だそうで、執拗に繰り返される低音の音型という意味という。丸山眞男を読まないとこの本も本当には理解出来ないと知る。
辞書を引くのは恥ずべきことではないが、こちらは恥ずかしい。音楽に詳しい人は苦手だが読まないといけないかなぁ。

蛇足をひとつ。
「関ヶ原の戦いでは 小早川秀秋は東軍が午後わずかに優勢に転じると徳川にねがえる。脇坂甚内ら周辺の西国大名は小早川の動きを見て、空気の変化を感じ取り、一斉に東軍に奔り、そのせいで石田三成は大敗したー現実主義者は既成事実しか見ない。これから起きることは現実に含まれない。」
この記述は、間違ってはいない。しかし、脇坂甚内安治もそうだが、当時の大名は戦の事前に「敵」、「味方」相互に対話、意思の確認をし合っていたことは、たとえそれが不完全な情報交換だったとはいえ、重要である。
そのことに一言触れて、「空気を読んだのだ」と記述しないと、誤解する人もいる。

この二つ程度なら著者の嫌う「おかどちがいの批判」にはならないだろうと思うのだが。
甘いか。

絵は本文とは関係ない猫の習作。紙はアルシュのAR5、描きなぐり。

追補 備忘ノート
1)この著書でも書かれているような東夷 、西戎、 南蛮 、北狄 とか、元、宋、明、清など中華の国名は一文字、ほかは渤海 、百済 、新羅 、任那 、日本 などは二字の国で臣下の国ということは知っていたが、子どもの頃から「日本」というのは東の果ての国と読んだことはなかった。
迂闊といえばそのとおりながら、日の本は中心と誤解しやすい。遣隋使の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」の話もかんちがいの原因になっている。

かんちがいといえばもうひとつ。倭寇、倭人というように中国から見て日本は倭(一字の国)だと思っていた。そうではなく匈奴と同じように倭奴であろう。
福岡の志賀島で発見された金印も謎が多いものだが、「漢委奴国王印」は倭奴の国とも読めそうだが、倭にある奴の国という説がありよく分からぬ。

2)日本史については、高校の頃好きで真面目に勉強した科目のひとつだったと思う。例によって現代史までは至らず、幕末までほどで終わってしまった。多くの人が思うように何らかの空気、あるいは何か意図のようなものを感じて落ち着かぬ。
大学では1年生ときの教養科目だけ。先生は後に教科書検定違憲訴訟をおこす家永三郎教授であったが、情けないことに どんな講義だったかあのキンキン声だけしか覚えていない。先日古い成績表が出てきて見ると、成績は前・後期ともBであった。Dだと単位を貰えなかった。
3)内田氏の「非現実」を技巧した「現実主義」、「無知」を装った「狡知」というものがあり得る。それをこれほど無意識的に操作できる国民が日本人の他にいるでしょうか。
という文章がずっと頭から離れない。3.11の原発事故、安保法制、疾病利得、現実、現象の都合のいい言い換え…etc. などが次々頭をよぎって行く。「無意識的に(操作できる)」と言うのがポイント。

バルテュスの水彩画 [絵]

バルテュス(Balthus 1908-2001 103 歳没)は、フランスの画家。本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ (Balthasar Michel Klossowski de Rola) 。
バルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と称えたのはパブロ・ピカソ(1881-1973 91歳没)である。ピカソはバルテュスのどんなところを評価したのだろうか。

ほとんど独学で絵を描いたバルテュスは、ルーヴル美術館で古典絵画の巨匠たちの作品を模写したが、なかでもピエロ・デラ・フランチェスカ(1412-1492 伊 )の影響が大きいとされる。イタリア初期ルネサンスの画家である。
たしかに古典を踏まえた、堅固な構成と繊細な描法による風景画などは、ピエロの代表作の「キリストの洗礼(油彩 1450年頃)」と通底するものがあるのかも知れないが、アマチュアにはよくわからぬ。
古典的とはおよそかけ離れた、幼い少女のあぶな絵とも言われるほどの絵をを多く描いたことで知られる。活動当初がシュールレアリスムや表現主義の全盛期であったため、作品の売り込みに苦労したバルテュスは意識的に衝撃的な題材を描き、話題集めに苦心したとされる。ピカソがそのスキャンダル性を評価したのではないのだろうが。

バルテュスは、1962年、パリでの日本美術展の選定のために訪れた東京で、当時20歳だった出田節子(いでたせつこ氏)と運命的な出会いをした。当時、妻がいて、フランス中部・シャシー村の城館で8年間も生活をともにしてモデルを務めた義理の姪フレデリック・ティゾン(Frédérique Tison)もいた。
しかし、バルテュスと節子は1963年に結婚した。34歳の年齢差である。
節子夫人も画家であり、2人の間には1973年に娘春美が誕生。(ハルミ・クロソフスカ=ド=ローラ氏、ジュエリーデザイナー)である。
103歳の長寿を全うしたバルテュスと節子との結婚生活は、39年に及ぶことになる。

2014年日本でバルテュス回顧展が開催され評判を呼んだが、残念ながら観る機会を逸した。

バルテュスの水彩は少ない。

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「Still Life (quince and pear) 静物(マルメロと梨) 」(1956 watercolor)この絵は見た記憶がある。
「Study for the siesta 午睡の習作 」(1958 watercolor)
「study-of-a-girl-with-a-window 窓辺の少女 」(制作年不詳 )technicも明記されていないが、水彩スケッチのように見えるので。主役の少女はまだ彩色されていない。

テンペラは、ワイエスの名作にも多くあるように水彩に近い。制作年代順に。

「Children, 子供 」(1937 テンペラ)
「The Moth, 蛾 」(1960テンペラ )大きな蝶のような蛾だ。節子と出会う前のテンペラ。
「The Turkish Room, トルコの部屋 」(1963 テンペラ )鏡を見ているのは節子だが、このポーズはバルテュスは好んで描いた。油彩の「黄金の年(1945)」も同じ。猫もいたりするが、この2枚にはいない。
「日本の少女 」(1963 鉛筆 )

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「The cardgame, カードゲーム 」(1973 テンペラ)
「Katia reading 読書するカティア」( 1974 テンペラ )Dimensions(大きさ)180 x 210 cm。
「Painter and his Model, 画家とモデル 」(1981 テンペラ )Dimensions(絵の大きさ)226.5 x 230.5 cm。バルテュスのテンペラはサイズがかなり大きい。

油彩の中から良く知られた絵を3枚。
「猫の王 」(1935 油彩 )異様に長い足のバルテュス、それに頭をこすりつけ、まとわりつく猫。題名は誤解にもとづいている。王は飼い主でなく猫なのに。
「The Golden Years 黄金の年 」(1945 油彩 )代表作のひとつ。暖炉に薪をくべる男の子は何を現すのか。「素晴らしい日々」という方が良い題名だろう。
「The Mediterranean Cat 地中海の猫 」(1949 油彩)127×185cm 。店主から請われてレストランに飾るために描いたとされる。ふざけた絵にしてはどこか憎めぬ。猫より左のボートを漕ぐ少女とロブスターが効いているのか。

「Mitsou, ミツ」(1919 インク)バルテュス 11歳の時の40枚の猫の絵。8歳から描き始めたというから幼年時代の作品である。序文リルケという。


ジャポニスムにも触れねばなるまい 。バルテュスは、最初日本人形の美しさに惹かれたという。節子に惹かれたのはそれで分かるが、和服や日本の何に魅力を感じたのだろうか。むろん美的なものではあろうが。やはり「逝きし世の面影」だったのであろうという気がする。

バルテュスにとって、少女とともに、重要なモティーフであった「猫」。
バルテュスの描く猫は可愛いものは少ない。むしろ、小にくらしいのが多い。江戸時代の浮世絵にある猫だ。確かに、猫は可愛い仕草だけではないところも魅力ではあるが。絵の中で効果を高めるのは猫を見る側に大半の原因がある。

 妻節子は「猫はバルテュスにとって本人そのものだった」という。バルテュスは自分の前世は猫だと思っていたふしがあるとさえ言う。筋金入り。
自分はヘルマン・ヘッセの猫好きを思い出した。

ピカソやダリでも同じだが、常識的に変わった絵を描く画家だという先入観があるので、若い時のまっとう(!?)な絵を観ると、ひどく魅力的に見えることがある。
クリムトの正方形の風景画などはその典型だが、バルテュスの1940-50年代の風景画も実に魅惑的である。
そのうちの数枚。

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「Landscape in Morvan, モルヴァンの風景 」(1955 油彩)水彩のように見えるが、たぶん油彩であろう。
「Great landscape with trees (The triangular field), 三角形のフィールド」( 1955 油彩)
「Big Landscape with Cow, 牛のいる景観 」(1958 油彩)
「The bouquet of roses on the window, 窓辺のバラの花束 」(1958 油彩)
「The Cherry Tree, 桜の木 」(1940 油彩)

例により、関心ある晩年の作品。
「The Cat in the Mirror, 鏡の中の猫」(1988 油彩)
「The Cat in the Mirror, 鏡の中の猫」(1990 油彩)最晩年82歳の作品。
「マンドリンと少女 」(未完 油彩) 最後まで「少女」だ。

バルテュスの生年1908(明治41)年は、日露戦争が勃発した明治40年の翌年になる。母の生年がこの年なのでスラスラ年号が出せる。母も101歳の長寿だったが、巨匠は男性だから103歳は驚異的である。
1963年、54歳のバルテュスと結婚した20歳の節子氏は、1942年東京生まれ、自分より二つ下になる。1943年までは東京府東京市だったから、正確に言えば東京市生まれ。

自分の家人も20歳で結婚した。1965年。つれあいとの歳の差5年。

スペインのチェロ奏者パブロ・カザルスは、80歳にして20歳のマルタと結婚し10年間「守護天使」と言い、可愛がったという。歳の差60。さらなる強者もいると思うと、しみじみして言葉を失いため息が出るばかりである。人さまざまと分かっているつもりでも。

ジョアン・ミロの水彩とパステル画など [絵]


ジョアン・ミロ(Joan Miró i Ferrà 1893 - 1983)90歳没)は、20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方バルセロナの出身。ちなみに、ガウディ、ダリもカタルーニャの出身である。
ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されるが、ミロの描く人物、鳥などをデフォルメした形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、例えばダリのように古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは異なり、20世紀美術に異彩を放っている。


ミロは1911年、18歳の時、うつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチという村に滞在した。このモンロッチの村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えたといわれる。彼はこの頃から画家を目ざすようになり、翌1912年、バルセロナの美術学校に入学した。1919年にはパリに出、この頃からモンロッチとパリを往復しつつ制作するようになる。パリではピカソら芸術家とも知り合い、また、シュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンと出会う。

ネット画集で見るとミロには水彩(Gouacheグヮッシュだが)も5,6枚ある。そのうちの4枚を。

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「Constellation: The Morning Star 星座 :朝の星」(1940 グヮッシュ)同じような油彩もあるが、画像では殆ど同じに見える。
「Constellation Awakening at Dawn, 星座 夜明けの目覚め」 (1941 グヮッシュ)
「The Red Sun, 赤い太陽」 (1948 グヮッシュ)油彩とのミックス。
「Woman and Bird in the Night, 夜の女と小鳥」(1971-75 グヮッシュ)インディアンインクも使用。

またPastelパステル画も4枚ある。

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「Portrait de Mme. K., K夫人の肖像」 (1924 パステル)チャコール、クレヨンなども使っている。ミックス。

「Woman (Opera Singer), 女(オペラ歌手)」 (1934 パステル)
とても夢に現れた歌手を描くかオートマティスムでもなければ描けそうもない。そこが良いのか?上掲のK夫人もそうだが、モデルは泣いているだろう。

「Character, キャラクター 」(1934パステル)画題の訳はキャラクターで良いのか、自信無し。ゆるキャラみたいと言ったら専門家に笑われそう。
パステルはソフトだろうか。

「Painting, 絵画」 (1943 パステル 油彩) ミックスらしいが、どこにパステルを使っているのか?

Oil油彩などを数枚。気まぐれ選定ながら。

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「The Vegetable Garden with Donkey ろばのいる菜園」(1918 油彩)
この頃のミロは、ディテイリストと呼ばれ、画面中に細かい品々をカタログのように描き込んでいる。自分が描くのはしんどいが、観るのは嫌いではない。

Blue Star 青い星」( 1927 油彩 )
5,6年前(2012年6月)、 25,261,250ポンド、約29億2000万円で落札され話題になった。 ミロ人気の強さの証しながら、どこがもてはやされるのか。青い色か。飾ると落ち着くのか。見る人により何かを想い起こさせる単純性故か。アマチュアには解らぬ。

「Self Portrait 自画像 」(1937-8 油彩 )
これは他の画家にもある数多ある変わった自画像の中でも、ひときわ異色の自画像の一つであろう。44,5歳頃か。ミロの如何なる内面が描き出されているのやら。

「Johan Miro and his Daughter ジョアン・ミロと娘のドロア 」(1937 油彩 )
20世紀最後の巨匠と言われたバルテュス(1908-2001)が、ミロ親娘を描いた肖像画。同時期に描かれた上記の自画像とくらべ、なんとまともか。
バルテュスだからといって娘のほうを主役と勘ぐってはいけない。
ミロ44歳、バルテュス39歳。二人の接点の詳細は不勉強にしてわからない。

「Head of a Catalan Peasant (2 )カタルーニャの農民 (2) 」(1925 油彩 )
「Catalan Peasant Head カタルーニャの農民の頭 」(1924-5 油彩)
この2枚の絵は、理由不明ながら惹かれる。圧政下の農民がパイプをふかして何を思っているのか。

「Bouquet of Flowers. Smile of My Blond, 花束.私の金髪の微笑み 」(1924 テンペラ)
珍しく1枚だけテンペラを見つけたので。

「Carota ニンジン 」(1978 油彩 )
最晩年のもの。85歳。どこがキャロットなのか。ピエロにしか見えない自分が心許なくなる絵。

ミロは1924-28年 にかけてオートマティスム(自動記述)を用いて、夢や半覚醒状態で見た深層心理下のイメージを絵にしている。オートマティスムはシュールレアリスム派の芸術家にもてはやされたというが、不勉強でどんなものか知らない。憑依状態で絵や詩を創るのか。コックリ(狐狗狸)さんや明恵上人を想い起こすが、似て非であろう。

物は◯△□で出来ているというが、ミロの絵にはなかでも◯が多いように思う。太陽、鳥の目などだ。全体に優しい感じを与えるのはそのせいか。もうひとつは線。◯△□は閉じられているが、ミロの絵の線は絵の中で止まることがあっても、閉じない。

サルバドール・ダリの水彩画 2(終) [絵]

さて、本題が後になってしまった。

ダリは水彩画も描いている。ネット画集によれば、3点のwatercolorとたくさんのgouacheによる宗教画(religious painting)などである。パステル画は探したがなさそう。

ダリの宗教画はシュールレアリズムの絵とは、一見して異なるようにも見えるが、宗教こそ超現実とも言えるのだから、油彩の超現実絵画と通底するものはあるのかも知れない。
グワッシュによる宗教画は1960年以降たくさん描かれた。画家56歳以降である。1970年代にはほとんど描かなくなる。ほぼ10年間である。
なお、ダリがカトリックに帰依したのは第二次大戦後である。
古典的、写実的方法から離れて抽象的な超現実絵画へ向かったミロとは異なる、ダリの根源のひとつがこの宗教への帰依にあるのかもしれない。
なお、宗教画は当然のことながら写実的でなく油彩における古典的、写実性は薄い。水彩の色彩の美しさが際だっている。

水彩(watercolor) の3点は次のとおり。
「Santa Creus Festival in Figueras フィゲラスのサンタクロース祭 」(1921 水彩)
「Don Quixote and the Windmills, ドン・キホーテと風車」(1945 水彩)
「Hitler Masturbating, 自慰するヒトラー」(1973 水彩)
グヮッシュの宗教画と異なり平板で暗い。3枚のwatercolorは、それぞれ画家が17、31、69歳の時の水彩の絵であるところが、青年、中年、老年期にあたり、それに意味があると思えないが何やら可笑しい。

水彩ではないが画家最晩年の油彩を一枚。ミロに似て半具象とアブストラクトの中間のようであまりダリらしくない感じもする。
「The Swallows's Tail つばめの尾」 (1983 油彩)
ヴァイオリンのf字孔は、fの横棒で4本の弦を支えるブリッジの位置をfの横棒で示すものだが、ダリは一体最期に何を言わんとしたのか。

3枚のwatercolorの他はグワッシュとあるが、こちらの方が(特に宗教画では)滲み、ぼかしの技法を多用してまるで透明水彩のように見える。

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「Angel of Light 光の天使 」(1960 グワッシュ 以下gと略す)
「Lazarus, come forth ラザロ出てきなさい」(1964 g)
「Assuerus Falls in Love with Esther エスターと恋に落ちたアシュエリス」(1964-67 g)
「Beati pauperes…Beati mites…」(1964-67 g)青と黄色が鮮やか。ラテン語でbeati は祝福、pauperesは貧しい、mitesは穏やか。山上の垂訓冒頭は「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。似ているが、同じ様なものか。不学にして訳せぬ。以下の宗教画もラテン語、聖書など不勉強で情けないが、訳せずギブアップ。ひたすらじっと絵を観ることにする。
「Self-portrait with L'Humanitie, ユマニテのある自画像」(1923 g )ご存知、ユマニテは仏共産党の機関紙。

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「Gala as Madonna of Port Lligat, 」(1950 g )愛妻ガラの写真を使ったコラージュ。
「Ionas in ventre piscis, 」(1964-1967 g ) 魚の腹の中のヨナ(?)piscisは魚座。

「Maria conferens in corde suo (Matthew 1:23) 」(1964-1967 g)
「Proelium magnum in caelo, 」(1964-1967 g)天国の偉大な闘い。
「Spiritus promptus est, caro vero infirma, 」(1964-1967 g)心は強く肉体は弱い。
「Vox clamantis, 」(1964-1967 g) 泣くものの声。

ダリはこのグワッシュの宗教画を描いた後、1969年「不思議の国のアリス 」の挿絵を描いている。限定2500部の署名入りで出版したものというが、銅版画のフロントページのほか12枚の絵がある。12枚すべてに縄跳びをしているアリスが登場するのが面白い。このアリスは、黒インキ(ペン)かあるいはエッチングなのか。12枚の彩色の画材も何か不明ながら、これが上掲のグワッシュの宗教画に( 鮮やかな色彩などが)どこか似ているように思う。

「不思議の国のアリス』は、イギリスの数学者にして作家チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、ルイス・キャロルのペンネームで1865年に出版した童話。世界中で読まれた。
本作品に付けられたジョン・テニエル(1820-1914)よる挿絵が読者のイメージを膨らませたことは間違いなく、素晴らしいものだが、ダリの絵も独特のイラストで見ていて飽きない。
もっともいまの子どもたちは、ディズニーのアリスの印象の方がより強いのであろうが。

アリス症候群(小視症、大視症、変視症などをさす)と言われるアリスが遭遇する数々の超現実的な冒険譚とダリがこの挿絵を描いた動機にはもちろん関係があるに違いない。

「Down the Rabbit Hole 白ウサギの穴に落ちるアリス」
「The Lobster Quadrille ロブスターのカドリール」カドリールは四人が二組で踊るダンス。
「The Rabbit Sends in a Little Bill うさぎの家とトカゲのビル」
「Alice's Evidence アリスの証拠」
「銅板画(口絵:フロントページ)」

ダリといえば、溶けた時計や引き出しのある裸婦などを思い浮かべるが、鮮やかなグワッシュなども描いていて新たな一面を見たような気がする。いつもながら、自分が知っていることなどほんの一面だとしみじみ思う。
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